・・・昨夜は圧巻の野球ゲームだったが・・・俄か(にわか=似和歌?)旗振り・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・「幢(ドウ)=巾+童」=「昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種・彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした・はたほこ・魔軍を制する仏、菩薩のしるし。また、仏堂の装飾とする垂れ布(たれぎぬ)・古代の儀式に用いる)吹き流し・旗・仏教の経文を刻んだ六角形または円形の石柱=経幢=石製は石幢(セキトウ)」・・・以下はスベテ「黄幢(コウドウ)」に関するブログ記事を参照、参考にして「引用添付」したものデス・・・ワタクシの「オリジナル」ではありません・・・少々改作してある部分と「・・・?」とした処だけが「ワタクシの部分」です・・・「引用」はインターネットの検索でスベテ検索できるモノですから、この「日記」をお読みになっている方は、「黄幢(コウドウ)」の原文は御自分で検索、御確認をお願いします・・・勝手な諸々の「黄幢(コウドウ)」に関する引用も、断りもなく、ご免なさい・・・
ーーーーー
黄幢(コウドウ)
黄幢とは、黄色い吹き流しのような 軍旗
黄幢(コウドウ)(軍の指揮に用いる旗)
黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)
黄幢(黄色い旗さし)
黄幢(旗・幡・旛・将)=幡鉾
はた=機・秦・羽田・葉多・波多・波田
秦・畑・畠・傍・側・端・圃
黄幢(黄色い旗ぼこ
=戈・矛・戛・鉾・鋒→殳=ほこ・シュ・ズ)
黄幢(コウドウ→憧は幢に修正・・・???)
「紹煕本」では
「百衲本」の「黄幢」を「黄憧」とする?
「幟」は「のぼり」
「幡」は「はた」・・・八幡(ヤハタ)
黄竜旗=中国清朝の国旗・黄色地に竜を描いたもの
黄龍=チベットの旗=九寨溝 黄龍
四神相応=風水の地勢や地相
↓↑ 四神に中央に
「黄龍」、「麒麟」を加え「五神」
背後に山、前方に海、湖沼、河川の水が配置されている
背山臨水の地
左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵
背後の山よりも低い山で囲むことで
蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態
四神は、
背後の山が玄武
前方の水が朱雀
玄武を背にして
左側の砂が青龍
↓↑ 右側が白虎
北は黒龍
西は白龍
南は赤龍
東は青龍
中央は黄龍
四海竜王より上
黄竜と合わせて「五竜」
中国皇帝の旗
中央を守る
↓↑
四方を司る水の神
西遊記や封神演義の物語に登場
↓↑
封神演義では
リナタ(李哪吒)=ナタク
托塔天王(毘沙門天)の
三男が龍神退治するハナシ
↓↑
7歳(身長6尺)のとき、
東海龍王敖光の巡海夜叉の
李良と
龍王の
三太子敖丙を殺し
敖丙の背筋を抜き
父の怒りをうけ、
罪をあがなうために
自らの肉と骨を切り自害
死後母親の夢に現れ、
己の行宮を建てるよう頼んだ
神像が
3年間受香すれば再生できるはずだったが、
事の次第が
李靖(唐代の太宗に仕えた軍人・政治家)=李藥師
に発覚し行宮を焼き払われたため、
太乙真人は蓮の花に金丹を入れて肉体とし
哪吒を復活させ、
父とは
燃灯道人がとりなし和解
闡教の道士として父や兄と共に
周陣営に参加し、
以後
商の仙人と闘う
三面八臂の姿を得た
↓↑
四海竜王
唐の玄宗が、
751年に四海の神を封じ
広(廣)徳王(東海)、
広(廣)利王(南海)、
広(廣)潤王(西海)、
広(廣)澤王(北海)
の称号をそれぞれに授けた
↓↑
孫悟空にもやられる龍神
↓↑
長男、東海竜王傲廣
次男、南海竜王敖欽
三男、西海竜王敖閏
末弟、北海竜王敖炎
↓↑
龍宮(水晶宮)で
エビ(海老・蝦・鰕・螧)や
カニ(蟹)たちに守られ
海を統治し、雲と雨を操り
怒ると、都市を洪水にする
東海竜王が最も大領土をもち
それぞれ別名を有する
↓↑
東海龍王=敖廣(ごうこう)=廣徳王
南海龍王=敖欽(ごうきん)=敖紹=廣利王
西海龍王=敖閏(ごうじゅん)=廣順王
北海龍王=敖順(ごうじゅん)=敖炎=廣澤王
ーーーーー
龍神か、蛇神か
・・・辰巳(龍蛇)は南東の「戊己=土」に位置
↓↑
伏羲と女媧
↓↑
伏羲=宓羲・包犠・庖犠・伏戯・伏義・伏儀
三皇の一人
姓は鳳(凤)姓・太皡庖犠氏は風姓?
