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コジキジゲン

命婦も無理すれば・・・羝羊触藩・・・亡羊補牢?

2025-01-31 17:05:51 | 古事記字源
 オフクロが生きていた時から
 薬箱がアッチコッチにあるけれどナンのクスリなのか・・・
 「薬子の変=平城太上天皇の変」
 っていう事件があったけれど
 薬=艹+楽(樂・㦡)
   草の下=根子・芋魁(ウカイ・かしらいも)芋渠
   くさか=六月一日
      =うりはり・うりわり・くさか・さいぐさ・むりはり
   草香=くさか=草加=日下=日の下
   根子の芋  渠=魁(カイ・ケ・かしら=頭・先駆け)
     北斗七星の「魁星・斗魁」
      遊郭の「花魁(おいらん)」
   薩摩芋・🍠・塊根・・・塊(カイ・ケ・かたまり)
   甘芋(カンショ・あまいも)=甘藷(艹+言+者)
        ・・・あまい=阿毎
               薯=艹+署(ショ・いも=妹)
                   署=罒+土+ノ+日
   アマイモ(amaimo)アマナの別称
    ユリ(百合)科の多年草・園芸植物
     百(ー+曰)+合(亼+口
             𠆢+𠮛(ー+口)
     𠮛=𠫔=ー+ム
   𠮛=旨(うまい=甘い)=「匕・匕・七」+日
   薬用植物学名 Tulipa edulis
   サツマイモ (薩摩芋・ 学名: Ipomoea batatas)
   ヒルガオ(昼顔)科 サツマイモ属 の 多年生植物
   甘藷・唐芋・琉球薯
 薬=日+下+幺+白+幺+十+八
  =日+下+忄+幺+白+幺+十+八
 子=ー+了=「児・童・兒(臼+儿)」=思想=始終・終始

 「変」だけれど「くすシ(薬師・医=醫)の変」
          ・・譯詞(やくし)の変?

 810年(大同五年)・・・大同語念
 故桓武天皇の皇子
 平城上皇
 と
 嵯峨天皇
 が対立し
 嵯峨天皇側が兵を動かし
 平城上皇が出家し決着
 平城上皇の
 愛妾の
 「尚侍・藤原薬子」
 や、その兄の
 「参議・藤原仲成」
 らが処罰された

 平城天皇の即位
 伊予親王事件
 延暦二十五年(806年)
 桓武天皇崩御
 皇太子
 安殿親王(平城天皇)即位
 平城天皇は弟の
 神野親王を
 皇太弟とした
 理由は
 平城天皇が病弱でその子供達も幼かった
 大同二年(807年)
 天皇の異母弟
 伊予親王
 が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれ
 皇位継承を巡る
 宮廷内部の紛争は収まらなかった

 大同四年(809年)四月
 嵯峨天皇の即位
 「二所朝廷」の成立
 平城天皇発病しその原因を
 叔父
 早良親王
 伊予親王
 の祟りによるものと考え
 禍を避けるために
 譲位を決意したが
 天皇の寵愛を受け
 専横を極めていた
 「尚侍・藤原薬子」
 とその兄の
 「参議・藤原仲成」
 は極力反対
 しかし
 四月十三日
 神野親王(嵯峨天皇)が即位
 皇太子に
 平城天皇の三男
 高岳親王
 が立てられた

 大同四年十二月(810年1月、2月)
 平城上皇は
 旧都の平城京へ移る
 平城上皇が天皇の時に設置した
 「観察使の制度」
 を
 嵯峨天皇が改めようとし
 平城上皇が怒り
 「二所朝廷」
 といわれる対立が始まる
 平城上皇の復位を
 「藤原薬子」
 と
 「藤原仲成」
 は助長した
 薬子の役職
 「尚侍」
 は天皇による
 太政官への
 「命令書=内侍宣」
 の発給を掌っており
 太上天皇には
 天皇と同様に国政に関与できた・・・
 (例:孝謙上皇と淳仁天皇の職権分割)
 上皇が
 「薬子の職権」で
 「内侍宣」を出し
 太政官を動かす事態・・・も
 大同五年(810年)正月
 嵯峨天皇が
 病に倒れて元日の朝賀が中止になり
 上皇復権の可能性・・・
 大同五年七月
 嵯峨天皇が東宮に遷御し
 天皇の神璽を
 上皇に返却の意思=退位を示した・・・?
 嵯峨天皇は
 大同五年(810年)三月
 蔵人所を設置
 六月
 観察使を廃止し
 参議を復活
 
 九月六日
 平城上皇は
 平安京を廃し
 平城京へ遷都する詔勅を出し
 嵯峨天皇は
 詔勅に従うとして
 信任者の
 坂上田村麻呂
 藤原冬嗣
 紀田上
 らを
 造宮使に任命

 嵯峨天皇は
 遷都を拒否の決断をし
 九月十日
 使節を発して
 伊勢国・近江国・美濃国
 の国府と関を固めさせ
 「藤原仲成」
 を捕らえ監禁、佐渡権守に左遷
 「薬子の官位=尚侍(ないしのかみ・ショウジ)」
 尚=⺌+冋=尙
  丨+丷+冂+口
  ショウ
  なお
  たっとぶ・とうとぶ・敬い重んじる
  くわえる・付け加える
  たかい・たかくする
  こいねがう・希望する
 「なお・その上・さらにその上」の意
 「なお・やはり・依然として」の意
 「こいねがわくは」
 「~を願う・どうか~であってほしい」
 を剥奪し

 十一日
 平城上皇は激怒し
 東国に赴き挙兵を決断
 上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった

