■攻撃的な言葉
孫の衣料品を買いに出かけた時のことです。衣料品コーナーの一角のおもちゃ売場の前で、3~4歳くらいの男の子が遊んでいておもちゃを落としてしまったのです。親の姿は見えないのですが、どこからか声が飛んできました。
「アホか、何しとんじゃ、死んでまえ」
その声の主とおばあちゃんらしき人がまもなく現れました。本当に笛でも持っていたらピピピピーと吹いて、警告を発したいくらいでした。
「はよせー」「イラつくなあ」「オマエなんか」「生れてこんかったらよかったんじゃ」など、大人たちの言葉で子どもたちがずいぶん傷つけられ、生きていく元気すら奪われているのではないか、と心配になっている昨今です。
学校では「死ね!」「キショイんじゃ」「あっち行け、消えろ」「ウザイんじゃ」「くそババア」…。こんな言葉が飛び交っています。ちょっと注意しただけなのに「オレの存在がキショイんか」とすごんでくる四年生もいます。
子どもたちの言葉も攻撃的で、トゲトゲしていて突き刺さってきます。そして、話が聞けない、文章が読めない、書けない…。子どもたちのコミュニケーション能力や言葉の問題が、教育現場で大きな課題になっています。
■心を寄せ受け止めよう
ところがです。こういう言葉の問題への取り組みがどうも違った方向に進んでいるのではと懸念しています。
一つ目は、PTA等の講演依頼で「悪い言葉を禁止するにはどうしたらいいのか」と尋ねられること。まずは立ち止まって「死ね」という言葉がなぜ使われたのか、子どもの心の声を聞いてみたいです。叱る前に「死ねってどういう意味だったの?嫌なことがあったんやなあ。聞かせてよ」と聴いてやりたいです。荒れた言葉の向こうに何があったのか、子どもの生活と重ねて、その思いを受け止めてやってこそ「その言葉は他人を傷つけるよなあ」と注意もできるのです。
二つ目は、学校の校内研修会に寄せていただく機会が増えたのですが、人を傷つける言葉集め、人を喜ばせる言葉集めというのをして、いい言葉を使おうという取り組みがあります。無意味だとは言いませんが、生活も心もくぐらない言葉を使う訓練がされています。悪しき「徳目道徳」に落ち込んでいないでしょうか。そういう学校でよくされているのが「あいさつ運動」です。あいさつが生まれる人間関係を育ててこその「あいさつ」でしょう。
三つ目に考えさせられていることは、言葉の力をつけ、感性を豊かにするのだと言って漢詩とか短歌とか古典など、子どもたちが理解できないような文章を暗誦させたり書かせたりするブームです。これも全く無意味だとは思いませんが、昔「教育勅語」を暗記させられたように、繰り返し覚えさせられているうちに、体に思想を刷り込ませていくようなことがあってはならない、と懸念しています。
四つ目は、日本の子どもの学力低下が国語能力の弱さにあるといわれ、全ての教育の軸にこれを据えた取り組みがたくさんの学校で進められています。そのなかで「論理的な文章」を書かせるのだと型にはまった文章を書かす訓練がされています。「ますます子どもたちの書くこと嫌いが進んで、うまくいかなくって」と研修会に招かれます。
話すとか書くという、人間の自己表現は型に入れられたり、強制されたのでは好きになりません。本当に書きたいこと、わかってほしいことを自ら書き、それに共感しながら受け止めてくれる人がいなくて、どうして言葉が好きになるでしょうか。言葉が往ったり来たりする人間関係があってこその言葉です。子どもたちは聞いてほしいこと、話したいことをたくさん持っているのです。そこに心寄せずして言葉の訓練を強制的に持ち込んでも、子どもの言葉は豊かにはならないでしょう。
(とさ・いくこ 中泉尾小学校教育専門員・大阪大学講師)