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コジキジゲン

落石・隕石・岩石・軽石・噴石・歯石・結石・流石・石鹸・・・

2018-04-14 22:53:00 | 古事記字源

 ・・・「流石=さすが・リュウセキ・ルセキ」・・・官僚屋と政治屋のイイワケ・・・「砂州賀⇔鳥取・佐州賀⇔佐賀」・・・?・・・すが・・・横須賀、黄昏=たそがれ=誰彼・
・・?・・・タソガレ・・・首の相のアンケン・・・ヤナセ・・・柳ヶ瀬 (岐阜市)・「柳ヶ瀬ブルース」・・・?
 安目の振る依るは
 此処賂もヌ例留
 爾悔い詞有知と
 得覧出見氐(弖)も
 ・・・ヤナガセのヨルにナイている・・・
ーーーーー
 以=もって・イ=㠯・・・「𠂤=´(ノ)+㠯」
 ↓↑          「阜=𠂤+十」⇔岐阜・・・𠂤=干し肉
             「師=𠂤+帀」⇔恩師・教師・水師・出師
                    水師=海軍提督
                    底度久(ていとく)御魂
       猿田彦は伊勢の
       阿邪訶(あざか・旧一志郡阿坂村、現松阪市)
       の海で漁をし
       比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ
       海に沈んでいる時に
       「底度久(そこどく)御魂」・・・・テイトク=提督
       猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に  オンコン=音根
       「都夫多都(つぶたつ)御魂」・・・塗布絶・訳附建
       泡が水面で弾ける時に       トフタト=訳附他賭
       「阿和佐久(あわさく)御魂」・・・阿波・安房・安和
       の三柱の神が生まれ        アワサク=蛙倭作
       阿射加神社(三重県松阪市大阿坂・小阿坂)に
       鎮座
                    出師=出兵・派兵
              追求・追撃・追加・急追・窮追・猛追
              追院・追憶・追加・追河・追懐・追刊
 ↓↑
 以=レ+´+人
   時間、場所の起点を表す。~より率いる
  (用・庸と通じて)~を用いて・~をもって
  (因・縁)~のために
  (為・謂)思う・おもんみるに
  (与・與)~と・ともに
  (巳・止)やむ・・・ 「巳=已(イ・止む・『漢書』律暦志)」
  (已・既)すでに・はなはだ・のみ・ゆえに
  「用ひるなり(説文解字・巻十四)」
   以=イ=㠯・巳・己・已(既)
  賈侍中?・・・「賈=西+貝(目八)」・・・貝=貨幣
          賈=あきんど・あきない・コ・カ
            商品の売買・商人
            賈船・商賈・良賈
  の説として
 「已意、已の實なり。象形」・・・「己=巳」?
 「薏苡(ヨクイ)」という植物の実の象形
     子実を「薏苡仁(ヨクイニン)」
     光沢に乏しく鞘は暗褐色で割れやす
          =ハトムギ(鳩麦)・ジュズダマ(数珠玉)
           利尿・健胃の薬用・食用・葉は茶の代用
           四国麦・川穀(センコク)
     垂れ下がる花序をたとえ「ヨブの涙(旧約聖書のヨブ記)」
     に由来・「ハトムギ(Coix=ギリシア古名シュロ」 の転用
     「ヨビ(jobi)の涙」
     中国に持ち帰った馬援(マーエン=ma-yuen)にちなむ
     英名、Job tears(ヨビの涙)
