私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

・・・・・花の上こぐ・・・・

2016-09-25 07:32:38 | 日記

 象潟を訪ねた芭蕉は、この地をかって訪ねた先人、能因と西行の跡を“とぶらひ”尋ねます。この中で、特に、西行に着いて詳しく説明があります。

 西行が詠んだ歌
                    “きさがたの 桜は波に うづもれて 花の上こぐ あまのつり舟”
 にある桜は

                    “千満寺の境内、地蔵堂の前の汀にあり、古木は枯れて、今は若木なり”

 と書かれております。そして梨一は、西行の来歴を詳しく書き、更に、

  「水戸の三日坊五峯という俳人がこの象潟にやってきて、五百貫文出して、永代、この象潟を訪ねてきた風人に、ここに渡る舟賃をすべて「タダに」するよう依頼したので、大層以後のここを訪れる人にとっては大いに助かった」

 という大変珍しい逸話も書き添えております。

  


秋の夜長???

2016-09-24 07:42:54 | 日記

 もう80歳になった私には、「秋の夜が長い」なんて、そんなこと少しも想った事もありません。何せ、寝たい時に寝て、好きな時に起きればいいだけです。そんな長い短いなんて、時間を気にするような、今は、人生の重みなんて感じるような事は、何処を探しても湧きあがってはきません。誠に、軽い軽い生活を楽しんでおります。悠々自適でもない、“時の流れに身を任せ”なんて、かってどこかで聞いたことがあるような文句を口にしながら生活しています。と云うより、存分に、「今の時間を、瞬間の時を」楽しんでおります。
 このブログに投稿するぐらいが、今のわたしの精一杯の生活のようだとも考えております。デカタンスではないのですが、「自然流<ジネンリュウ>」と勝手に私は名づけて、自分の生活を自分で楽しんでおりますです???????

    「こげえな かんげえで めえにち すごしょうるんじゃが どげえに あんさんは おもいんさるんかなあ どげえなもんじゃろうか」

      「こげえな岡山弁 しっとりんさる」    (「岡山弁を考える会」より)

 


蜑の苫屋について

2016-09-24 06:51:48 | 日記

「蜑の苫屋」と云う言葉を、どうして、ここに芭蕉が使ったのかと云う理由を菅菰庵梨一は、それは、古来から、この象潟を歌った歌の中に沢山あるからだと説明しており、その例として

            “世の中は かくてもへけり きさがたの あまの苫やを 我が宿にして   (後拾遺)”

            “きすらうや わが身にしあれは きさがたや あまの苫屋に あまたたひ寐ぬ    (能因 新古今)”

            “象潟や 蜑の苫屋に きぬる夜は 浦風寒み たつ鳴きわたる     (藤原顕仲朝臣 方角抄)”

 の三首を挙げております。更に、“膝をいるるは陶淵カ帰去来辞ニ

              “審容膝之易 安”ト云文ヲ取ル也”

 と。そこで、又、私の自慢の江戸期(安政年間)の書物を見てください。

                 

  


もう一つの不思議に思うこと

2016-09-23 06:36:13 | 日記

 この象潟の処で、芭蕉はどうしてかは分からないのですが、曾良の句を二つも書きいれていることです。

                 “象潟や料理何くふ神祭”(前述)

                 “波こえぬ契ありてやみさこの巣”

 更に、この曾良の句の間に「低耳」と云う人の句まで、ご丁寧に、嵌めこんでいます。

                 “蜑の家や戸板を敷て夕すすみ”

 曾良の句は「日光」や「松島」など所々に入っていますが、ここでは、今までには、例のない二つもの句が見えるのです、それに加えて「低耳」の句も。

  
 この部分を読むと、私は、何時もちょっとばかりその書きぶりに何か奇異な感じがするのですが???どうして芭蕉は、この「象潟」だけで、他では見られない書きぶりをしたのでしょうか?????こんな疑問点に対して、一人で悦になって、その回答をでっち上げております。
 「そげえなこたあ どうでのええがな。わかりもせんくせをして かかんでのえんじゃがなあ」
 と云う声が、そこら辺りの壁から響いてきそうですが、
 「まあ、よんでみてつかあせえ。みをこもうにしてけえてみるけえ」。

 <昨日も書いたように、芭蕉が象潟で止まった家は、「奥の細道」では、“蜑の苫屋”、「大変貧しいさびしげな貧乏家」になっていりますが、実際には、相当裕福な家だったのです(曾良旅日記)。この実際と文章構成上との相違に、いたく、引け目を感じて、暗に、その家は、自分が書いている程貧しい家ではなかった事を、読者に間接的に知らせるための手法ではないかと思われるのですが??>


曾良旅日記より

2016-09-22 06:49:30 | 日記

 なお、この事については、芭蕉の奥州の旅に同行した曾良の旅日記を見ると分かります。芭蕉が、この象潟に立ち寄ったのは六月十五日です。そこには

  “象潟ヘ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。左吉状届。晩方。番諸裏判済。”

 とあるだけで、 

                             “闇中を莫作して”
                             ”蜑の苫屋に膝を入て“

 の文などを伺わせるような言葉は、そこには何一つ、見つかりません。これも芭蕉独特の旅まくら日記です。そこら辺りを合わせ見ながら読んでいけば、なお、一層の「奥の細道」への興味が沸き出で立つように感じられます。日本の名著の一つに上げられるのも不思議ではありません。

 なお、この曾良が象潟で詠んだ句が芭蕉の句と並べられて記されております。

                      

                     

                 “象潟や料理何食くふ神祭”

 この句を読んでも、芭蕉たちが膝を入れた苫屋は、決して、「いぶせき」な場所ではなく、食べ物も豊富に並んでいる裕福な家ではなかったかと思われるのです。

 もう一つ、曾良のこの日記から考えることができるのは、、「象潟に方寸を責」を読んで、ここまでが芭蕉の奥州旅行の目的だったのではないかと書いたのですが、曾良のこれからは、そのような芭蕉の思いなど、不思議ですが、微塵も感じられないように思われるのですが?????