悪魔の数字・・・666・・・999・・・天使の数字
悪魔の数字って?
6×6×6=216・・・弐百壱拾六=貮(貳)陌(佰)壹足陸
666=六六六=亠+八+亠+八+亠+八
亠=音・八=捌
9×9×9=729・・・七百弐拾六=漆陌(佰)念陸
999=九九九=丿+⺄+丿+⺄+丿+⺄
三(サン)丿(ㇸツ・ヘチ)
三(サン)⺄=⼄・⺂・⺃
オツ・イツ・イチ
きのと・おと・・・音
・・・乙姫・乙鳥・乙巳(ゐっし)
・・・だからナニ・・・
ーー↓↑ーー↓↑ーー
「ウィリアム・アダムス(William Adams)
1564年9月24日 ~1620年5月16日(元和6年4 月24日)
1600年豊後に漂着、以後
徳川家康に外交顧問として仕えた
イングランド人航海士・ 水先案内人・貿易家
三浦 按針」
↓↑
「ミシェル・ノストラダムス(Michel Nostradamus)
1503年12月14日~1566年7月2日)
ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人・料理研究家」
「大予言者ノストラダムス=諸世紀」
↓↑
ミカレトゥス・デ・ノストラ・ドミナ
(Michaletus de Nostra Domina)
1503年12月14日
1566年7月2日未明
1559年10月(55歳)~1569年
丁 巳 偏印
癸亥(戊甲壬)偏財・正財 胎⇔丙┏寅 印綬
癸亥(戊甲壬)偏財・正財 胎⇔甲┗午 正官
己丑(癸辛己) ・比肩 墓⇔乙 亥 偏官
庚午(丙 丁)傷官・比肩建禄⇔壬 午 正財
午未空亡
↓↑
アヴィニョン大学在学
1520年に中断
ペスト流行の影響で
アヴィニョン大学をはじめとする
南仏の大学の講義が休講
1521年~1529年
各地を遍歴
薬草の採取、知識の収集
1521年~約8年の遍歴
1529年10月23日
モンペリエ大学医学部に入学
薬剤師の資格を取得
後
医学博士号を取得・・・大学から除籍?
1531年
アジャンの
アンリエット・ダンコス
と結婚
1534年頃
妻子は亡くなった
死因にはペスト・・・
↓↑
1544年
マルセイユの医師
ルイ・セールに師事
翌年には3人の囚人の診察
↓↑
1546年
南仏の都市
エクスでペストが流行し
治療のために同市へ
1546年6月
ノストラダムスに契約金を支払った
↓↑
鼠が
ペストを媒介することに気付き
鼠退治を命じた
伝統的な治療法である
瀉血を否定し
アルコール消毒
熱湯消毒
酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め
キリスト教では忌避されていた
火葬も指示した
↓↑
『化粧品とジャム論』で
その時に用いた治療薬の処方
後ノストラダムスは
プロヴァンス州サロン・ド・クロー
(サロン=ド=プロヴァンス)
に落ち着き
1547年11月11日
未亡人の
アンヌ・ポンサルドと再婚
ヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナ
などを巡回・・・
↓↑
ノストラダムスはこの旅行中
ある修道士たちの一団に出会った時に
そのうちの一人の前で恭しく跪いた上で
その相手が将来ローマ教皇となることを示唆
その修道士
フェリーチェ・ペレッティは
ノストラダムスの死から20年程のち
シクストゥス5世として即位
彼の予言が証明された・・・
↓↑
1550年代
サロンの名士として
公共の泉の碑銘を起草
クラポンヌ運河の開削事業に出資
翌1年間を予言した
暦書(アルマナック)の刊行
予言者としての著述活動
より先の未来を視野に入れた著作
『予言集』の執筆
1555年5月
初版
『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』
4巻の途中までの不完全なもの
(完全版は全10巻)
ではあったが、大きな反響・・・
↓↑
1555年7月
国王アンリ2世
カトリーヌ・ド・メディシス
からの招待
翌月
王宮でのた謁見
1556年
カトリーヌは
ノストラダムスを個人的に呼んで
自身の子供たちの未来を占わせた
四人の御子息は
みな王になるという答えを得た
四男エルキュールが早世し外れた
「御子息から四人の王が生まれる」
という予言だった
三男アンリは
フランス王となる前に
ポーランド王となっていたため
正確な予言だった・・・
↓↑
1557年
『ガレノスの釈義』出版
1559年の処方箋も現存
↓↑
1559年6月30日
アンリ2世の妹
マルグリット
と娘
エリザベート
がそれぞれ結婚することを祝う宴の
馬上槍試合で
アンリ2世は
対戦相手の
モンゴムリ伯の槍が
右目に刺さって致命傷を負い
7月10日に没した
1556年1月13日付けで
国王と王妃への献呈文を
1557年向けの暦書に収録
カトリーヌ宛ての献辞では