     別名Pearl barley(パールバーレー=真珠のような麦)
     鳩麦=殻を剥いた子実の形が鳩に似ているからとも
        鳩が好んで食べるから・・・
       斑鳩=いかるが=鵤(角鳥)=何鹿
       スズメ(雀)目アトリ(獦子鳥・花鶏・集鳥)科の小鳥
       ノアは47日目に鴉(烏・カラス)を放ち、
       水に覆われ陸地がなく、すぐ戻り
       次に鳩(ハト)を放ち、
       オリーブの葉を銜えて戻ってきたので
       ノアは水が引き始めたことを知った
       pigeon (ピジョン)
       dove (ダヴ)
       コキジバト(turtle dove)
       paloma (パロマ)スペイン語
       Taube (タウベ)ドイツ語
       鴿子(コーツ)中国語
       鳩=九+鳥=ハト=葉砥・葉塗・葉訳
 ↓↑
 以=イ=㠯
   もって・おもう・ともに・ひきいる・ゆえ
   名のりに、これ・さね・しげ
   以(㠯)を声符とする漢字
   似(佀)、姒、苡(苢)
   語彙
   以為・以遠・以往・以下・以外・以還
   以後・以降・以上・以西・以前・以東
   以内・以南・以聞・以北・以来
   以心伝心
   𠙋=𠂤+几=字彙補にある「以」の異体字・漢孔宙碑
 スガって?・・・
ーーーーー
 菅=艸+官(宀㠯)・・・㠯(イ)=異体字
              以・已
  (すが・すげ・カン)・・・よこしま
 菅ごも・菅畳
 草の名の「すげ」
 すがすがしい
 すがすがスル
 さっぱりする
 さっぱり
 「さはやか(爽やか)」の語根
 「さは」が促音化し
 「さっぱ」という副詞になり
 「さっぱり」に変化
 さっぱりダメだ・・・努力した割に
           収穫物(甲斐)が少ない
           加為が少ない?
           甲斐
           行為をした効果・効験の意
 ↓↑
 よ-すが
 よすが=身や心を寄せて頼りとするところ        頼みとする人・身寄り
     手がかり・よるべ
     「寄す処(よすか)」 に由来
 すが⇔須賀・菅止・縋・壽賀
 菅=すげ・すが・カン
   イネ科の草の名
   カルカヤ・菅茅(カンボウ)
   菅原氏、菅原道真
   菅家・菅公
   すげ=カヤツリグサ科の草の名
   菅笠
 「砂地」を意味する
 「砂処(すか)」が転じた
  植物の
 「スゲ(菅)」が転じたもの
 「すげ・すが(笠、蓑などを作る)」
 「ふじばかま・あららぎ(キク科の多年草)」
 「水につけたかや」
 「よこしま(邪悪・正しくないこと)」
 菅=艸+官(宀㠯)・・・㠯=干し肉
   並び生えた草と屋根
   家屋の象形と祭り用の肉の象形
   軍隊が長くとどまる家屋で
  「役所」の意
 ↓↑
 須賀(すが)神社
 牛頭天王・須佐之男命を祭神とする
 祇園信仰の神社
 すが=須我・清・酒賀・素鵞
    島根県・高知県に特に多い名
    スサノオが八岐大蛇を退治して
    クシナダヒメを妻とした後の
    出雲国の須賀
 ↓↑
 北海道
 檜山郡
 厚沢部町
 「須賀」
 アイヌ語で
 〔東の端。東の岸〕を意味する
 「シカ」が転じたもの
 ↓↑
 群馬県
 吾妻郡東吾妻町
 「須賀尾」は
 「菅(スゲ)が生い茂る地」が由来の
 「菅生(すがお)」の漢字のが変化・・・
 ↓↑
 「所=ところ=処=か・こ」
 「住処(すみか)」
 「隠処(かくれが)」
 「奥処(おくか・おくが)」
 ↓↑
 愛知県あま市(旧・美和町)の
 「蜂須賀」は
 蜂を埋めた「蜂塚」の「塚(つか)」・・・?
