・・・もうすぐ、皐月=五月・・・鯉幟=こいのぼり=故意廼簿理・乞いノボリ・・・「詳記=ショウキ=笑気・・・鍾馗」・・・なんか、「正気」じゃない人間の事件が多いけれど・・・ヤッテシマッタこと、って「邪気・悪気」なんだか、ドウなんだか・・・
ーーーーー
馗=九+首=丿+乙
みち・キ
九方に通じる道
鍾馗(ショウキ)
馘の簿
馗=𩠒
鍾馗・頬骨・隠れる
逵と通じて道・九方に通じる道
㙺と書いて
盛土・塁土
夔に通じる
本字は「𩠒」
「九達の道なり。龜背に似たり
故え之れを馗と謂ふ。馗、高なり」
異体字は
𩠒・逵・㙺・𠄁・𠃳
熟語
鍾馗・鍾馗蘭・鍾馗散・鍾馗水仙
しいたけの異称
↓↑
𩠐=首=くび・こうべ・シュウ・シュ
頭と胴との間・頸部
𥃻=小+目=くび=首=丷+𦣻
異体字は首・𦣻・𩖐・𩠐
首=𥃻
𩠐=巛+一+ノ+目
=巛+一+自
=巛+𦣻
頭と頭を支える部分
頭を支える部分
肩から先の頭と首を合わせた部分
頭と首が体の先頭にあることから
先頭の、第一の、一番目の、集団の長
出向いて罪を告白する
詩歌数える語
馗=キ・ギ
𩠒・𠃳・𠄁
九+ソ+一+ノ+目
九+丷+一+ノ+目
九+䒑+ノ+目
九+䒑+自
九+丷+𦣻
首馗
高く突き出ているさま、頬骨
四方八方に通じる道
ーーーーー
遼東の人
殷馗(インキ)=予言者
乾(いぬい)の空に
黄星(コウセイ)が見え
五十年の後
この村に
稀世の
英傑が宿す兆・・・
ーーーーー
膏=心臓の下部
肓=隔膜の上部
からだの奥深いところ
ここに病気が入ると治らない
漢方の経穴(ケイケツ・つぼ)の一
背中の第四胸椎下から
大人で約六cmの箇所
↓↑
袞=六+口+衣=衮=六+衣
袞=亠+㕣+𧘇=亠+儿+口+𧘇
異体字は衮
衮=亠+八+厶+𧘇
衣=亠+𧘇=亠+𧘇
コン
天子や上公の着る礼服
天子の礼服
↓↑
玹=王+玄=いし・ケン・ゲン
↓↑
徽=彳+山+系+攵
しるし・キ
細い組みひものしるし
小さい物で全体を代表させたしるし
こまやかで美しい・組みひも
琴の糸をつなぐひも
琴の音の高低をつけるため
左手の指で弦をおさえる所を示すしるし
琴の糸をささえる台(ことじ)
↓↑
惇=忄+亠+口+了+一
あつし・あつい・ジュン・トン
手厚い・まごころがある・ねんごろ
惇厚・惇厚・惇朴・惇朴
ーーーーー
愚=禺+心
おろか・鈍い頭、心の働き
考えが足りないさま・愚見
正直すぎて、融通がきかない事
その場その場で適切な対応できない事・愚直
あなどる・軽蔑する・見下す
謙称(相手を敬って自分を控えめにする)
↓↑
禺=甲+冂+ム=甲+禸
おながざる・グ・グウ
木偶(でく)・人形
すみ・はじ
禸=けものの足跡
・・・顒=禺+頁・・・旱魃を呼ぶ怪鳥
旱魃=土地の罅(ひび)割れ
隅・萬・愚
禹・禽・禺
齵・鱱・鰅・髃・顒・隅・鍝・邁・遇・躉
贎・蠣・蠐・蠆・藕・蕅・萬・腢・耦・糲
禺・禲・禑・礪・矋・癘・犡・爡・爄・燤
濿・澫・湡・歶・櫔・曞・愚・庽
ーーーーー
晏=日+安
通仮字、宴
異体字、㫨
おそい・晏駕(アンガ)・晏起
やすらか・おだやか・晏如
時刻が遅い
清晏
名のり
さだ・はる・やす
晏子=晏嬰
春秋時代
斉国の
霊公・荘公・景公
の三代に仕えた
身長140cmに満たない小さな体の人物
↓↑
晏子春秋
春秋時代の
斉(セイ)の宰相
晏嬰の言行録・8編
斉王との問答で
晏子が答えた
「朝廷で厳し過ぎれば
下が無言になります
下が無言になれば
上は意見を聞くことできなくなるでしょう
下に言が無いことを
『瘖(おし)』といい
上が言を聞けないことを
『聾』という
『聾瘖』が
国家を害さないはずがない
一升一斗のわずかな食糧が集まって
倉廩(倉庫)を満たし
細い糸や太い糸によって幃幕が作られる
大山の高さは
一つの石でできているのではなく
小さな石が
沢山、集められてその高さになる
天下とは
一士の言だけを用いて治めるのではない
言を聞きながら用いない場合もあるが
最初から拒絶して
聞かないというのは誤りである」
↓↑
景公が・・・景公=斉王
・・・景行天皇=景の行の転向
ヤマトタケル(小碓)の父親
高橋景保(天明五年・1785年
~
文政十二年二月十六日・1829年3月20日
江戸時代後期の天文学者・通称、作左衛門
天文学者・書物奉行天文方・・曇天・・・
「日本輿地図藁」の
伊能忠敬の師
シーボルト事件
文政十一年(1828年)九月
シーボルト台風(文政・子年の大風)
文政十一年(1828年9月17日)八月九日
文政十二年(1829年)九月二十五日
シーボルトに国外退去・再入国禁止
↓↑
晏子・・・・晏=くれる(暮れる)・おそ・さだ・はる・やす
アン
静かに落ち着いているさま
考え・思いつき・案・考案
したがき・原案
予想・もくろみ・計画
物をのせる台・机・・・
???・・・アイデア(idea)・・・相出蛙
思いつき・新奇な工夫・着想
アイデアが浮かぶ
イデア・観念・理念
「彼を放せ
罪は寡人(景公)にある」
寡人(カジン)=徳の寡(すく)ない者
一人称の人代名詞
王や諸侯が自分自身をさしていう
↓↑
寡=宀+頁+刀
宀+𦣻+分
寡=すくない・・・・多寡(タカ)⇔多少=・・・・
寡占・寡黙・衆寡
ひとり者・やもめ・つれあいをなくした人
寡夫(Widower・ウィドォゥア-ル)
寡婦(widow・ウィドォゥ)
男やもめ=鰥(カン)
力や徳が少ない
自分や自分の主君を
謙遜(ケンソン)していう語
寡学・寡君・寡徳
「やもめ」は夫をなくした女性
「やもお」は妻をなくした男性
寡=すくない・やもめ・カ(クヮ)
寡言・寡少・寡聞・寡黙・寡欲
衆寡・多寡
徳の少ない意
古代中国で、王侯が謙遜していう自称
寡君・寡人
独り者
配偶者のない人・夫に死なれた女
寡婦・鰥寡(カンカ)
寡婦(やもめ)・寡・寡婦・孀
未亡人・後家・寡婦
鰥・鰥夫
妻のいない男・妻を失った男
男やもめ・やもお
ーーーーー
踊=足+甬(ヨウ・ユウ)=義足?
・・・踊(おど)る・・・桶・涌・通・踊
刖(足を切断する刑)を
受けた者がつける義足
「踊が高く靴が安くなっています
(踊貴履賤)」
足が無い者が多いため
義足(踊)が高くなり
靴(履・草鞋・履き物)が安くなっている・・・
・・・跛(ちんば)=片足が不自由で、普通に歩けないこと
対(つい)であるべきものの形や大きさが
そろわないこと・かたちんば
ヤマトタケルの三重での最期
↓↑
「嬰(晏子)は・・・嬰児=生まれたばかりの赤ん坊
↓↑ みどりご
3歳くらいまでの幼児
首飾り・めぐる・めぐらす
帯びる・まとう(身につける)
まつわる(からみつく)
かける(上から下にさげる)
つなぐ・連なる・触れる・加える
女の子(反意語=児=男の子)
↓↑ 櫻=木+嬰(賏女)=さくら=桜
嬰=賏+女
↓↑ふれる・みどりご・あかご・めぐる・かかる
エイ
異体字は孾・孆・纓・䋝
声符「賏」・賏・𣀕・譻・罌
声符「嬰」・嚶・纓・瓔・廮
・𨟙・癭・櫻・鸚
↓↑
嬰=賏+女=目+八+目+八+女
↓↑みどりご・あかご・首飾り
めぐらす・めぐる
首飾りを首にめぐらすように、 とり巻く
首にかける
手をまわしてなでる・周りにさわる
とりつかれる
音楽で
音の高さを本位音より
半音あげることをあらわす
↓↑
纓=糸+賏+女・・・エイ、ヨウ
↓↑冠の付属品
冠の縁を2分して
額のほうを磯 (いそ)
後方を海 (うみ) といい
海に挿し入れて垂らす
細長い布
ひも・冠のひも
むながい・ウマの胸をおおう革
まとう・めぐらす
冠の付属具で、背後の中央に垂らす部分
冠の後ろに突き出ている
巾子(こじ)の根もとをしめた
紐(ひも)の余りを
背に垂れ下げたもの
巾子の背面下部の付属具
骨を入れ薄絹に薄く漆をかける
形により
立纓・垂纓・巻纓・細纓
ー↓↑ーー
「嬰(晏子)は
社稷の臣です」
「社稷の臣とは
社稷を立て(国のために政治を行い)
上下の義(秩序)を分け
それぞれに理(倫理・道理)を持たせ
百官の序(秩序)を定め
それぞれに
宜(居場所)を持たせ
辞令(文書)を作って
四方に発布するもの」
後、景公は晏子に礼を守るようになった
↓↑
景公(ケイコウ)
春秋時代
斉の第26代君主
母は
穆孟姫、魯の公族出身の宰相
叔孫僑如の娘
霊公の子
荘公光の異母弟
娘は
呉の闔閭の子の
太子波(太子終纍) に嫁いだ
兄の
荘公光が横死後
崔杼に擁立されて
斉公
崔杼の死後
晏嬰を宰相とし
司馬穰苴を軍事担当に抜擢
覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期
↓↑
司馬-穰苴(シバ-ジョウショ)
姓は嬀(女+爲
氏は田
諱は穰苴
景公に仕えて大司馬となり氏を司馬と称した
宰相晏嬰の推薦により登用
兵法書『司馬法』の著者
田完の後裔
↓↑
景公_(斉)
?~紀元前581年?
