・・・前回、書き込んだ「悉曇(シツタン)学」だが、「悉(ことごとく)」を分解すれば、「ノ(へつ)+米(こめ)+心(こころ)」だが、これは「采+心」で「爪(つめ・爫)+木(き)+心(こころ)」だろう。「曇」は「日(ひ・ニチ→曰・いわく)+雨(あめ・ウ)+云(二+ム→ふたつ+よこしま)」である。「采(とる・サイ・チェ)」は「指でつかんでとる・手でとり入れる・手で植物の葉などを摘み取る・えらびとる」、「色取(いろどり)・選色、混合色、色あいや、色彩」、「与えた領地・代官や高官の知行地(チギョウチ)」・・・熟語には「さいころ(賽・一天地六・六の目)の「采配」、「采女=うねべ・うねめ・采女-正(かみ)・采女-司(つかさ)・采詩・采色・采薪(採薪)」・・・「采色=彩色」ならば、その漢字の国名は「以色列・伊色剌=Israel」であった・・・
ーーーーー
「禿(はげる・ちびる・トク)=禾+儿=秃→𣬜」は「禾(のぎ・いね・カワ)の儿(ジン・ニン)」であり、「兀(禿げる・コツ・ゴツ)」でもないし、「几(つくえ・キ)」でもない・・・
↓↑
「兀(禿げる・コツ・ゴツ)」
「高して上平らかなるなり。人の上に一在るに從ふ(説文解字)」とあり、「儿(ニン・ジン)」の上に一を置く指事で、地形。白川静は、「髪の毛を剃り落とした頭の側面の象形」。「髟+兀」を組み合わせた漢字は「髠」=「髪の毛を剃り落とす刑罰」。正面から見た象形が「而」であるという・・・?
・・・ドウ観ても「兀」は
ギリシャ文字の
「パイ(兀→Π・π)」に類似(字)する・・・
円周率の「3.141592・・・」=「参-点-壱肆壱伍玖弐」は
円の直径と円周の長さの「比」=円周/直径
円の周長の直径に対する「比率」=円周÷直径
円の面積と半径の平方との「比」
スイスの大数学者
レオンハルト・オイラー(1707~1783)が
1739年に「π」を、最初に用いたのは
「オイラー」・・・オイラって、「俺等」・・・「俺が等しい」・・・
「オイラはドラマー(Drummer・元々は土耳古(Turkey・トルコ)の軍楽隊の鼓手で、閲兵式、式典、祭典、犯罪者の刑罰の執行をも管理し、鞭打ちの刑では鞭を振り下ろす速度の調節もしていた)」
「ヤクザなdrummer」は石原祐チャンの「嵐を呼ぶ男」で、
「オイラのドラム(dram・太鼓)を叩くドラマー(drummer)」
だが、
オイラ(俺・僕・私・自分)の「ドラマ(drama・劇、芝居、戯曲、演劇、劇的事件・語源はギリシャ語のdrâma(ドラーマ・Drama)」ではない・・・
「ドラマ県(Περιφερειακή ενότητα
Δράμας=ドラマス)は、
ギリシャ共和国の
東マケドニア
トラキア地方を構成する行政区の一)」
「虎記唖=古事記、日本書紀(壬申の乱)」・・・とんで、「虎の尾を踏む男達・The Men Who Tread on the Tiger's Tail)・1945年(昭和20年)製作・東宝製作・監督黒澤明」、「白黒の59分の映画」である・・・GHQの検閲でお蔵入りしていたが「1952年(昭和27年)4月24日に公開」された・・・
朝のTV番組に出ていた「女性ドラマー&歌手(ドラムヴォーカリスト)」の「シシド・カフカ」にはビックリしたが、スゴイ、ッ・・・
兎に角、
「俺=おれ・われ・エン」=「イ」+「奄」→おおう・おおきい・いこう・ともに・ながく・たちまち」→「大+申(+甩=ふりまわす・なげる・ほおる・シュツ)」・・・申(猿)の伸びた尻尾の曲がり(日+乚)・・・「乚=イン・隠すの古字・部首の乙の異体・毫(ゴウ・わずか)の略体・オツ、オチ、イン、ゴウ」・・・「乙(オツ)」は「Z(ゼット)」と殆んど同字(似)である。
「奄=足の一方が伸びてぴんとしない足なえの意」・・・