 ↓↑
 蜂須賀正勝(小六・小六郎)
 十三代藩主
 蜂須賀斉裕の実父が
 十一代将軍
 徳川家斉で
 最終的には徳川将軍の血筋
 後に侯爵
 紀州徳川家・水戸徳川家
 と並ぶ富豪華族
 北海道で
 大規模な農場経営を失敗
 大正から昭和期に18代当主となった
 蜂須賀正氏は
 鳥類学者
 1945年(昭和20年)7月
 侯爵位を返上
 戦後
 正氏の遺族の間で
 財産争いが起こり
 過半の財産を消失し
 蜂須賀氏は没落・・・
ーー↓↑ーー
 孫 楚(ソン ソ)
 ?~293年
 三国時代、西晋の政治家、武将
 字は子荊
 太原郡中都県の人
 祖父は孫資
 父は孫宏(南郡太守)
 子に孫衆、孫洵(恂)、孫纂
 孫に孫盛(洵の子)
 孫統・孫綽(纂の子)
 曾孫に孫騰・孫登(統の子)
 祖父の
 孫資は魏の重臣
 父の
 孫宏も魏に仕えて
 南郡太守になった
 才能があったが
 自分の能力を
 誇るところがあり
 周囲の評判はよくなかった
 が、
 同郷の
 王済とは親しかった
 王済は
 大中正
 に
 孫楚の人物評を求められ
 「天才にして知識が広く、
  群を抜いて優れています」
 と推薦
 40歳を過ぎて
 魏に仕え
 揚州の
 対呉の最前線を守る
 鎮東将軍の
 石苞の参軍事となる
 魏の実権を握る
 司馬昭は
 呉へ降伏の使者を遣わした時
 石苞の命令で
 呉への降伏勧告状を作成
 ↓↑
 西晋が成立すると引き続き仕え
 著作郎になった後
 驃騎将軍に出世していた
 石苞の参軍として
 再び揚州の
 対呉の最前線に赴いた
 孫楚は自身の才能を鼻にかけ
 石苞を見下すようようになった
 石苞も反発し
 孫楚が呉の人間と同調して
 晋を批判していると弾劾
 両者は数年に亘り対立
 司馬炎(武帝)も
 仲裁に気苦労した
 呉の
 丁奉の策略もあって
 石苞は洛陽に召還
 また、同郷の
 郭奕とも対立
 その後
 征西将軍になっていた
 旧知の
 扶風王
 司馬駿に招かれ
 その参軍となった
 後、
 梁の令となり
 衛将軍の司馬に転任
 ↓↑
 あるとき
 龍が武庫の井戸の中に
 現れたという報告があり
 群臣達はそれが
 瑞祥と信じ
 そろって敬賀したが
 孫楚は
 井戸の中の
 龍は
 英才が用いられていないという意味だと
 解釈し
 奸臣を遠ざけるよう諫言
 恵帝の初年
 馮翊太守
 元康三年(293年)
 死去
 ↓↑
 孫子荊(孫楚)が
 仕官する前
 王武子(王済)に対し
 隠遁したいと思い
 「石を枕にして、川の流れで口を漱ぎたい
 (枕石漱流)」
 と言おうとしたところ
 「石で漱ぎ、流れを枕にしたい
 (漱石枕流)」
 と言い間違え
 王武子に
 「流れを枕にできるか、
  石で口を漱げるか」
 と、
 孫子荊は
 「枕を流れにしたいというのは
  汚れた俗事から
  耳を洗いたいからで
  石で漱ぐというのは
  汚れた
  歯を磨こうと思ったからだ」
 と言い
 王武子は
 この
 切り返しを見事と思い
 感心する意味で
 「流石(さすが)」と呼ぶのは
 この故事が元・・・
 孫楚の言い訳は
 かつて隠者の
 許由が
 帝位を譲ろうとした
 堯の申し出を断った後
 「汚らわしいことを聞いた」
 と耳を漱いだ故事を踏まえたもの・・・
 ↓↑
 明治時代の
 夏目金之助の号である
 漱石は、孫楚の故事に由来・・・
 する。
 ↓↑
 同じく『世説新語』
 孫楚は
 他人に
 頭を下げることのできない人物だった
 ただ
 王済には敬服していた
 王済に先立たれると
 葬儀には遅れたが
 棺にすがって慟哭
 孫楚は
 「生前君は
  私の
  驢馬の鳴きまねがうまいのを
  ほめておられたから
  今生の別れに一つやってみよう」
 と言い
 鳴きまねは
 本物そっくりだった
 参列者達は笑ったが
 孫楚は参列者に
 「このような立派な人が先だって
  おまえたちのような奴らが
  生き残るとは」
 と・・・以上は「烏一気把出在」?から・・・
ーーーーー
 ↓↑
 古代中国
 晋の
 孫楚という人物が
 友人に
 「石を枕にして、
  川の流れで
  うがい(嗽・漱)をするように
  自然の中で暮らしたい」
 と言おうとしたが
 間違って
 「石で嗽(うがい)をして
  川の流れを枕にするように…」
 と言い間違えたが
 孫楚は言い訳で
 「石でうがいをするのは、
  歯を磨くためだ
  川の流れを枕にするのは
  耳を洗うためだ」
 と、友人は
 「やっぱり、強情な奴だが
  屁理屈、御見事」?