八卦をつくり
人間に
漁猟を教えた
女媧(ジョカ・Nüwa)=女希氏・媧皇・女皇
古代中国神話の土と縄で人類を創造したとされる女神
笙簧の発明者
縄の発明者、葛天氏と同じく伏羲の号に属
三皇の一人に挙げる説・・・
姿は蛇身人首
姓は風
伏羲とは兄妹で
身は竜体=人首蛇身
同じく竜体の伏羲と下体が相交わる神像
「風俗通義(フウゾクツウギ(後漢末)」には、
女が人間をつくった
彼女は初め黄土を人の形にこねあげ、
人間を丁寧に1人ずつつくっていたが、
作業に骨が折れすぎて休むまもないのに
業(ごう)を煮やし
女は、ついに縄を泥中に浸してそれを引き上げた
そのときに縄から飛び散った
泥のしずくがすべて人間になった
伝承の変化で、
女は三皇の一人
男性神の伏羲(ふくぎ)と夫婦となった・・・
上半身は人間、
下半身が蛇形に描かれ、
女媧は右手に「ぶん回し(コンパス)」
伏羲は左手に「物差し(定規・曲尺)」
を掲げる
↓↑
中国の黄河=黄竜・・・沙漠の竜巻・・・蜃気楼?
琉球王朝の海人は、
黄色旗や
百足(ムカデ)旗を掲げ
航海の無事を太陽神に祈った
イルルヤンカシュ=ヒッタイトの竜
↓↑
太極八卦旗
太極四卦旗
「五爪龍旗・四爪龍旗」
朴泳孝が出発前に清朝政府に
中国の
五爪龍旗の使用を打診
清朝は
「潘属国は四爪龍旗の使用しか認められない」
と拒否
中国の使節
馬建忠は
中国伝統の
大極八卦旗を国旗として使用することを勧め、
朝鮮政府も受け入れた。朝鮮の太極旗の始まり
清の国旗の竜は爪が5本
藩属国は4本
牙旗=中国で、旗ざおの先を
象牙で飾り
猛獣が牙(きば )で身を守る形とした
天子または大将軍のいる所に立てる旗
大将旗
牙纛=呉の孫権が・・・・・・旗の色はナニ?
中央軍につねにたてていた
黄竜の牙旗・・・・・・龍は黄色だった?
黄幡=黄幢?は呉の幡
ーーーーー
・・・「幢=巾+童(立里)」の類字は「憧撞瞳童」・・・「魏志倭人伝」の著者(?)の漢字使用は周到であるカナ・・・帰化人の翻訳教養・・・サスガだが・・・妄想だが・・・
ーーーーー
↓↑
「其の六(年?)... 同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に
黄幢とみられるものが描かれていた」・・・?
↓↑
其八年(西暦二四七年=247年)
太守
王祈
到官
倭女王
卑彌呼
與
狗奴國
男王
卑彌弓呼・・・・卑彌弓、呼、素、不和・・・?
素不和
遣倭
載斯烏越・・・・載、斯、烏を越る・・・?
等詣
郡説
相攻撃状
遣
塞曹掾史
張政
等
因斎
詔書
黄幢
拝
假
難升米・・・・難升の米=米を升(はかる)のは難しい?
飢饉だろう・・・
爲
檄
告喩
之
卑彌呼
以死・・・・・殺された・・・死を以て・・・自殺?
大作冢
徑百餘歩
徇葬者
百餘人
更
立
男王・・・・・狗奴國の「卑彌弓呼」ではない?
國中
不服
更
相誅殺
當時
殺
千餘人
復立
卑彌呼
宗女
壹与・・・・・・壹與、臺與
年十三
爲王
國中
遂定
政・・・・・・・「張政」なのか、政(まつり)なのか?
等
以
檄
告喩
壹与
壹与
遣
倭大夫
率善中郎将・・・・率善か、「率膳」の御膳立てなのか?