 嵯峨天皇は
 坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じた
 夜
 「藤原仲成」
 は射殺され
 これ以降
 保元元年(1156年)
 「保元の乱」
 で
 「源為義」
 が死刑執行されるまで
 約346年間一件も無かった・・・

 平城上皇と薬子は
 大和国
 添上郡
 田村まで来たところで
 勝機がないと悟って平城京へ戻った

 十二日
 平城上皇は剃髮して出家
 薬子は毒を仰いで自殺

 九月十七日
 越前介の
 「安倍清継」
 らが上皇に加担したとして
 捕らえられた

 弘仁十五年(824年)
 平城上皇の崩御の際
 嵯峨上皇の要望によって
 後継の
 淳和天皇の名で関係者の赦免

 空海は
 嵯峨天皇側の勝利を祈念

 「薬子の変」
 の首謀者は
 「藤原仲成」
 「藤原薬子」
 兄妹であると前提的に云われてきた?
 首謀者は上皇・・・
 仲成・薬子兄妹
 に責任転嫁させられた?
 薬箱
 「亟=はこ」に詰めて何を贈るつもりか
 札幌→琴似→手稲→朝里→銭函→小樽
    事に 丁寧 漁り 選凾 鼓樽
 北極
 南極
  極=木+「䓧・焏」・・・極秘
  亟=丂+叹+一
    了+叹+一
    丂+口+又+一
    乛+亅+口+又+一
    キ・キョク
    しばしば
    すみやか・はやく・急いで
    あわただしい
    しばしば・くりかえして・何度も
  函館=凾館(はこだて)
     l+亟+l・・・函=乛+氺(水)+凵
     口+了+又+凵  異体字
            圅=マ+¥+囗
              ¥=「Y+=」
                ワイ ニ
                倭意 爾
              龴+囗+丷+干
    口+丂+又+凵  氶=乛+水(氺)
    口+了+又+凵  丞=乛+水(氺)+_
         ¥+一=羊=「Y+三」?
  ↓↑
 楽羊啜子(ガクヨウテッシ)
  楽羊が主君への忠義を貫いた故事
  逆に信用されなくなった故事
  「啜=すすって飲むこと」
  戦国時代の魏の将軍の楽羊は
  息子を人質にとられ吸い物に調理され
  忠義を尽くすためにその吸い物を飲むと
  敵は忠誠心に恐れをなして降伏したが
  味方の信用を失った
 岐路亡羊(キロボウヨウ)
  進路や方針が多すぎて
  選択に迷うこと
  学問の道が細かく分かれすぎて
  学問の根本を捉えにくいこと
 牽羊悔亡(ケンヨウカイボウ)
  正しい方向を教えて導けば
  後悔せずにすむということ
  羊は本能的に他の羊とぶつかって
  角が絡むまで前進し続けるので
  羊飼いは羊を導く必要があるということ
 告朔餼羊(コクサクノキヨウ)
  昔からの習慣や行事などを
  理由もなく止めるべきではないということ
  実質がなくなっていて
  形式だけが残っていることのたとえ
  「告朔=天子が諸侯に与えた新年の暦を
  祖先の廟に納め、毎月一日に祭事を行い
  その月の暦を国内に施行した儀式
  告朔の意義が廃れ
  羊を供える儀式だけが残った時
  いけにえを廃止しようとしたが
  孔子が告朔の儀式が
  全て廃れてしまうのを惜しんだ故事
 虎皮羊質(コヒヨウシツ)
  外見は立派だが、中身が伴わないこと
  虎の皮を羊に被せること
 十羊九牧(ジュウヨウキュウボク)
  人口の割りに役人が多すぎること
  十頭の羊に九人の羊飼い
 多岐亡羊(タキボウヨウ)
  進路や方針が多すぎて
  選択が出来なくなること
 羝羊触藩(テイヨウショクハン)
  勇気だけで勢いよく突き進む人は
  どうにも出来ない状況に陥る
  どうにもできない状況のたとえ
  「羝羊=雄羊」
  「触藩=生垣に突っ込むこと」
 屠所之羊(トショのヒツジ)
  次第に死期に近づいていくこと
  屠殺場に連れて行かれる羊
 屠羊之肆(トヨウのシ)
  身の程に相応しい仕事
  「屠=獣を殺すこと」
  「肆=店」
  羊を殺して肉を売る店
 読書亡羊(ドクショボウヨウ)
  重要なことを忘れて
  他のことに夢中になること
  「亡羊=羊に逃げられるこ」
  羊の見張りをしていた二人の男は
  一人は読書に
  一人は博打に夢中になって
  見張りを忘れて
  羊に逃げられてしまったが
  読書も博打も同罪であるということ
 肉袒牽羊(ジクタンケンヨウ)
  降伏し相手に臣下にしてと請い願うこと
  「肉袒=上半身を脱ぎ裸になること」
  どんな罰でも受けるという
  降伏の意思を表すこと
 亡羊之嘆(ボウヨウのタン)
  進路や方針が多すぎて
  何を選ぶべきかわからなくなること
  学問の道が細かく分かれすぎ
  学問の根本を捉えにくいこと
 望羊之嘆(ボウヨウのタン)
  はるか上を見上げて嘆き悲しむこと
  どうにもできない状況を嘆くこと
 亡羊補牢(ボウヨウホロウ)
  失敗した後に悪い部分を改善すること
  失敗してもすぐに改めれば
  過ちが大きくならずにすむということ
 羊裘垂釣(ヨウキュウスイチョウ)
  世間から離れてのんびり隠居暮らし
  「羊裘=羊の皮衣」
  「釣=釣り針」
 羊很狼貪(ヨウコンロウドン)
  荒々しく道理に背き
  どこまでも貪欲なこと
  「羊很=乱暴な荒々しい羊」
  命令に従わずに道理に背くこと
  「狼貪=狼のように欲深くむさぼること」。
 羊質虎皮(ヨウシツコヒ)
  外見は立派だが、中身が伴わないこと
  「虎皮羊質」
 羊腸小径(ヨウチョウショウケイ)
  曲がりくねっている山道や小道のこと
  「径=道のこと」
  羊の腸のような道という意味
 羊頭狗肉(ヨウトウクニク)
  外見は立派だが中身が無いこと
  「羊頭を懸げて狗肉を売る」の略語
  羊の頭を看板に掲げ
  実際には犬の肉を売るという意味
ーー↓↑
北=丬+匕(𠤎・匕・匕・・七)
         (牝・匙・匕首・七)
   七(7)⇔𠤎(牝・雌)
   匕(匙・匕首)