 と(晋書)
 「枕石漱流」
 「漱石枕流」
 「漱=氵+欶(束欠)=うがい=嗽」
 「汚れを水で洗い落とす」
 「身に受けた恥や不名誉を除き去る」
 「氵(水)+束+欠=水流と
         薪(たきぎ)を束ねた象形と
  欠(人が口を開けている)象形
        =口で水を束ねる
         水を口で含んで
         漱(すす)ぐ」
 「欶=束+欠」=すう・サク・シュク・スク
         異体字、嗽・𠲿・漱
      欠=あくび(欠伸)・かく・かける
        ケツ・ケン
        目方・分量などが減っていること
        その減った量
        欠けていること・足りないこと
        かける・ かく・ケツ・ケン
        物の一部がえぐれてかける
        欠唇(ケッシン)・欠損
        欠片(かけら)
      欠=缺=缶(午凵・𠂉十凵)+夬(ユ人)
        欠員・欠番・欠陥・欠如・欠点
        欠乏・残欠・不可欠
        補欠・完全無欠
        欠勤・欠場・欠席・出欠・病欠
        「歇 (ケツ) 」の代用字
         蠍(摩蠍・さそり)
        休む・やむ
        「間欠」
        あくび(欠伸・ケンシン)
      缺=かく・かける
        あるべきものが足りない
        欠落・補欠
        休む・予定をとりやめる
        欠航・欠席・欠勤
        出欠( シュッケツ)
        長欠(チョウケツ)
        病欠(ビョウケツ)
        補欠(ホケツ)
        欠餅(かきもち)
        欠片(かけら)
        欠米(かんマイ)
        欠盈(ケツエイ)
        欠陥(ケッカン)
        欠字(ケツジ)
        欠如
        欠点
        欠乏
        残欠
        不可欠
        完全無欠
        欠=旧字は缺
          不足する
          きづ=疵・瑕・創
          空位、という意味がある
        缺=缶+夬
           夬=切る
             欠けた・かける・かく
  ↓↑
 「簌=竹+欶=ふるい・ソク
        ふるいにかけて選り分ける
        簌簌(ソクソク)=花の散る音
 「嗽=口+束+欠=うがい・ソウ・シュウ・ソク
    くちすす(ぐ)・すう・せき・せく
    せきこむ・せきをする
    くちすすぐ
    うがい・うがいをする
    嗽=うがい=鵜飼?