1559年
を
「世界的な平和(la paix universelle)」
の年と予言
晩年
アンリ2世亡き後に王位に就いた
フランソワ2世は病弱で
1560年後半の宮廷で
ノストラダムスの予言を引用し
王が年内に没すると噂されていた
フランソワ2世はこの年に没した
ーー↓↑ーー↓↑ーー
サー・アイザック・ニュートン
( Sir Isaac Newton)
1642年12月25日~1727年3月20 日
グレゴリオ暦
1643年1月4日~1727年3月31日
↓↑
1665年~1666年
万有引力
二項定理を発見
微分および微分積分学へと発展
ペスト流行による故郷での
長期休暇と三大業績
ペスト
1666年ヨーロッパで蔓延・・・
林檎も木から落ちてきた・・・萬有引力・・・
↓↑
コレラ(Cholera、虎列剌)
コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症
元禄十二年頃の記録に
「古呂利・虎狼痢・虎狼狸」
脱水が激しく
「暴卒病(1822 年)、暴瀉(1858 年)、暴瀉病(1863 年)」
とも・・・現代でも蔓延流行・・・
「黒死病(Black Death)」
癙=疒+鼠
ペスト
Yersinia pestis(ペスト菌・ドイツ語 Pest, 英語 plague)
による感染症
ペスト菌を持つ
ネズミやノミに咬まれることで
ヒトに感染
空気感染もする・・・
・・・「中世欧州を襲ったペストは、ネズミではなく
人間に寄生する
ノミ(蚤)やシラミ(虱)によって
広がったという最新研究結果」・・・?
紀元前429年
ペロポネソス戦争の最中
アテナイで多数の犠牲者
「アテナイのペスト」
記録に残る症状の分析により
痘瘡(天然痘)
or
発疹チフス
で
ペスト説は否定・・・
歴史家トゥキディデス自身がかかり
回復した記録から判明
(激しい頭痛、目の炎症、喀血
咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん
嘔吐、下痢、高度の発熱)
↓↑
ローマ帝国
165年~180年に流行
感染者の25~33%が死亡
350万~700万人ほどが死亡
「アントニヌス帝
(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)
のペスト」・・・
↓↑
東ローマ帝国
541年~542年
(or542年~543年)
コンスタンチノープルで流行
全人口の40%が死亡
コンスタンチノープル市内では
毎日10,000人が死んだ
「ユスティニアヌスの斑点」
と呼ばれている
ユスティニアヌス自身も
感染したが快復
↓↑
1340年代からの流行
アジア、北アフリカ
中東、ヨーロッパ
に広がり
当時の人口の半分
3,000~5,000万人
(それ以上)が死亡した・・・
↓↑
14世紀
ペスト大流行
世界で1億人ほど死亡
当時の世界人口を
4億5000万人~3億5000万人にまで減少
ヨーロッパで
1348年~1420年
ヨーロッパの全人口の
30%~60%が死亡
村の中には人口の80%が死亡
↓↑
皮膚が黒くなり死亡
「Black Deth 黒死病」
1991年以降
ヒトペストは増加
1996年の患者3,017人(死亡205人)
1997年の患者5,419人(死亡274人)
2004年~2009年
世界全体の患者数は12,503人
死亡者は
アフリカ、アジア、アメリカ
の16ヶ国から843人
ーー↓↑ーー↓↑ーー
216年2月6日
干支 : 丙申
日本
神功皇后摂政十六年一月一日・・・
丙┏申(己壬庚)正官・偏印帝旺
庚┗寅(己丙甲)劫財・偏印 胎
辛 丑(癸辛己) ・食神 養
甲 午(丙 丁)正財・偏官 病
辰巳空亡
皇紀876年
中国
後漢 : 建安二十一年
朝鮮
高句麗 : 山上王二十年
新羅 : 奈解王二十一年
百済 : 仇首王三年
曹 操 魏王となる
武将・政治家・詩人・兵法家
字 孟徳(モウトク)
幼名 阿瞞(アマン)・吉利
豫州
沛国
譙県(安徽省亳州市譙城区)出身
↓↑
729年
干支 : 己巳
日本
神亀六年、天平元年
皇紀1389年
中国
唐 : 開元十七年
↓↑
長屋王の変
光明皇后が皇后
唐、大衍暦が使われ始める
↓↑
誕生
石上 宅嗣、貴族(~781年)
行賀、僧(~803年)
↓↑
死去
3月13日(神亀六年二月九日)
小治田 安萬侶、官僚
↓↑
3月16日(神亀六年二月十二日)
長屋王(676年/684年~)
↓↑
3月16日(神亀六年二月十二日)
吉備内親王、長屋王の妃
↓↑
9月6日(天平元年八月九日)
石川(蘇我)朝臣 石足(いしかわ の いわたり)
(667年~)
大紫 ・蘇我 連子の孫
少納言・蘇我 安麻呂の子
官位は従三位・左大弁
↓↑
石川年足(としたり)
石川豊成(とよなり)
石川公成?