「奄美大島(あまみおおしま)」・・・琉球沖縄列島の一
「奄」=気がふさがって通じない
「気息奄奄」
にわかに・たちまち
上から大きくかぶさる
おおい隠す・ふさぐ・ふさがる
おおいかぶせて通じなくする
通じなくなる
国名=殷(イン)の一族の国
山東省曲阜キョクフ県付近にあった
周に滅ぼされ、魯(ロ)の地となった
↓↑
「刖(ゲツ、足切りの刑)」と音が通じて
「足切り」の意・・・「龐涓自魏誘以刖之」・・・
「臏は膝(ひざ)の部分の骨を
削り取って歩けなくする酷刑」・・・
「膝(ひざ)は脚(足)の関節部で、
腿(もも)と脛(すね)とを繋ぐ部分
膝の 前面を
膝頭(ひざがしら)、
膝小僧(ひざこぞう)という。
後面は
ひかがみ(膕、引屈)という・・・
・・・ならば、足を切られた人物とは「孫臏兵法」の「孫臏」である。
「兵法家の鬼谷子の弟子で
魏の龐涓は
同窓の
孫臏を魏へと招待し、
孫臏を罪に陥れ、
脚を切断する刑(剕)」
と、
「額に黥(いれずみ・刺青)を入れる刑」に処した・・・
「孫臏は斎(斉・齊・齋)に逃れ、
田忌(将軍)の下で軍師となり」、
「桂陵の戦い」、
「馬陵の戦い」で
魏に勝利し
龐涓は自刎」し、
魏の太子
「申」は捕虜になった・・・
↓↑
その他・・・足切り
↓↑
魯国に足切りの刑にあった
「王駘」、
「申徒嘉」・・・
↓↑
「兀突骨(ごつとつこつ)」は、
「三国志演義」に登場する架空の人物で、
南蛮にある
烏戈国(烏滸族)の王で
身の丈
十二尺の大男
体が鱗で覆われている人物・・・
↓↑
「兀=音読み=コツ、ゴツ、訓読み=はげる」
声符
「兀」を声符とする漢字
「㐳、扤、阢、杌、髠」
「虺=兀+虫」・・・
「兀首・兀然・兀秃・兀楞楞」
「兀兀(コツコツ)=地道に働くさま・たゆまず努め励むさま」
「突兀(トッコツ)」、「兀坐(コツザ)」、
「兀山(はげやま、コツサン)」、
「兀爾(コツジ)」、
「兀者( コツシャ)」、
「兀然(コツゼン)」、
「兀傲(コツゴウ)」、
「兀兀(コツコツ、ゴツゴツ)」
↓↑
「兀」=山などの上が高くて平らなさま
高く突き出たさま
↓↑
「禿(はげ)」が「禿(ちび)る=先がすれてへる・すり切れる」、「ちび=小さいもの・人・動物。背の低いこと・軽い卑しめや、年の 幼い人・子供に親しみをこめていう語」
「ちびの語源・由来」は動詞「禿びる(ちびる)」の 連用形が名詞化した語で、漢字では「禿(ち)び」とも書かれる。動詞「禿(ちび)る」は「先がすり切れる意」で、「禿(はげ)る」も、その意味から当然ではアルな・・・
↓↑
「漢字音」の「悉曇(シツタン)学」の「本質」は・・・
↓↑
対象←五感(主に視覚)→形象認識←音声→形象の文字化
であろう・・・「漢字一音」の意味にコダワル必要はないが、「音声母音の一文字漢字」は当然ある。
「日本語の内臓は別にして、表面的に観える身体用語の音声」は
「髪(かみ・け)・頭(あたま・おつむ)・額(ひたい・ぬか)・頬(ほお)・首(頸・くび)・腕(うで)・肘(肱・ひじ)・手(て)・指(ゆび)・爪(つめ)・胸(むね)・腹(はら)・臍(へそ)・魔羅(まら・摩羅)・?(まんこ)・尻(しり・けつ)・股(また)・足(あし)・踝(くるぶし)・脛(すね)」、
身体を全面的に被う表面的な皮膚(ヒフ)は「皮(かわ・はだ=膚・肌)」である・・・「血(ち)の管(くだ)」もみえる・・・
「顔(かお)」には
「眉(まゆ)」
「目(めめ・め・ま)」→「瞳(眸・ひとみ)」
「耳(みみ)」
「鼻(はな)」
↓↑
「口(くち)」の中には
「舌(した)」も
「歯(は)」もみえる
↓↑
「鬚(ひげ・須・髭・髯・鬍)
「顎(あご)」