  弋=𢍺=弌=𢍻・𢍼
   ㇢・㇃・㇄・㇒・㇓・㇔

 䂖=丆+ヽ+口=石

 匕(ヒ)=匕(𠤎・匕・匕・ヒ・七)   
   鷰=廿+北+口+鳥=燕=鳦
   北=丬+匕(𠤎・匕・匕・ヒ・七)
        (牝・匙・匕首・七)

   七(7)⇔漆=柒=㲺+木
   匕(匙・匕首)
     七・匕首(あいくち)
   ヒ(牝・めす・𠤎(牝・雌))
   比=上+匕
     ト+_+乚+一
  弋=「𢍺=七+丶」
      =弌=弋+ー
      =𢍼
      =𢍻=丂+弋
       匕・匕・七・ヒ
   弋=ー+㇂(㇏)+丶
      㲺=氵+匕
      =柒=㲺+木=うるし
      =氵+七
       シツ・シチ
       そそぐ=注(灌・潅・濯・雪)ぐ
       あらう=洗う(洗濯)=灑
 漆=七=柒=㲺+木
  =うるし
   かぶれる・皮膚病
   「湿疹(皮膚炎)」
   原因物質に
   直接皮膚が触れることで
   起こる「かぶれ=接触皮膚炎」

 耂=耇=耈=老+句
  ・・・蛯・蝦・海老
     蘇我蝦夷
       (カイ・えぞ・えみし)
        句=勹+口
          曲がった老人の腰?
 耂=コウ・クの略字
  「年寄り・老人・おいる」
   漢字の冠(かんむり)の一
  「おいかんむり(老冠)
   おいがしら(老頭)」
 者=もの・人
   行為や状態の主体を表す
  「作者・勇者」
   こと・特定のことがらを指す
  「前者・後者」
   は・とは・ば・~れば
   強調や仮定の条件を表す助字
   時を表す語
  =特定の人、物を指し示すことば
  「は・ものは・とは」
   主語を強調することば
   時を示す語に添える助字
   発音はしない
  「今者(いま) 昔者(むかし)」
  「緖=糸+者」
   物事の起り・発端・始め
   ひも(紐)・長く続つづくもの
ー↓↑ーー
 命婦(メイフ・みょうぶ)
 女官・・・音名の咸(関)
 五位・・・語彙・語意・語異・呉委
 以上・・・移譲・委譲・移乗・異常
囲繞=イジョウ・イニョウ
         まわりを取り囲むこと
         ぐるっと・ぐるり
         囲い・囲み・囲む・囲う
         包囲・遠巻き・取り巻く
        =囲遶
 ↓↑
 命婦・・・内侍司(ナイジシ)の務め
      天皇の儀式、神事に限られるようになり
      朝賀や 即位式
      に奉仕する女性は
      褰帳命婦
      威儀命婦
      立春の際の水取命婦
      春日祭の際の博士命婦
      中国の『周礼』
      内外の官
     「命夫・命婦」官の存在記録
      日本
     「命婦」の名称のみを採用し
     「命夫」にあたる男官・呼称については
      採用されなかった

