昨年の10月、歌仲間が お家の都合で田舎に帰る際、送別会を開いたことがありました。
その時 一番動いてくれたのが <まめなN氏>だったわけですが、
その彼が 定年退職のため 単身赴任 していた東京から 実家のある茨城に帰らなくてはならなくなりました。
私がN氏と知り合ったのは ちょうど1年前の 4月の第1週目。
私の知人の歌 を 歌おうとした彼が、「バックサポートをお願いできませんか?」 と
声をかけてくださったのがきっかけでした。
それ以来 徐々に話すようになり、デュエットをするようになり、
ご自分が気に入った歌を紹介してくださったりしたこともあり、
少しずつ親しくさせていただくようになりました。
尊敬とか信頼 とかに対する不信感から 自分は絶対 そうはなりたくないと強く心に思ったものの、
人が怖くて 引きこもり気味になったり、距離を置くようになったりした時期が長かった私でしたが、
歌というものは 心を柔らかくしてくれるようで、
人の歌を聴く機会が出来ると また癒 しとエネルギーを いただけるようになり、自由に歌って心が晴れ、
カラオケのお店で知り合ったみなさんのおかげで 少しずつ元気が出てくるようになりました。
そしてそれに貢献 してくださった方の中でも N氏の存在は けっこう大きかったと思っています。
お店というのは 人の集まり。
集まる人によって お店の雰囲気は変わります。
ママさんやマスターの人柄の影響も大きいと思います。
私がお店に行くようになったのは
昔、ある歌手のマネージャーを していら した方から
1曲1曲に 心あるコメントをいただいたことが一番でしたが、
残念ながら 一昨年末、その方が急に亡くなられてしまわれてからも、
人の歌に自主的に耳を傾け、楽 しそうに歌い、実に穏やかに見えるお客さん達の素敵さや、
ママさんや お店の主、そしてみなさんから徐々に声をかけていただけるようになった影響も大きく、
その方が初めに声をかけてくださらなかったら、何度も顔を出 していたとは思えないような気が して、
<人との出会いは大切だな~!>
そんな風に感 じさせてくれた このお店を、ずっと大事にしたい、出来るだけ通いたい と思ったからでした。
N氏も、1年ほど前に 他のお店で知り合った方の ミニライブに来て このお店の存在を知り、
別の日に歌いに来て ハマっていったとおっしゃられていましたから、たぶん2~3ヶ月の違い!?
お互いに お店では まだ新人の部類に入りますが、
それでも 今では二人とも 歌仲間に加えていただけるようになりましたし、
N氏などは その<まめさ>で、時々 ママのお手伝いまで していました。
先月の終わり、
愛媛に帰っていた歌仲間のU女史が、N氏が茨城に帰るのに合わせて 久ぶりに上京 してきてくれました。
期間は たったの3日!
つまりは 往復の移動時間を考えたら、まるまる使えるのは たったの1日だけということでした。
その貴重な1日を、昼から夜にかけて 歌仲間が集まって 歓送の思いを込めて 歌って過ごしたんですが、
歌仲間が揃うというのは 本当に良いものですね! またとても楽しい思い出が出来ました。
最近の私の状況から してみたら、歌った曲数は 1か月分くらいに値するかも しれないくらいでした!
そんなN氏が抜けてしまうのは 淋 しいですが、それは しかたがないこと!
それでも 根っからの歌好きさん!
「また来るから!」 の言葉には 真実味が いっぱい!
茨城の実家からお店までは、door to door で 2時間半!
遠いようで近い、近いようで遠い!
そんな この距離を、 「出来れば 月に一度は 通って来たい!」 と おっしゃるN氏。
せっかく知り合えた仲間ですから、
その真面目さを信じて みんなで再訪を待ちながら、
私も出来るだけ通うようにしたい とは 思っています。
だけど、
行けば必ず 席を確保 して待っていてくださったり、ビールを ご馳走 してくださったり、
デュエットも 一番 してきましたし、帰りも途中まで ご一緒!
まるで 保護者か先生 のようでしたから、何だか 卒業か成人式 みたいな気分です。
お世話になった感謝の気持ちを込めて …
お誕生日も 3月 だそうなので 送別 には
大好きだという龍雲さんに引っ掛けて 素朴な感 じの ブリーズドフラワーを …
メッセージを …
バレンタイン エピソード
歌仲間のみなさんに、 <お店の名前のレンゲチョコ> を差 し上げたところ、大好評!
そんな中で N氏は、ちょうどいら していた奥様に その日のうちに ひとかじりされてしまったのだそうで、
ぼやくN氏に、早速、その 記念の写真を送っていただきました。
仲良きことは良いこと也!