    すう・すいこむ・すすりこむ
  漱=嗽       
  ↓↑
 漱ぐ=すすぐ=濯ぐ(洗濯)
        雪ぐ(汚名・恥辱)
  ↓↑
 さすが=流石
 「だが、しかし、そうはいっても」
 という意味の
 上代言葉
 「しかすがに」が
 「さすがに」に変化し
 「に」が落ちたもの
 で、意味も当初の
 「そうはいっても」に
 「予想どおりに・期待に違わず」
 という用法が加わった
  ↓↑
 上代語の
 「しかすがに」の語構成と同様
  副詞の「さ」+サ変動詞の「す」+助詞の「がに」
 が一語になって
 副詞的に用いられ
 語尾の活用から
 形容動詞になって
 「に」が落ちて
 副詞になった・・・
 「どうしたって・いくら何でも」
  ↓↑
 流石(さすが)
 「さも有りなむ」
 などと使う
 指示副詞「然(さ)」に
 サ変動詞「為(す)」
 接続助詞「  がに」
 熟合した
 「さすがに」から
 「に」が脱落したもの
 「さりながら=然(さ)り
        乍(なが)ら」
  ↓↑      ↓↑
        然(しか)り
        乍(たちまち・にわか・サ)に
          にはかに(猝・俄
               急に・突然)
異体字は「𠆦=乚+亼(人一)」
            「𠆦=人+七(匕・ヒ)」
               人は一の乚(乙)
            「作」
            丬=爿⇔「片=l+ =」
                   l+ニ
        乍浦=浙江省平湖縣
           東南三十支那里に在り
           鴉片(アヘン)戰爭で
           英兵が陥落させる
           海口の重地
        乍雨=にわか(俄か)雨
        乍=「𠂉+l+ =」・・・𠂉=人
         =「丿+一」+「l+ =」
         =「ト+ヒ」・・・𠂉=ト
         =「𠂉+F」?・・・𠂉=人
          髪挿しのエフ
             (絵附・絵賦)
              カイフ・カイブ
        乍=「𠂉(かみさし・ト)」の「l=(ボウの弐)=櫛」
          髪挿しの櫛で髪を梳く
          神刺しの串で守を説く
          上(古事記上巻)指しの句詞で咬みを解く
          加味差史の駆使で守を讀く
          ~ではあるが
          ~にもかかわらず
          ~しつつ
          甲をしながら、
          乙もする
          しばらく(暫)
          たちまち(忽)
          にはかに(猝・俄)
          はじめて(初)
          ながら・…しつつ
  ↓↑      ↓↑
       乍の合体字
       「誇=夸(コ)=𡗸(大+乍)」
              夸=大+亏
               乍=亏
       亏=二+丂
        =異体字は虧=虍+隹+亐(于)
       「于」は息が
          閊(つか)え曲がるの意
            支える・痞える=障害
        亏=亐=于
       袴=コ・はかま
       誇=コ・ほこる
       跨=コ・またぐ
       刳=コ・えぐる
       匏=ホウ・ひさご
       桍=コ・木の名
       瓠=コ・ひさご
       胯=コ・また
  ↓↑   ↓↑
       洿=オ・たまりみず
          ・洿池(おち)
       銙=カ・帯飾りの金具
          ・銙帯金具
       鮬=ホ・コ・せいご
  ↓↑   ↓↑
       侉=夸
         カ・誇る
       咵=カ・言葉の訛り
       垮=カ・潰(つい)える
       姱=カ・美しい
       恗=コ・怯える
         カ・誇る
       挎=カ・荷物を担ぐ
         曲げた腕に掛けて提げる
       晇=カ・古代の人名
         ク・旭日
          ・旴に同じ
       絝=袴に同じ
       舿=カ・字義未詳
       荂=華に同じ
       郀=コ・郀首は古代の地名
       陓=オ・楊陓は古代の湖沼の名
       骻=カ・胯、「跨」に同じ
       鴮=オ・鴮鸅(おたく)は水鳥の名
  ↓↑   ↓↑
       𠈨・𠔫・𠖽・𠛢・𠩎・𠹨・𡗸・𢂃
       𢓓・𢼎・㡸・𣧫・𣬿・𤱴・𥅁・𥹁
       𦥬・㸲・𧙓・𧣝・𧯤・𧲮・𨋘・𨴃
       𩂖・𩢐・𩬟・䋏・𩿞・𪌟・䝫・䞢
       䟭・䩆・乍・作・厏・咋・妰・岝
       岞・怍・怎・拃・昨・柞・泎・炸
  ↓↑   痄
 乍
 そうではあるが、だが、しかし
  ↓↑
 欶(束+欠)⇔勅(束+力)
       ↓↑
       勅選議員
 明治憲法下の貴族院議員の一
 国家に勲功があり
 学識ある満30歳以上の男子で
 特に
 勅任された者
 任期は終身
ーーーーー
 ・・・???・・・「乍」の形象・・・「ヘァ・ブラシ」・・・創業大正十四年(1925年)の「ShojiWorksのブラシ」・・・
 1925年
 2月20日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)再建
 4月22日、治安維持法公布
 4月28日、イギリスが金本位制に復帰
 映画
 チャールズ・チャップリン『黄金狂時代』
 セルゲイ・エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』
 ・・・だから、ナニ・・・

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1111年・・・壱壱壱壱・・・イチが四

2018-04-11 23:50:08 | 古事記字源

・・・2018年4月11日目・・・「1111年」って、何があったんだか?・・・「記録所」・・・?
