私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

木梨之軽王の軽大郎女に送った歌

2016-04-25 09:38:41 | 日記

 允恭天皇が崩御されて、みんながその喪に服していた時です。「木梨之軽王」は自分の同母妹の余りの美しさに虜になり、どうにか自分のものにしたいという思いに駆られます。そして、ある日、その思いがかなえられた喜びの歌を高らかに歌います。

 それを古事記には、”姧其伊呂妹軽大郎女而<ソノイロモ カルノオホイラツメニ タハケテ>”と書いてあります。「姧」とは、「姦」で、みだらなことで、あってはならない事を意味します。
 
 父親である天皇の死去のため喪に服している最中にです。同母妹を我がもの、「妻」にします。不謹慎極まりない行為です。だから、古事記にも「姧」の字を入れて、そのことを説明しています。

 その歌を古事記に書かれた文字にてご紹介します。少々読みずらいとは思いますが、一応、目を通して見てください。

 

      阿志比紀能<アシヒキノ> 夜痲陀袁豆久理<ヤマダヲツクリ> 
      夜痲陀加美<ヤマタカミ> 斯多備袁和志勢(シタビヲワシセ>
      志多杼比爾<シタドヒニ> 和賀登布伊毛袁<ワガトフイモヲ>
      斯多那岐爾<シタナキニ> 和賀那久都麻袁<ワガナクツマヲ>
      許在許曾婆<コフコソハ> 夜須久波陀布禮<ヤスクハダフレ>

 と読んだのです。
 最後の行だけでも訳しておきます。”許在許曾婆<コフコソハ> 夜須久波陀布禮<ヤスクハダフレ>”は「今宵はじめて、やっと心も安心しきって、あなたの肌に触れることができたよ。」 
 なお、ついでですから、こんなことはどうでもいいようなことですが、「ハダフレ」は「ハダフリ」の已然形で、「レ」は、ある動作が完了したことを意味する助動詞です。どのような状態になったかお分かりだと思います。だからこそ、「姧」なのです。

 今日は、少々屁理屈っぽくなりました事をお詫びします。

 


衣通姫のお話

2016-04-24 10:11:39 | 日記

 もうこれでと思っていたのですが、この「衣通姫」について、「記・紀」には、それぞれに面白い話が出ていますので、ついでながら、吉備の稚媛はもう少し置いといて、又、筆敬さんからのお叱りが覚悟して、例により横道にそれますので、よろしければお目をお通し願えればと思います。

 まず、「古事記」に見える衣通姫です。允恭天皇の第一子は“木梨之軽王<キナシノカルノミコ>”です。その第四子として生まれたのが皇女“軽大郎女<カルノオホイラツメ>です。当然、第一子である「木梨之軽王」が次の天皇になるのが普通でしたが、実際に、次の天皇になったの、その第三子(安康天皇)です。どうして、木梨之軽王が次の天皇になれなかったというと、妹である衣通姫がこの話の中に関わってくるからです。そんなことってあるのかと思うのですが、まことしやかに「古事記」の中には記されておるのです。
 その事件は、その光り輝くような美しさが衣を通り抜けて出していたといわれる美貌の実妹に、次の天皇になるはずの実兄である木梨之軽王が虜になます。それについて、周りにいた人々から大いに非難された事に始まります。


古代の美女(1)・・・古事記の衣通姫

2016-04-23 10:42:06 | 日記

 かぐや姫ほ物語に登場してくる美女ですが、歴史的にその名が残る美女としての一人が吉備の稚媛なのですが、此のお話は雄略天皇の時代(480年頃)の話ですが、この稚媛よりもっと前にですが、とっても美人の女性の名が、雄略の先々代の天皇「允恭」の皇女に”軽大郎女<カルノオホイラツメ>”がおられました。それを日本書紀には

 “亦名衣通郎女<マタノナハソトホシノイラツメ>”

 とあります。その補足説明として

「御名所以負衣通王者。其身之光。自衣通出也<ミナヲ ソトホシノミコト オハセルユエハ ソノミノヒカリ ミソヨリ トオリイデツレバナリ>」 

 とあります。軽大郎女は、その身から出る光がきている御衣(みぞ)を貫いて輝いていて入るから、「衣通郎女」という別名が付いたのだそうです。それくらい輝くような美しさあったと伝えております。

 


かぐや姫ってどのような美人だったのでしょうかね???

2016-04-20 13:49:30 | 日記

 これに付いて、竹取物語には、次のように記されております。
 まず、竹の中から取り出して、

 “・・・・手にうち入て家に持ちてきぬ。め乃女<オウナ>にあづけてやしなはす。うつくしきことかぎりなし・・・”

 さらに、

 “・・・・此ちごのかたちのけそうなる事世になく、屋の内はくらきところなくひかりみちたり、おきなここちあしく苦しき時も此子をみればくるしき事もやみぬ。はらただし事もなくなぐさみけり。”

 「けそう」とは、その姿・形だけでなくその心まで、きわだっている様子を云います。また、

 “世界のをのこ あてなるも いやしきも いかて このかぐやひめを得てしがな見てしがなと おとにききめでてまどう。その辺りの垣にも家の戸にもをる人だに たはやすくみるまじきものを。夜はやすきいもねず。闇の夜にも ここかしこより 覗きかひま見まどひあへり・・・”  

 人々は かぐや姫の美しさを一目でも見ようとしてもなかなか見ることが出来ないのに、それでも見ようと 昼夜を問わず、例え闇夜であろうと、寝ないで、その家の周りを取りか囲むようにしてぞき見をしたと書いてあります、それくらい美しかったのです。
 さて、その美しさは我が吉備上道の稚姫と比べてどうだったのかは不明ですが、日本歴史上でも1・2を争うほどの美しさではなかったのでしょうか。

 

 


もう少々この竹取物語を

2016-04-19 09:15:09 | 日記

 これくらいにして、次に、進もうかと思っていたのですが、この「かぐや姫」と、秋田という人に名前を付けてもらった後のことに付いてこの物語には書かれています。随分とめずらかな面白い当時のしきたりなの、これも御存じのこととは思いますが、横道にそれたついでにということはないのですが、ご紹介しておきます。次のように書かれております。

 ”此程、三日うちあけあそぶ。よろづの遊びをしける。男はうけきらはずよびつどえて いとかしこく遊ぶ”

 と。
 「かぐや姫」と名前を付けてもらったための祝いをしたのです。色々の遊びをしてお祝いしたのです。竹取の翁の家の周りにいた男と云う男を全部集めて、大層はではでしく遊んだのです。「かしこく」とは「おそろしいほど」「はなはだしく」「なみなみではなく」という意味です。名前を付けてもらい、そのお祝の会を開くという行事は、この家にいる娘は、このように立派で美しい女性であるということを世間に知らしめるための行事であったのだと思います。先にあげた楊貴妃の時代に行われた3月3日の水辺の行事もこれと同じ性質をもつものだったのではと思われ、やはり、これらの起源も中国から伝わったものです。