     「命婦」
     『職員令義解』の
     「中務省条に規定」
      五位以上の女性を
     「内命婦(うちのみょうぶ)」
      五位以上の官人の妻のことを
     「外命婦(げのみょうぶ)」
     「命婦」は官職ではなく
         所属官司の職掌に
         奉仕する地位で
         官位相当や定員はなかった
         女王の場合
         五位以上の位階なくとも
        「内命婦」
      に列せられた
      奈良時代まで
      宮中に仕える女性は
      命婦を含めて宮人と称した
      平安時代以降は
      宮人と命婦は区別された
 ↓↑
 命婦の奉仕
 「内侍司(ないしのつかさ)・・・ナイジシ?
 の務めで
 天皇の儀式
 神事に限られ
 朝賀や即位式などの
 奉仕する女性
 褰帳命婦
 威儀命婦
 立春の際の水取命婦
 春日祭の際の博士命婦
 摂関政治がはじまる頃
 命婦は
 「中臈(チュウロウ)」
 の女房の称号となり
 父や夫の官職に因んで
 少将命婦
 少輔命婦
 中務命婦
 小馬命婦
 などと称するようになり
 固有名詞となっていった
 ↓↑
 江戸時代
 命婦は4・5名
 女蔵人(にょくろうど)
 御差(おさし)
 とともに構成した
 御下(おしも)
 と呼ばれる
 下級女房層を構成した三職を合わせ
 定員七名
 命婦の上首は
 「伊予」
 の名称で呼ばれ
 命婦、御下全体を統括する役目を担い
 江戸時代には
 壬生官務家出身者が選ばれ
 次第に形式的な地位となった
 次席は
 「大御乳人(おおおちのひと)」
 で、本来は
 当代の天皇の
 乳母を務めた人に対する待遇
 後には熟練の女官として
 「掌侍」の上首である
 「勾当内侍」を補佐し
 宮廷内外と勾当内侍との間の
 取次や事務処理を行った
 次第に
 大御乳人の出身も
 局務家の
 押小路家
 上北面の
 松室家
 下鴨社社司の
 梨木家
 の3家出身者が占めた
 「大御乳人」
 天皇が代替わりをすると
 「伊予」は職に留まるが
 「大御乳人」は職を退いた
 それ以外の命婦は
 「上野・越後・能登」
 といった国名で呼ばれ
 伊予や大御乳人を補佐するとともに
 当時の命婦の職務
 朝の天皇御座所の清掃
 天皇の食事の補助
 夕方の天皇皇后の入浴補助を行った
 ↓↑
 『日本書紀』
 「崇神天皇八年十二月二十日
  垂仁天皇二十五年二月八日の条に
 「大夫」の文字がある
  が
 「大夫」
  は律令制度における官位の呼称で
  律令制が確立される以前の
  崇神・垂仁天皇の代に
  「大夫」という呼び方や官職はなかった・・・
 『日本書紀』編纂時の
 執筆者が加えた文飾?
 大臣や側近の意味で使用
 ↓↑
 時代が下って
 「大夫」
 五位の通称
 転じて身分のある者への呼びかけ
 名の一部
 名誉的な称号として
 「大夫(太夫)=たゆう」を称するようになった
 ↓↑
 伊勢神宮の神職の
 権禰宜が五位に叙せられ
 神職
 後に神職でも下位の者での
 「御師」・・・オンシ
 を
 「太夫」
 と呼ぶようになった
 ↓↑
 江戸時代の武家
 家老職=太夫
 と呼ぶことがあった
 ↓↑
 芸能
 里神楽
 太神楽
 の長を
 「太夫」と称した
 ↓↑
 能楽
 猿楽座(座)
 派の長(観世太夫など)
 を指し
 古くは
 「シテ」の尊称として使用
 ↓↑
 浄瑠璃
 江戸時代以降
 音曲を語る者
 その名の一部に用いる
 (竹本義太夫・女性には用いない)
 ↓↑
 歌舞伎
 江戸時代
 歌舞伎の一座の
 「座元=太夫」
 座元の息子や跡継ぎを
 「若太夫」
 「立女形」の尊称
 ↓↑
 遊廓
 江戸吉原
 京島原大坂新町
 「官許の遊女」
 で最高位にある者への呼称
 「松の位」とも呼ばれ
 その名の一部にも用いられた
 「夕霧太夫
  吉野太夫
  高尾太夫
  など」
 宝暦四年(1754年)
 廃止され
 江戸・吉原では以後の名称は
 「花魁(おいらん)」
 に変わったが
 京・島原、大坂・新町では
 「太夫」の名称が残り
 嶋原では現在も
 数名の「太夫」が存在・・・「遊女」?
 ↓↑   ↓↑
  作物所(つくも-どころ)
      つくも (福井市) - 福井県福井市の地名
      つくも (長崎市) - 長崎県長崎市の地名
      つくも町 - 広島県安芸郡海田町の地名
      石川県鳳珠郡能登町付近にある九十九湾
       かつて運行されていた列車名」     
     「九十九髪(つくもがみ)」の略」
     「植物フトイ(太藺・莞)の古名
      抽水性多年草(和名抄)」
     「八十八(やそや)」
 ↓↑    ↓↑
 作物所(つくも-どころ)
 作物所
 平安時代に成立した天皇の家政機関の1つ
 天皇・皇后・東宮などが
 宮中で用いる調度品(銀器・木器など)を
 製作する「所」
 令外官の一つ
 職員には
 別当・預 ( あずかり)・内竪 (ないじゅ)・冶師
 蔵人頭を別当に補す
 作物司 (つくもづかさ)
     九十九・津雲・津久茂・津久毛
  ↓↑  ↓↑
  雑=杂(卆八・九十八)+隹
      九拾・・・杂⇔染⇔そめる=涅・初・襲
             色を襲(かさねる・龍+衣)
              踏襲=継=繼=蹈襲
 雜=卒(亠人人十)+八+隹=雜
     音人々乂(交・拾・足)
           捌 舊鳥(短尾の鳥)
   まじる・まぜる・ザツ・ゾウ
   卆=卒=襟元
   乱雑・粗雑・煩雑・雑炊・雑念・雑文
 ↓↑

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm


 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)  + (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
 ↓↑

 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

 ↓↑
 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8



 ↓↑
 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?



 ↓↑

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善行寺の「住魂鬼」

2025-01-31 03:03:56 | 古事記字源
 2025年1月31日・午前1時30分・金曜日・・・
 昨日の朝8時に起きて、窓の外はの天気はイイ・・・
 TVの天気予報での水曜日、木曜日の
 ドカ雪を覚悟していたが、
 この地域には雪が全然振ってこない・・・

 昼間・・・ウトウト・・・
 あっという間に今日なった・・・
 昼型人間になったと思っていたが
 今現在は
 夜型人間に戻ったみたい・・・
 PCの調子具合の速度ダウン
 予期していた
 「憂鬱な水曜日」は
 15日、22日の水曜ではなく
 「29日の水曜日」にやってきた
 明日は「2月1日」で
 PC速度は
 「イチ、ニッ、サン」
 と唱える呪文で検索画面が表示されるハズだが・・・
 節分はすぐやってくる・・・
 PCに「憑依したノロマ魂鬼」・・・?
 ↓↑
 鬼室集斯(鬼室福信の子、縁者
   集(隹+木)の斯(其+斤)・・・
 あんた、善行寺の「住魂鬼」なんだろう・・・?
 ブツブツヒトリボッチでナニ、呟いているんだか・・・
 陥没事故・・・
 28日午前9時50分ごろ
 埼玉県八潮市二丁目
 県道交差点で道路が陥没
 2トントラック1台が陥没穴に転落
 陥没は直径約10メートル
    深さ約10メートル
 29日午前1時10分ごろ
 クレーンでトラックを引き上げようとしていたが新たな陥没発生
 30日午前2時半過ぎ
 穴は更に拡大
 ↓↑