・・・これらは「漢字の文字形象」として、原則的に、それらの「意味」が理解できる・・・単音の身体器官は「け(毛)・ち(血)・め(目)・て(手)・い(胃)・は(歯)」・・・まだ、あるかも・・・
・・・ボクの愛するモモ(牝猫)ちゃんは餡ドーナツが大好きだが・・・「愛(めでる・いとしい・アイ・オ)」=「爪+冖+心+夂」・・・ブログ辞典の「愛」の文字を構成している「夂=夊=冬がしら・チかんむり・ノマタかんむり・遅(おくれ)る・チ→遅刻・遅滞・遅延」には曖昧で混乱する・・・「遅=尸+羊+辶」・・・「愛の部首の下の夊(スイ)=夊繞(スイニョウ)・夏脚(なつあし)・行く・ゆっくり行く」で、「変の部首の下の夂(チ)=夂繞(チニョウ)・冬頭(ふゆがしら)・おくれる・チ」は異なる?とあるが、「夂(チ)=夊(スイ)」で一括して説明されているのもある。また「夊繞(スイニョウ)=漢字の繞(ニョウ)の一で、「夏」などの「夊(スイ・なつあし)」の部分。本来、「夂(チ・ふゆがしら)」は別部首であるが常用漢字では同形とする」・・・夏の陽(日)射しでの歩行には汗水、飲み水、冬の吹雪の雪道での歩行は困難で遅くなる・・・
モモちゃんの「泣き處」は尻尾の付け根の上だが、触ると厭(嫌)がるが、もうひとつの「泣き處」は目球が無い左目の穴縁に固まってしまう目ヤニである。ドウナツ袋を開ける音には敏感で、すぐに近寄ってくるが、目ヤニを拭く時に取り出す塵紙(ちりかみ)の音にも敏感で、逃げ出して、けっして近づいてこない。捕まって目ヤニを拭かれる時の痛みと怒りの「鳴き声」は悲痛でもある・・・「繞(糸+土+土+土+兀・ニョウ→遶=辶+土+土+土+兀)=漢字の左方から下部をとりまく)」ならば「遶」だろうが・・・モモが、ボクをアイしているのかどうなのかはニャァ・・・拭いた後は逃げ出しても、暫らくするとボクの膝の上に跳び乗ってベッタリとしがみついてくるからアイされてんだろう・・・
これも、ブログ辞典の説明だが
「弁慶の泣き所向こう脛は、皮膚のすぐ下、骨( 脛骨)のすぐ上を神経が通っているため、非常に痛みの強い急所であり、弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いところ」
「弁慶ほどの豪傑でも痛がって泣く急所の意・向こうずね・強い者の最も弱い所・ただ一つの弱点・中指の第二関節から上・盆の窪み」
多分、アキレスの弱点、「アキレス腱」だろうが、「弁慶の泣き所」は歌舞伎の舞台上での進行場面である「泣きどころ」である・・・
「富樫(トガシ)」と云えば、一般的に知られているのは「富樫左衛門」であり、歌舞伎十八番では「源義経」が、家来、武蔵坊弁慶らと逃避行の最中に北陸道安宅の関で彼らを訊問(文治三年・1187年?月~2月奥州落ちの途中)した関守「富樫左衛門」である。彼は「義経、主君を助けようと必死の弁慶」を検分、訊問した。
同姓の人物が存在しても何ら不思議では無いが、同姓の「富樫広蔭」と云う人物が「1793年(癸丑年・寛政五年)~1873年(癸酉年・明治六年・皇紀2533年)」生存した。彼の死亡した「1873年=明治六年」は、「中国清王朝の同治十一年十二月三日~同治十二年十一月十二日」で、「李氏朝鮮は高宗十年)」・・・
「同治(ドウチ・ドウジ)」の同音異字は、
「同時・同字・同地・道地・道寺・童子」であり、
「十一年、十二年」は、
「壱拾壱撚・壱拾弐念」で、「一足位置捻(ひねる・ねじる)→唸(うなる)」、「位置足逃捻(唸)」で、ある・・・捻挫は痛いのは当然ではある・・・唸座は呻るでアル・・・「唸る」と「呻る」は状況場面が異なる・・・
で、「富樫広蔭」と云う人物が生まれた「1793年(癸丑年・寛政五年)に「富樫」は啼(な・鳴・泣・啾・喑)いたのか、唸(呻)ったのか・・・ここは、「とがし=訳臥詞=トガシ」である・・・?