掖邪狗・・・・・・掖邪狗(わきやく)なのか、
ワ記の訳なのか?
等二十人
送
政
等
還
因
詣
臺
献上
男女生口三十人
貢
白珠
五千孔
青大句珠二枚
異文
雑錦二十匹
↓↑
王頎は)塞曹掾史・張政(せんそうえんし・ちょうせい)等を遣わして、詔書・黄幢(こうどう )を(倭に)齎(もたら)し、難升米(なしめ)に拜假(はいか)し、檄(げき)を為して、之を告 喩(こくゆ)す。
↓↑
其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
其八年、太守王[斤頁]到官
倭女王卑彌呼 與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和、
遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政 等因齎
詔書・黄幢、
拜假
難升米
爲
檄告喩之。
↓↑
倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。
倭の載斯烏越等を遣わして 郡に詣り、相攻撃する状を説く。
塞曹史張政等を遣わし、
因って
詔書・黄幢を齎し、
難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。
↓↑
黄幢(こうどう)である・・・
黄幢の幢とは、軍事指揮や儀仗行列に用いられる
旌旗(せいき)・・・?・・・旌=方+ノ一(髪挿し)+生
の一種で、
天子が部下に権限を付与した印しとして与えたものだった。
遼陽北園墓の墓室には、
騎従がもつ幢が描かれている。
幢形のものが二つ重なって描かれている・・・?
↓↑
率善中郎将
中郎将とは交代で宿直して宮城を護衛する武官の長
この職は、
秦代に、始まり、
宋代以後には廃止
秩は比二千石
中郎将は郎中令に属し、
五官・左・右の
三中郎将が常置
必要に応じて種種の
「雑中郎将」(匈奴中郎将・建義中郎将等々)が任命された
率善中郎将も、 「雑中郎将」の類に属する
率善の意味・・・帰義候・・・率善=帰義・・・?「率膳」?
中郎将に任ぜられるのは原則として
内臣に限られ
「難升米」の場合はむしろ例外?・・・漢字は「難の升の米」である
239年
「難升米」は
「率善中郎将の位」
245年
黄幢を賜った
↓↑
奴国男王
卑弥弓呼
素
不和
遣倭
載斯烏越・・・・・・載斯烏越=斯(これ・この・かく・シ)
烏(カラス・ウ)
を越えるコトを載せる・・・?
等
詣
郡
説
相攻撃状
遣
塞曹掾史
張政
等因
齎
詔書
黄幢
拝假
難升.
(難升)米
為
激
告喩
之
卑弥呼
以
死
大冢径百余歩・・」
↓↑
「幢」を、
『後漢書』の
班超伝
にみえる
李賢の注には
「鼓吹・幢麾、皆大将所有」
とあることを確認、
諸橋『大漢和辞典』では、
軍の指揮に用いる
「はた」(はたぼこ=旗+矛)であるとしている・・・
「幢」が「軍旗の一種」で、
少なくとも唐代には、
将軍・刺使の威儀を示した儀飾の一つであった・・・?
↓↑
「一番古い軍旗としての幢の記録は、
栗原の探したものでは、
『漢書』の
韓延寿伝という」
漢の宣帝のとき、
延寿が東郡太守として在任中、
都試の際に
「幟」を立ててこれに臨んだ・・・「幟」は「幢」か?
自分が考案した
「各種の儀飾り」が、反対派によって劾奏され、
「棄市」という極刑に処せられてしまった
・・・棄市=公衆の面前で打ち首にして、
その死体を市中に晒すこと
「問われた罪が、幟を立てて都試に臨んだこと」
だというのである・・・?「都試」って、「都の試験」?
「幢」は、
王権の権力行使や軍事権に関わる重要なシンボル・・・
・・・深く考えなくてもハタならば「重要なシンボル」であろう・・・
「内臣以外の賜幢」の例としては、
「泄帰泥」に与えられたものが一つだけある・・・「泄の帰の泥」・・・排泄物も泥も同じ?
