私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

蜑の苫屋

2016-09-21 06:27:46 | 日記

                        “蜑の苫屋に膝を入て”

 この「蜑」についても、
 「元々は外夷の国の名前で、常に船に居って海物を取って世ノ業とする人達をそう呼んでいたのですが、この字が日本に入って来た時、日本では海で暮らす人を海人<アマ>と呼んでいたので、「蜑」を日本流に<アマ>と読ましたのです。

 その海で暮らす人、「猟師」の家「苫屋」ですから“いぶせき”きたない家が当り前です。それでも、そこに上がり込んで雨の晴れるのを待っておったのです。だからこそ、その前に書かれている

                         “闇中に莫作して”

 と云う言葉が深く理解することができるのです。行燈も何もない、まっ暗いぼろ家の中にいたと言うことが分かります。そうすることによって、次の

                         “雨も又奇なりとせば”

 の「奇なり」と云う言葉に、特別な響きを感じるように思われるのです。芭蕉の天才的文章構想才能の現れです。「奇」とは不思議な、変わっていて、それでいて優れているときに使う言葉です。普通の雨でしたら、それほど「奇」とは感じられないのですが苫屋ですから、独特の侘びしげな禅的な日本独特の美がそのか中から感じ取ることができたのだと思います。また、これはあの

                        「浦のとまやの秋の夕ぐ」

を、十分に、考慮しての構想です。その効果を存分に出すために、実際とは違がっている、「蜑の苫家」を選んだのです。???

 しかし、実際は、芭蕉は、そんな苫屋に泊るはずがありません。事前に、そこら辺りの俳諧愛好者たちが、芭蕉の来る事を知って準備していたはずです。実際は、象潟辺りにある裕福な魚業関係者の家に泊めていただいたのではないでしょうか。

 だから、この

                   ”蜑の苫屋に膝を入て”

の、たった9文字が、ものすごく読者を引き付けて、「奥の細道」により高度な文学的価値を与え、不動の日本における名著の位置を得さしめているのではないでしょうか???

  


闇中に莫作して雨も又奇也とせば

2016-09-20 07:25:15 | 日記

 蓑笠庵が次に取り上げたのが

           “雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と・・・”
 です。
 まず、「朦朧」について、「円機活法」と云う本からこの言葉を説明しております。こんな本、私は今までに見たことがありんせんが、ネットで調べてみたのですが、中国の古い用語の解説書だそうです。その中に

 “日未だ明かざる也”ト云物ノヲ、ボロニ見ユルコトナリ。

 とあり、これも漢詩の中に「楼閣朦朧細雨」と歌われてあり、それらの言葉から、この鳥海山を語る時、芭蕉が引用しているとしております。更に、「莫作<モサク>」については、コンピューターにもない字ですので、写真で見てください。

                        

 とあります、要するに「模索」の誤りだして、その意味は「暗がりに探って見ても知ることができる」で、「暗がりの中に坐して鳥海山の辺りを見るとその姿がおぼろげに見える」と云う意味だと説明しております。
 又、その次に書かれておる

                              “雨も又奇也とせ婆、雨後の晴色又頼母敷・・”

 についても、前にも書いたのですが、蘇軾の詩”水光瀲灔晴方好 山色空濛雨亦奇 ・・・”を基にして、この文章は書かれているのだとしてあります。


もうこれで「象潟」は終わりにと思ったのですが

2016-09-19 06:37:42 | 日記

 9月7日安部総理が中国の杭州の「G20」に参加したという新聞記事を読んでから、「吉備の美女」から離れて、とんだ方向に目が向いて、ついつい芭蕉の象潟までに到着してしまいました。これで終わりと思ったのですが、この「菅菰抄」を読んでみると、今まで知らなかった事が沢山ありますので、せめて

                          ”象潟や 雨に西施が ねぶの花”

 の句が作られるまで、蓑笠庵梨一の解説を読んでいきますので、よかったらお目をお通し願えたらと思います。

 まずは、

              

 梨一は写真に在るように、“方寸を責”の次に

         “雨は朦朧として鳥海の山かくる。 闇中に莫作して雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と蜑の苦屋(に)膝をいれて”

 を取り上げて説明しております。この中で梨一は「苦屋」の次に在る筈の「に」を誤ってとばして書いております。芭蕉「奥の細道」には、ちゃんと「に」が見えます。

             

 こんな些細な事はどうでもいいのですが本を読んでおれば見つけることがもでき、読書する楽しみでもあるのです。

 


“象潟に方寸を責”とはーその2

2016-09-18 07:09:38 | 日記

それだけ説明した所で、蓑笠庵は、芭蕉の「奥の細道」(芭蕉の自筆の奥の細道)にある

                

                           “今 象潟に方寸を責”

ついて、説明しております。

      “責ハ争ト云意ニテ はるばるの旅路もはや行先象潟ばかりに成たりと云心なり”

 言わずもがなですが、
 「色々な場所への思いを胸に今回の奥州への旅路であったが、ようやく最後の目的地<象潟>にたどり着こうとしている」
 ぐらいの意味ではないかと思いますが。と云うことは、芭蕉はこの象潟を見学したら、此の奥の細道への旅を終わりにしようと、最初は、思っていたのかもしれませんね??

 もし、ここで終わっていたとするなら、あの“荒海や・・・”の句などこの世に存在が無かったのかもしれまっせんね。どうでしょうか???

 


“象潟に方寸を責”とはーその1

2016-09-17 07:59:42 | 日記

 少々「筆敬さん」にはなるのですが、もう少し書いてみます。
 昨日は、史記鄒陽伝に「方寸」という文字は私の持つ「史記」には出てなかったと書いたのですが、この言葉について、この他に、蓑笠庵氏は「三体詩の中にもある」と書いております。これについて調べてみますと、これは見つけることができました。

 三体詩の五言律句、儲光羲の「漢陽即事」の中に(写真のように)見ることができます。

               

  この2つ文章から分かるように、「方寸」とは

                “モト一寸四方ヲ言。仮テ些少ノ義ニ用ユ”

 とあり、更に            
                
                 “多ク土地ナドヲ度量(ハカル)スルニ用ユ“

 と、筆者は説明しております。
 マア、それにしても、芭蕉にしても、梨一という人にしても、とてつもない物知りだと思いませんか???今はネットという現代兵器がありますが・・・・