今、米圀 中、蠹(ト) 小黑虫(蟲) 是也
建平 人 呼 為 蝆(蛘)子・・・螳蜋 謂 之 髦・・・?
誤読・戯読・欺読・偽讀・・・オンドク・・・
↓↑
オトづれ・・・オトぎれ・・・おんドリ・・・音・於菟・猫
Twin(対)の人と家畜と獣と・・・
羊・山羊・馬・牛・豚・猪・狗・狼・熊
猫・獅子・虎・狐・鶏・・・
おとづれ・・・おとぎれ・・・おとめ・・・おっとゥ・・・オンどり・・・
オトがズレる・・・ヅレる・・・擦れる・攣れる・吊れる・釣れる・・・
↓↑
宝覚真空禅師録(1346)
乾 豊州 蒋山・・・?
興 聖 万寿禅寺 語録・・・?
「不三必当レ門懸二艾虎一、一斑先見睡二於一」
壒嚢鈔(1445‐46)
↓↑
五「猫を乙(ヲト)と云は何の故ぞ。
虎を於菟(ヲト)と云也。
然に猫の姿
并に毛の色
虎に似る故に
世俗
猫を呼て
於菟(ヲト)と云へば
猫 則 喜と云へり」
出典 精選版 日本国語大辞典
「コトバンク」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%BC%E8%8F%9F-220867
↓↑
鸑鷟=ガクサク
鸑=獄+鳥
鷟=族+鳥
想像上の鳥・鳳凰(ホウオウ)・鳳凰の子
↓↑
雪村 友梅(せっそん ゆうばい)
正応三年(1290年)
~
貞和二年十二月二日(1347年1月14日)
鎌倉時代末~南北朝時代の
臨済宗の禅僧
長安
南山
翠微寺の住職となり
元の朝廷から
「宝覚真空禅師」
の号を特賜
↓↑
「宝覚真空禅師録(1346)」
乾豊州
「蒋山興聖万寿禅寺語録」
「這裏点開金鸑鷟、這裏敲出玉麒麟」
↓↑
艾虎(ガイコ)
中国の南方の風習
端午の節句にヨモギ(艾)で
虎の形を作り
頭にいただいたり
戸の上にかけたりして邪気を払うこと
↓↑
宝覚真空禅師録(1346)
乾 豊州
蒋山興聖万寿禅寺語録
「不三必当レ門懸二艾虎一
一斑先見睡二於一」
〔乾淳歳時記‐端午〕
↓↑
父は越後の土豪・一宮氏(源姓)
母は信濃須田氏(藤姓)
正応三年(1290年)
越後白鳥で誕生
幼少時
鎌倉の
建長寺の
「一山一寧」
に侍童として仕える
元朝からの
帰化僧である
「一寧」から唐語を教えられた・・・
比叡山戒壇院で受戒
京都
建仁寺に入門
↓↑
徳治二年(1307年)
十八歳
元國へ渡航
2年ほど大都(北京)周辺を見て回り
元叟行端
虚谷希陵
東嶼徳海
晦機元煕
叔平□隆
などに参ずる
日-元関係の悪化で
日本留学僧は
間諜(スパイ)と見なされ
「霅州の獄」に繋がれ
「叔平」も雪村を匿った罪で逮捕、獄死
処刑されかけたが
「無学祖元」の「臨剣頌」を唱え
処刑を免れた
死一等を免ぜられて
長安に流され
3年後
四川の
成都に改めて流謫
10年を過ごす
大赦により許され
長安に戻り3年を過ごす
長安南山
翠微寺の住職となり
元の朝廷から
「宝覚真空禅師」の号を特賜
↓↑
元の
天暦二年(日本は元徳元年、1329年)五月
商船に便乗して博多へ帰朝
日本へ来朝の
明極楚俊
竺仙梵僊
らや
天岸慧広
物外可什
らと同船
後鎌倉へ戻り
翌年には師一山の塔である
建長寺
玉雲庵
の塔主となった
↓↑
元徳二年(1331年)
信濃
諏訪神社の神官
「金刺満貞」
に招かれ、信濃
「神為頼」
に請われて
徳雲寺開山となる
翌年
京都の
「小串範秀」
に招かれ
嵯峨の
「西禅寺」住職
建武元年(1334年)
豊後
大友氏に招かれ
府内の
「万寿寺」に転じ、三年住し
京都へ上り
「栂尾」に隠棲
播磨守護
「赤松円心」が
「小串範秀」の推薦を受け
円心が建立した
法雲寺の開山として招かれ
千種川の清流を
幽囚されていた蜀(成都)の
錦江になぞらえ
山号を金華山とした
↓↑
暦応三年(1340年)
足利尊氏
直義
兄弟は、京都の
万寿寺の住職として
雪村を招請
雪村は病気(中風)により再三固辞
円心の願いに折れ
康永二年(1343年)八月
「万寿寺」の住持となったが
1年で辞し
翌年には
東山の清住庵に移り住む
中風で摂津有馬温泉で療養
↓↑
貞和元年(1345年)二月
朝廷によって
「建仁寺」の住持を命じられ、就任
翌年十一月
法兄の
「石梁仁恭」
の十三回忌法会の導師を務めるが
「楞厳呪」第五段の焼香三拝に至って
右半身不随となる(脳卒中)
十二月二日
遺偈を左手で書こうとしたが
うまく字にならず
怒って筆を投げつけ
周囲が墨だらけになる中
示寂 享年57
↓↑
五山文学の最盛期の中枢となった僧
詩文集
在元時代の詩偈を編んだ
『岷峨集』
帰朝後の詩文・語録集
『宝覚真空禅師語録』
↓↑
by 『ウィキペディア(Wikipedia)』
ー↓↑ーーー
「鬬伯比」が
「鄖子」の娘と密通し
「子文(於菟)」が生まれた
娘は
「子文(於菟)」を
雲夢沢(洞庭湖北方の沼沢地)
・・・洞庭湖⇔道程処・同定拠・童貞児・・・?