このチョコレート、 見つけた時には本当に感動 しました。
なんか チョコ に呼ばれた気がしたんです。 不思議!
人とのお付き合いというものは とても難 しい面も持っています。
欽ちゃんのギャグじゃありませんが、 「なんで そ~なるの!?」 ← 古いですねぇ!
よくわからないことが起きてしまったりすることがあります。
ことわざにだって 二局面があったりするように、
考えると余計にわからなくなる時は 考えるのを一時お休みしたほうがいいのかも しれませんね!
精神的なことでエネルギーを使うと、変に疲れます! 健康的で一番良いのは やっぱり 歌って疲れることです!
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
会える日まで待とう … ということで
1985(平成6)年11月 2日発売、
堀内孝雄&倉橋ルイ子さん による デュエット曲 『ハンリーラ』
(作詞 = 岩谷時子(原作:中野良子) さん/作曲 = 堀内孝雄 さん)
「ハンリーラ ハンリーラ 美 しいと言う 言葉だよ」
「こぼれる星 交わしあえた ほほえみこそ ハンリーラ
ひとすじの 愛を頼りに 淋しさの 河を渡ろう ハンリーラ ハンリーラ 現し世の夢」
「ハンリーラ ハンリーラ 逢える日まで 待とう」
<現(うつ)し世>とは現世。
この世ではもう逢うことはできないかも しれない恋人同士の別れの曲なのでしょう。
歌詞は切ないのに きれいなメロディーだから 美 しく聞こえます。
信じることや夢を持つことは大事! 信じていれば 奇跡は起きるかも しれない!
星は磨かないのにきれいです。 そのままで ハンリーラ!
人の心は 磨かないと駄目かもしれないけれど、いつまでも清くて ハンリーラでありたいですよね。
(※ 詞の内容から、その時感じたままを 書いています。)
堀内さんを知らない方はいらっしゃらないと思いますが、
「倉橋さんはわからない」 とおっしゃる方、
テレビ朝日系列で放送されていた 「欽ちゃんのどこまでやるの!」 は覚えていらっしゃいますか?
放送開始は 1976年(昭和51年)10月6日。 水曜夜9時。
欽ちゃんがお父さん、真野順子さんがお母さん。長男 「見栄晴」。
三つ子の女の子の名前が 「のぞみ」 「かなえ」 「たまえ」 という設定で、お茶の間ドラマを展開していました。
初代は人形だったものが 人に代わり、3代目が 「わらべ」 としてCDまで出すほど話題を呼びました。
その3代目 のぞみの 高部知子さんから 1986年(昭和61年)4月に引き継いだのが 倉橋さんでした。
そして その時のエンディングテーマが この曲。
番組は同年6月に放送500回を迎え、9月24日には終了していますから、ほんの5ヶ月。
インパクト的には薄いかも しれません。
彼女のデビューは 1981(昭和56)年4月5日。21才の時、『ガラスのYesterday』 という曲でした。
同年12月には 『ラストシーンに愛をこめて』 で 第11回東京音楽祭国内大会、審査員特別賞を受賞。
2年後には日本を代表して 「第12回東京音楽祭世界大会」 に出場 し、
4曲目のシングル 『哀しみのバラード』 で 「外国審査員団賞」 を受賞 して、
世界に通用するボーカリストであることを証明。
香港コンサートでブームを巻き起こし、アメリカのジャズシンガーから絶賛されながら、
1984年から8年間、全国各地で1、000回を超える 「草の根コンサート」 ライブを行い、
ファンとの触れ合いを大切にしてきたという方です。
結婚のため1992(平成4)年に引退。 1999(平成11)年4月に復帰。
現在では東京・港区のライブハウス 「南青山 MANDALA(マンダラ)」 で定期的に
ライブを行っていらっしゃるそうです。
21歳の頃から切ないバラードが歌えて 天下一品と言われるほどの実力者!
切ない曲が大好きな私は彼女の歌声は大好きです。
ちょっと見ると日本人ではないような顔立ちでしたし、
伸びのあるきれいな声で歌われたら 男性ならクラクラしちゃうのではないでしょうか!?
楽曲は何曲もあるはずなのに DAMには3曲しか入っていないのが残念です。
この曲はN氏と知り合って1ヶ月目、初めて歌ったデュエットでした。
デュエットにも良い歌はたくさんあるのに、歌える方が少なくて勿体ない気がしてしまいますが、
この歌はひとりでも歌える感 じなので、このきれいなメロディーと <ハンリーラ>の心を忘れないよう
時々歌ってみたいと思っています。
良い歌を たくさん、ありがとうございました。
N氏、そして U女史、 またお会いできる日を 楽しみにしています。
これからも 良い歌、良い人との出会いが 数多く ありますように…!