部族をひきいて、
魏に帰属した
「泄帰泥」にあたえたもの・・・
「曲蓋・鼓吹を与えて、元通り住まわせ、
鮮卑族に対抗させた」
という記録である・・・らしい・・・研究、勉強家はスゴイねッ・・・
↓↑
日本語訳は『三国志』
魏書・烏丸鮮卑東夷伝
『世界古典文学全集24B三国志?』筑摩書房
(現在は筑摩文庫にも収録されている)291頁にある・・・らしい。
↓↑
武田幸男の黄幢の見解
中央公論社版
『世界の歴史6隋唐帝国と古代朝鮮
第2部朝鮮の古代から新羅・渤海へ』1997年
(中公文庫版は2008年刊 332頁~336頁)
↓↑
「魏は倭の難升米に黄幢授与することにした。
「幢」というのは、
袋状の軍旗であり、
「黄」色陰陽五行説にいう五行の一つ、
魏の土徳を意味していて、
黄幢は魏の軍事力を象徴した。
黄幢の授与を通じて、
魏は軍事的連携をはかったのであろう。
おりしも、
魏の高句麗攻撃が最高潮にたっし、
母丘倹が東方世界を制圧しかかっていたころである。
帯方郡が
黄幢を届けるまで
三年かかったのも
郡自体が作戦の展開中だったからである。
難升米は魏が注目し、
高く評価した人物であった。
卑弥呼が男弟一人を頼りに
神聖統治の宗教的な統括者として
振る舞う中で、
大夫の難升米は行政実績があり、
すでに外交手腕も認められて、
世俗面を代表する重鎮であった。
魏は外交辞令だけで、
率善中郎将に任じたのではなかった。
今度は、
外臣としての彼に、
軍事的な指導性が期待された。
女王国は、
魏の東方戦略に組み込まれていたのである・・・
↓↑
卑弥呼の軍団に
外国人の軍事顧問がついたのである。
黄幢の軍事的意味あいは、
当面、
卑弥弓呼の打倒に向けられていたはずである。
結局、
張政が
翌248年に還ったところをみると、
それが少しでも効いたのかも知れない」
↓↑
・・・「さすが、武田幸男」ですか?・・・
↓↑
先の「栗原(論文)」の
黄幢についての見解の紹介で
脱落していた重要な指摘に、
呉が、
公孫淵に与えた詔書の件があった。
三国志呉志の注で、
「裴松之」は
「江表伝」を引用しているところの記述である。
呉王の孫権が
公孫淵に送った詔書のことである。
公孫淵を
「燕王」とするとともに、
「戎事あれば兵馬の
「典蓋・麾幢」を与える」・・・麾(さしまねく・キ
軍を指図する旗)の幢
麾下の旗
靡(なびく)に類字
記されている・・・・そうである・・・
↓↑
橿原日記
平成20年9月14日
黒塚古墳から出土した
用途不明のU字形鉄製品
原文記事は以下
↓↑
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_09_15.htm
↓↑
用途不明のU字形鉄製品
県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)
の発掘調査報告書によれば、
大小2本のU字形に曲げられた鉄製品は、
木棺の北小口の外側に置かれ、
石室の北東の隅に立てかけてあった。
2本の鉄棒の間にはV字形をとどめる鉄板製の管があり、
大半は崩落していたが、
U字形鉄棒の間をつないだ形を保つ部分だったと思われる。
この製品の両側に接して、
全長40cm前後の棒状鉄製品が立てた状態で5点、
横にして移動した状態で9点出土したとのことだ。
発掘当時、
この大小2本のU字形に曲げた鉄製品が
何であるか類推できなかった。
そのため調査報告書でも
「用途不明の鉄製品」と記されている。
謎のU字形鉄製品は、
両端がとがった長さ約70cmと57cmの
鉄の棒をU字形に曲げ、
その間に長さ5cmのパイプ(鉄板を丸めたもの)を
V字形に並べパイプの中にひもを通して結びつけていたようだ。
その後、X線撮影で調べてみると、
リボンのような絹織物が巻き付けてあったことが判明した。
そのため、
一種の吹き流しのようなものではなかったかと想像された。
だが、他に出土例がなく相変わらず
その形状や使用目的は謎のままだった。
↓↑
印綬を授かったのは、
女王卑弥呼だけではない
239年
遣魏使節の
大夫・難升米(なしめ)
次使・都市牛利(つしぐり)・・・都も市の牛の利?