1793年は
「フランス革命」の勃発の年で
「ルイ16世(1月26日)
マリー、アントワネット(10月16日)」
が処刑された年である。日本では
「3月4日(寛政五年一月二十二日)に大塩平八郎」
「9月27日(寛政五年八月二十三日)に
遠山景元(江戸北町、南町奉行、遠山の金さん」
「十一月三日に千葉周作、北辰一刀流創始者」
が生まれた年でもある。
1793年に死んだ人物は
「6月26日にギルバート・ホワイト、博物学者」
「7月28日(寛政五年六月二十一日)に林子平」
・・・この年と月、日の重なりには不思議は無いが、ボク的には「?」なのである・・・結果、「唸る」でアル・・・
以下はウイッキペデアや他のブログ記事を参照、参考に少々改作して添付したもの・・・
ーーーーー
富樫広蔭・・・・とがしひろかげ
↓ とみカシひろいカゲ
↓ フケンコウイン・・・府県、拘引・勾引
↓ 荒淫・後胤
↓ (木戸)孝允?
1793~1873
江戸末期の国学者
紀伊の人・・・・・・・・・記意・奇異・key
本居大平
本居春庭
などに学ぶ
「詞の玉襷」
「詞の玉橋」など著
品詞論を遺した
↓
本居宣長・・・・・・・・・本にイル、宜(よろ)しくの名臥意
の学問を受け継ぎ、
日本語文法の体系化を完成・・・
↓
松阪の
本居宣長・大平・春庭、
津の
谷川士清(ことすが)・・・・・ことすが=糊塗素臥
とならぶ国学者
寛政五年(1793年)12月19日
紀州和歌山城下の
木綿問屋・・・・・・・・・・揉め務
摸女(目・埋・馬)務
井出家・・・・・・・・・・・意出意重
に生まれた
↓
文政三年(1820年)・・・・・・文勢・文星・文成・文生・文清
28歳(数え年)
本居大平に入門
大平は
本居宣長の養子で
宣長の学問を受け継いだ国学者
和歌山在住
広蔭は、
文政五年に
大平の養子となる
翌年には
大平との養子を解消・・・ナゼ?
↓
富樫姓を名乗り、・・・・ナゼ?
富樫広蔭と称した・・・・ナゼ?
松阪の
本居春庭
の弟子となり、
松阪に移住
↓
文政十一年
本居春庭死亡
翌年に
広蔭は
桑名(くわな・ソウメイ)に移る
当時の桑名・矢田町の大きな商人であった
竹内南淵
が本居大平・春庭の弟子であったことから、
竹内が
広蔭のスポンサーになった・・・
↓
広蔭は桑名で結婚
桑名
春日神社の
神職を務める・・・・・・・・・神官
天保元年(1830年)ごろ
門人は10か国、172人に及ぶ
↓
嘉永三年(1850年)
春日神社の社家
鬼島家を継ぐ・・・・・・・・・鬼島(おにじま・キトウ)
安政二年(1855年)
朝廷から
従五位
土佐守・・・・・・・・・・・・土佐?・・・訳差・塗差
に任ぜられ、
藤原姓を許された
安政五年
神職を辞任
文久三年(1863年)・・・・・・・文旧(究・求)纂念
住居が全焼
原稿焼失
↓
彼は
「古事記」「日本書紀」「万葉集」
「古今集」「土佐日記」「源氏物語」
などを研究
中でも
「古今和歌集
紀氏直伝解(自筆本、愛知県立大学が所蔵)」
35巻
歌集
「言幸舎(ことさちのや)歌集」
随筆
「塊老(つちくれのおぢ)翁随筆」
↓
明治六年(1873年)8月24日
81歳で死亡
大福田寺の墓地に葬られた
(墓石には「享年八十有四」とある)
明治十六年
弟子たちが
桑名皇学会を設立
彼の学問を受け継いでいる
↓
「詞玉橋(ことばのたまはし)」は
明治二十四年に
桑名皇学会から出版
彼の膨大な蔵書は各地に散逸
まとまったものとしては
東北大学図書館の
「富樫広蔭叢書」、
愛知淑徳大学の
尾崎知光(さとあきら)教授が収集されたものがある
(桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)
↓
宣長没後22年目の・・・弐拾弐念語
文政六年(1823)
和歌山で
本居大平の養子
富樫広蔭が
大平を見限って、
自ら縁組みを解消・・・・ナゼ?