の中に捨てたが
狩りに出た
「鄖子」が
虎に育てられた「子文(於菟)」を見つけ
娘が育てることを許した・・・
↓↑
紀元前664年
令尹に抜擢され
楚の財政を私財で救って困窮
成王は
「子文(於菟)」のため
俸禄を増やそうとしたが
そのたびに下野し
取り消すと戻ってきた
「子文(於菟)」が登朝するたびに
肉の干物一束
朝飯一籠
が贈られ
この習慣はのちに
楚の令尹に受け継がれていった・・・
↓↑
弟の
「鬬子良」の子の
「鬬椒(子越)」
が生まれた際に
「必ずこの子を殺しなさい
姿は熊や虎のようで
声は山犬や狼のようである
きっと我々
若敖氏に害をなすだろう」
と忠告したが
「子良」は聞き入れなかった
「子文(於菟)」が
臨終の際に一族を集め
「子越が政治を執るようになったら
楚を離れて難を逃れるようにせよ」
と遺言
「若敖氏の霊魂は餓えることになるだろう」
と泣きながら
「若敖」氏の滅亡を予言
↓↑
「子文(於菟)」の死後
「子越(鬬椒)」は予言どおり
「荘王」に叛いて
「若敖」氏を滅亡させた
「荘王」は
「あの子文(於菟)の家系が途絶えたとあっては
私は人に善行を勧めることができなくなる」
と言って
国外にいて乱に加担しなかった一族の
「鬬克黄」
に跡を継がせた・・・
↓↑
於菟=「とら(虎)」or「ねこ(猫・Cat)」の異名
↓↑
12支の場所の「東」=卯⇔猫
子=ねずみ(鼠・rat・mouse)=北
くち=口=mouth・oral
申す・上海
鬬 㝅於菟(トウ コクオト)
中国春秋時代
楚の公族
宰相(令尹)
姓 羋
氏 鬬
諱 㝅於菟(㝅=乳・於菟=虎)
菟=うさぎ=兔・莵・兎・[m:596]・[m:330]
字 子文
楚の君主の
「若敖(ジャクゴウ)」
の子の
鬬伯比の子
清廉潔白
楚の賢相
↓↑ ↓↑
若敖(ジャクゴウ?~紀元前764年頃
在位:紀元前790年頃~紀元前764年頃)
春秋時代初期の
楚の君主
姓 羋・・・「羊」の鳴く様・咩(ビ)
羋=バ・マ・ビ・ミ・メ
氏 熊・・・くま・ユウ
諱 儀・・・ギ・儀式・礼儀・儀仗・御辞儀
熊咢の子・・・ユウガク・・・遊学・謂覚?
熊の顎
死去後
「若敖」の諡号が贈られた
「若」は埋葬された地名
「敖」は酋長
↓↑
鬬伯比が
「鄖子」の娘と密通し
「子文(於菟)」が生まれた
娘は
「子文(於菟)」を
雲夢沢(洞庭湖北方の沼沢地)
・・・洞庭湖⇔道程処・同定拠・童貞児・・・?