斉の第26代君主
母、穆孟姫は
魯の公族出身の宰相叔
孫僑如の娘
霊公の子で
荘公光の異母弟
娘は呉の
闔閭の子の
太子波(太子終纍)に嫁いだ
↓↑
膏肓(コウコウ)で
膏盲(コウモウ)ではない
病膏肓に入る=やまいこうこうにいる
病気がひどくなり治療のしようがないこと
趣味や道楽に熱中しすぎ
どうにも手がつけられなくなること
ーーーーー
・・・
・・・「身内兄弟での権力闘争」・・・「八王の乱」・・・
ーーーーー
八王の乱
↓↑
汝南王-司馬亮(?~291)
司馬懿の三男(司馬師
司馬昭の異母弟)
↓↑
楚王-司馬瑋(271~291)
司馬炎の五男(司馬衷の異母弟)
↓↑
趙王-司馬倫(?~301)
司馬懿の九男(司馬亮の異母弟)
↓↑
斉王-司馬冏(?~302)
司馬炎の同母弟(司馬攸の子)
↓↑
長沙王-司馬乂(277~304)
・・・乂=草をかる・刈・おさめる・おさまる
「乂安・乂寧」・艾(ガイ・すぐれる・かしこい)
司馬炎の六男(司馬瑋の同母弟)
↓↑ 瑋=ウェイ・ィ
成都王-司馬穎(279~306)
司馬炎の十六男(司馬乂の異母弟)
↓↑
河間王-司馬顒(?~306)
顒(おおきい・ギョウ・グ)=禺+頁
あおぐ・つつしむ
大きな頭・頭が大きいさま
怪鳥・旱魃を呼ぶとされる
異体字は「𩤛・𪃍」
司馬懿の弟(司馬孚の孫)
↓↑
東海王-司馬越(?~311)
(司馬懿や司馬孚の弟の司馬馗の孫)
↓↑
盧綝(盧志の甥)が著した
『八王故事』(現在は散逸)に由来
ーーーーー
三王の
司馬冏(斉王)・・・司馬の冏(まど・窓・明り取り)
司馬穎(成都王)
司馬顒(河間王)
が
司馬倫(?~301年・西晋の第三代皇帝・八王の一人
字は子彝・司馬懿の第九子(末子)・建始帝)
彝(イ)=青銅製礼器の総称・常法
討伐で決起
↓↑
三王の一人
司馬冏(斉王)
「冏=あきらか・ケイ・キョウ・ソウ」
冏=𦉪+口=冂+㕣=囧=𡆾(竜龕手鑑)
あきらか・まど(窓)・ケイ
異体字は冋・𢍴・𡇇・𡆾・囧・臦・臩
冏冏・冏光・冏徹・冏然・冏牧
ーーーーー
鄴=業+阝=ギョウ
異体字は「邺」
鄴(業に阝・おおざと)
地名
後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉
の各王朝の都
河北省
邯鄲市
臨漳県にあたり
河南省安陽市にまたがっている
春秋時代
斉の
桓公が
城塞都市を建設したのが始まり
戦国時代
魏に属し
西門豹が治め
黄河や漳河から運河を引く
灌漑の大事業を行い栄えた(史記)
紀元前239年
魏は鄴を趙に与えるが
紀元前236年
秦の将軍
王翦らが攻略して以降は秦の領地
翦=きる・はさみきる・きりそろえる・はさむ・セン
剪(セン)
そぐ・けずる・ほろ(滅)ぼす
↓↑
鄴=業+阝=ギョウ・ゴウ
業=わざ・しごと・つとめ
生活のてだて・なりわい
生活のために行う仕事
業務・職業・学問
技芸・学業・修業
しわざ・行い
悪業・ごう
仏教で、報いのもとの行い
報いを招く前世の行い
業果・宿業
阝=邑(おおざと・むら・ユウ)
↓↑
曹操(ソウソウ)⇔≠曹爽(ソウソウ)
永寿元年(155年)
~
建安二十五年一月二十三日(220年3月15日)
後漢末期の武将、政治家・詩人・兵法家
字は孟徳
幼名は
阿瞞(アマン)・吉利・・・瞞=だます・あざむく・くらます・マン
瞞着・欺瞞
くらい・はっきり見えない
モン・はじる
瞞然
吉利・・・キリスト?・めでたい
吉利氏=島津氏傍系の武家
日置市日吉町吉利を領していた
豫州
沛国
譙県(安徽省亳州市譙城区)の出身
後漢の丞相・魏王
三国時代の魏の基礎を作った
廟号は太祖・・・太(おほの)
謚号は武皇帝・・武(たける)
魏の武帝・・・・武
魏武とも
↓↑
曹爽(ソウソウ)
(?~正始十年正月十日・249年2月9日)
字は昭伯
父は曹真
妻は劉氏
244年(正始五年)
蜀漢征伐を試みるが(興勢の役)
蜀の
王平の・・・王のタイラ?
頑強な抵抗で失敗
補給に氐・羌族を動員
輸送などの事故で犠牲者が出
その後、
何晏達・・・何の晏の達?
が政治を壟断し
魏は乱れた
司馬懿は
憂慮、保身のため「高齢」で「病気」と
称して引き籠った
↓↑
後
曹爽(ソウソウ)は
何晏達らと共に謀反を企て
投獄され、即日三族皆殺しの刑で処刑
ーー↓↑ーー
曹操の子孫の
渡来人
↓↑
新撰姓氏録
「大崗忌寸、
出自魏
文帝之後
安貴公也、
大泊瀬幼武天皇
(謚雄略)御世。
率四部衆
帰化。
(中略)
亦
高野天皇
神護景雲三年。
依居地。
改賜
大崗
忌寸姓」
↓↑
曹丕(魏文帝)の子孫
安貴公が
雄略天皇の時に一族とともに帰化し
神護景雲三年
「大崗忌寸」の姓を賜った・・・
一族からは
高向玄理が出ている・・・
↓↑
曹操は降伏させた
烏桓族を中国内地に住まわせ
烏桓の兵士を曹操軍に加入させた
曹操軍の
烏桓の騎兵として活躍
↓↑
父母
曹嵩
丁氏
弟
曹徳
曹彬(薊恭公)
曹玉(朗陵哀侯)
↓↑
妻妾
正室
↓↑
劉夫人
丁夫人
卞王后(後、皇后を追贈)
↓↑
側室
↓↑
杜夫人、環夫人、秦夫人、尹夫人(元何進の嫁)
王昭儀
孫姫、李姫、周姫、劉姫、宋姫、趙姫、陳姫
某氏(元張済の妻)
子
曹昂(豊愍王)母は劉夫人・養母は丁夫人。早逝
曹鑠(相殤王)母は劉夫人・早逝
曹丕(文皇帝)母は卞氏
曹彰(任城威王)母は卞氏
曹植(陳思王)母は卞氏
曹熊(蕭懐王)母は卞氏
曹沖(訒哀王)母は環夫人
曹據(彭城王)母は環夫人
曹宇(燕王)母は環夫人
曹林(沛穆王)母は杜夫人
曹袞(中山恭王)母は杜夫人
曹玹(済陽懐王)母は秦夫人
曹峻(陳留恭王)母は秦夫人
曹矩(范陽閔王)母は尹夫人
曹幹(趙王)母は陳姫・養母は王昭儀
曹上(臨邑殤公子)母は孫姫
曹彪(楚王)母は孫姫
曹勤(剛殤公子)母は孫姫
曹乗(穀城殤公子)母は李姫
曹整(郿戴公子)母は李姫
曹京(霊殤公子)母は李姫
曹均(樊安公)母は周姫
曹棘(廣宗殤公子)母は劉姫
曹徽(東平霊王)母は宋姫
曹茂(楽陵王)母は趙姫
娘
曹憲(献帝の貴人)
曹節(献穆皇后)
曹華(献帝の貴人)
清河公主(夏侯楙夫人)母は劉夫人
安陽公主(荀紣の長子荀?の妻)
金郷公主(何晏夫人)母は杜夫人
高城公主 母は杜夫人
金郷公主と同一人の可能性がある
従子・族子
甥もしくは曹操より一世代下の親族
↓↑
曹安民
曹休
曹真
曹彬
曹遵
↓↑
夏侯充
夏侯楙
夏侯衡
夏侯覇
夏侯称
夏侯威
夏侯栄
夏侯恵
夏侯和
夏侯尚
夏侯儒
従兄弟
族兄弟
いとこ、もしくは
同世代の親族
↓↑
夏侯惇
夏侯淵
夏侯廉
↓↑
曹仁
曹洪
曹純
曹紹
曹邵?
養子
何晏
秦朗
ーーーーー
・・・夏をカサネル・・・夏蜜柑に重曹・・・
・・・古代中国人の名前が「ヘン」・・・と思う「日本人」は「舎人」の中に存在したであろうか?・・・
ーーーーー
石超
↓↑
西晋の軍人
字は
仲容
冀州
勃海郡
南皮県の人
祖父は
石苞・・・石の苞(艹勹巳)
苞=むしろ草・筵(蓆)草
あぶら萱・油茅・油萱
つつみ・つと
つつんだ品物・土産(みやげ)もの
つつむ
まるめてつつむ
茎につつまれた、膨らんだ根元
しげる
枝葉が幹をつつんだように茂
むらがりしげる
父は
石喬・・・石の喬(ノ一人口冂口)
喬=たかい・そびえる・喬岳・喬木
おごる・たかぶる
↓↑
石超・・・石の超(十一ト人刀口)
超=~を超える
叔父の石崇は
司馬倫の側近
孫秀に疎まれ刑死
石超は
兄弟の
石熙と共に逃亡し
鄴まで逃れ
成都王
司馬穎(字は章度)
・・・武帝(司馬炎)の16子
恵帝(司馬衷)の異母弟
懐帝(司馬熾)の異母兄
母は程才人
の腹心となり
折衝将軍に任じられ
趙王
司馬倫
が帝位を簒奪すると
斉王
司馬冏が
司馬倫の誅殺を掲げて挙兵
司馬穎、石超も加勢
ーーーーー
「羊陸の交わり」?