の父
↓↑
叔母の
蘇我 娼子
は
藤原不比等
に嫁いで
藤原武智麻呂
藤原房前
藤原宇合
を産み
石足は藤原四兄弟と従兄弟
737年
天然痘の流行(天平九年)
藤原四兄弟全員死亡
9人の公卿の内四兄弟で4人を占め
↓↑
729年~737年
藤原四子政権
ー↓↑ーーー
666年=六六六=亠+八+亠+八+亠+八
・・・三亠弐拾四
三音念肆
インネンㇱ
干支 丙寅
日本
天智天皇 五年
皇紀1326年
中国
唐 乾封元年
↓↑
唐の
高宗
泰山で
封禅の儀
↓↑
高句麗
淵蓋蘇文
死没
内紛
↓↑
死去
2月2日(天智天皇4年12月23日)
定恵(643年~)
ー↓↑ーーー
令狐 徳棻(レイコ トクフン)
(583年~666年)
唐の歴史家
二十四史の一
『周書』の主編者
本貫は
敦煌郡
效穀県
一族は
宜州華原県に住む
祖父
令狐 整
は北周の大将軍
父
令狐 熙
は
隋の鴻臚少卿・・・外国来賓の応接を担当
「鴻臚館」
↓↑
徳棻・・・棻=芬+木
艹+分+木
艹+八+刀+木
↓↑ 香木の名
は
隋の
大業末年
薬城県令
隋末の戦乱を避け
職につかなかった
↓↑
李神通(リ シンツウ)・・・神通?
577年~630年
唐の宗室
鄭孝王
李亮(李虎の八男)の子
唐の高祖
李淵・・・祖父=李 虎(リ コ)
↓↑ ?~大統17年(551年)?
西魏の武将
字は文彬
代郡武川鎮
(内モンゴル自治区武川県)
の出身
父は李天錫
母は賈氏
子は李昞
↓↑ 孫は唐の太祖「李淵」
の従弟
諱は寿
字は神通
李神符の兄・・・神符?
が
太平宮に拠って
総管を自称
徳棻
はその下で
記室参軍
李淵
が長安に入ると
徳棻
は
大丞相府記室
↓↑
618年(武徳元年)
唐建国
徳棻
は
起居舎人・・・起居=キイ=key舎人?
高祖
李淵
の側近となる
↓↑
622年(武徳五年)
秘書丞に転じ
陳叔達
らとともに
『芸文類聚』の編纂
梁・陳・北斉・北周・隋
の正史の修訂を奏請して認められ
陳叔達
庾倹
らとともに
北周の歴史書を編纂
↓↑
629年(貞観三年)
太宗
李世民から
徳棻
と
岑文本・・・岑(山+今)の文の本
ミネ 纂 現今の文本?
に
周史編纂・・・周回、周知の歴史編纂?
を
重ねて命じられた
↓↑
632年(貞観六年)
徳棻
礼部侍郎・兼修国史
彭陽県男爵位
↓↑
636年(貞観十年)
『周書』完成の報労
↓↑
637年(貞観十一年)
新礼完成の功で子爵
『貞観氏族志』編纂を完成
↓↑
641年(貞観十五年)
太子右庶子
↓↑
643年(貞観十七年)
皇太子
李承乾・・・李の承の乾・李承晩?
が廃位
徳棻
は連座し
官爵を剥奪
↓↑
644年(貞観十八年)
雅州・・・鴉州=からす
↓↑ =烏・香良洲・韓州?
隋朝成立し
604年(仁寿四年)
雅州が設置
607年(大業三年)
郡制施行で
雅州は
臨邛郡と改称
9県を管轄
↓↑
沈黎鎮(シンレイ-チン)
設置
管轄区域は
邛州(キョウシュウ)
↓↑
沈黎郡(シンレイ-グン)
新例 訓?