 百済における官位は達率
 日本亡命帰化後の
 官位は
 小錦下・学職頭)・・・学の職の頭
 小錦下 (ショウキンゲ)
 664年~685年までの
 冠位
 26階中12位
 上が 小錦中
 下が 大山上
 天智天皇三年(664年)二月九日
 「冠位26階の制」
 で
 「小花上」
 と
 「小花下」 の2階を
 「小錦上・小錦中・小錦下」
 の3階に改定
 ↓↑
 大化三年(647年)
 「小錦」
 という冠位があって
 大化五年(649年)
 小花上
 と
 小花下に分割され
 ↓↑
 小錦下などはその名を復活継承した
 ↓↑
 天武天皇十四年(685年)一月二十一日
冠位の命名方法が一新し廃止
 身分的な
 「大夫の下限」で
 後の
 「従五位下」と同じ意味で使用
 ↓↑
大夫(たいふ・だいぶ・たゆう)
 古代中国における身分呼称
 周代~春秋戦国時代
 身分呼称
 領地を持った貴族(王族・公族も含む)
 ↓↑
 大夫は
 卿の下位
 士の上位
 周代
 周王室
 および
 諸侯に仕える小領主は
 大夫
 その上級が
 卿と呼ばれ
 国政に参加
 諸侯が横暴な場合
 大夫らにより追放されることもあり
 主君を脅かし得る地位を得るようになった
 ↓↑
 後代
 大夫の中に衰退する者も現れたが
 その後
 有力
 「農民層」
 が新たに
 「士」
 という階級を形成
 地位を得るようになった・・・
 ↓↑
 春秋時代
 晋
 地方県の「長官=大夫」
 後に諸国もこれに倣い
 中央集権的な
 郡県制へと移行
 ↓↑
 唐の官制で
 従二品
 より
 従五品下
 の総称
 ↓↑
 現在の中国語で
 「医者(:zh:大夫)」の呼称
 ↓↑
 日本
 「太夫(たゆう)」
 とも表記
 律令制で
 太政官においては
 三位以上
 寮においては
 ↓↑
 寮(リョウ・つかさ)
 律令制における役所の種類
 そこで働く官司たち
 ↓↑
 古代中国
 周朝の
 卿事寮(ケイジリョウ)=立法行政を担う機関
 太史寮(タイシリョウ)=宮廷内の祭祀を司った機関
 ↓↑
 日本
 寮
 職や司と共に主に
 各省
 中務省
 式部省
 治部省
 民部省
 宮内省
 のもとで「事務」を行った
「散位寮」は廃止
 散位(サンイ・サンニ)=散官
 位階のみで官職を持たないもの
 京官・外官
 文官・武官
 の別があり
 散位の大半は退職者
 五位以上の散位は
 散位寮に長上(常勤)し
 六位以下のうち
 在京のものは
 散位寮に分番(交替勤務)し
 他は国府に分番し
 他の官司の
 手伝い、使者としての事務を行う
 武散位(武官の散位)は
 兵部省の管理をも受ける
 ↓↑
 四度使(よどのつかい)
 の一つ
 朝集使が
 在京中のときはその管理
 寛平八年(896年)
 式部省に併合
 以後散位の事務も
 式部省で行われた
 ↓↑
 寮の職員
 左・右馬寮
 左・右兵庫
 独立した寮もある
 左・右兵庫は
 普通、「寮を語尾」につけない・・・?
 ↓↑
 大寮
 小寮
 職員数や官位によって
 さらに
 2等級に分類
 ↓↑
 四等官
 基本職員
 ↓↑
 頭(長官)
 助(次官)
 允(判官)
 属(主典)
 ↓↑
 大寮の官位
 頭(従五位上)
 助(正六位下)
 大允(正七位下)
 少允(従七位上)
 大属(従八位上)
 少属(従八位下)
 ↓↑
 小寮の官位
 頭(従五位下)
 助(従六位上)
 允(従七位上)
 大属(従八位下)
 少属(大初位上)
 ↓↑
 寮一覧
 大寮
 大舎人寮(中務省)・・書記記録
 ↓↑
 図書寮
 ↓↑
 内匠寮・・・・・・土木建築
 ↓↑
 大学寮(式部省)・・文部省
 ↓↑
 雅楽寮(治部省)・・音楽
 ↓↑
 玄蕃寮
 ↓↑
 諸陵寮・・・・・・墳墓管理
 ↓↑
 主計寮(民部省)・・税務
 ↓↑
 主税寮・・・・・・大蔵省
 ↓↑
 木工寮(宮内省)
 ↓↑
 左・右馬寮(独立)
 ↓↑
 左・右兵庫(独立)
 ↓↑
 兵庫寮(独立)
 ↓↑
 斎宮寮(独立)
 ↓↑
 少寮→大寮
 縫殿寮
 内蔵寮
 ↓↑
 小寮
 陰陽寮(中務省)
 散位寮(式部省)
 大炊寮(宮内省)
 主殿寮
 典薬寮
 掃部寮
 ↓↑
 四位以上
 中国(日本)以下の
 国司においては
 「五位以上」
 の官吏の称
 時代が下ると
 「五位の通称」
 転じて
 身分のある者への呼びかけ
 人物の呼称
 ↓↑
 朝鮮
 『魏略』の逸文
 「箕子(キシ=季氏・起始)」
     岸氏
 竹の其の子
 ・・箕乃・観諏
   其=甘+ー+ハ
     甘(あまい
     甜・天意・海女意・贏)
 筑紫・都築・土筆・・・美濃・三野
 ↓↑
 「箕子(キシ)」
  殷王朝の政治家
 「文武 丁」の子
 「帝  乙」の弟
 「帝  辛(紂王)」の叔父
 「箕の国」に封じられたので
 「箕子」と呼ばれる
 名は
 「胥余」・・・
 朝鮮で
 「箕子朝鮮」建国
 『史記・宋微子世家』
 「武王 既 克殷
  訪問 箕子
  於是 武王 乃
  封 箕子・・・箕子=竹+其+ー+了
    於 朝鮮…」
 「殷」王朝出自の「中国人≠漢人」
  殷=㐆+几+殳
    白+勹+几+又
   =㐆=イン