↓↑
羊祜・羊儒・羊続・羊衜
羊秘・羊耽・羊発・羊承・羊徽瑜
↓↑
羊鑑=匈奴中郎将の=羊鑒⇔詳=言+羊
詳しい(くわしい)・・・句和思惟
詳解(ショウカイ)
詳細(ショウサイ)
詳察(ショウサツ)
詳述(ショウジュツ)
詳報(ショウホウ)
詳らか(つまびらか)・・・投馬比良化
羊済の子
↓↑
羊侃・羊鑑・羊希・羊徽瑜・羊欣
羊玄之・羊玄保・「羊献容」
羊祜・羊祉・羊深・羊烈
↓↑
ーーーーー
「羊 献容(ヨウ ケンヨウ)」
286年~322年
↓↑
西晋
恵帝の
二番目の皇后
&
前趙
皇帝
劉曜の皇后
泰山県
南城郡の出身
祖父は尚書右僕射
「羊瑾」
(羊祜や
羊徽瑜の従兄弟)
父は尚書右僕射
「羊玄之」
母は
車騎将軍
孫旂の娘
八王の乱
及び
永嘉の乱
に翻弄され
波乱に富む一生を送った
前趙において
献文皇后と諡された
↓↑
「羊献容」
305年11月
立節将軍
周権が
司馬越の命と偽り
「羊献容」を
五度復位させた
だが、
洛陽県令
何喬は
周権を殺し
五度
「羊献容」を廃位
司馬顒は
偽詔を発し
「羊献容」が
政治利用されていると
自殺を命じ
尚書
田淑は
洛陽朝廷に命令を伝えた
司隷校尉
劉暾らは反対して
「羊庶人は離宮に軟禁されており
厳重に警備されております
姦人と乱を企むことなどありません
賢者・愚者問わずみな
羊氏の冤罪を訴えており、
もし枯窮の人を殺してしまえば
天下を落胆させることになり
これは国家にとって益とはならない」
と・・・
ーーーーー
300年4月
趙王
司馬倫は
側近の
孫秀
と共に決起し
権勢を振るっていた
恵帝の皇后
「賈南風」を廃位し・・・賈南風=アキンドは南風、西のカイ
その一派を尽く誅殺
12月
恵帝に
新たな
皇后が立てられ
孫旂は
孫秀と同族で
重用されていたので
孫旂の外孫である
「羊献容」・・・・・・・羊を献(南犬)げて容れる?
が皇后に立てられた
↓↑
301年1月
司馬倫
が帝位を簒奪すると
恵帝は
金墉城に幽閉
「羊献容」
は皇后を廃位された
三王の
斉王の
司馬冏
成都王の
司馬穎・・・石超
河間王の
司馬顒
が
司馬倫
討伐で決起
4月
左将軍
王輿
は洛陽で政変を起こし
孫秀を殺し
司馬倫
を幽閉し
恵帝を復位
「羊献容」は再び皇后位に就く
孫旂を始め
母の一族はみな誅殺
304年2月
鄴を守る
司馬穎が
皇太弟となって
朝政を主管
「羊献容」は再び皇后を廃位され
金墉城に幽閉
7月
東海王
司馬越
は
右衛将軍
陳眕・上官巳
らと共に
司馬穎
討伐を掲げて決起
恵帝を奉じて共に
鄴へ向けて軍を発した
「羊献容」は
三度目、皇后に立てられた
だが、親征軍は
蕩陰で
司馬穎
配下の
石超・・・石超
に敗れ、
恵帝は捕らわれた
8月
長安を守る
司馬顒の
将軍
張方が洛陽を攻め落とし
「羊献容」は
三度目の皇后位を廃位
8月
都督幽州諸軍事
王浚は
東嬴公司
馬騰が
司馬穎・・・・・武帝司馬炎の16子
恵帝(司馬衷)の異母弟
懐帝(司馬熾)の異母兄・母は程才人
討伐を掲げて決起
司馬穎は
鄴を放棄して
恵帝を伴い洛陽へ逃走
張方がこれを迎え入れた
304年11月
張方は
恵帝を伴い
長安への遷都を強行
洛陽には
留台が置かれて
朝廷としての機能が残され
朝廷は
長安と洛陽に分裂
洛陽朝廷により
「羊献容」は四度皇后に立てられた
305年4月
張方は
洛陽朝廷に命を下し
「羊献容」は四度皇后を廃位
金墉城に監禁
皇甫昌は
楊篇
と謀り
司馬越の命と偽って
金墉城から
「羊献容」を出迎え
その命を奉じて
張方討伐と
恵帝奪還を宣言
これにより
司馬顒と対立していた
養父である
秦州刺史
皇甫重の援護を目論んだが
偽りであることが判明すると
皇甫昌は殺された
↓↑
305年11月
立節将軍
周権が
司馬越の命と偽り
「羊献容」
を五度復位
洛陽県令
何喬は
周権を殺すと
五度
「羊献容」
を廃位
司馬顒は
偽詔を発し
「羊献容」が
政治利用されているという理由で自殺を命じ
尚書田淑は
洛陽朝廷に命令を伝えた
司隷校尉
劉暾らは反対して
「羊庶人は離宮に軟禁されており
厳重に警備されております。
姦人と乱を企むことなどありません。
賢者・愚者問わずみな
羊氏の冤罪を訴えており、
もし枯窮の人を殺してしまえば、
天下を落胆させることになり、
これは国家にとって益とはいえません」
と上書
司馬顒はこれに怒り
洛陽を守る配下の
呂朗に
劉暾の逮捕を命じた
それを知った
劉暾は青州に逃げ
この混乱により
「羊献容」は死を免れた
306年5月
将軍祁弘・宋冑・馬纂
らが長安を攻略し
司馬顒を敗走させ
恵帝を奪還
6月
恵帝が洛陽に帰還
「羊献容」は
六度皇后に復位・・・六度目の皇后に復位
11月
恵帝が死去
羊献容は
六度皇后位を去った
皇太弟
司馬熾が
皇帝に即位する手はずとなったが
羊献容は
元皇太子
司馬覃を皇帝に立てようとし
侍中華混は
「皇太弟は東宮に入ってから久しく
天下も安定を望んでおります
今これを変えるべきではありません」
と諫め
司馬覃
も応じなかったので
「羊献容」は
恵皇后の尊号を贈られ
弘訓宮に居住
↓↑
311年6月
漢の
征討大都督
劉曜
征東大将軍
王弥
前軍大将軍
呼延晏
らが洛陽へ襲来し
晋軍は抗し切れずに
洛陽は陥落
↓↑
永嘉の乱
「羊献容」
は捕らえられ
漢の都
平陽に連れ去られ
「劉曜」
に見初められて
その妻となった
↓↑
「羊献容」は「劉曜」との間に
劉煕を始め3人の子を生んだ
↓↑
318年8月
大将軍
靳準が平陽で反乱
漢の皇族を全て皆殺しにした
劉曜は
長安を守っていたので難を逃れ
百官の求めに応じて
皇帝に即位
「羊献容」は七度皇后に立てられた
劉曜には
正妻
卜氏との間に
劉胤という世子がいたが
靳準の乱で行方不明
劉煕が皇太子に立てられた
「羊献容」は
劉曜の寵愛を受け
後宮の取り仕切りだけでなく
政治にも参画
劉曜は
羊皇后へ
「朕と司馬家の男を比べたらどうかね」
と問うと
羊皇后は
「陛下は開業の聖主ですが
彼(恵帝)は
亡国の暗夫に過ぎないので
比べるまでもありません
彼は帝王でありながら
一婦一子どころか
自分の身も守ることができませんでした
妾は当時、
天下の男とは
全てこうであるのかと思い
生きる希望も失ったものです
陛下に嫁いでから
始めて天下に
大丈夫がいることを知りました」
と語った
劉曜は
「羊皇后」を寵愛し
羊皇后は度々
政治に深く干渉するほどの力を持った
↓↑
322年
「羊献容」
死去
劉曜により
献文皇后と諡された
12月
劉曜は巨大な陵墓を作り
「羊献容」を埋葬し
墓号を
顕平陵とした
↓↑
子女
恵帝との間の娘(『太平御覧』)
清河公主
↓↑
劉曜との息子
劉熙、劉襲、劉闡
↓↑
ーー?ーー
↓↑
多胡 羊太夫(たご ひつじだゆう)
↓↑ ・・・多くの「胡人」の居住地?・・・
多胡=タコ=鱆・章魚・蛸・海蛸
鮹・多古・凧
章の魚・虫の肖・魚の肖
肖=小+冃(肉)
↓↑ ↓↑ ↓↑
肖=にる・あやかる・似ている
類する・象る・小さい
消失する
もとのものに似る・似せる
ショウ・セウ
名のりは
あえ・あゆ・あれ
すえ・たか・のり・ゆき
肖者・肖物(あえもの)
肖る(あやかる)
肖似(ショウジ)
肖像(ショウゾウ)
肖る(にる)
↓↑ 不肖(フショウ)
「鮹・消・梢・屑・削」
「鮹=馬の鞭の形の淡水魚
(中国語)」
「鮹=わが身を喰って魚の姿に
なろうとする?」
「オクトパス=オクトープス
ラテン語の8本脚」
↓↑ 「Octopus=海蛸子」
奈良時代
天武(672年〜686年)
に活躍した
上野国(群馬県)の豪族
多胡郡の郡司
多胡碑によれば
「和銅四年・・・和金同肆年?
近隣
三郡から
三百戸を
切り取り
羊
なる者に与え
多胡郡とした」
と記載
「羊」
多胡碑の原文は漢文であり
「給羊」
の句があることから発想
人名説以外に
方角説
時刻説などがある
現在学説では人名説が有力
名前については
多胡(藤原)羊太夫宗勝
小幡羊太夫とも
ーーーーー
羯族・・・「般若心経」の「羯啼」
で
匈奴別部の
羌渠の血統
元の名を
「㔨」と言い
幼名は
「匐勒」
祖父は
耶弈于
父は
周曷朱(又の名を乞翼加)
前趙の将軍として各地を攻略し
王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷
といった敵対勢力を次々と滅ぼした
劉聡の死際には後事を託され
劉曜と対立すると自立して
後趙を樹立
前趙を滅亡に追いやって
華北に覇を唱えた
奴隷から
皇帝まで昇った
中国史上唯一の人物・・・
ーーーーー
茞=艹+臣=シン=fragrant plant,angelica
異体字は茝
声符「臣」・臣・嚚・䢻・姫・頣・䛗・挋
↓↑
羊茞
羊衜(ヨウドウ)=羊茞
211年~?
