・・・寒いです。水がヒャッコイです。満天を覆う雲も冷たいカンジで流れていく厭なフユの兆しです。電線に渡り鳥なのか、スズメよりも二倍ほどの小鳥たちが音符を描いているけれど無言です・・・現在(10月12日18時30分)、地震(幕別町忠類錦町・十勝南部)ですか・・・お隣りの国々も、「スマートフォンGalaxy S7(Samsung「Galaxy Note 7」)」の発火事故、「大陸中国の退役軍人が軍中枢(中国国防省・八一大楼)を迷彩服の軍服を着て数千百人が抗議デモ(2016年10月11日)」・・・
そして、日本も
「東京、海の森水上競技場」については当初、施設整備費を「69億円」だったものが7倍(491億円・諸経費を含めると1千億円超?)に膨らんで東京五輪のボート・カヌー会場として長沼ボート場(宮城県登米市)へ変更案」、「オリンピック経費98億円、レガシー経費393億円とする東京都の説明」で「海の森水上競技場」が既に決まっていた・・・「東京都の説明」ですか・・・「豊洲」も東京都の説明だったが・・・
「東京大停電・3時30分頃(東京電力・地下13メートルの同道、東京への無人変電所の地下送電線18本・埼玉・新座の大火災)」
・・・ですか、コノ火災の損害は電気料金に加算?・・・兎に角、TV画像、スゴイね、弁当屋隣の炎と黒煙・・無人施設(?)の「新座洞道」、もし、コレが「テロ」だったら・・・
ーーーーー
「長沼ボート場」は「宮城県」の「登米(とめ)市」ですか・・・「コメが登る」って・・・地名だが、北海道(蝦夷地)はホトンドが「アイヌ語の発音」に「漢字の音訓の字音」を当てたモノらしいが、ダレが「漢字」を選択して当て字にしたんだか?・・・
「札幌」を中心にその鉄道路線の地名は子供の頃に
「札幌(サッポロ)・ソウエン・コトニ・ゼニバコ・アサリ・チッコウ・小樽(オタル)」
と憶えていたが、現在的には、
「ほしみ→星置→稲穂→手稲→稲積公園→発寒→発寒中央→
琴似→桑園→
「札幌」
→苗穂→白石→平和→厚別→森林公園」
であるらしい・・・
駅名を「小樽~札幌~岩見沢~滝川」と並べて書くと
小樽
↓
南小樽-小樽築港-朝里-銭函-ほしみ-星置-稲穂-手稲-稲積公園-発寒-発寒中央-琴似-桑園
↓
札幌-苗穂-白石-(貨)札幌貨物ターミナル-厚別-森林公園-大麻-野幌-高砂-江別-豊幌-幌向-上幌向
↓
岩見沢-峰延-光珠内-美唄-茶志内-奈井江-豊沼-砂川
↓
滝川・・・
だが、
荘園(想円=ソウエン)、殊に(コトニ)、丁寧(テイネ)、銭函(ゼニバコ)=銭箱、漁り(浅蜊=アサリ)、知椄交(恥考)=チッコウ・・・とカンジ違いに憶えていた・・・
ーーーーー
「朝里」はアイヌ語の
「マサリ(海に沿って草が茂る原野)」
「イチャニ(鮭が産卵する場所)」が
「いざり(躄?・伊座利?)」と訛り、
それを漢字表記した
「漁り」が「あさり」と読みが変化した説・・・?
