私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

“拝田狭為任那司”の「拝」について

2016-08-20 08:00:24 | 日記

 天皇は、その妻「稚媛」のことはおくびにも出さず、田狭に命令を下します。“拝田狭為任那司”と。
 その時の様子を、もし、映画などで撮ろうとすれば、天皇役にされた俳優さんはどのような表情をすればと、随分と悩むと思います。

 「我が策略は着々と進みおる。もう日本一の美女の媛は吾手中に有る」

 と。でも、その顔は何処までの真剣で、
 「この任務はお前しかできない。今、わが国の存亡の危機に至っているのだ。どうぞ存分にこの任務を果たしてほしいのだ。宜しく頼む。」
 とか、何とか言ったはずです。心と顔が違うのです。表面では真剣な国を愁う溢れんばかりに云います。でも、その心はまる反対の。淫らな動物的本能丸出しのが心の奥底には隠れていなくてはいけません。この二つの心が入り交じった表情が必要なのです。時間的にはそんなに長くはないのですが、天皇は、随分と、長い時間で有ったように後からきっとてんのうはおもったにちがいありません。その表情となると大変難しげな表現が要求されるはずです。

  この時の天皇の表情を「日本書紀」は

                 “拝”

 と云う、たった一字を使って言い表わして、。<コトヨサシム>と読ましております。此の言葉に接して、日本人の言語使用能力の高さを感じずにはおれません。


美女「稚媛」について知る

2016-08-19 10:01:16 | 日記

 田狭の話しを聞いた雄略は思います。「そんな日本一の美女なら、天皇である自分の妻に迎えるのが当然だ。どうにかして

     “欲自求稚媛為女御<ミズカラ ワカヒメヲモトメテ ミメト ナシタマワムト オボシ”

 と。しかしながら、そう思っても、稚媛は田狭の妻です。手の出しようが有りません。そこで天皇は考えられます。田狭が媛の側から離れて、目の届かない何処か遠い場所におればいいわけです。その田狭、時の政府の重要人物です。おいそれと、安易に彼を亡き者にすわけにはいきません。何かいい方法はないかと考えます。そこで考え付いたのが、此の日本から遠くからh慣れている場所に追いやってしまえばいいわけです。天皇がその場所として選んだのが、朝鮮半島の任那の日本府です。そこの長官として派遣すれいいと考えます。誰と相談したのかは知りませんが、いいアイデアです。早速、

    “拝田狭為任那司”

 に任命します。5世紀の終わりごろの話です。雄略天皇が真の日本国の天皇として君臨される初期の段階時のお話です。

 


独秀<ヒトリスグレタリ>

2016-08-17 17:57:57 | 日記

 田狭は、更に、言います。

 「我が妻は広き世に疇罕<タグイマレ>なる、我が国一番の美女、独秀<ヒトリスグレタリ)」

 と、自慢します。それを同僚はいかに来たか知りませんが、「またか」と思う者が多かったのではと思われます。しかし、その日は、その話を物陰から、密かに、「耳を傾けていた者」がおったのです。それが雄略天皇です。
 それを聞くと、天皇は、そんなに美人な女性なら、「私は天皇だから、日本一の女性なら当然我が妻になるべきだ」と思われたのです。

 さあ、大変です。当然、その美女「稚媛」は田狭の妻です。
  「私の妃にするから、直ぐに差し出せ」
 と、命令するわけにはいきません。そこで雄略天皇は考えます。


”種々相足”

2016-08-16 09:32:07 | 日記

 これを、<クサグサノ カタチ タレリ>と読ましております。

 田狭は、都で天皇を補佐して政治を行っていたのですがその公務の休憩時間です。妻である稚媛の自慢話が始まりました。

 “今天下麗人莫若吾婦<イマ アメガシタノ カオヨキヒトハ ワガツマノゴトキハナシ。”

 と。<アメガシタ>です。「我が国の何処を探しても」です。麗人。そうです「日本一の美人を私は妻としているのです」と堂々と言うのです。えらく自信満々の言葉です。どんな顔をして云ったのでしょうか、想像するだけで愉快になります。案外、その言葉を聞いた人は、「またか』と云うぐらいに軽く聞き流したのではないでしょうか。この時初めてではないと思います。過去にも何回となくそれは聞いていたはずです。「またか」と多くの人は思ったのではないでしょうか???その前にかいて有る

        “盛称・・・曰”

 と説明しております。この「盛<サカリ>」という字は、しばしばという意味もこの字の中に含まれているように私は思うのですが

 でも、この田狭の言葉を、初めて、それも、物陰からそっと聞いていた人がいます。


吉備上道臣「田狭」

2016-08-13 08:50:24 | 日記

 前津屋等下道臣が天皇の軍隊「物部兵士」三十人に殺された同じ年です。都では、上道臣「田狭」など日本各地の多くの豪族たちが天皇の政治を助けておりました。(まだ、五世紀の終わりごろ日本の政治は各地の同族たちによる合議制による政治体制でした。)
 そんなある日の事です。一日の政務の合間の休憩時間か何かの時ですでしょうか、どのような話がそこでなされていたのか、その前後の事は何も書かれておりませんが、此の「田狭」が云わなくてもいい様な事を

            ”侍於殿側一 盛穪稚媛於朋友 曰”

 <オホトノノホトリニ ハベリテ サカリニ ワカビメヲ トモガキニ ホメテ イワク>

 この言葉が、その後どのような結果をもたらすとも知らないで、「田狭」は、自慢げに我が妻の素晴らしさについて友達に話します。