松坂の
本居春庭宅を来訪、勉学に勤しむ
春庭の養子になるコトは実現しなかった・・・
春庭『詞の通路』の
その
文法説の普及に尽力
↓
(1793~1873)
本姓は
井出
本居大平・本居春庭に学ぶ
本居家の語学の発展につとめた
著
「辞玉襷」
「詞の玉橋」など。
↓↑
同姓人物
↓↑
とがしまさちか(富樫政親)
1455~1488
室町中期の武将
加賀の人
応仁の乱で
細川氏の東軍に属し、
↓↑
蓮如・・・・・・・・親鸞(他力本願)の後継
親鸞は妻子を得、俗人に転向?
神父(カトリック)から
牧師(プロテスタント)への転向?
の後援で
西軍についた
弟の
幸千代丸を退けて
加賀を支配
↓↑
本願寺門徒の・・・・本に願う字の文訳
一向一揆と争い、
高尾城で敗死・・・・高い尾のシロ
↓
富樫左衛門は
加賀国
安宅の関で、
東大寺
勧進の
山伏に
身をやつした
源義経主従、弁慶の知略の心情を察し通過させる
↓
『勧進帳』は、
弁慶・義経・富樫の
三役を歴代の看板役者が
生涯に一度は演じる という、
歌舞伎の代表作の十八番(おはこ)の一つ
↓↑
源義経は、
家来武蔵坊弁慶らと逃避行を続け
北陸道安宅の関で
彼らを待っていたのは、
関守
富樫左衛門
身を隠しきれない義経、
主君を助けようと必死の弁慶、
情思いにふれる富樫左衛門・・・
ーーーーー
↓ ↓
音義説(おんぎせつ)
↓ ↓
日本語の
1つの仮名によって表される
音(おん)には
固有の意義があるとする説
江戸時代の中期以降に行われた
賀茂真淵の
『語意考』が、のちに音義説と称される・・・
↓
音義説
江戸時代の学者は、
一音ごとに、
つまり
仮名一文字ごとに
特定の意味があると考えた・・・漢字一文字ではない
万葉仮名の漢字ではない
日本語のカナ文字としての
「音声」にでアル
「音義説」は、
江戸時代の学者に始まり、
明治以降、
昭和も大戦前まで影響力を持った説・・・
↓
音義説(おんぎせつ)
五十音図の各音
もしくは
各行の音には
それぞれ固有の意義があるとみて
その観点から
単語の意味や
語源の説明をしようとする考え
各行に意義ありとする
一行一義説は
平田篤胤
鈴木重胤
↓
五十音図の原理と
神代伝説の
天地創造の原理とが照応
国語の各音(音声)
また
五十音図の各行の
音に固有の意義を認めて語義を説き
語源解釈をしようとする説
平田篤胤 (ひらたあつたね) などにより、
主に江戸時代に唱えられた・・・
↓
神秘的な
言霊論が形成された・・・
江戸時代の日本語の語源研究
賀茂真淵の
『語意考』が、
のちに
「音義説」と称されるものの成立に影響を及ぼした
↓
イロハ音義説・・・・意賂葉音欺(伎・戯)
貞享年間頃から
真言宗の僧侶の間で盛んになった
イロハの1字1字に意義があるとし、
それにより様々な言葉を解釈しようとした
これは
真言密教の
陀羅尼・・・・・・・・・ダラニ=拿等似?
に影響であるとされ、
イロハを奉ずるのは
イロハの作者が
弘法大師に関係・・・
多田義俊の・・・・・
『以呂波訓義伝』・・・・以て
太安万侶(呂=背骨)の
名視の訓の偽伝?