↓↑
「銭函」はアイヌが住む時代から
「鮭(しゃけ)漁の場所」として栄え、
後
「鯡・鰊(ニシン)」漁で栄えた時代に
「銭箱」があったという伝説が
「銭函」の地名に由来・・・
北海道開拓の父、
「島義勇」が札幌に開拓府を建設する
交通、交易の要所として
「仮本府」を置いた場所
↓↑
「星置」はアイヌ語の
「ソウシオキ(滝が並ぶ)」
「ソーポク(滝下)」が転じた
「ホシポキ(崖の下、下の崖)に由来する・・・
安政四年に開削された
札幌越新道(銭函~札幌を通り千歳を結ぶ道
旧「下手稲村」の範囲であった
「稲穂、金山」を含む総称・・・
↓↑
「星置川(ほしおきがわ)」
北海道札幌市、小樽市を流れ
日本海の石狩湾に注ぐ二級河川で
東に西に著しく流路を変え、
扇状地の頂。
「星置」の滝の別称
「ホシポキ(崖の下・下の崖)に由来・・・
↓↑
「手稲(テイネ)」はアイヌ語の
「テイネ・イ(ラテン文字表記=teyne-i
濡れているモノ・湿地)」に由来・・・
↓↑
「発寒(はっさむ)」はアイヌ語の
「ハチャㇺ・ペッ(ラテン文字表記=hacam-pet」で
「桜鳥・川」の意
「桜鳥(ムクドリ)」が群生していた・・・
↓↑
「琴似」はアイヌ語の
「コッ・ネ・イ(窪地になっている所)」
和人がこれを
「コトネ」と言ってた・・・
↓↑
「桑園」
明治の開拓使が
山形の
旧庄内藩士に
「桑の木」を植えることを奨励した・・・その由来
↓↑
「苗穂」はアイヌ語の
「ナイ・ポ(小さな川)」
豊平川の旧河道に当たる
伏篭川の水源にあたり、
多くの小川や泉が存在した・・・
ーーーーー
「宮城県」の「登米(とめ)」が、マタ、トンでしまった・・・
↓↑
室町時代後期(戦国時代)
陸奥国の戦国大名
伊達氏の支配下
南下政策をとる伊達政宗
と
北上政策をとる
常陸国の戦国大名
佐竹義重が、福島県で衝突
佐竹義重は
豊臣秀吉に服属し
伊達政宗に対抗し
政宗は秀吉の停戦命令を無視し、
佐竹義重の次男が当主を務める
会津地方の
蘆名(あしな・葦名・芦名)氏
を攻め滅ぼし
戦いを続け、
須賀川の
二階堂氏
も攻め滅ぼし、
東北地方の南半分を征服
伊達政宗の奥羽征服戦争で
伊達成実(だてしげざね)
と共に特に功績が大きかった
「白石宗実」は、
政宗の領土仕置によって
白石を離れ
「宮森城(福島県安達郡岩代町)」
へと移った
↓↑
天正十四年(1586年)
第二十代当主
白石宗実は
伊達政宗より
安達郡宮森城への
所領替えを命じられ、
根拠地としてきた
白石を離れることとなった
白石城は
伊達政宗側近の
屋代景頼
に与えられ、
以後
白石氏が
旧領に復帰することはなかった
↓↑
天正十九年(1591年)
葛西
大崎一揆鎮圧後
伊達政宗が
岩出山城へと転封された際に、
安達郡が
伊達氏から没収されたため、
「白石宗実」は新たに
胆沢郡
水沢城を与えられる
「白石宗実」は
慶長四年(1599年)に死去し
男子がいなかったため
娘婿の
「梁川宗直(稙宗の子・梁川宗清の長男)」
が
白石氏を継ぐ
「梁川宗直(稙宗の子・梁川宗清の長男)」は
慶長五年(1600年)
関ヶ原の戦いで
伊達政宗の命を受けて
旧領復帰を狙っていた
「和賀忠親」を支援して
同じ東軍方の
南部利直領へと侵攻
(岩崎一揆)したが
失敗し
南部氏側の告発により
徳川家康に露見したため、
一件は全て
「梁川宗直」の独断で行われたこととされ、
「梁川宗直」は
水沢城から
「登米郡
寺池城(登米要害)」
へと移された
以後、
白石氏は幕末に至るまで
寺池一帯を所領
↓↑
元和二年(1616年)七月
「梁川宗直」は
大坂の陣における軍功により一門に列せられ、
伊達姓の
名乗り
「登米伊達氏」を許された
↓↑
寛永六年(1629年)
「梁川宗直」は
伊達政宗が
佐沼城主
津田景康と間の境争論において
不利な裁定を下したことに憤り、
参勤を怠り
仙台への出頭を命じられたが、
査問を前にして死亡
このため
「梁川宗直」の嫡男
「梁川宗貞」は、
翌年に
「登米」領の相続を許されたものの、
伊達姓を没収され
家格を一家へと落とされた
↓↑
寛永十七年(1640年)
第二代藩主
伊達忠宗は
男子のいなかった
「梁川宗貞」に対して、
白石氏に伊達姓を再下賜し
一門へ復帰させる代わりに、
自身の四男
伊達五郎吉
を婿養子に迎えて直ちに
家督を譲るよう命じ、
十年ぶりに
「登米伊達」氏の名が復活
隠居した
「梁川宗貞」には改めて
一家の家格と
遠田郡
米岡(登米市米山町西野)に
隠居領3,000石が与えられた(米岡白石氏)
米岡白石氏は
寛文二年(1662年)
三代で無嗣断絶した
ーーーーー
・・・ボクのお祖父さんは「白石」の「七ヶ宿」=「1889年(明治二十二年)四月一日の町村制施行に伴い、関村、渡瀬村、滑津村、湯原村が合併して七ヶ宿村となる」からの北海道(蝦夷)への移民だったが・・・
ジイさんの移民の地は
「登別(のぼりべつ)」ではなく、
「夕張(明治二年八月に高知藩の支配地だった)」
の
「夕張郡-登川(のぼりかわ)村(夕張の旧名称)」で、
最初の入植者は
「栗山町-字-阿野呂(あのろ・アノロ・二股~継立=地名で二股炭礦で産出された石炭を運ぶため1901年に栗山から継立、日出を通り炭鉱に至る二股炭礦馬車鉄道で登川村を含む) 」
の
「林梅五郎」
と、採炭所事務主任だった
「大塚永太郎」だったらしい・・・「大塚」か、「犬塚」か?