221年~278年?
呉の武将・政治家
荊州南陽郡の人
羊茞とも
弁論の才能を有す
225年
蜀漢の使者の
費禕が来訪したとき
呉側で論争を挑んだ人物の1人
229年
孫登が皇太子になると
その賓客になった
翌年
20歳で太子
中庶子に昇進
魏の
隠蕃という人物が帰順してくると
朱拠
郝普
などが彼を賞賛したが
羊衜
は彼と付き合おうとしなかった
やがて
隠蕃が間諜であることが判った
↓↑
衜(みち・ドオ・ダオ)=道
Dao
衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
謂う・云う・言う
導(みちび)く
人が行き来するための通り道
道路
人が守り行うべき決まり
道理(ドウリ)
云う・語る・述べる・唱える
老子・荘子の教え・道教
漢代の行政区画の名
導く・手引きする・教え導く
昔の地域区分の名
東海道
中仙道(なかセンドウ・中山道)
山陽道
西海道
みち・学問や芸術のわざ・技術
↓↑
衜=彳+首+亍
異体字は「衟・道・噵」
↓↑
道=衜=衟
𨔞・𨖁・噵・𨗓
𧗞=道の籀文(石鼓文の註)
遯=字彙補と同じ音「𧗟」
↓↑
北海道
ーーーーー
↓↑
戊辰
248年干支=戊辰・・・正始九年
9月 5日の朝 5:50・・・日食
卑弥呼死没?
248/9/5/5:50
戊辰(乙・癸・戊)⇔龍・竜
庚申(己・壬・庚)⇔猿・猨・猴・猱・狙・沙流
辛酉(庚・ ・辛)⇔鳥・隹
↓↑
神功皇后四十八年八月一日?
↓↑
戊辰戦争(ボシンセンソウ)
慶応四年/明治元年~明治二年
1868年~1869年
明治政府樹立の
薩摩藩・長州藩・土佐藩
ら
新政府軍
と
旧幕府勢力
奥羽越列藩同盟
が戦った内戦
明治新政府が同戦争に勝利
戦争経緯
鳥羽・伏見の戦い
甲州勝沼の戦い
宇都宮城の戦い
北越戦争
東北戦争
箱館戦争
旧暦
慶応四年一月三日
1868年1月27日
~
1869年6月27日
明治二年五月十八日
ーーーーー
蔡 邕(サイ ヨウ)
?132年、133年~192年
後漢末期の政治家・儒者・書家
字は伯喈(ハクカイ)
兗州
陳留郡
圉県の人
父は蔡棱
娘は蔡琰
従弟は蔡谷
外孫は
羊徽瑜(西晋の景献皇后)
羊祜
↓↑
太傅の胡廣に師事
辞章・ 数術を好み
音律を解した
170年
司徒
橋玄の府にまねかれ敬待
郎中として東観で書物を校閲し
議郎に還った
↓↑
彼は経書の文字が時を経る間に
転写などによって
誤謬が生じ
後学の人を誤らせるのを恐れ
馬日磾
ら数人とともに
霊帝に願い出て
経書の文字を正定する許可を得た
蔡邕
自ら隷書でこれを書き
石工に刻ませ
183年に完成
洛陽の
太学の門前にこの石碑を立てた
「熹平石経」と称された
後漢になって
古文経学が盛んになり
今文との比較研究が行われ
諸儒がそれぞれ異説を唱えた際
熹平石経
が彼らの準拠となった
清朝末期の
光緒四年以来、洛陽の故趾から
断片が相次いで出土
↓↑
周の文王を祖とし
蔡国初代国王は
蔡仲(蔡胡)
子孫が
「蔡邕」
蔡邕の娘
蔡琰は
曹操がその暗記力に感嘆した
蔡琰は芸術肌
演奏中に切れた琴の絃を聞いて
当てることができた
蔡邕・蔡琰の祖先に
蔡勲という県令を務めた人物は
前漢を滅ぼした
王莽に反発して隠棲
↓↑
泰山郡の名族=羊氏
ーーーーー
・・・
・・・自分自身の問題なのに・・・「他人事」のように、「全力を傾けて膿を出し、全容を解明していきたい、と考えます」・・・敵前逃亡の「柳ケ瀬」・・・「人間失格のトランプ」と何をハナシあうんだか・・・オマケにトランプ以下の「財務省次官のセクハラ」・・・世の中、色んな人間がいるのは当たり前だが・・・色んな人間の一人で、同類である自分自身の中に棲みついているモウひとりの自分自身にも、ゾッと寒気がする・・・TOKYO、マンボ、ドドンパ、ツイスト、ゴゥゴゥ、ロックオトコ?・・・島津亜矢さんは、ナニを歌っても上手いなぁ~・・・でも、ウラミは流せないカモ・・・でも、山本リンダ・・・スゴイねッ、この世はスベテ私の為にあるんだッ・・・たしかに、生きているかぎり、アンタのタメにアル・・・
「子羊」って迷っているんだか、ドウなんだか?・・・
ーーーーー
石苞(セキハウ)・・・「石」ってペトロ、「羊=未=未艶」ってマリア・・・「竎」、「羯」、「羭」って?・・・「瑪」は「新約」の「使徒行伝の名前に使用される漢字」だが、「瑪瑙」ではない・・・「碼(ヤード)=石+馬=ヤール・イギリスの尺度の単位」って、これも「碼瑙」・・・「密碼=パスワード」・・・「号碼」は中国語で「番号」・・・
↓↑
羊祜(ヨウコ)・・・祜
221年~278年
三国時代から
西晋にかけての武将
字は叔子
曾祖父は
羊儒・・・儒
祖父は
羊続・・・続
父は
羊衜・・・衜
(上党太守)
母は
蔡邕の娘
伯父は羊秘・・・秘
(京兆太守。妻は蔡氏)
叔父は羊耽・・・耽
(泰山太守。妻は辛憲英)
異母兄は
羊発(母は孔融の娘)
同母兄姉は
羊承・・・承
羊徽瑜・・・徽瑜
(司馬師の妻、献皇后)
妻は
夏侯覇の娘
伯母(一説には母)は蔡琰
↓↑
羊陸の交わり
西晋の
羊祜・・・祜
と
呉の
陸抗(リクコウ)
敵ながらも互いに信義を持って相対
歩闡(ホセン) の乱
(西陵の戦い)
晋呉両軍の総司令官として戦った
酒や薬を贈りあった
信義は
「羊陸之交(羊陸の交わり)」
領民はその死を嘆いて廟を建て
「堕涙の碑」と呼ばれた
↓↑
晋の天下統一に貢献した名将
羊祜
晋は司馬氏の台頭によって建国
呉を滅ぼしたのは
羊祜が貢献
↓↑
・・・そんなコトより「羊+α」の「α+α+α+・・・」の「α+・・・」はナニを暗示しているんだか?・・・
↓↑
司馬昭の義弟
はじめ魏に仕え
司馬炎が
晋を建国すると
晋に仕え
対呉戦の都督として活躍
戦争中に病死
↓↑
ーーーーー
司馬炎(シバエン)
西晋の初代皇帝
諡号は武帝
魏から禅譲で
晋を建国
西暦280年
呉を滅ぼし
中国を統一
後に
八王の乱
遠因を招いた
↓↑
司馬炎(武帝)
265年
魏の皇帝から禅譲
晋(西晋)を建国
280年
呉を滅ぼし中国を統一
魏の実権を握っていた
司馬懿の孫
魏の
曹操・曹丕親子の武将だった
司馬懿(仲達)は
249年
クーデターによって実権を握り
その後、その子の
司馬昭
孫の
司馬炎
と司馬氏が権力を握る
↓↑
司馬炎 (236〜290)
西晋初代皇帝(在位266〜290)
魏王朝の実権を握った
司馬炎が
蜀漢を滅ぼして
2年後
曹魏の元帝に禅譲を迫り
晋王朝(西晋)を建国
洛陽を都とし
280年
江南の
呉を滅ぼして中国を統一
州や郡の
常備兵を削減
占田・課田法
戸調式
など政策を推し進めた
が、
女色に溺れ外戚の専横を許した
-------
司馬懿
河内郡
温県
孝敬里
出身
司馬防の次子
楚漢戦争期の
十八王の一人である
殷王
司馬卬の12世孫
司馬氏は代々
尚書などの高官を輩出
↓↑
兄に
司馬朗(伯達)
弟に
司馬孚(叔達)
司馬馗(季達)
司馬恂(顕達)
司馬進(恵達)
司馬通(雅達)
司馬敏(幼達)
司馬家の8人の男子は
「司馬八達」
-ーーーー
司馬師(シバシ)
208年~255年
魏の武将、政治家
字は
子元
西晋で
世宗の廟号
景帝の諡号
司馬懿の長子
司馬昭・司馬榦の同母兄
生母は
張春華(宣穆皇后)
↓↑
司馬懿-仲達
179年~251年9月7日
後漢末期~三国時代
曹魏にかけての武将・政治家
西晋の礎を築いた
字は
仲達
西晋が建てられ
廟号を高祖
諡号を宣帝
-ーーーー
太和二年(228年)
孟達が
蜀漢の
諸葛亮と内応して
魏に叛いた
司馬懿が赴任していた
宛から
孟達の任地である上庸までは
通常の行軍で1ヶ月の道程
司馬懿は
丁寧な書簡を送って
孟達を迷わせ
昼夜兼行の進軍を強行
8日で上庸までたどり着いた
城を包囲された
孟達は、同僚や部下に離反され
司馬懿はこれを破り、斬首した
諸葛亮ら蜀漢の中枢は動揺
↓↑
青龍二年(234年)
「死せる諸葛
生ける仲達を走らす
(死諸葛走生仲達)」
ーーーーー
公孫淵の征討
「遼隧の戦い」
景初二年(238年)
遼東に拠っていた
公孫淵が反乱
司馬懿は
征討を命じられ
明帝は
公孫淵の策を
司馬懿に尋ねた
司馬懿は
「城を捨てて逃げるが上策、
遼水に拠って
我が大軍に抗するは次策、
襄平に籠もるなら
生捕りになるだけです。
公孫淵が知恵者ならば、
城を捨てることも有るでしょうが、
公孫淵はそんな策を
考えつける人物ではありません」
と答えた。
↓↑
司馬懿は
毌丘倹
胡遵
らとともに
公孫淵討伐に出発
司馬懿が遼東に到着したころ
遼東では長雨が続き
遠征はさらに長引くおそれがあった
廷臣たちは遠征の中止を
曹叡に訴えたが、
「司馬公は機に応じて
戦略を立てることのできる人物だ。
彼に任せておけば間違いはない」
と
魏の征討に対し
公孫淵は
呉に援軍を求めたが
孫権は
「司馬公は用兵に優れ、
自在に使うこと神の如しという
そんな人物を相手にせねばならないとは
あなたもお気の毒だ」
と書簡を送っただけ
司馬懿は
野戦で
公孫淵が派遣した軍勢を破り
公孫淵は籠城
公孫淵軍は兵は多く、食料は少なかった
司馬懿はこれを見て
「兵力が多く兵站の確保が難しいときには
ある程度犠牲が出ようとも
速戦でかたをつけるべきで
逆に兵力が少なく
兵站が安定している場合には
持久戦を行うのがよい」
と部下に語った