      帰る・すがる・帰依する
      身をかえす・からだの向きをかえる
  蒑=艹+殷=イン・オン
    野菜の名・草が青々としている
  溵=氵+殷=イン・オン
    川の名
  慇=殷+心=イン
    いたむ・憂える・心を痛める
    ねんごろ・丁寧・心がこもっている
 慇慇(インイン)
 慇懃(インギン)
 慇憂(インユウ)
 慇懃無礼(インギンブレイ)
 馬鹿慇懃(バカインギン)
 慇懃(インギン)を通じる
 慇懃(インギン)を通ずる
 磤=石+殷=イン
   雷鳴・雷の轟き響く音
   獅子の咆哮
   磊(ライ)
  ↓↑
 「箕子」・・・竹+其(甘+一+八)
 朝鮮人に  アマいのイチを捌(さばく)
 礼儀・農業・田作・養蚕・織機
 を教え
 犯禁八条を施行し民を教化
 朝鮮人は、箕子を崇拝し
 祠廟を建て
 四季を通じて祭祀をおこなった
 ↓↑
 紀元前数世紀ころ
 朝鮮半島
 「箕国」は当時の
 「殷の最北端」
 北方異民族(土方・鬼方・艮・丑寅)の地域で
 箕子は畏服させることに成功
 功績を認められて中央に戻り
 「帝 乙・帝 辛」
 に仕えた
 農事・商業・礼法などに通じ
 箕子が政治を執っている間に
 殷は大いに栄えた
 ↓↑
 「帝辛」が象牙の箸を作ったと聞き
 贅沢が止められなくなってしまうと
 危惧(憂い)し、贅沢をやめるように諫言
 ↓↑
 「帝辛」が暴君化すると
 「比干」とともに「帝辛」を諫めるが
 聞き入れらず「殷」の行く末を憂え
 発狂し、「帝辛」に幽閉された
 ↓↑
 武王(周王)が
 殷を倒すと
 箕子を招聘し
 政治について問い
 該博さに驚嘆し
 武王は
 箕子を
 崇めて家臣とせず
 朝鮮に封じた
 「朝鮮侯 箕子」
 殷の遺民を率いて東方へ赴き
 礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め
 「犯禁八条」
 を実施して民を教化し
 「箕子朝鮮」を建国
 ↓↑
 「箕子」
 が
 「武王」
 に
 「洪範九疇」
 を教え
 後の
 「李氏朝鮮」
 で中華文明の保持者
 朝鮮の先王の道の創始者として
 祀られ聖人となる
 特に
 「平壌(ピョンヤン・ヘイジョウ)」
 は箕子朝鮮の都として認識され
 平壌に殷代の田制である
 「井田制の痕跡」があり
 「箕子」が残したことだと認識
 李氏朝鮮初期から
 箕子を祀る祠堂があった・・・
 夷狄である古朝鮮が
 箕子から犯禁八条を教えられ
 箕子の教えの
 「洪範九疇」
 を君・臣が誠に受け容れて実行するならば
 李氏朝鮮の儒学者の考え方えおなり
 小中華思想の根拠となった
 李氏朝鮮の実学者である
 「安鼎福」
 は
 「中華文明=礼・文」
 の保持者として箕子を崇め
 箕子の「礼・文」を継承した朝鮮こそが
 「中華」であると主張・・・
 「箕子の子孫」
 「準王」は
 「衛満」
 に王権を簒奪され
 南走して
 「辰国」
 に行き
 韓王となった
 ↓↑
 箕子の歴史的背景
 中国古代の
 殷・周金属文化圏では
 紀元前10世紀以後
 山東の
 「斉の箕族」
 が
 殷・周の権威のもとで
 朝鮮西部に接する
 「遼寧」
 で活動し
 「燕・斉人」
 の東来は、古くから存在
 北京市
 順義県
 河北省東部
 遼西大凌河
 で
 「其」や「箕侯」という
 銘の西周初の
 箕子の時代の青銅器が多数発掘
 箕子と関係づけられる説
 ↓↑
 「君朝鮮」
 「箕子朝鮮」
 の二つの伝説は
 数千年に渡って多くの軋轢
 ↓↑
 麦秋の嘆
 箕子は周に参朝
 殷の廃墟、破壊された宮殿跡に
 麦が生い茂っているのを見て
 感傷に堪えず号泣しようとしたが
 周への気兼ねから
 「麦秋の詩」
 を作って詠歌し
 「殷の民」
 はこの詩を聞いて、みな涙を流し
 亡国の嘆きを
 「麦秋の嘆」
 と呼ぶようになった
 ↓↑
 麥秀歌
 「麥秀漸漸兮,禾黍油油
  彼 狡僮(帝辛)兮,不與我好兮」
 ↓↑
 「礼治」の典型を示し
 「犯禁八条」を制した箕子は
 周室に連なる政治家と登場したが
 周室こそが儒教における理想国家であり
 周室に由来する箕子が
 儒教の系譜において歴史的息吹を与えらた
 しかし
 箕子は「周人」ではなく
    「殷」一族
 華夷論からすれば「夷」
 「箕子」
 「殷の文武 丁の子」
 「殷 帝  乙の弟」
 「殷 帝  辛の叔父」
 『史記』殷本紀
 「箕子」
 は殷室直系の一族で
 甥である「殷 帝辛」に恐怖し
 自ら狂人を装って「殷 帝辛」から遠ざかり
 「周 武王」が「殷 帝辛」を伐つと
 箕子は釈かれた
 「箕子」の高潔さは
 『史記・宋微子世家』
 で詳らかであり
 「周 武王」
 もこれを知り
 高く崇めるところであり
 「周 武王」
 に対して
 「天帝が禹に伝授したと言われる
 『洪範九疇』によって
  人の倫を確立しなければなりません」
 と説き
 「周 武王」
 は
 『洪範九疇』なる儒家思想を
 「周公旦」からではなく
 「箕子」から教わり
 「周公旦」
 が
 「魯」
 に封じられた時期に
 「箕子」
 は朝鮮に封じられ
 「周公旦」
 が認識していない
 儒家思想を朝鮮に導入
 ↓↑