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「素材屋きらり」 「今日もわんパグ」
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その時 一番動いてくれたのが <まめなN氏>だったわけですが、
その彼が 定年退職のため 単身赴任 していた東京から 実家のある茨城に帰らなくてはならなくなりました。
私がN氏と知り合ったのは ちょうど1年前の 4月の第1週目。
私の知人の歌 を 歌おうとした彼が、「バックサポートをお願いできませんか?」 と
声をかけてくださったのがきっかけでした。
それ以来 徐々に話すようになり、デュエットをするようになり、
ご自分が気に入った歌を紹介してくださったりしたこともあり、
少しずつ親しくさせていただくようになりました。
尊敬とか信頼 とかに対する不信感から 自分は絶対 そうはなりたくないと強く心に思ったものの、
人が怖くて 引きこもり気味になったり、距離を置くようになったりした時期が長かった私でしたが、
歌というものは 心を柔らかくしてくれるようで、
人の歌を聴く機会が出来ると また癒 しとエネルギーを いただけるようになり、自由に歌って心が晴れ、
カラオケのお店で知り合ったみなさんのおかげで 少しずつ元気が出てくるようになりました。
そしてそれに貢献 してくださった方の中でも N氏の存在は けっこう大きかったと思っています。
お店というのは 人の集まり。
集まる人によって お店の雰囲気は変わります。
ママさんやマスターの人柄の影響も大きいと思います。
私がお店に行くようになったのは
昔、ある歌手のマネージャーを していら した方から
1曲1曲に 心あるコメントをいただいたことが一番でしたが、
残念ながら 一昨年末、その方が急に亡くなられてしまわれてからも、
人の歌に自主的に耳を傾け、楽 しそうに歌い、実に穏やかに見えるお客さん達の素敵さや、
ママさんや お店の主、そしてみなさんから徐々に声をかけていただけるようになった影響も大きく、
その方が初めに声をかけてくださらなかったら、何度も顔を出 していたとは思えないような気が して、
<人との出会いは大切だな~!>
そんな風に感 じさせてくれた このお店を、ずっと大事にしたい、出来るだけ通いたい と思ったからでした。
N氏も、1年ほど前に 他のお店で知り合った方の ミニライブに来て このお店の存在を知り、
別の日に歌いに来て ハマっていったとおっしゃられていましたから、たぶん2~3ヶ月の違い!?
お互いに お店では まだ新人の部類に入りますが、
それでも 今では二人とも 歌仲間に加えていただけるようになりましたし、
N氏などは その<まめさ>で、時々 ママのお手伝いまで していました。
先月の終わり、
愛媛に帰っていた歌仲間のU女史が、N氏が茨城に帰るのに合わせて 久ぶりに上京 してきてくれました。
期間は たったの3日!
つまりは 往復の移動時間を考えたら、まるまる使えるのは たったの1日だけということでした。
その貴重な1日を、昼から夜にかけて 歌仲間が集まって 歓送の思いを込めて 歌って過ごしたんですが、
歌仲間が揃うというのは 本当に良いものですね! またとても楽しい思い出が出来ました。
最近の私の状況から してみたら、歌った曲数は 1か月分くらいに値するかも しれないくらいでした!
そんなN氏が抜けてしまうのは 淋 しいですが、それは しかたがないこと!
それでも 根っからの歌好きさん!
「また来るから!」 の言葉には 真実味が いっぱい!
茨城の実家からお店までは、door to door で 2時間半!
遠いようで近い、近いようで遠い!
そんな この距離を、 「出来れば 月に一度は 通って来たい!」 と おっしゃるN氏。
せっかく知り合えた仲間ですから、
その真面目さを信じて みんなで再訪を待ちながら、
私も出来るだけ通うようにしたい とは 思っています。
だけど、
行けば必ず 席を確保 して待っていてくださったり、ビールを ご馳走 してくださったり、
デュエットも 一番 してきましたし、帰りも途中まで ご一緒!
まるで 保護者か先生 のようでしたから、何だか 卒業か成人式 みたいな気分です。
お世話になった感謝の気持ちを込めて …
お誕生日も 3月 だそうなので 送別 には
大好きだという龍雲さんに引っ掛けて 素朴な感 じの ブリーズドフラワーを …
メッセージを …
バレンタイン エピソード
歌仲間のみなさんに、 <お店の名前のレンゲチョコ> を差 し上げたところ、大好評!
そんな中で N氏は、ちょうどいら していた奥様に その日のうちに ひとかじりされてしまったのだそうで、
ぼやくN氏に、早速、その 記念の写真を送っていただきました。
仲良きことは良いこと也!