出征前、明帝に
「反乱をどう平らげるか」
と聞かれた司馬懿は
「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、
その他休養などに60日を当てるとして、
1年もあれば充分でしょう」
と答え、この通りに軍を動かし、
公孫淵を破った
司馬懿の思惑通り、
公孫淵軍の食料は底をつき
公孫淵は使者を送り
人質を差し出して
和議と助命を嘆願
司馬懿はこれを拒絶
「戦には五つの要点がある。
戦意があるときに闘い、
戦えなければ守り、
守れなければ逃げる。
あとは降るか死ぬかだ。
お前達は降伏しようともしなかったな。
ならば残るは死あるのみ。
人質など無用である」
公孫淵は子の
公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて
包囲を突破して逃亡
司馬懿は追撃し
公孫淵親子を斬り殺した
城は陥落し
司馬懿は公孫淵の高官たちを斬り
遼東の制圧
中原の戦乱から避難してきた人々が
大量に暮らしていた
遼東は、
反魏の温床になるおそれがあると
司馬懿は
15歳以上の男子を
数千人(7000人ほど)殺した
公孫淵の滅亡によって
朝鮮半島北部が魏に押さえられ
邪馬台国の
卑弥呼が
魏に使者を派遣
・・・「公(天子)の
孫(まご)の淵(ふち)」
・・・淵=氵(水)+𣶒(片一爿)
ーーーーー
淵=ふち・エン
水を深くたたえている所
海淵・深淵
物事の出てくる根源
淵源
物の多く集まる所
淵藪 (エンソウ)
「渊・渕」は俗字
すえ・すけ・なみ・のぶ
ひろ・ふか・ふかし
「淵 (どぶ) 釣り」
異体字は渊・渕(俗字)
𡆼(同字)・𣶒(古字)・囦(古字)
𠝃(古字)・𣴸(同字)・𣴺(同字)
渁(同字)・渆(同字)・㴊(同字)
𣾬(同字)・㶜(同字)
声符「𣶒」・婣・䨊・淵・鼘・𨓯
↓↑
䨊=雥+𣶒
異体字は𩁵
声符「𣶒」・𣶒・婣・淵・鼘・𨓯
淵
異体字は渊(簡体字・俗字)・渕(俗字)
𡆼(同字)・𣶒(古字)・囦(古字)
𠝃(古字)・𣴸(同字)・𣴺(同字)
渁(同字)・渆(同字)・㴊(同字)
𣾬(同字)・㶜(同字)
発音は ふち・かたい・はなわ
エン(ヱン)
名乗は、しずか、すえ、すけ、なみ、のぶ
ひろ(佐藤信淵)
ふか、ふかし
ふち(賀茂真淵)
ーーーーー
権力闘争
魏の
景初三年(239年)
曹叡が死亡
曹真の長男
曹爽と共に次代の帝
曹芳の補佐を託された
『漢晋春秋』によると、
曹叡は当初
曹宇を大将軍に任じ
後事を託そうと考えていたが
劉放
と
孫資
の2人の進言により彼を罷免し
曹爽
と
司馬懿
の2人に後事を託すことになった・・・
↓↑
権力独占を狙う
曹爽の画策により
司馬懿は
名誉職の
太傅に転任
軍権はそのままで、依然として
対蜀漢の最前線を任されていたため
曹爽が内政、
司馬懿が軍事を分け合う形になった
(当初、軍権を保証するため
大司馬を兼任させる予定だったが
不吉な先例があった
という理由で見送られた
また
曹爽と同じく
「剣履上殿」
「入朝不趨」
「謁賛不名」
(剣を帯び靴を履いたまま
昇殿しても許され
小走りに走らずともよく
皇帝に目通りする際は
実名を避けてもらえる)
の特権を与えられた
↓↑
正始二年(241年)
呉の朱然らが樊城を包囲すると
自ら進み出て
軽騎兵を率いて救援におもむき
朱然を退けた(芍陂の役)
『晋書』宣帝紀と
干宝
『晋紀』によれば
司馬懿は
朱然を追撃して、大いに破った
『三国志』には
司馬懿が朱然を破ったという記述はない
243年
呉の諸葛恪を撤退させた
これに対して
正始五年(244年)
曹爽が行った
蜀漢出兵(興勢の役)は失敗
司馬懿は失敗を予期し
反対していたので
両者の対立が表面化・・・
↓↑
正始七年(246年)
呉の侵攻では
曹爽は逃げて来た住民を帰すよう主張
司馬懿は反対したが聞き入れられず
その結果
魏は大損害
正始八年(247年)5月
70歳近い高齢と病気を理由に引退
曹爽も司馬懿を警戒し
司馬懿は
曹爽一派の
李勝の前で芝居を打ち
李勝が見舞いのため自宅を訪ねてきた際
李勝が言ったことを
わざと聞き間違えたり
薬を飲むときに
ダラダラとこぼすなどして
耄碌した姿を見せた・・・
↓↑
正始十年(249年)1月6日
曹爽が曹芳の供をして
曹叡の墓参りに行くため
洛陽を留守にした機会を見計らって
司馬懿はクーデター
司馬懿は
郭太后に上奏し
曹爽兄弟の官職を解任する令を得た
司馬懿は
司馬師・司馬孚に
洛陽の宮城を制圧させ
郭太后の令を用いて
高柔・王観に命じて
洛陽の
曹爽・曹羲の陣営を制圧し
洛陽を制圧
司馬懿は
蒋済とともに
洛水の岸辺に布陣し
免官するだけだと
曹爽を説得し
戦わずして降伏させた(高平陵の変)
1月10日
曹爽らに謀反の企みがあったとし
一族郎党皆殺しにした
曹爽の腹心の
何晏・桓範
らを一族と共に処刑
『晋書』は
「これが忠臣の行いと言えようか」
と非難
実権を握っていた
司馬懿だったが
丞相の位を与えられた際
これを固辞
嘉平三年(251年)
王淩
らの企てた
楚王
曹彪を擁立し
曹氏の実権を取り戻すクーデターを
密告により察知
司馬懿は証拠を握ると
硬軟両面で
王淩を追い込み、降伏させた
王淩は
司馬懿が自分を殺すことを悟って自殺
曹彪も自殺を命じられた
後
魏の皇族をすべて
曹操時代の
魏都であった
鄴に軟禁
司馬懿は
魏における全権を握ったものの
自身は同年に死去
首陽山に埋葬
孫の
司馬炎が
魏より禅譲を受け
皇帝となり
祖父の
司馬懿を
高祖宣帝と追号
↓↑
魏の礎を創った
曹操は・・・曹(ソウ)操(あやつる)
↓↑ 曹=ソウ(サウ)・ゾウ(ザウ)
つかさ・役人・役所の部屋・法曹
仲間・ともがら・児曹
軍隊の階級の一・曹長・軍曹・兵曹・陸曹
「曹達 (ソーダ) 」の略
「重曹」
へや・つぼね
「曹司」
とも・のぶ
↓↑ 軍曹 (さかん) ・将曹 (さかん)
西晋の礎を築く
司馬懿に対して
「司馬懿は
誰かに仕えるような男ではない」
と常に警戒していた
「狼顧の相」
「狼顧」というのは
「狼が用心深く背後を振り返るように
警戒心が強く老獪なこと」
を指す
司馬氏の
西晋を滅ぼした一人
後趙の・・・後生・語史和得?
石勒は・・・石の勒(革力)
司馬懿が
郭太后
を利用したことを
曹操が
献帝を利用したことに
引き比べて非難
「大丈夫たる者、磊磊落落(磊落)
日月が明るく輝くように
物事を行うべきであって
曹孟徳(曹操)
や
司馬仲達父子
(司馬懿・司馬師・司馬昭)
のように、
孤児(献帝)や
寡婦(郭太后)を欺き
狐のように媚びて
天下を取るような
真似は絶対にできない」と
↓↑
宗室
后妃
正室=張春華(宣穆皇后)
側室=伏夫人、張夫人、柏夫人
子女
景帝 司馬師 (母=宣穆皇后)
文帝 司馬昭 (同上)
汝南文成王 司馬亮 (母=伏夫人)
琅邪武王 司馬伷 (同上)
清恵亭侯 司馬京 (同上)-24歳で早世
扶風武王 司馬駿 (同上)
平原王 司馬榦 (母=宣穆皇后)
梁孝王 司馬肜 (母=張夫人)
趙王(建始帝) 司馬倫 (母=柏夫人)
南陽公主 (荀霬の妻、母=宣穆皇后)
高陸公主 (杜預の妻)
↓↑
司馬倫
西晋の
第三代皇帝
八王の乱の
八王の1人
字は子彝
司馬懿の第9子(末子)
建始帝
諡号ではなく
私年号の
建始から取ったもの・・・
・・・倭のタケルは・・・
「私ネン号の建が始め」
↓↑
石勒
五胡十六国時代の
後趙の創建者
字は世龍
上党郡
武郷県
(山西省楡社県の西北)
出身の
羯族・・・「般若心経」の「」
で
匈奴別部の
羌渠の血統
元の名を
「㔨」と言い
幼名は
「匐勒」
祖父は
耶弈于
父は
周曷朱(又の名を乞翼加)
前趙の将軍として各地を攻略し
王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷
といった敵対勢力を次々と滅ぼした
劉聡の死際には後事を託され
劉曜と対立すると自立して
後趙を樹立
前趙を滅亡に追いやって
華北に覇を唱えた
奴隷から
皇帝まで昇った
中国史上唯一の人物・・・
ーーーーー
・・・
異=田+共
通仮字、機
異体字、異・𠔱・异・𢄖・𤱨・𤱺・𢍀
簡体字、异
声符「異」、㔴・翼・潩・𩙺・𠪙
䔬・禩・𩛛・廙・趩
↓↑
セキホウ隊
西郷隆盛や岩倉具視の支援を得
慶応四年一月八日(1868年2月1日)
近江国松尾山
金剛輪寺において結成
隊長は
相楽総三
綾小路俊実
滋野井公寿
らを盟主として擁立
ーーーーー
・・・???・・・
羊鑑=匈奴中郎将の羊済の子
ーーーーー
多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)
奈良時代
天武(672年〜686年)に活躍したとされる
上野国(群馬県)の豪族
多胡郡の郡司
多胡碑によれば
「和銅四年
近隣三郡から三百戸を
切り取り
羊
なる者に与え
多胡郡とした」
と記載
「羊」
多胡碑の原文は漢文であり
「給羊」の句があることから発想
人名説以外に
方角説
時刻説などがある
現在学説では人名説が有力
名前については
多胡(藤原)羊太夫宗勝
小幡羊太夫とも
ーーーーー
茞=艹+臣=シン=fragrant plant,angelica
異体字は茝
声符「臣」・臣・嚚・䢻・姫・頣・䛗・挋
↓↑
羊茞
羊衜(ヨウドウ)=羊茞
211年~?