前漢および南北朝時代の一時期
四川省中部に設置
↓↑
四川省
北西は青海省
北は甘粛省及び陝西省
東は重慶
南は貴州省及び雲南省
西はチベット自治区
急峻な山岳地帯に位置
東部に四川盆地
温暖で肥沃な米作地
「天府之国」
中国最大級の湖
瀘沽湖を擁し
・・・瀘⇔盧(ロ)+α
濾(こす・濾過・濾紙)
鸕(う・鸕野讃良)
鱸(すずき)
櫨(はぜ・ます)
蘆(あし・葦)
髗=顱(かしら・こうべ)
艫(とも・へさき)
罏(かめ・香炉)
纑(かせ・糸車)
臚(はだ・肌)
瓐(たま)
黸(くろ・黒点)
矑(ひとみ・眸・瞳)
沽=あきなう・売買する
酒を売る人
大まかであらい・粗悪である
蝦(蛯・海老)・・・蝦夷
の一大産地
↓↑
2008年
アバ・チベット族
チャン族自治州
汶川県・・・汶=岷・渂・𣶌
(ウントン県)を震源
・・・汶=けがれ(穢れ)
はずかしめ(恥辱)
山東省を源とする川
四川大地震発生
↓↑
雅州
刺史(シシ)
として再起
公の事件のために
罪に問われて免官
太宗から
『晋書』編纂の命
房玄齢
の推薦により
徳棻
は編纂事業に参加
『晋書』が完成すると
秘書少監
↓↑
650年(永徽元年)
徳棻は
高宗から
律令の編纂を命じられ
再び
礼部侍郎
弘文館学士・・・弘文天皇=諱は大友or伊賀
大化四年
648年
~
天武天皇元年7月23日
672年8月21日
↓↑・・・「弘文館=世祖九年(1463年)
李氏朝鮮の
行政機関及び研究機関
正二品衙門・玉堂」
・・・「弘文館=寛永七年(1630)
林羅山が江戸上野忍岡に創立
元禄三年(1690)
五代将軍徳川綱吉が湯島に移転させ
昌平坂学問所となる」
↓↑
を兼ねた
太常卿に転じた
↓↑
653年(永徽四年)
国子監
祭酒に転じ
崇賢館学士を兼ねた
『高宗実録』三十巻を編纂
爵位は公
↓↑
660年・・・百済滅亡
↓↑
662年(龍朔二年)
徳棻は引退を許され
金紫光禄大夫の位
↓↑
663年・・・白村江の海戦
↓↑
666年(乾封元年)・・・戌亥を封ずる
死去・享年は84
諡は憲
↓↑
666年(宝蔵王二十五年)
淵蓋蘇文(ヱン ガイソブン)
・・・淵(ヱン・ふち)
蓋(ガイ・ふた)
蘇(ソ ・よみがえり)
文(ブン・ふみ・あや)
生年不詳?~666年(宝蔵王二十五年)
高句麗の
大莫離支(テマクリジ・宰相)・将軍
泉蓋蘇文=泉蓋金
↓↑
徳棻は
太宗の即位を奏請する書を募り
「宏文殿に
四部の書を聚めて
群書は二十余万巻」
(『唐会要』宏文館)
↓↑
「創修撰之源、徳棻より始まるなり」
(趙翼『二十二史箚記』)と評された
二十四史中で
徳棻の貢献
『梁書』『陳書』『北斉書』
『周書』『隋書』『晋書』
『南史』『北史』
の八部
ーーーーー
二十四史
司馬遷 『史記』
班固 『漢書』
范曄 『後漢書』
陳寿 『三国志』
房玄齢等 『晋書』
↓↑
沈約 『宋書』
↓↑
蕭子顕 『南斉書』
姚思廉 『梁書』
姚思廉 『陳書』
魏収 『魏書』
李百薬 『北斉書』
↓↑
令狐徳棻等『周書』
↓↑
魏徴
長孫無忌等『隋書』・・・隋書俀(イ妥)國伝
俀=タイ=他意・碓
耶靡堆國=邪馬臺國
堆⇔碓⇔推古
↓↑
李延寿 『南史』
李延寿 『北史』
↓↑
劉昫等 『旧唐書』
欧陽脩
↓↑
宋祁 『新唐書』
↓↑
薛居正等 『旧五代史』
欧陽脩 『新五代史』
↓↑
脱脱等 『宋史』
脱脱等 『遼史』
脱脱等 『金史』
↓↑
トクトア(モンゴル語 Toqto'a
中国語 遼王脱脱、? ~1328年)
チンギス・カンの弟
テムゲ・オッチギンの子孫
モンゴル帝国皇族
『元史』では
「遼王脱脱」
トクト(モンゴル語Toktogha
延祐元年(1314年)
~
至正15年12月8日(1356年1月10日)
元の権臣
字は大用
『元史』で「脱脱」
清代以降は「托克托」と記録
↓↑
宋濂等 『元史』
張廷玉等 『明史』
二十六史
柯劭忞等 『新元史』
趙爾巽等 『清史稿』
その他
班固・劉珍・蔡邕等
『東観漢記』
ーーーーー
・・・???・・・
シラベテも、しらべテモ・・・ドウドウ巡り・・・
悪魔の数字って?