の中に捨てたが
狩りに出た
「鄖子」が
虎に育てられた「子文(於菟)」を見つけ
娘が育てることを許した・・・
↓↑
紀元前664年
令尹に抜擢され
楚の財政を私財で救って困窮
成王は
「子文(於菟)」のため
俸禄を増やそうとしたが
そのたびに下野し
取り消すと戻ってきた
「子文(於菟)」が登朝するたびに
肉の干物一束
朝飯一籠
が贈られ
この習慣はのちに
楚の令尹に受け継がれていった・・・
↓↑
弟の
「鬬子良」の子の
「鬬椒(子越)」
が生まれた際に
「必ずこの子を殺しなさい
姿は熊や虎のようで
声は山犬や狼のようである
きっと我々
若敖氏に害をなすだろう」
と忠告したが
「子良」は聞き入れなかった
「子文(於菟)」が
臨終の際に一族を集め
「子越が政治を執るようになったら
楚を離れて難を逃れるようにせよ」
と遺言
「若敖氏の霊魂は餓えることになるだろう」
と泣きながら
「若敖」氏の滅亡を予言
↓↑
「子文(於菟)」の死後
「子越(鬬椒)」は予言どおり
「荘王」に叛いて
「若敖」氏を滅亡させた
「荘王」は
「あの子文(於菟)の家系が途絶えたとあっては
私は人に善行を勧めることができなくなる」
と言って
国外にいて乱に加担しなかった一族の
「鬬克黄」
に跡を継がせた・・・
↓↑
鬬=鬥+斲
丨+王+ +王+亅++斤
斲=斵・・・断
タク
きる・けずる・削り取る
斧・斧できる
斲=𠁁+斤
異体字「㓸・𣂪・𣂡・𣃃・𣃂・𣃆
斵・𣃋・𣃏・𦘣・𨮕・𨯴
斫」
斵=卬+亞+斤
𠂎+刀+亞+斤
斲=斵
斵=斲
↓↑
刃物などを用い、とんとんと叩くようにして
削る、刻(きざ)む、彫(ほ)る
同「剢」
卯集下:斤部:𣂡
與剢斵劃𦘣通
𧿧=足+斤
タク
跅𨂫=口上止龰足丿𠂆一𠂋T斤=𧿧
勝手気儘なさま
斵=斧・斷・斤・斨・新・斬・斸・斮・斫・斵・斲
↓↑
夫代司殺者殺、是謂代大匠斵(タク)
夫代大匠斵者、希有不傷其手矣
夫れ殺を司る者に代わりて殺す
是れ大匠に代わりて斵(き)ると謂う
↓↑
若敖氏
若敖族
若敖氏之族
楚国の
芈姓家族
祖先为楚国国君熊仪
若敖氏即是以他的谥号若敖为族称
在其内部又分鬬氏
和成氏
两个支系
若敖族の構成員
鬬伯比
鬬廉、鬬祁、鬬勃
鬬谷 於菟(子文)
↓↑
鬬般
及
成得臣
成大心
成嘉等人
在
楚武王
至
楚庄王
時代担任军政要职
经过
楚庄王九年
若敖族之乱后
若敖族の地位迅速下降
但其后
裔仍
不時出現
于
春秋末期
和戦国の
楚国政坛
ーーーーー
・・・???・・・ナマエのヘン・・・
楚の君主
姓 羋・・・「羊」の鳴く様・咩(ビ)
羋=バ・マ・ビ・ミ・メ
↓↑
羋 戎(ビ ジュウ)
紀元前332年~紀元前262年
戦国時代末期
楚の公族
秦の政治家
秦の昭襄王の生母
宣太后(恵文君夫人)の弟
↓↑
秦の昭襄王に
「華陽君」の号を与えられた
姉の宣太后
異父同母兄弟の
「魏冄(ギゼン)」・・・巍然・偽善?
と合わせて三貴
後に
「魏冄(ギゼン)」
甥の
「涇陽君(公子巿)」
「高陵君(公子悝)」
と合わせて四貴
秦国内で王と並ぶ権力を持った[
↓↑
羋戎は
楚にいた頃に罪を犯し
東周へ逃亡
楚の
懐王二十二年(紀元前307年)
秦の
武王
死去後
「宣太后」の異父同母弟
「魏冄(ギゼン)」
の支持を受けた
「公子稷(昭襄王)」
が
「昭襄王」となり秦王を継承
その際
「宣太后」の招きで
秦に入り
左丞相として
「魏冄」と共に
秦の朝政を執り仕切った
↓↑
紀元前298年
「孟嘗君」主導の
斉・韓・魏
の三国合従軍が
函谷関に攻め寄せた際
秦軍の総司令官として
斉の
「匡章」
率いる攻撃から
函谷関を守った
↓↑
紀元前265年
「范雎」
の奏上で
「宣太后」が
「昭襄王」
によって廃位され
「羋戎」ら四貴も罷免
関中から追放
紀元前262年
「羋戎」
死亡
「昭襄王」
は実権を握り
秦は六国を圧倒した
ーーーーー
・・・???・・・バビブベボ
まみむめも・・・
羋=卝+丨+二
卝+丨+一+一
蝆=虫+芈
虫+羋
虫+卝+二+丨
虫+卝+一+丨
古同「蛘」
蝆=螳螂
螳蜋谓之髦
或谓之虰或谓之蝆蝆
蛀食米谷的黑色小虫
蛄䗐・强蝆
晋・郭璞
注:「今米谷中蠹小黑虫是也。建平人呼为蝆子」
蝃蝥=蜘蛛の别名
蝃=螮
蝥=mao・昆虫・腿细長
鞘翅上黄黑色斑纹
成虫危害农作
ーーーーー
・・・???・・・右目の眼圧が上がって顔面右側半分が、
痛い(>_<)・・・異体・ゐたい・イタイ・・・
ーーーーー
???・・・
↓↑
「古事記字源のページの表紙・音楽・動画」
https://haa98940.wixsite.com/mysite
↓↑ ↓↑
「古事記字源のページ・2016/12~」
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