221年~278年?
呉の武将・政治家
荊州南陽郡の人
羊茞とも
弁論の才能を有す
225年
蜀漢の使者の
費禕が来訪したとき
呉側で論争を挑んだ人物の1人
229年
孫登が皇太子になると
その賓客になった
翌年
20歳で太子
中庶子に昇進
魏の
隠蕃という人物が帰順してくると
朱拠
郝普
などが彼を賞賛したが
羊衜は彼と付き合おうとしなかった
やがて
隠蕃が間諜であることが判った
↓↑
衜(みち・ドオ・ダオ)=道
Dao
衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
謂う・云う・言う
導(みちび)く
人が行き来するための通り道
道路
人が守り行うべき決まり
道理(ドウリ)
云う・語る・述べる・唱える
老子・荘子の教え・道教
漢代の行政区画の名
導く・手引きする・教え導く
昔の地域区分の名
東海道
中仙道(なかセンドウ・中山道)
山陽道
西海道
みち・学問や芸術のわざ・技術
↓↑
衜=彳+首+亍
異体字は「衟・道・噵」
↓↑
道=衜=衟
𨔞・𨖁・噵・𨗓
𧗞=道の籀文(石鼓文の註)
遯=字彙補と同じ音「𧗟」
↓↑
北海道
ーーーーー
↓↑
戊辰
248年干支=戊辰・・・正始九年
9月 5日の朝 5:50・・・日食
卑弥呼死没?
248/9/5/5:50
戊辰(乙・癸・戊)⇔龍・竜
庚申(己・壬・庚)⇔猿・猨・猴・猱・狙・沙流
辛酉(庚・ ・辛)⇔鳥・隹
↓↑
神功皇后四十八年八月一日?
↓↑
戊辰戦争(ボシンセンソウ)
慶応四年/明治元年~明治二年
1868年~1869年
明治政府樹立の
薩摩藩・長州藩・土佐藩
ら
新政府軍
と
旧幕府勢力
奥羽越列藩同盟
が戦った内戦
明治新政府が同戦争に勝利
戦争経緯
鳥羽・伏見の戦い
甲州勝沼の戦い
宇都宮城の戦い
北越戦争
東北戦争
箱館戦争
旧暦
慶応四年一月三日
1868年1月27日
~
1869年6月27日
明治二年五月十八日
ーーーーー
蔡 邕(サイ ヨウ)
?132年、133年~192年
後漢末期の政治家・儒者・書家
字は伯喈(ハクカイ)
兗州
陳留郡
圉県の人
父は蔡棱
娘は蔡琰
従弟は蔡谷
外孫は
羊徽瑜(西晋の景献皇后)
羊祜
太傅の胡廣に師事
辞章・ 数術を好み
音律を解した
170年
司徒
橋玄の府にまねかれ敬待
郎中として東観で書物を校閲し
議郎に還った
彼は経書の文字が時を経る間に
転写などによって
誤謬が生じ
後学の人を誤らせるのを恐れ
馬日磾
ら数人とともに
霊帝に願い出て
経書の文字を正定する許可を得た
蔡邕
自ら隷書でこれを書き
石工に刻ませ
183年に完成
洛陽の
太学の門前にこの石碑を立てた
「熹平石経」と称された
後漢になって
古文経学が盛んになり
今文との比較研究が行われ
諸儒がそれぞれ異説を唱えた際
熹平石経
が彼らの準拠となった
清朝末期の
光緒四年以来、洛陽の故趾から
断片が相次いで出土
周の文王を祖とし
蔡国初代国王は
蔡仲(蔡胡)
子孫が
「蔡邕」
蔡邕の娘
蔡琰は
曹操がその暗記力に感嘆した
蔡琰は芸術肌
演奏中に切れた琴の絃を聞いて
当てることができた
蔡邕・蔡琰の祖先に
蔡勲という県令を務めた人物は
前漢を滅ぼした
王莽に反発して隠棲
ーーーーー
「泰山郡の名族=羊氏」・・・
・・・マンドリルの社会・・・「mandrill=すだま=山魈(サンショウ・shan1xiao1・シャンシヤオ)」・・・牝が牡のリーダーを擁立・・・当然・・・?
ーーーーー
石苞(セキハウ)=???・・・「石(丆口)」の
「苞(艹勹巳)」
↓↑
孫楚・・・・・・・孫(「子・孑・孒」の「系」)の
↓↑ 楚(「木木」を疋(ひき・あし・ショ・ソ)
疋=乛+ト+人=二反・昔の金銭の単位=十文
↓↑ 動物を数える語・布の長さの単位
の人物評を求められ
「彼は天才にして知識が広く、
群を抜いて優れています」
と
孫楚を推薦
↓↑
孫楚は
40歳を過ぎて
魏に仕え・・・魏=委(禾女)+鬼(ノ田儿ム)
揚州の
対呉の最前線を守る
鎮東将軍の
「石苞」
の参軍事となる
↓↑
苞(ホウ)=艹+勹+巳
花や花序の基部にあって
蕾(莟・つぼみ⇔窄み)を
↓↑ ・・・窄=宀+儿+乍
↓↑ 窄む(すぼ-む)
窄まる(せば-まる)
窄い(せま-い)
窄む(つぼ-む)
搾る(しぼ-る)=扌+窄
搾取・搾乳
包んでいた葉のこと
苞葉とも
また個々の苞を苞片
普通の葉より小さく
緑色をしたもの
しかし、
花弁(花びら)や・・・花(艹イ牝)の弁(厶廾)
萼(蕚・うてな・ガク)に・・・蕚=艹品一丂
↓↑・・・菩薩の座る蓮の花の台座
往生した者が極楽浄土で座る
蓮の花の座・蓮台(臺)
・・・臺=吉冖至
十一口ワ一ム十一
壱拾壱の國の倭、始の横島の重位地(位置・市)
はちす(蓮)のうてな(台)
(蜂巣・蜂須・八須)の(台)?
・・・「鉢・葉智」素(州)の太(他意・替)?
うてな(台=臺)
四方を眺めるために建てられた高い建物・高殿
「萼=花の萼 (がく)」・高い土壇・建物・高殿
物を載せる台
↓↑ 眺望をよくするために、土を積んで高くした所
見えるような植物もある
逆に
葉としてよく発達し
本当の葉の方が
退化している例もある
また
花序全体の基部を包む苞を
総苞といい
個々の総苞を
総苞片という
イネ(稲)科や
カヤツリグサ(蚊帳つり草・萱つりぐさ)科の
花は鱗片が折り重なったもので
小穂と呼ばれる
この鱗片はもともとは
苞ないし
総苞に由来
↓↑
苞=つつみ・つつむ・つと・ねもと・ホウ
草の名の「あぶらがや・むしろぐさ」
草履(ゾウリ・わらじ=草鞋)、莚(蓆・むしろ)の用材
土産(みやげ)もの
包んだもの・包んだ品物
つつむ
しげる・むらがりしげる
もと・ねもと
↓↑
「包蔵禍心(ホウゾウカシン)」
誰にも気付かれないように
悪事を企むこと
「包蔵」は包み隠すこと
「禍心」は悪い行いをしようと計画すること
「禍心を包蔵す」とも読む
「苞蔵禍心」とも書く
(春秋左氏伝・昭公元年)
↓↑
苞
わら(藁)などを束ね
中に食品などを入れて包みとしたもの
わらづと=「納豆のわらづと」
土地の産物
贈り物として携えてゆく、みやげもの
「都のわらづとに何をせむと思ふに
宇津保 吹上・上」
↓↑
苞=花あるいは花序の付け根に出る葉
芽やつぼみを覆って花を保護する
うろこ状や花びら状となるものもある
包葉
苞=苞苴
包(つつ)むと同語源
藁(わら)などを束ね
その中に食品を包んだもの
わらづと
その土地の産物・旅のみやげ
↓↑
家苞
わが家に持ち帰るみやげもの
「家苞に貝そ拾(ひり) へる
浜波は
いやしくしくに
高く寄すれど(万・四四一一)」
↓↑
苞=艹・艸(そうこう・くさかんむり)
+
包
ホウ・ヒョウ・つと
茅(かや)の一種
「ぞうり・むしろ」などの材料
むしろぐさ・あぶらがや
つつみ・つと
つつんだ品物・みやげもの
つつむ・まるくまとめてつつむ
茎につつまれて、ふっくらとした根もと
しげる
枝葉が幹をつつんだように
こんもりとしげる
むらがりしげる
↓↑
苞
葉の変形したもの
花を保護するモノ
苞葉と同義
植物用語の一つで
花や花序の下部にあって
つぼみを包んでいた葉のこと
個々の苞を苞片という
多くの場合
普通の葉より小さ
緑色をしたもの
しかし
花弁や萼に見えるような植物もある
逆に葉としてよく発達し
本当の葉の方が退化している例もある
花序の下部の苞を総苞といい
個々の総苞を総苞片という
ーーーーー
・・・
マンドリルの社会・・・
「mandrill=すだま=山魈
(サンショウ・shan1xiao1・シャンシヤオ)」
牝が牡のリーダーを擁立・・・当然である・・・
ーーーーー
卑弥呼(ひみこ)の時代
(正始十年=249年)
正始十年
(四月に改元されて
嘉平元年=249年)
曹操の
曹氏の魏から
司馬懿の
司馬氏の晋へ
禅譲革命
泰始元年
265年12月
卑弥呼(ひみこ)は
?~247年or248年、249年頃死去?