6×6×6=216・・・弐百壱拾六=貮(貳)陌(佰)壹足陸
666=六六六=亠+八+亠+八+亠+八
亠=音・八=捌
9×9×9=729・・・七百弐拾六=漆陌(佰)念陸
999=九九九=丿+⺄+丿+⺄+丿+⺄
三(サン)丿(ㇸツ・ヘチ)
三(サン)⺄=⼄・⺂・⺃
オツ・イツ・イチ
きのと・おと・・・音
・・・乙姫・乙鳥・乙巳(ゐっし)
・・・だからナニ・・・
ーー↓↑ーー↓↑ーー
「ウィリアム・アダムス(William Adams)
1564年9月24日 ~1620年5月16日(元和6年4 月24日)
1600年豊後に漂着、以後
徳川家康に外交顧問として仕えた
イングランド人航海士・ 水先案内人・貿易家
三浦 按針」
↓↑
「ミシェル・ノストラダムス(Michel Nostradamus)
1503年12月14日~1566年7月2日)
ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人・料理研究家」
「大予言者ノストラダムス=諸世紀」
↓↑
ミカレトゥス・デ・ノストラ・ドミナ
(Michaletus de Nostra Domina)
1503年12月14日
1566年7月2日未明
1559年10月(55歳)~1569年
丁 巳 偏印
癸亥(戊甲壬)偏財・正財 胎⇔丙┏寅 印綬
癸亥(戊甲壬)偏財・正財 胎⇔甲┗午 正官
己丑(癸辛己) ・比肩 墓⇔乙 亥 偏官
庚午(丙 丁)傷官・比肩建禄⇔壬 午 正財
午未空亡
↓↑
アヴィニョン大学在学
1520年に中断
ペスト流行の影響で
アヴィニョン大学をはじめとする
南仏の大学の講義が休講
1521年~1529年
各地を遍歴
薬草の採取、知識の収集
1521年~約8年の遍歴
1529年10月23日
モンペリエ大学医学部に入学
薬剤師の資格を取得
後
医学博士号を取得・・・大学から除籍?
1531年
アジャンの
アンリエット・ダンコス
と結婚
1534年頃
妻子は亡くなった
死因にはペスト・・・
↓↑
1544年
マルセイユの医師
ルイ・セールに師事
翌年には3人の囚人の診察
↓↑
1546年
南仏の都市
エクスでペストが流行し
治療のために同市へ
1546年6月
ノストラダムスに契約金を支払った
↓↑
鼠が
ペストを媒介することに気付き
鼠退治を命じた
伝統的な治療法である
瀉血を否定し
アルコール消毒
熱湯消毒
酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め
キリスト教では忌避されていた
火葬も指示した
↓↑
『化粧品とジャム論』で
その時に用いた治療薬の処方
後ノストラダムスは
プロヴァンス州サロン・ド・クロー
(サロン=ド=プロヴァンス)
に落ち着き
1547年11月11日
未亡人の
アンヌ・ポンサルドと再婚
ヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナ
などを巡回・・・
↓↑
ノストラダムスはこの旅行中
ある修道士たちの一団に出会った時に
そのうちの一人の前で恭しく跪いた上で
その相手が将来ローマ教皇となることを示唆
その修道士
フェリーチェ・ペレッティは
ノストラダムスの死から20年程のち
シクストゥス5世として即位
彼の予言が証明された・・・
↓↑
1550年代
サロンの名士として
公共の泉の碑銘を起草
クラポンヌ運河の開削事業に出資
翌1年間を予言した
暦書(アルマナック)の刊行
予言者としての著述活動
より先の未来を視野に入れた著作
『予言集』の執筆
1555年5月
初版
『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』
4巻の途中までの不完全なもの
(完全版は全10巻)
ではあったが、大きな反響・・・
↓↑
1555年7月
国王アンリ2世
カトリーヌ・ド・メディシス
からの招待
翌月
王宮でのた謁見
1556年
カトリーヌは
ノストラダムスを個人的に呼んで
自身の子供たちの未来を占わせた
四人の御子息は
みな王になるという答えを得た
四男エルキュールが早世し外れた
「御子息から四人の王が生まれる」
という予言だった
三男アンリは
フランス王となる前に
ポーランド王となっていたため
正確な予言だった・・・
↓↑
1557年
『ガレノスの釈義』出版
1559年の処方箋も現存
↓↑
1559年6月30日
アンリ2世の妹
マルグリット
と娘
エリザベート
がそれぞれ結婚することを祝う宴の
馬上槍試合で
アンリ2世は
対戦相手の
モンゴムリ伯の槍が
右目に刺さって致命傷を負い
7月10日に没した
1556年1月13日付けで
国王と王妃への献呈文を
1557年向けの暦書に収録
カトリーヌ宛ての献辞では
1559年
を
