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川上貫一さんが国会でたたかっていた時、わが父たちは・・・

2009年03月09日 | 丸ちゃんの喜怒哀楽へなへなジャーナル

「今も輝く川上貫一不屈のたたかい―国会議員除名の暴挙とその時代背景― 橋本敦」を読んで

「白髪の青年、憂国の名演説」と大阪府民に親しまれた川上貫一さんについて知るようになったのは今から5年前、雑誌『宣伝研究』に小森孝児さん(現・機関紙協会大阪顧問)が機関紙編集者としての川上貫一像を取材・執筆されたことがきっかけでした。

 私は取材を補佐する役目で川上貫一さんゆかりの地、出生地の岡山県阿哲郡哲西町の生木、出所後戦争が終わるのを待ち続けた疎開先山形県月山麓の大井沢村、さらに東京へと足を延ばしたものです。ただ川上貫一さんと同じ空気を吸ったことはありませんが、そんな取材行の中でその人となりを少しずつ知ることとなりました。

 さて本題の橋本さんの講演についてですが、やはり何と言っても印象的なのは1951年の衆議院本会議での単独講和反対・日本の再軍備反対演説です。朝鮮戦争真っ最中で、レッドパージが吹き荒れる中での反戦、そして平和の演説。米軍に睨まれたら終わりといいう時代だったのでしょう、マスコミも一切報道しなかった。想像するしかありませんが、とてつもない勇気と気概溢れる演説だったに違いありません。

 その背後には戦争で無限の悲惨を体験した人々の熱くて強い平和希求への思いがあったからでしょう。その人々の願いに応えようとした川上貫一さんの姿を、今日に生きたたかう私たちは自分のこととしてイメージすることがとても大事だと感じました。

 もう1つ、私たちは本当に歴史を作るその渦中をまさに生きているんだということも強く感じました。私事ですが、実は川上貫一さんが朝鮮戦争反対を主張し国会でたたかっているその時に、私の父は中国軍の兵器工場でまさに朝鮮戦争で米軍に対して使われる砲弾を作る仕事に従事していました。さらに驚くべきことは妻の父親(義父)は当時船舶に乗っており、なんと米軍の朝鮮戦争用物資を運搬して釜山に運んでいたというのです。

 もちろん私はまだこの世には存在していませんでしたが、今こうして川上さんに関する原稿を書きながら、身近な歴史の不思議さを感じています。

コメント (2)
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