↓↑
石 苞(セキ ホウ)
?~272年
↓↑
中国三国時代から
晋の軍人
魏・西晋に仕えた
字は仲容
冀州
勃海郡
南皮県の人
子は
石越・石喬・石統・石浚・石儁・石崇
孫は
石超・石熙・石順
学問優秀
容姿イケメン
はじめは
地元の県の小役人
御者の仕事や鄴の市場での
鉄売り従事
特に御者の仕事は
蠟艾と共に行ない
蠟艾とは同い年で
12歳~13歳ぐらいであった(世語)
↓↑ ↓↑
十三歳、卑弥呼の宗女「いちよ・とよ」
「壹與」⇔魏志倭人伝
「臺與」⇔梁書・北史
と記述
正始八年(247年)
帯方郡太守
王頎が着任
倭国は帯方郡へ
載斯烏越
ら使者を派遣
親魏倭王の
女王-卑彌呼に
従わない
狗奴国の
男王-卑弥弓呼
を攻撃中と
王頎に報告
太守は
正始八年
塞曹掾史の
張政らを派遣
詔書(檄文)
黄幢(軍旗)を
難升米(なしめ・ナンショウマイ)
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
升=物の量をはかる容器・計量の単位=石斗升合勺
大宝二(702) 年
初めて枡と尺とを天下諸国に分った(続日本紀)
「一升は十合なり(説文解字(段注本)・巻十四)」
昇・陞と通じて「のぼる」
柄杓型の容器の象形=升=ノ+丿+十=チ+十
ます・のぼる・ショウ
難升米=米(こめ・八方位)を図るのは難しい・・・?
↓↑ ↓↑
に授けて和平を仲介
女王-卑弥呼の死後
後継者の男王を不服として
内乱状態となり
千余人が誅殺し合った
卑彌呼の
宗女
壹與を
十三歳の女王として立て
倭国は安定した
壹與は
倭国大夫率善中郎將の
掖邪狗・・・掖(わき・エキ)=宮門や宮殿のわき
掖庭・禁掖
助け導く
扶掖・誘掖
邪(よこしま・ジャ)=牙+阝
狗(いぬ・ク)
ら二十人を随行させ
張政らを帰還させた
その際
男女生口三十人を献上
白珠五千孔
逭大勾珠二枚
異文雑錦
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
異文雑錦(イモンザッキン)・倭錦(ワキン)
異文⇔異なる文(あや・ふみ・ブン)
異=象形文字
鬼の面をかぶって両手を挙げた形?
人が鬼を追い払う際に
かぶる面をつけて両手をあげ
いつもとは普通でない容貌・・・?
田=面で、共=首下の身体・・・?
・・・鬼の面+両手を掲げた姿・・・象形?
甶+儿+ム
田=狩る
共=一つ・・・共=十+十+一+八
共≒廾+一≒++一八≒井
共≒廿+八=二八・二十八
・・・旧暦の一ヶ月の日数、28、29
28=弐捌、29=弐玖
「共⇔倶(俱)=供=伴=偕
共=拱・㭟・拲・珙」
共同・協同・協働
「異=田+共」が・・・ナゼ、コト(相違)なるのか?
ちがう(違う)なのか?
翼=羽+田+共?・・・羽の左右
異=田の共=対称の左右の形象?
通仮字、機
異体字、異・𠔱・异・𢄖・𤱨・𤱺・𢍀
𠔱=甲+艸+一+八・・・八=捌
𢍀=㠯+廾・・・㠯=以
簡体字、异=己+廾
声符「異」、㔴・翼・潩・𩙺・𠪙
䔬・禩・𩛛・廙・趩
雑(九木隹)錦(金白巾)
↓↑ ↓↑
二十匹を献上
↓↑
石苞は
やがて
郭玄信(郭誕の子)や・・・「カクゲン=格言・各弦・確言」シン?
郭(廓)の誕(言延)・・・郭務悰
許允・・・・・・・・・・・許(言午)が允(ゆるす・まこと・イン)
に認められ中央で立身出世・・・和田小五郎⇔桂小五郎⇔木戸孝允
↓↑
石苞=セキホウ=赤報
・・・?草莽隊で、王政復古により官軍となった
長州藩、薩摩藩を中心とする
新政府の
東山道鎮撫総督指揮下の一部隊
↓↑
魏、晋の武将
諸葛誕
が反乱を起こした際
司馬昭
が指揮する反乱鎮圧軍に参加
諸葛誕の救援に来た
呉の軍勢を
鍾会・・・「鍾(金の重・ショウ)の会(カイ)」
鍾馗(ショウキ)・・タンゴ(端午の節句)
の計に従い、
伏兵で大破
司馬炎
が
晋王になると
騎将軍に任ぜられた(演義)
↓↑
農民出の
蠟艾と共に
郭玄信の御者となり・・・郭(廓務悰)の御者?
2人とも大臣まで出世するだろうと評価
管輅
と出会い
陰陽の術を訊く
長安で鉄売りをしている時に
司馬懿に見出され
青州刺史
や
鎮東将軍
を歴任(正史)
↓↑
石苞
三国志演義後半の武将
司馬昭が死んだ後
王位を
司馬炎が継ぎ
石苞は
驃騎将軍
大司馬
↓↑
石苞
字は仲容
冀州
勃海郡
南皮県の人(?~272)
魏の将
若い頃は
御者や鉄を売って生業
蠟艾とは同い年で
ともに御者の仕事を行った
司馬懿
の目にとまり
重用されなかったが
子の
司馬師に才を見出され
252年
東興の戦いで
呉軍の
丁奉
に敗れ全軍が撤退する中
石苞だけが兵を失わずに
引き上げ評価
司馬昭が魏の実権を握ると
都督
司馬懿が重用した
州泰(シュウタイ)
ら刺史を
逆に監督下に置く
257年
諸葛誕の反乱
監軍として采配
諸葛誕の援軍に現れた
呉軍を撃破
259年
荊州諸軍事に移った
王基
の後を受け
揚州諸軍事
対呉方面の最高指揮官
司馬昭の信頼を得
彼の前で
魏帝の
曹髦(ソウボウ)
を賞賛しても咎められず
司馬昭
が
265年に死去すると
帝位につかないまま没したのを嘆き
直後には
陳騫(チンケン)とともに
魏帝の
曹奐(ソウカン)へ
暗に
司馬氏への禅譲を迫った・・・
石苞は
周囲から妬まれ
王琛(オウタン)は
「大石が馬を踏み潰す」
という童謡を
石苞が
司馬氏に
反乱する兆候だと讒言
これを
呉の
丁奉が利用し
離間策を仕掛けると
晋帝の
司馬炎は
疑心暗鬼となり
石苞の子の
石喬(セキキョウ)
に出頭を命じたが
無視され
268年
石苞は
謀反人として任を解かれ都に召還
司馬炎の叔父に当たる
司馬駿(シバシュン)が
その立場の危うさを
石苞の側近に知らせたため、
石苞は武装を解き自宅謹慎
やがて
羊祜(ヨウコ)ら
重臣の弁護が功を奏し
司馬炎は疑いを捨て
石苞を司徒に昇進させた
石苞は改めて謝罪するとともに
出頭に応じなかった
石喬を
勘当し
以後は重用され
272年に没した・・・
↓↑
市長である
沛国の
趙元儒は
石苞と
交わりを結んだ
趙元儒(ショウゲンジュ)が
石苞の遠大の器量に
「三公・輔弼に昇るだろう」と讃歎
石苞は名を知られるようになった
昇進を重ねて
中護軍である
景帝(司馬師)の
司馬となった
宣帝(司馬懿)は
石苞が
好色で行いが
軽薄であると聞いて
景帝を咎めたが
景帝は
「石苞は行いが足らぬとはいえ
国家を経略する才能を備え
高潔の士は必ずしも
経世済民・・・・・・・・経世済民=大塩平八郎
の能力があるわけではなく
それは
斉の桓公が
管仲の贅沢を忘れて
策謀だけを採用し
漢の高祖が
陳平の汚職を捨てて
妙計だけを採用した理由です
石苞はその二人ほどではないとしても
今日の選りぬきなのです」
と、宣帝はこれで納得・・・
↓↑
東莱・・・・東萊=東莱(トウライ)
中国の地名・山東省煙台市竜口市東莱街道
黒竜江省ハルビン市道外区東莱街道
中国の歴史上の地名
東莱郡=漢代から唐代にかけて設置された
山東省東部、煙台市付近
琅邪太守・・・中国の古地名・ロウヤ=瑯邪・瑯琊・琅玡とも
春秋時代越王、句践(こうせん)が
現在の山東省膠南県南西の地に
黄海を望む台館を起こし、諸侯と会盟を行った
秦の始皇帝はここを治所に
琅邪郡を置き
二十八年(前219)の
泰山封禅の後、琅邪台を設置
を歴任
文帝(司馬昭)が
東関で敗北したとき
石苞ただひとり軍兵を損なうことなく撤退
文帝は所持する節を指差しながら
「これをあなたに授けて
大事に当たれないのが残念だ」
と言って
石苞を
奮武将軍・仮節・監青州諸軍事
に昇進させた
↓↑
諸葛誕が淮南で挙兵したとき
石苞は
青州諸軍を統括し
兗(エン)州刺史
州泰
徐州刺史
胡質
を監督し
選りぬきの精鋭を遊軍として
外部からの侵入に備えた
呉は大将
朱異・丁奉
らに
諸葛誕
を出迎えさせ
諸葛誕らは
輜重
を都陸に残し
軽装騎兵でもって黎水を渡った
石苞らは待ちかまえて攻撃し
これを大破
泰山太守
胡烈が
奇兵奇策でもって都陸を襲撃し
その物資を焼きつくした
朱異らは
敗残兵を取りまとめて撤退し
寿春は平定された
石苞は鎮東将軍を拝命
東光侯に封ぜられ
仮節となった・・・
(孫綝伝)?