「世界的な平和(la paix universelle)」
の年と予言
晩年
アンリ2世亡き後に王位に就いた
フランソワ2世は病弱で
1560年後半の宮廷で
ノストラダムスの予言を引用し
王が年内に没すると噂されていた
フランソワ2世はこの年に没した
ーー↓↑ーー↓↑ーー
サー・アイザック・ニュートン
( Sir Isaac Newton)
1642年12月25日~1727年3月20 日
グレゴリオ暦
1643年1月4日~1727年3月31日
↓↑
1665年~1666年
万有引力
二項定理を発見
微分および微分積分学へと発展
ペスト流行による故郷での
長期休暇と三大業績
ペスト
1666年ヨーロッパで蔓延・・・
林檎も木から落ちてきた・・・萬有引力・・・
↓↑
コレラ(Cholera、虎列剌)
コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症
元禄十二年頃の記録に
「古呂利・虎狼痢・虎狼狸」
脱水が激しく
「暴卒病(1822 年)、暴瀉(1858 年)、暴瀉病(1863 年)」
とも・・・現代でも蔓延流行・・・
「黒死病(Black Death)」
癙=疒+鼠
ペスト
Yersinia pestis(ペスト菌・ドイツ語 Pest, 英語 plague)
による感染症
ペスト菌を持つ
ネズミやノミに咬まれることで
ヒトに感染
空気感染もする・・・
・・・「中世欧州を襲ったペストは、ネズミではなく
人間に寄生する
ノミ(蚤)やシラミ(虱)によって
広がったという最新研究結果」・・・?
紀元前429年
ペロポネソス戦争の最中
アテナイで多数の犠牲者
「アテナイのペスト」
記録に残る症状の分析により
痘瘡(天然痘)
or
発疹チフス
で
ペスト説は否定・・・
歴史家トゥキディデス自身がかかり
回復した記録から判明
(激しい頭痛、目の炎症、喀血
咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん
嘔吐、下痢、高度の発熱)
↓↑
ローマ帝国
165年~180年に流行
感染者の25~33%が死亡
350万~700万人ほどが死亡
「アントニヌス帝
(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)
のペスト」・・・
↓↑
東ローマ帝国
541年~542年
(or542年~543年)
コンスタンチノープルで流行
全人口の40%が死亡
コンスタンチノープル市内では
毎日10,000人が死んだ
「ユスティニアヌスの斑点」
と呼ばれている
ユスティニアヌス自身も
感染したが快復
↓↑
1340年代からの流行
アジア、北アフリカ
中東、ヨーロッパ
に広がり
当時の人口の半分
3,000~5,000万人
(それ以上)が死亡した・・・
↓↑
14世紀
ペスト大流行
世界で1億人ほど死亡
当時の世界人口を
4億5000万人~3億5000万人にまで減少
ヨーロッパで
1348年~1420年
ヨーロッパの全人口の
30%~60%が死亡
村の中には人口の80%が死亡
↓↑
皮膚が黒くなり死亡
「Black Deth 黒死病」
1991年以降
ヒトペストは増加
1996年の患者3,017人(死亡205人)
1997年の患者5,419人(死亡274人)
2004年~2009年
世界全体の患者数は12,503人
死亡者は
アフリカ、アジア、アメリカ
の16ヶ国から843人
ーー↓↑ーー↓↑ーー
216年2月6日
干支 : 丙申
日本
神功皇后摂政十六年一月一日・・・
丙┏申(己壬庚)正官・偏印帝旺
庚┗寅(己丙甲)劫財・偏印 胎
辛 丑(癸辛己) ・食神 養
甲 午(丙 丁)正財・偏官 病
辰巳空亡
皇紀876年
中国
後漢 : 建安二十一年
朝鮮
高句麗 : 山上王二十年
新羅 : 奈解王二十一年
百済 : 仇首王三年
曹 操 魏王となる
武将・政治家・詩人・兵法家
字 孟徳(モウトク)
幼名 阿瞞(アマン)・吉利
豫州
沛国
譙県(安徽省亳州市譙城区)出身
↓↑
729年
干支 : 己巳
日本
神亀六年、天平元年
皇紀1389年
中国
唐 : 開元十七年
↓↑
長屋王の変
光明皇后が皇后
唐、大衍暦が使われ始める
↓↑
誕生
石上 宅嗣、貴族(~781年)
行賀、僧(~803年)
↓↑
死去
3月13日(神亀六年二月九日)
小治田 安萬侶、官僚
↓↑
3月16日(神亀六年二月十二日)
長屋王(676年/684年~)
↓↑
3月16日(神亀六年二月十二日)
吉備内親王、長屋王の妃
↓↑
9月6日(天平元年八月九日)
石川(蘇我)朝臣 石足(いしかわ の いわたり)
(667年~)
大紫 ・蘇我 連子の孫
少納言・蘇我 安麻呂の子
官位は従三位・左大弁
↓↑
石川年足(としたり)
石川豊成(とよなり)
石川公成?