もまた
イロハの1字1字に意義ありとする
↓
言霊派
天保年間頃から起こった・・・・天保念巻?
1830年~1844年までの期間
文政大火=3月21日
(グレゴリオ暦4月24日)
文政京都地震=7月2日
(グレゴリオ暦8月19日)
などの災異のため改元した
中村孝道
高橋残夢・・・・・・・高橋の残夢とは?
人声には霊があり、
声を合わせて
様々な言葉とすると説く
↓
五十音義派
五十音図の各行に
固有の意義があるとする
平田篤胤の
『古史本辞経』が代表
1字1字(の日本語音声)に・・・・漢字の「意知字」では無い
意義があるとするのは
橘守部
『助辞本義一覧』
富樫広蔭・・・・・・・・・・・・訳臥詞拘引(勾引)
『言霊幽顕論』
堀秀成
『音義全書』
↓
一説に日本語に
ハ(刃、歯、葉、羽)、
ヒ(日、火、氷、樋)
のような
単音節の単語が多く、
複合語の構成が容易であるため、
かえって
複合語でないものまで
分解し得るかのような感じを与え、
どのような言葉も
容易に比較的少ない
種類の
単音語に
分解することができる・・・
↓
21世紀の
日本語学界においては、
音義説は
科学的価値に乏しいとされる・・・
↓
堀秀成の
『音図大図解』
ふりがなは()内に記す
↓ ↓
免(メ)音
第一等
育テ養フ象
母音の衣の義に因る
女(メ)、愛(メヅ)、恤(メグム)、
雨(アメ)、乳母(メノト)
第二義
披ルモノ、莟ミタル象
披るは衣の音の義、
莟みたるは牟の音の義なり
芽(メ)、初(ハジメ)、
爪(ツメ)、米久(メク)
末義
向ナルモノヲ引寄ル象
向なる者の意は
衣の音の義にあり
引寄るは牟の音の義なり
目(メ)、召(メス)、
食(メシ)、知食(シロシメス)
・・・日本語を漢字の意味で説明しているだけであるカナ・・・
↓ ↓ ↓
おんぎせつ(音義説)
一音一音に
固有の意義ありとし
語源を説こうとする説
仏典の
五十字門
四十二字門
の字義説では
アは無常の義である
これはa‐nityaに結びつけた
一種の語源俗解・・・
インド古来の伝統的手法として
精緻な
語源学
文法学成立の基礎となった
↓
日本の音義説
悉曇(しつたん)学・・・サンスクリットの
↓ シッダム(siddham)を
↓ 音訳した漢語
↓ 母音字を指す語
↓ 子音字も含めて
↓ サンスクリットを表す文字全般を
↓ 称する場合もある
↓ シッダマートリカーという
↓ 固有の文字体系の名称
↓ 『大般涅槃経』文字品に対する
↓ 注釈学が起源・・・
↓ 唐の智広『悉曇字記』などがある
↓ 「日本では平安時代の安然が集大成した
↓ 『悉曇蔵(880年)』があり、
↓ 『悉曇蔵』はサンスクリットのみならず
↓ 中国音韻学を研究する重要な資料
↓ 明覚の『悉曇要訣(1101年頃)』は
↓ 日本語を傍証として用いており、
↓ その日本語に関する記述が
↓ 古代日本語の音韻を研究する際の貴重な資料
↓ 明覚には『反音作法(1093年)』という著作があり、
↓ 早期の五十音図を伝えている」・・・
の影響による
中国ではすでに
先秦時代から
独自に〈声訓〉が散見
これは
同音
ないしは
近似音等を借りて
語義を説くものである・・・
ーーーーー
日本語音声の「一音義説」、ナゼ、「漢字文字の音附と、その字形の意味」から考えなかったのか、不思議ではアルカナ・・・「弁慶の泣き所」は「ムコウのスネ」である・・・ヨコシマなゲンコウの諏音・・・?・・・慶を弁(わきまえ)る・・・慶応、慶喜・・・桂木・・・木戸の曙(古事記・第十一代垂仁記・安芸で聾唖(おし・ロウア)の本牟田智和気王(ほむちわけのみこ)が出した声・・・「第十五代、応神天皇(おうじんてんのう)応神天皇の誉田別(ほんだわけ)」・・・「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」・・・