 朝鮮政治思想の嚆矢を
 「箕子朝鮮」の始祖
 「箕子」の
 「犯禁八条」
 にある・・・
 ↓↑
 李氏朝鮮の
 「張志淵」
 は、朝鮮を征服した後
 箕子朝鮮を建国した中国
 「殷王朝の政治家箕子」
 について
 ↓↑
 「檀君之季,殷太師 箕子 避周以來,
  以 洪範九疇 之道,
  教化 東方」
 ↓↑
 張志淵
  朝鮮儒教淵源
 「洪範者 即 易象之原理,
  而 儒教 之宗祖也,
  自古 聖帝哲王 修身 齊家 治國
  天下之大經大法,
  皆具 於 洪範一書」
 ↓↑
 朝鮮儒教淵源
 「箕子」
 「洪範九疇」は『易』の原理
  儒教の根本の教義
 「箕子」はそれを
  殷王朝を滅ぼし
  周王朝を建国した
  周武王に伝えるとともに
  朝鮮にももたらし
 「八條之教」
  によって朝鮮人を教化したえと
 『史記』に記されている
  張志淵はそれを
 「洪範九疇」とみている・・・
 ↓↑
 李氏朝鮮
 初代国王
 「李成桂」
 が
 1392年
 明が冊封した
 高麗王
 「禑王
  昌王
  恭譲王」
 を廃位して高麗王位を簒奪し
 「高麗王」
 を称した後
 明に使節を送り
 「権知
  高麗国事としての地位を認められたが
  洪武帝は
  王朝が交代したことで
  国号を変更するよう命じた
  李成桂は
  重臣達と共に国号変更を計画し
  朝鮮
  と
  和寧
  の二つの候補を準備し
  洪武帝に選んでもらった
  和寧は
 「李成桂」
  の出身地名で
  北元の本拠地
  カラコルムの別名でもあったので
  洪武帝は
  前漢の武帝にほろぼされた
  王朝(衛氏朝鮮)の名前であり
  平壌付近の古名である
 「朝鮮」を選んだ
  そして
 「李成桂」
  を権知朝鮮国事に封じ
  朝鮮は正式な国号となり
  朝鮮は
  衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮
  の正統性を継承する意味があり
  国号変更以前から
  それを意識する儀式が行われていた
  ↓↑
  新王朝が擬定した朝鮮の国号
  朝鮮初の
  檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した
  箕子朝鮮を継承する意図があり
  首都が
  漢陽に置かれたのは
  檀君朝鮮
  と
  箕子朝鮮の
  舞台であったため
  檀君と箕子を直結させ
  正統性の拠り所にした・・・
  「洪武帝」
  は、新王朝が箕子の伝統を継承する
  「忠実な属国」
  となり
  自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような
  賢君になりたいと祈念
 ↓↑
 李氏朝鮮
 太祖
 李成桂
 建国前に
 北方民族を懐柔するための
 榜文のなかで
 「堯と並び立つ武王が
  箕子を朝鮮に封じ
  遼河の西の疆域を下賜した」
 と主張
 「箕子,始興教化之君」
 を語り
 「李成桂」
 は祭祀問題について
 「箕子が朝鮮に封じられ
  文化の礎となった
  前朝(高麗王朝)の始祖は
  三韓統一に尽力した人物なので
  祭田を設けて祭祀をおこなうのが妥当」
  ↓↑
 「箕子」
 の子孫は朝鮮侯を世襲
 東周が衰退すると
 王を僭称し
 周王朝を尊んで
 燕を攻撃しようとしたが
 「大夫の礼(人名)」
 が朝鮮王を諌め
 王は攻撃を中止し
 燕に「礼」を派遣し
 燕は朝鮮を攻めなかった
 衛氏朝鮮
 「稗王」
 「太子」が
 おり
 「大夫」
 「大臣」
 「相」
 「将軍」
 が合議で国家運営
 ↓↑
 日本の
 「大夫」
 『後漢書・東夷伝』
 『魏志・倭人伝』
 中国へ派遣された倭人の使者が自ら
 「大夫」と称していた・・・
  ↓↑
 「大夫」
 日本の律令制度に設定
 『公式令』の規定で
 太政官
 三位以上の官吏
 寮
 四位以上の官吏
 「中国以下の国司」
 五位以上の男性官吏を指す称号
 大夫は「だいぶ」と読み(東宮大夫)
 単に五位を意味する場合には
 「たいふ」と読み分ける・・・
 訓読み
 「まえつきみ」・・・
 五位以下相当の官職者が
 五位に叙せられた時
 官職の下に
 「大夫」と付記
 五位にありながら
 「散位=無官」の者は
 「無官大夫」と称され
 従五位下の者は
 唐名で
 「朝散大夫(チョウサンタイフ)」
  唐の
  従五品下の雅名
 「百済鎮将 劉仁願
  遣二
  朝散大夫 郭務悰」
  ↓↑
  日本
  従五位下の唐名・古代の官職・従五位下の別称
  朝散大夫=隋・唐代の従五品下の雅称
       従五位下の唐名
  ↓↑
  朝散郎=チョウサンロウ(古代の官職)
      古代の官職・従七位上の別称
      従五位下の唐名=太夫
 ↓↑
 女官・・・音名の咸(関)
 五位・・・語彙・語意・語異・呉委
 以上・・・移譲・委譲・移乗・異常
囲繞=イジョウ・イニョウ
 まわりを取り囲むこと
 ぐるっと・ぐるり
 囲い・囲み・囲む・囲う
 包囲・遠巻き・取り巻く
 =囲遶
  仏辺、旋繞の意
  仏(象)に右肩を向けて
  右回りに回って敬礼すること