の父
↓↑
叔母の
蘇我 娼子
は
藤原不比等
に嫁いで
藤原武智麻呂
藤原房前
藤原宇合
を産み
石足は藤原四兄弟と従兄弟
737年
天然痘の流行(天平九年)
藤原四兄弟全員死亡
9人の公卿の内四兄弟で4人を占め
↓↑
729年~737年
藤原四子政権
ー↓↑ーーー
666年=六六六=亠+八+亠+八+亠+八
・・・三亠弐拾四
三音念肆
インネンㇱ
干支 丙寅
日本
天智天皇 五年
皇紀1326年
中国
唐 乾封元年
↓↑
唐の
高宗
泰山で
封禅の儀
↓↑
高句麗
淵蓋蘇文
死没
内紛
↓↑
死去
2月2日(天智天皇4年12月23日)
定恵(643年~)
ー↓↑ーーー
令狐 徳棻(レイコ トクフン)
(583年~666年)
唐の歴史家
二十四史の一
『周書』の主編者
本貫は
敦煌郡
效穀県
一族は
宜州華原県に住む
祖父
令狐 整
は北周の大将軍
父
令狐 熙
は
隋の鴻臚少卿・・・外国来賓の応接を担当
「鴻臚館」
↓↑
徳棻・・・棻=芬+木
艹+分+木
艹+八+刀+木
↓↑ 香木の名
は
隋の
大業末年
薬城県令
隋末の戦乱を避け
職につかなかった
↓↑
李神通(リ シンツウ)・・・神通?
577年~630年
唐の宗室
鄭孝王
李亮(李虎の八男)の子
唐の高祖
李淵・・・祖父=李 虎(リ コ)
↓↑ ?~大統17年(551年)?
西魏の武将
字は文彬
代郡武川鎮
(内モンゴル自治区武川県)
の出身
父は李天錫
母は賈氏
子は李昞
↓↑ 孫は唐の太祖「李淵」
の従弟
諱は寿
字は神通
李神符の兄・・・神符?
が
太平宮に拠って
総管を自称
徳棻
はその下で
記室参軍
李淵
が長安に入ると
徳棻
は
大丞相府記室
↓↑
618年(武徳元年)
唐建国
徳棻
は
起居舎人・・・起居=キイ=key舎人?
高祖
李淵
の側近となる
↓↑
622年(武徳五年)
秘書丞に転じ
陳叔達
らとともに
『芸文類聚』の編纂
梁・陳・北斉・北周・隋
の正史の修訂を奏請して認められ
陳叔達
庾倹
らとともに
北周の歴史書を編纂
↓↑
629年(貞観三年)
太宗
李世民から
徳棻
と
岑文本・・・岑(山+今)の文の本
ミネ 纂 現今の文本?
に
周史編纂・・・周回、周知の歴史編纂?
を
重ねて命じられた
↓↑
632年(貞観六年)
徳棻
礼部侍郎・兼修国史
彭陽県男爵位
↓↑
636年(貞観十年)
『周書』完成の報労
↓↑
637年(貞観十一年)
新礼完成の功で子爵
『貞観氏族志』編纂を完成
↓↑
641年(貞観十五年)
太子右庶子
↓↑
643年(貞観十七年)
皇太子
李承乾・・・李の承の乾・李承晩?
が廃位
徳棻
は連座し
官爵を剥奪
↓↑
644年(貞観十八年)
雅州・・・鴉州=からす
↓↑ =烏・香良洲・韓州?
隋朝成立し
604年(仁寿四年)
雅州が設置
607年(大業三年)
郡制施行で
雅州は
臨邛郡と改称
9県を管轄
↓↑
沈黎鎮(シンレイ-チン)
設置
管轄区域は
邛州(キョウシュウ)
↓↑
沈黎郡(シンレイ-グン)
新例 訓?