このチョコレート、 見つけた時には本当に感動 しました。
なんか チョコ に呼ばれた気がしたんです。 不思議!
人とのお付き合いというものは とても難 しい面も持っています。
欽ちゃんのギャグじゃありませんが、 「なんで そ~なるの!?」 ← 古いですねぇ!
よくわからないことが起きてしまったりすることがあります。
ことわざにだって 二局面があったりするように、
考えると余計にわからなくなる時は 考えるのを一時お休みしたほうがいいのかも しれませんね!
精神的なことでエネルギーを使うと、変に疲れます! 健康的で一番良いのは やっぱり 歌って疲れることです!
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会える日まで待とう … ということで
1985(平成6)年11月 2日発売、
堀内孝雄&倉橋ルイ子さん による デュエット曲 『ハンリーラ』
(作詞 = 岩谷時子(原作:中野良子) さん/作曲 = 堀内孝雄 さん)
「ハンリーラ ハンリーラ 美 しいと言う 言葉だよ」
「こぼれる星 交わしあえた ほほえみこそ ハンリーラ
ひとすじの 愛を頼りに 淋しさの 河を渡ろう ハンリーラ ハンリーラ 現し世の夢」
「ハンリーラ ハンリーラ 逢える日まで 待とう」
<現(うつ)し世>とは現世。
この世ではもう逢うことはできないかも しれない恋人同士の別れの曲なのでしょう。
歌詞は切ないのに きれいなメロディーだから 美 しく聞こえます。
信じることや夢を持つことは大事! 信じていれば 奇跡は起きるかも しれない!
星は磨かないのにきれいです。 そのままで ハンリーラ!
人の心は 磨かないと駄目かもしれないけれど、いつまでも清くて ハンリーラでありたいですよね。
(※ 詞の内容から、その時感じたままを 書いています。)
堀内さんを知らない方はいらっしゃらないと思いますが、
「倉橋さんはわからない」 とおっしゃる方、
テレビ朝日系列で放送されていた 「欽ちゃんのどこまでやるの!」 は覚えていらっしゃいますか?
放送開始は 1976年(昭和51年)10月6日。 水曜夜9時。
欽ちゃんがお父さん、真野順子さんがお母さん。長男 「見栄晴」。
三つ子の女の子の名前が 「のぞみ」 「かなえ」 「たまえ」 という設定で、お茶の間ドラマを展開していました。
初代は人形だったものが 人に代わり、3代目が 「わらべ」 としてCDまで出すほど話題を呼びました。
その3代目 のぞみの 高部知子さんから 1986年(昭和61年)4月に引き継いだのが 倉橋さんでした。
そして その時のエンディングテーマが この曲。
番組は同年6月に放送500回を迎え、9月24日には終了していますから、ほんの5ヶ月。
インパクト的には薄いかも しれません。
彼女のデビューは 1981(昭和56)年4月5日。21才の時、『ガラスのYesterday』 という曲でした。
同年12月には 『ラストシーンに愛をこめて』 で 第11回東京音楽祭国内大会、審査員特別賞を受賞。
2年後には日本を代表して 「第12回東京音楽祭世界大会」 に出場 し、
4曲目のシングル 『哀しみのバラード』 で 「外国審査員団賞」 を受賞 して、
世界に通用するボーカリストであることを証明。
香港コンサートでブームを巻き起こし、アメリカのジャズシンガーから絶賛されながら、
1984年から8年間、全国各地で1、000回を超える 「草の根コンサート」 ライブを行い、
ファンとの触れ合いを大切にしてきたという方です。
結婚のため1992(平成4)年に引退。 1999(平成11)年4月に復帰。
現在では東京・港区のライブハウス 「南青山 MANDALA(マンダラ)」 で定期的に
ライブを行っていらっしゃるそうです。
21歳の頃から切ないバラードが歌えて 天下一品と言われるほどの実力者!
切ない曲が大好きな私は彼女の歌声は大好きです。
ちょっと見ると日本人ではないような顔立ちでしたし、
伸びのあるきれいな声で歌われたら 男性ならクラクラしちゃうのではないでしょうか!?
楽曲は何曲もあるはずなのに DAMには3曲しか入っていないのが残念です。
この曲はN氏と知り合って1ヶ月目、初めて歌ったデュエットでした。
デュエットにも良い歌はたくさんあるのに、歌える方が少なくて勿体ない気がしてしまいますが、
この歌はひとりでも歌える感 じなので、このきれいなメロディーと <ハンリーラ>の心を忘れないよう
時々歌ってみたいと思っています。
良い歌を たくさん、ありがとうございました。
N氏、そして U女史、 またお会いできる日を 楽しみにしています。
これからも 良い歌、良い人との出会いが 数多く ありますように…!
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