↓↑
綝=糸+林=糹+林(チェン・リン)
ひもでつなぎ止める
良い
綝纚(シンリ)
衣装の飾りの羽毛が垂れ下がるさま
綝纚(リンリ)
盛んなさま・盛んに飾るさま
↓↑
楽綝(ガクチン)
?~257
魏衛尉
広昌亭愍侯
陽平衛国の人
楽進の子
楽肇の父《楽進伝》
楽綝=剛毅果断・父親同等の風格
父の死後、家業を継ぐ
正元二年(255)正月
鎮東大将軍
毋丘倹
揚州刺史
文欽
が反乱
二月
大将軍
司馬師が
歩騎十万人余りを率いて鎮圧
文欽の子
文鴦
が騎兵十人余りとともに突出し
司馬師
は引き下がり
左長史
司馬蓀に・・・司馬蓀
騎兵八千を授けて
背後を襲わせ、
将軍
楽綝
らに歩兵を預けてそれを援護させた
沙陽に到着するなり
文欽陣営は陥落し
文欽父子は旗下を連れて
呉へと亡命した
《晋書景帝紀》
↓↑
甘露二年(257)五月
鎮東大将軍
諸葛誕が
中央に徴されて
司空に任命され
諸葛誕は
「我が三公になるのは
王文舒の次のはずだ。
しかも使者を出さずに
兵士に辞令を届けさせているし、
軍勢を
楽綝に委ねよと言うておる
これは楽綝の仕業だろう」
と考え、側近数百人を連れて
揚州の役所へ押し寄せた
《諸葛誕伝》
↓↑
同月六日
揚州刺史
楽綝は
城門を閉ざしたが
諸葛誕は南門から
「洛邑へ帰るついでに
散歩しておるだけなのに
なぜ門を閉ざすのかね?」
と言いながら東門に回った
兵士に城壁を登らせたり
城門を攻めさせたりしたので
城兵はみな逃げ去った
諸葛誕が番人を
叱りつけて門をくぐったので
楽綝は城郭の矢倉に逃げこんだが
結局、斬られた
《諸葛誕伝》
↓↑
諸葛誕は
上表し
「楽綝は嘘ばかり言って
臣が呉とやり取りをしているとか
詔勅により
臣の後任になったなどと申しました
それゆえ臣は国家の命令を奉じ
今月六日に
楽綝を討伐し、その日のうちに
斬首いたしました次第です」
と述べた《諸葛誕伝》
↓↑
帝は詔勅により哀悼の辞を述べ
衛尉の官職を追贈し
愍侯と諡した
《楽進伝》
唐咨は
呉にあって
左将軍
持節の官職を授かり
侯に封ぜられていた
《諸葛誕伝》
↓↑
太平元年(256)八月
丞相
孫峻は
前将軍
唐咨を
征北大将軍
文欽
驃騎将軍
呂拠
車騎将軍
劉纂
鎮南将軍
朱異
らとともに
江都を出発させ
淮水・泗水流域に進出させる
翌九月
孫峻が
病没したため召還
唐咨・呂拠・文欽
は
上表して
衛将軍
滕胤を
丞相にするよう訴えたが
聞き入れられなかった
呂拠は
孫綝が
朝廷の実権を握ったと聞いて怒り
彼を討とうとした
孫綝は
呉帝
孫亮に
詔勅を出させ
唐咨・文欽に呂拠を追討させた
十月
将軍
孫憲・丁奉・施寛らが派遣
呂拠を迎撃し
将軍
劉丞が
滕胤を討伐した
かくて
滕胤は敗北して一族皆殺しとなり
呂拠は自殺した
《孫亮・呂範・孫綝伝》
↓↑
甘露二年(257)五月
魏の
征東大将軍
諸葛誕が
謀叛を企て
長史・・・長子?
呉綱
と
末子
諸葛靚(青見)・・・靚=ショウ・セイ
化粧する・装飾品・しずかな
を使者として
呉に救援を求めた
唐咨は
文欽・全懌・全端・王祚
らとともに
諸葛誕の
救援に駆け付け
軍勢三万人を
寿春城に入れて
楯籠った
魏帝
曹髦が
大将軍
司馬昭とともに東征にあたると
諸葛誕の部将
蒋班
焦彝
らは城壁を越えて投降し
全懌らも降服
《諸葛誕伝》
↓↑
籠城軍は昼夜五・六日にわたって
包囲陣を攻撃し続けたが
包囲を破ることはできなかった
諸葛誕が意見の食い違いから
文欽を殺害すると
文欽の子
文鴦・・・鴦=おしどり・おし・カモ科オシドリ属
鴦(オウ)=オシドリのメス
鴛(エン)=オシドリのオス
文虎
は
魏に投降し
城外から
「文欽の子でさえ殺されなかったのだから、
他の者たちは心配いらないぞ」
呼びかけた
城内では食糧も尽き
戦意も失っていた
司馬昭が一斉攻撃をかけ
寿春城は陥落
唐咨は・・・咨=諮問=はかる・なげく・ああ・シ
はかる・問う・相談する・咨問
なげく・咨嗟(シサ)・ああ。感嘆の声
嗟咨(サシ)・咨詢(シジュン)
咨る(はかる)
王祚
らとともに降服
《諸葛誕伝》
↓↑
朝廷では
唐咨を改めて
安遠将軍に任じた
《諸葛誕伝》
↓↑
司馬昭は勝利に乗じて
呉に侵入しようとしたが
鎮南将軍
都督
揚予・・・揚(あげる)を予(あずかる)
諸軍事
王基の
進言により取り止めた
《王基伝》
↓↑
景元三年(262)冬
司馬昭は詔勅によって
諸州に艦船を建造させ
同時に
唐咨に命令して
外海用の船舶を建造させた
呉討伐のように見せかけ
翌年秋
鎮西将軍・都督関中諸軍事
鍾会に
蜀を攻略させた
鍾会が
蜀の官民に出した宣伝文によると
唐咨は帰順後
魏の国政に参与していた
《鍾会伝》
ーーーーー
卑弥呼の時代から・・・ 卑弥呼(ひみこ)は
?~247年or248年、249年頃死去?
↓↑
石 苞(セキ ホウ)
?~272年
↓↑
十三歳、卑弥呼の
宗女
「いちよ・とよ」
「壹與」⇔魏志倭人伝
「臺與」⇔梁書・北史
と記述
正始八年(247年)
ーーーーー ↓↑
53年、158年、247年年、248年
4回の皆既日食
↓↑
240年干支=庚申・・・正始一年
241年干支=辛酉・・・正始二年
242年干支=壬戌・・・正始三年
243年干支=癸亥・・・正始四年
244年干支=甲子・・・正始五年
245年干支=乙丑・・・正始六年
246年干支=丙寅・・・正始七年
↓↑
247年干支=丁卯・・・正始八年
3月24日の夕・・・日食
↓↑
248年干支=戊辰・・・正始九年
9月 5日の朝 5:50・・・日食
↓↑
249年干支=己巳・・・正始十年
己が巳⇔ヨコシマなミ(へび=蛇・まむし=虺・蝮)
↓↑
248年干支 =戊辰
248年9月5日早朝・・・日食
神功皇后 =摂政四十八年
皇紀 = 908年
魏 =正始 九年
蜀 =延熙 十一年
呉 =赤烏 十一年
朝鮮
高句麗 =東川王二十二年
中川王 元年
新羅 =沾解王 二年
百済 =古尓王 十五年
↓↑
倭の五王の時代
454年8月10日
(九州~南四国~南紀で皆既 )
継体天皇の時代
522年6月10日
(北九州~中国~近畿
~中部~北関東で皆既日食)
『日本書紀(巻第二十二)』
推古三十六年三月二日
628年4月10日 9:17
推古36年3月2日(西暦628年4月10日)
三月の丁未の朔戊申
日、蝕え盡きたること有り
「日有蝕盡之」
日食の5日後
女帝推古は
七十五歳で死没
ーーーーー
中国王朝
人物 死去年月 官職 爵位 出身地
魏
↓↑
陳泰
チンタイ 景元元年
五月
260年 司空
(尚書左僕射)
潁陰侯 潁川郡
許昌県
王観
オウカン 景元元年
十月
260年 司空 陽郷侯 東郡
廩丘県
王基
オウキ 景元二年
四月
261年 司空
(征南将軍)
東武侯 東萊郡
曲城県
高柔
コウジュウ 景元四年
九月
263年 太尉 安国侯 陳留郡
圉県
鍾会
ショウカイ 景元五年
正月
264年 司徒 東武侯 潁川郡
長社県
蠟艾
トウガイ 景元五年
正月
264年 太尉 蠟侯 義陽郡
棘陽県
司馬昭
シバショウ 咸熙二年
八月
265年 相国 晋王 河内郡
温県
ーーーーー
中国王朝
人物 死去年月 官職 爵位 出身地
晋
↓↑
王沈
オウシン 泰始二年
五月
266年 司空
(驃騎将軍)
博陵公 太原郡
晋陽県
王祥
オウショウ 泰始四年
四月
268年 太保 睢陵公 琅邪郡
臨沂県
裴秀
ハイシュウ 泰始七年
三月
271年 司空 鉅鹿公 河東郡
聞喜県
司馬望
シバボウ 泰始七年
六月
271年 大司馬 義陽王 河内郡
温県
司馬孚
シバフ 泰始八年
二月
272年 太宰 安平王 河内郡
温県
鄭袤
テイボウ 泰始九年
正月
273年 司空 密陵侯 滎陽郡
開封県
石苞
セキホウ 泰始九年
二月
273年 司徒 楽陵公 渤海郡
南皮県
鄭沖
テイチュウ 泰始十年
閏正月
274年 太傅 寿光公 滎陽郡
開封県
荀邈
ジュンギ 泰始十年
四月
274年 太尉 臨淮公 潁川郡
潁陰県
羊祜
ヨウコ 咸寧四年
十一月
278年 太傅 南城侯 泰山郡
(征南大将軍) 南城県
何曾
カソウ 咸寧四年
十二月
278年 太宰 朗陵公 陳国
陽夏県
陳騫
チンケン 太康二年
十一月
281年 太傅
(大司馬)郯侯 臨淮郡
東陽県
( )内は官職
魏の
咸熙元年七月(264年)に
爵位の制度改定
ーーーーー
・・・人名⇔訊名・人命・仁命・・・地名⇔知名・知命・致命・・・