 内侍司(ないしのつかさ)
 日本の律令官制における役所の一
 令によって定められた
 後宮十二司の一
 女官のみによって構成

 職掌
 内侍司の女官
 天皇に近侍し
 奏請と伝宣(内侍宣)
 宮中の礼式等を司った
 天皇の秘書役
 学問・礼法に通じた有能な女性

 三種の神器のひとつ
 八咫鏡を模した神鏡が
 温明殿(内侍所)に安置
 この神鏡を守護捧持する
 神鏡を
 「内侍所」
 とも呼ぶ

 内侍司の女官
 平城天皇
 大同二年(807年)
 大幅に相当する位が引き上げられ
 「薬子の変」
 の遠因ともなった・・・

 平安時代半ば以降
 後宮十二司の組織が再編
 内侍司が唯一の
 後宮官司となる
 「長官」の
 「尚侍」
 は皇妃に準ずる
 「次官」の
 「典侍」
 も天皇の
 「侍妾」
 としての性格を備えていた・・・

 構成
 尚侍(ないし・ショウジ)
 四等官における
 内侍司の長官(カミ)に相当
 准位(男性官人の官位相当に相当する)は
 従五位
 のち
 従三位
 定員は2名
 多く摂関家の娘が選任
 元来
 奏請・伝宣の職掌は
 尚侍のみのもので
 典侍以下が扱うことはできなかった
 10世紀末頃
 皇妃に準ずる扱いとなり
 実際の女官としての業務は
 典侍以下が担った
 平安時代後期
 ~
 鎌倉時代
 尚侍は任命されなくなった

 典侍(ないしのすけ・テンジ)
 四等官における
 次官(スケ)に相当
 准位は
 従六位のち
 従四位
 定員は4名
 大納言・中納言を中心に
 公卿の娘が多く選ばれた。
 掌侍(ないしのじょう・ショウジ)
 四等官における判官(ジョウ)に相当
 准位は
 従七位のち
 従五位
 定員は正官4名
 権官2名の計6名
 通常「内侍」ばこの「掌侍」のことを指す
 天皇移動の際に
 剣璽を捧げ持ち随行
 第一位
 上臈の掌侍を
 「勾当内侍(コウトウのナイシ)」
 または
 「長橋局(ながはしのつぼね)」
 という
 尚侍や典侍が形式化した後
 内侍司の実務は
 奏請・伝宣
 を含め
 「勾当内侍」
 を中心に取り仕切られ
 江戸時代になると
 渉外においては制度上は
 「上臈」の「大典侍」よりも権力をもった
 「女孺(にょじゅ・にょうじゅ)」
 内侍司の下級女官
 定員は100名
 掃除などの雑務一般にあたった
 ↓↑
 女房
 命婦
 更衣
 女蔵人
 東豎子
 ↓↑
 命婦
 ~
 の者
  者=耂+日
 ↓↑  土+㇒+日
    十+一+ノ+日
 ↓↑ 者=耂+丶+日
=シャ・ハ・もの
  「耂=老=耂+匕(ノ+乚)
         (匕・七・匕(匙)
  𢍺?    ヒ=牝=女)
 戈=弋+ノ+丶
   弋=𢍺
  =𢍻=丂+弋
     丂=コウ
      =考=土+ノ+丂
      =たくみ
      =巧=エ+ー+勹
     ㄅ・ㄣ(コウ)
     丂=ー+勹
 =ー+ノ+𠃌
          𠃌(刀の刃)
    司=𠮛+𠃌
   「𠮛=𠫔=ー+ム=旨」
     𠮛=旨=「匕・匕・七」+日+𠃌
       刀=𠃌+ノ
       =⺈=刂
        ⺈=彑・彐
          気がさまたげられる?
 弋=𢍺=𢍼?・・・戈
 弋=𢍺
  =ヨク [漢]・イキ [呉]
   いぐるみ
  =ー+㇂+丶=七+丶・・・
  =ヨク・イキ
   いぐるみ=鳥をとる道具
   弋射・遊弋
   ぐるぐる動き回る
   うかぶ・くい・くろい・とる
   上端に
   又(丫=ア・Y=ワイ)
   のついた棒杙(ぼうぐい)
   の形をした矢に
   紐をつけて放つ
   弋射(ヨクシャ)の
   獲物をからめとる意
ー↓↑ーー
干支歴
 命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
 ↓↑
 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
 ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
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