前漢および南北朝時代の一時期
四川省中部に設置
↓↑
四川省
北西は青海省
北は甘粛省及び陝西省
東は重慶
南は貴州省及び雲南省
西はチベット自治区
急峻な山岳地帯に位置
東部に四川盆地
温暖で肥沃な米作地
「天府之国」
中国最大級の湖
瀘沽湖を擁し
・・・瀘⇔盧(ロ)+α
濾(こす・濾過・濾紙)
鸕(う・鸕野讃良)
鱸(すずき)
櫨(はぜ・ます)
蘆(あし・葦)
髗=顱(かしら・こうべ)
艫(とも・へさき)
罏(かめ・香炉)
纑(かせ・糸車)
臚(はだ・肌)
瓐(たま)
黸(くろ・黒点)
矑(ひとみ・眸・瞳)
沽=あきなう・売買する
酒を売る人
大まかであらい・粗悪である
蝦(蛯・海老)・・・蝦夷
の一大産地
↓↑
2008年
アバ・チベット族
チャン族自治州
汶川県・・・汶=岷・渂・𣶌
(ウントン県)を震源
・・・汶=けがれ(穢れ)
はずかしめ(恥辱)
山東省を源とする川
四川大地震発生
↓↑
雅州
刺史(シシ)
として再起
公の事件のために
罪に問われて免官
太宗から
『晋書』編纂の命
房玄齢
の推薦により
徳棻
は編纂事業に参加
『晋書』が完成すると
秘書少監
↓↑
650年(永徽元年)
徳棻は
高宗から
律令の編纂を命じられ
再び
礼部侍郎
弘文館学士・・・弘文天皇=諱は大友or伊賀
大化四年
648年
~
天武天皇元年7月23日
672年8月21日
↓↑・・・「弘文館=世祖九年(1463年)
李氏朝鮮の
行政機関及び研究機関
正二品衙門・玉堂」
・・・「弘文館=寛永七年(1630)
林羅山が江戸上野忍岡に創立
元禄三年(1690)
五代将軍徳川綱吉が湯島に移転させ
昌平坂学問所となる」
↓↑
を兼ねた
太常卿に転じた
↓↑
653年(永徽四年)
国子監
祭酒に転じ
崇賢館学士を兼ねた
『高宗実録』三十巻を編纂
爵位は公
↓↑
660年・・・百済滅亡
↓↑
662年(龍朔二年)
徳棻は引退を許され
金紫光禄大夫の位
↓↑
663年・・・白村江の海戦
↓↑
666年(乾封元年)・・・戌亥を封ずる
死去・享年は84
諡は憲
↓↑
666年(宝蔵王二十五年)
淵蓋蘇文(ヱン ガイソブン)
・・・淵(ヱン・ふち)
蓋(ガイ・ふた)
蘇(ソ ・よみがえり)
文(ブン・ふみ・あや)
生年不詳?~666年(宝蔵王二十五年)
高句麗の
大莫離支(テマクリジ・宰相)・将軍
泉蓋蘇文=泉蓋金
↓↑
徳棻は
太宗の即位を奏請する書を募り
「宏文殿に
四部の書を聚めて
群書は二十余万巻」
(『唐会要』宏文館)
↓↑
「創修撰之源、徳棻より始まるなり」
(趙翼『二十二史箚記』)と評された
二十四史中で
徳棻の貢献
『梁書』『陳書』『北斉書』
『周書』『隋書』『晋書』
『南史』『北史』
の八部
ーーーーー
二十四史
司馬遷 『史記』
班固 『漢書』
范曄 『後漢書』
陳寿 『三国志』
房玄齢等 『晋書』
↓↑
沈約 『宋書』
↓↑
蕭子顕 『南斉書』
姚思廉 『梁書』
姚思廉 『陳書』
魏収 『魏書』
李百薬 『北斉書』
↓↑
令狐徳棻等『周書』
↓↑
魏徴
長孫無忌等『隋書』・・・隋書俀(イ妥)國伝
俀=タイ=他意・碓
耶靡堆國=邪馬臺國
堆⇔碓⇔推古
↓↑
李延寿 『南史』
李延寿 『北史』
↓↑
劉昫等 『旧唐書』
欧陽脩
↓↑
宋祁 『新唐書』
↓↑
薛居正等 『旧五代史』
欧陽脩 『新五代史』
↓↑
脱脱等 『宋史』
脱脱等 『遼史』
脱脱等 『金史』
↓↑
トクトア(モンゴル語 Toqto'a
中国語 遼王脱脱、? ~1328年)
チンギス・カンの弟
テムゲ・オッチギンの子孫
モンゴル帝国皇族
『元史』では
「遼王脱脱」
トクト(モンゴル語Toktogha
延祐元年(1314年)
~
至正15年12月8日(1356年1月10日)
元の権臣
字は大用
『元史』で「脱脱」
清代以降は「托克托」と記録
↓↑
宋濂等 『元史』
張廷玉等 『明史』
二十六史
柯劭忞等 『新元史』
趙爾巽等 『清史稿』
その他
班固・劉珍・蔡邕等
『東観漢記』
ーーーーー
・・・???・・・
シラベテも、しらべテモ・・・ドウドウ巡り・・・
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