沼河比売の家の前まで来ているのに、家の中に入ることが出来なくて、外でじっと待っております間に、鵺の今の私の心を言い表すような恨めしそうな声が辺りに響き、そうこうしているうちに、夜も段々と更け、野では雉も鳴いております。その内に夜明け近くなったのでしょうか、今度は鶏も鳴き出して、よが白々と明けはじめました。
こんな恨み節の歌を声たか高にオホクニは歌います。なお、「雉」は”岐芸斯<キギシ>”と、「鶏」は“迦祁<カケ>”と書かれております。
「それらの鳴く声は、私には、大変“宇禮多久母<ウレタクモ>(憎らしく、恨めしく)”聞こえます。何と憎々しい鳥どもでしょうか。これら鳥どもを打ちこらしめてやりたいものだ。」
と。この「打ちここらしめてやりたいものだ」ですが、これを古事記では
“宇知夜来許世泥<ウチヤメコセネ>”
とあります。これを宣長は
「・・宇知は打なり、夜来は病<ヤマ>令<セ>を約(つづ)めたるにて、打て悩し苦しめむと云なり・・・」
と、説明があり、決して「打ち殺したい」と思うのではないとあります。また、“許世泥<コセネ>”は乞望(こひねがふ)の意味だとも。
この歌を結ぶ最後の歌が、まだ、次に書かれておりますが、それが又なかなかに意味深長な言葉で、「どうだ。どうだ。これでもか、これだけ心をこめて歌っているのに、未だ私と逢わないと言うのか」とでも言いたいような結びの歌になっておりますが、それは「今日は時間となりました」ので明日にで!!!!!?????!!!!!
私は、このブログ記事を、大体、一日に800字位をめどにして綴っておりますので、??????