もそれぞれ
銀印青綬を受けている
243年(正始四)に派遣された
大夫・伊声耆(いえせき)・・・伊の声は
耆(おいる・ギ・シ・ジ
老人・六十歳or八十歳)
伯耆国(ほうきのくに)は
鳥取県
掖耶狗(えきやく)
ら8人もみな
率善中朗将の印綬を受けている
↓↑
邪馬台国の所在地を示す物的証拠
黄幢(こうどう)である。
黄幢の「幢」とは、
軍事指揮や儀仗行列に用いられる
旌旗(せいき)の一種で、
天子が部下に権限を付与した印しとして与えた
遼陽北園墓の墓室には、
騎従が持つ
幢が描かれている。
幢形のものが
二つ重なり、
上は黒、
下は赤に塗られ、
上のものは
丸い傘状のものの下に
短い垂れ下がりがあり、
下の方は
鳥の長い羽毛が垂れている図である
↓↑
三国志・魏書東夷伝
245年(正始六)5月
魏の
母丘倹(かんきゅうけん)、高句麗に侵攻
楽浪郡の軍隊とあわせる。
詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢を賜い、
郡に付して假授せしむ。
247年(正始八)
太守王斤頁(おうき)、官に到る。
倭の女王卑弥呼、 狗奴國の男王卑弥弓呼
と素より和せず。
倭の
載斯(さいし)・烏越(うえつ)らを遣わし
郡に詣り、
相攻撃する状を説く。
塞曹エン史
張政
らを遣わし、
因って
詔書
黄幢
をもたらし、
難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す・・・
↓↑
発掘中の黒塚古墳の石室内
U字形鉄製品を見て、
「黄幢」と直感した考古学者がいる。
徳島大学の
東潮教授である。
そのとき、この鉄製品が
難升米が貰った黄幢ならば、
銀印があるかもしれないと、
発掘調査員に話したという。
しかし、棺外の北小口にあった
画文帯神獣鏡付近や棺内から
銀印は見つからなかったとのことだ・・・
↓↑
中国の三国時代
魏の曹氏
蜀の劉氏
呉の孫氏
と
公孫氏 が、
燕
という国を建てて遼東の地を支配
燕と対峙した
魏は、ひそかに
黄海を越えて
帯方郡と楽浪郡を掌握すると、
燕王の退路を絶ってこれを攻めた。
燕王公孫淵は敗死
彼らが歴代にわたってきた支配領域は
魏の支配する領域となった。
西暦238年、
魏の年号
明帝の
景初二年
↓↑
239年(景初三)
倭の女王・卑弥呼が 帯方郡を介して
魏の都・洛陽に慶賀の使節を派遣した
238年
魏の
司馬懿が
公孫淵を討伐
高句麗は
燕に援軍を送ったが、燕は滅びた
↓↑
242年(正始三)
高句麗は西安平地区に侵入
244年(正始五)
魏の将軍
母丘倹(かんきゅうけん)が
高句麗に侵攻し、
国内城を陥落させた
245年(正始五) 楽浪郡太守
劉茂
と
帯方郡太守
弓遵
は、遼東の
濊(ワイ)=氵+歳
が
高句麗についたので、軍を派遣してこれを伐った
同年の
五月
母丘倹は高句麗に侵攻し、
楽浪郡からの援軍と合流して戦った
246年(正始七)
母丘倹は高句麗の領土に侵攻
魏が倭の
大夫
難升米
に
黄幢(こうどう)
を授けたのは、
魏と高句麗が緊張状態にあった最中のこと・・・である・・・
↓↑
東教授が
黒塚古墳の石室の片隅で見つかった
U字型鉄製品に注目された理由・・・
この鉄製品が本当に
難升米に仮授された
黄幢ならば・・・
倭が魏の
冊封体制に組み込まれ、
倭の軍隊が
広開土王の軍と干戈を交える
150年も前から
高句麗を仮想敵国としていた・・・
↓↑
ただし、この黄幢に関してはさまざまな疑問がある。
まず、
なぜ倭国の女王である
卑弥呼に対してではなく、
難升米に対して仮授したのか。
また、
「仮授」とは仮に貸し与えることで、
永久に授与するという意味ではない。
つまり、
仮授された
黄幢
は戦争が終われば
返還すべき性質の旌旗であるということだ。
それが
何故古墳に埋納できたのか?
ーーーーー
・・・いやぁ~、以上の考察は面白かったデス・・・
・・・ナゼですか?
多分、「黄の幢」が巾の童で、「巾の立つ里」だったから・・・
妄想デシタ・・・カナ・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・ハタハタの漢字「鰰・鱩・雷魚・燭魚」・・・