書紀にある雄略天皇の段に
“新羅國背誕、苞苴不入於今八年”
とあります。雄略天皇になって、新羅の国はそれまでの敢行を破棄して、8年間も貢物をしなかったのです。それを恐れて、
“新羅王、乃知高麗僞守”
“遣精兵一百人守新羅”
『新羅王は高麗国と好みを結んで、新羅ま守り為に兵士百人を派遣した』と書いてあります。
しかし、当時、雄略天皇の時代には、此に見られる「高麗」は存在せず、高句麗王「璉」の時代です。「日韓古史断」によると、「璉」が、頻りに、新羅百済等の周りにある国々を攻め落としている時代でした。この「新羅王が高麗と好みを結んでいた」と書かれているのも、どうも怪しげな事ではないかと思われます。
それまで「新羅」は、「宋書」などによっても、倭国のなんらかの力の影響は有ったのではないかと思われますが、その新羅からの貢物が8年間もなかったのです。どうしてでしうか???