「栗山(くりやま)町」はアイヌ語の
「ヤム・ニ・ウシ=栗の木の繁茂している所」
らしいが、元は「角田」らしく、「1888年(明治二十一年)五月十六日、宮城県「角田藩士-泉麟太郎」が「夕張開墾起業組合」を設立し、七戸二十四人が阿野呂川左岸(角田)に入植」したらしい。
ここでは「阿野呂(あのろ)川」だが、アイヌ語の
「ポン-アノロ川」の「ポン」は「小さい(子)で、ポロが大きい(親)」で、
「アノロ」、「アノ・ロ」、「ア・ノロ」は・・・?で、ブログ記事でアイヌ語を調べてみたが、「アノ」の「発音」は見当たらなく、
アニ=捧げる・持つ
アニ=~で、~によって
アニ=なったとき
アヌンイタク=外国語
アネ=与える
アネカリポ=もらい子
「アノカイ=私・我々」
で、「?」である・・・「アムロ」って、「阿室直美」?、コレも
「アム=爪=アミ」で、
「ロ」自体の語音はなく、
「ロル=上座・ロク=坐る」?
ロがラ行変化で「ル」ならば・・・
「ル=道」・・・
「リキプ=登る=リキン」である・・・が、ボク的にはマッタク「?」である・・・で、
「阿-野呂=あ-のろ」の意味は不詳である・・・
↓↑
「ノロ(祝女)は
沖縄県と鹿児島県奄美群島の
琉球の信仰における
女司祭・神官・巫(みこ・かんなぎ・覡)で
地域の祭祀を取りしきり、
御嶽を管理する者。
ヌール・ヌルとも発音」・・・これって、「野呂」さん?
で、
「登(のぼり)の別(べつ)」の
地名はアイヌ語の
「ヌプㇽ・ペッ(ラテン文字表記=nupur-pet=色の濃い-川・白く濁った-川)に由来しているらしいが・・・
「登川(のぼりかわ)」も、・・・「登川=トセン・トがわ」?
↓↑
「アイヌ語のヌプル-ベツ(濁った-川)」が
「ヌプル川=登川(のぼり川)」で「ノボル」となった、って?
↓↑
漢字から
「登米(とめ)」・・・米(こめ)を登(のぼ)らせる
トメ=止め・留め・停め・泊め・富め
采女・登女
留目・都留
の
「別(分離移民?)」の意味ではないのか?
「ベツ・ナイ=かわ」でも地理的な境界だが
沖縄県の沖縄市にも「登川」、
米子沢にも巻機山、「登川」水系の地名があるが・・・
↓↑
「1869年(明治二年)
太政官布告により
仙台藩
白石城主の
片倉邦憲に
幌別郡支配を命じ、
翌年
片倉旧臣の
職人が移民してきたのが
登別のはじまり」
北海道の登別温泉は
江戸時代から知られており、
最上徳内著の『蝦夷草紙』にも記録」
↓↑
「夕張(ゆうばり)」はアイヌ語の
「ユーパロ(鉱泉の湧き出るところ)」
らしいが・・・?
↓↑
1874年(明治七年)
お雇い外国人で北海道開拓使
ベンジャミン・スミス・ライマン
地質学士が踏査し、石炭鉱脈の存在あると発表
1888年(明治二十一年)
北海道庁の技師で
元ライマン調査隊隊員の
「坂市太郎(ばん いちたろう)」
が再調査し大露頭(鉱脈)を発見
入植者の募集と試掘に始まり
多数の炭鉱が拓かれ、国内有数の産炭地となった
↓↑
兎に角、
「七ヶ宿」の名前の発生は
「明治二十二年」だった・・・
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