私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

弟君を征新羅の長官に

2016-08-25 08:30:05 | 日記

 田狭の子弟君を新羅征伐の長官にして派遣することに決まったのですが、その時、天皇に仕えていた“西漢才伎<カワチノアヤノテヒト>(手に特殊な技能を持っている有能な中国からの帰化人)で

              “歓因知利<クワムイム チリ>”

 と云う人が天皇に助言をします。

              “巧於奴者多在韓国 可召而使”

 と。<ヤツコヨリ タクミナルヒト カラクニニアリ メシテ ツカヒタマフベシ>

 そこで、天皇は、その助言をした「歓因知利」を弟君の副将にして百済に派遣します。その時、天皇は、韓国<カラクニ>に勅書<ミコトノリブミ>をして、韓国の巧者<タクミナルモノ> を献上するよう要請しております。

 ここら辺りに 雄略帝の有能さが伺われるのです。当時、まだ、文明的には、随分と、日本(倭国)は朝鮮や中国より遅れていたのです。特に、鉄に関する技能は、日本には少なく、もっぱら朝鮮に頼らなくてはならない状態だったのです。そのようなことを見越して、この遠征には、単なる新羅を討つという目的の外に、より強大な日本国への成長の遠大なる天皇の計画が秘められていたのです。

          “併下勅書令献巧者”

 の中にです。
 この「八文字」の中に、今後の長い日本の歴史を左右させるような、誠に大きな意味があるのですが、余りこの文に注目した学者は、過去に、いないように思われるのですが?????


当時の国際関係を少々????

2016-08-24 05:56:20 | 日記

 妻を寝とられた田狭が、その恨みを果たすための戦術は、当時、ミカド(日本の天皇)と不仲であった新羅にその助けを求めます。
 当時の朝鮮と日本の関係は、高句麗や新羅や任那などと互いに大きな国際問題になっていたことは確かです。特に新羅と関係について、この書紀には

            “于時新羅不事中国<トキニ シラギ ミカドニ ツカヘズ>”

 と書いて有ります。要するに日本国と相対立していたのです。不仲であったのです。偶然ですが、田狭がその新羅に助けを求めた時に、日本でも、その新羅を征伐しようと計画して、田狭と稚媛の子である弟君と吉備海部直赤尾に

           “汝宣往罰新羅<イマシ ウベ ユキテ シラギヲウツベシ>”

 と命令されます。この「宣<うべ>」とは肯定を現す言葉で、行くのが当然だと言う意味になります。「貴方がこの際の任務には最適任者だ。是非、新羅を征伐してきなさい」と言うくらいのの意味が有ります。なお、私の持っている日本書紀では、これを
                ”ヨロシク”
 と読ましております。

  さて、ここまで読んでくると、また、一つの疑問が湧いてきます。
 田狭の子である「弟君」ですが、この時の新羅征服の長官に任命されているはずですから、年齢は、もうとっくに20歳は過ぎていたのではないかと考えられます。すると、雄略が稚媛を「幸し給った」時には、その年は、既に、四十近くになっていたはずです。それ以上かも?????其の「四十」と云う年齢は、当時の社会では、既に、老境に達している年齢ではないかと思うのですが、そのような高齢の女性を、その夫を遠地に派遣してまで、敢て、「幸<メ>し給う」とは、この稚媛はよほど若々しく魅力的な美しさが保たれていたのではと思われますが???。


この田狭を任那に派遣して、その留守を狙って

2016-08-23 09:18:36 | 日記

 噂に聞く稚媛を我が妃にと思った雄略は、その夫である田狭を任那に追いやりますが、この事について、別本の日本書紀では、単刀直入に、次のように書いて有ります

 別本云、「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」

 と。
 夫である「田狭」を殺して、その妻を自分のものとしたと。でも、いくら「大悪天皇」と称された天皇だとしてもとしても、「田狭」は、当時、政治の中枢にいた、なくてはならない重要人物です。そんなに簡単に殺すことはできなったたのではと思われます。この本によりますと、媛の名前は「稚媛」ではなく、「毛媛」であるとされています。

 なお、「天皇<スメラミコト>」と云う称号は、「当時には、まだなっかったのだ」と言われています。では、どう呼ばれていたか分かるお人は教えていただきたいのですが。大王ではないかと云われるお人もおられるよう。例の宋書には「倭の五王」と云う文字が見え、「王」と呼ばれていたのかもしれませんね?????

 「漢委奴国王」「倭国王帥升等・・」「親魏倭王」等の文字が中国の書物に見られますから、単に「国王」と呼ばれていたのではとおむのですが

 


悔しがる田狭

2016-08-22 06:28:39 | 日記

 任那に派遣された田狭は、

          “任地(よさしどころ)に之(ゆ)き、天皇(すめらみこと)其の婦(め)を幸(め)しつと聞きて”

 ここで初めて天皇の策略に完全にひっかかってしなった事に気がつきます。でも、今更、らどうすることもできません。地団太踏んで悔しがりますが、どうすることもできません。今、自分は遠い任那にいるのです。

          「さて、これを如何にするか田狭よ!!!」

 と叫ばずにはおれません。そのまま泣き寝入りする訳にもいきません。上道臣としてのプライドもあります。すぐさま日本に帰り、自慢の妻を取り返すわけにもいきません。雄略はようやく日本国を天皇中心の国体に組み替えようと力を伸ばしている時でもあります。うかうか自分が日本に帰るなら、自分の運命はどうなるかは分かっております。丁度、その時朝鮮半島では新羅が大変勢力をのばしていた時期でもあります。これに「田狭」は目を付けて対策を練るのです。この新羅の力を借りて憎くっき雄略を攻め滅ぼそうと考えたのです。そして、あわよくば自分が雄略にとって代わって「天皇」にとも考えたのかもしれませんが???

        ・・・・・こんな考えは私しかしないのですが、どう思われます????? 


“俄かにして天皇・・・・・”

2016-08-21 16:28:15 | 日記

 さて、任那の「司」に任命された田狭は、すぐさま、朝鮮半島の遠地に出かけます。すると、すぐにです。それを書紀には

     「俄かにして天皇、稚媛を幸<メ>し給ひつ」

 と書かれてあります。どのようなそこら辺りに事情が有ったかは分かりませんが、稚媛を“幸”と書かれてあります。<メス>と読ませております。

 辞書によると、この「幸」には、「さいわい」と云う意味の外に、「いつくしむ・かわいがる・こいねがう」と云う意味があるのだそうです。
 すると、夫である田狭が国内にいなくなった、「俄かにして」ですから、時を置かずに、すぐに、と言うことになります、天皇は噂に聞いた日本一の美女を自分のものにした事になります。それが「幸」なのです。どのような策略を弄したのかは何も書かれていませんが、知恵者「雄略」ですもの、その辺りは大変上手に手を打ったのだと思われます。

           "俄而、天皇幸稚媛”

 此のたった7文字の中に、そんな雄略の他には誰にも真似できないような何か淫らな巧妙な手口が浮かび立っているように、私には思えるのですが???

 その時の天皇の顔と策略にまんまと引っ掛かった稚媛の顔と比較しながら、この段を読むと、大変面白く想像を膨らませることができます。