ーーーーー
 鉤=鈎(かぎ・こ・こう・はり・ち・はぜ)
   先が曲がった棒状の、金属製の器具
   曲がった部分を何かに引っ掛けて使う
   フック(hook)
   「かぎ」と読む
   分野によっては他の読み方をする
   手術用器具
   組織を引っかけて牽引するのに使用
   漁具・魚類や貝類などを捕獲に使用
   武器の種類
   長い柄の先が曲がっており
   敵を引っ掛けて倒す
   鉤縄
   銀鉤(ギンコウ)
   銀の鉤
   銀製の釣り針や、銀製のすだれかけ
   三日月の別名
   巧みな筆跡
   uncinate(アンシネィト)安史婦負人?
        うんしなと(て)
        云 支那人(訳)
     ・・・運 指名手(弖)?
   鉤状の
   解剖の本などでは
  「鈎」の字を使用
   鉤状束(コウジョウソク
       Uncinate fasciculus)
   大脳にある連合線維
   外側溝の下部を横切り
   前頭葉の脳回と
   側頭葉の前端を繋いでいる
   膵鉤部
   uncinate process of the pancreas,
   pancreatic uncinate process.
   鉤鼻
ーーー↓↑ーーー
  鈎=金+勾(勹ム)=かぎ・・・句=ク・コウ
                 匂=におい
                 匃=こう・あたえる
                   カツ・カチ・カイ
                 匇=いそがしい・ソウ=匆
                 勺=くむ・シャク・酌・杓
                 匀=ひとしい・イン・キン
   物をひっかけたりとめたりする
   先の曲がった金属製の道具
   つりばり
   鉤曲
   かける・ひっかける
   鉤距・鉤索
   おびどめ
   帯鉤
   まがる・まげる・かがむ
   銀鉤(ギンコウ)・帯鉤(タイコウ)
   釣鉤(チョウコウ)
   鉤(かぎ)・鉤裂き(かぎざき)
   鉤形・鉤状(かぎなり)・鉤鼻(かぎばな)
   鉤樟(くろもじ)
   鉤餌(コウジ)・鉤縄規矩(コウジョウキク)
   鉤欄(コウラン)・鉤素(はりす)
   ↓↑
 勾=まがる・くぎる・勾配
   かぎ・鉤(コウ)
   とらえる
   勾引・勾留
   勾引(かどわ)かす
   勾引(コウイン)・勾当(コウトウ)
   勾配(コウバイ)・勾欄(コウラン)・勾留(コウリュウ)
   勾欄(てすり)・勾玉(まがたま)・勾(まがる)
 鈎=かぎ
   型をして物をひっかける金具
   かぎ棒・とめ金・鎌カマ・つりばり
   さぐる
   深い所にあるものを、ひっかけてとりだす
   物事の道理をさぐる
   ひっかけてたぐりよせる
   いざなう
   拘・・・拘束
   直角三角形の三辺のうち
   直角をはさむ、辺の短いほう
   転じて、型をなしたもの
   句とは、筆跡の巧みなことのたとえ
   ↓↑
   鈎股弦(こうこげん)
   和算で、直角三角形の三辺
   「勾」は直角三角形の短辺
   「股」は長辺
   「弦」は直角に対する斜辺
   鈎股弦の定理(こうこげんのていり)
   「 ピタゴラスの定理」
   「三平方の定理」
   鉤餌(こうじ)=つりばりにつけたえさ
   鉤虫(こうちゅう)
   十二指腸虫(じゅうにちちょうちゅう)
   鉤虫科の寄生虫の総称
ーーーーー
 椎=木+隹
   しい・つち・ツイ
   ブナ科の常緑高木の総称
   椎茸(しいたけ)
   つち=槌(ツイ)・鎚(ツイ) ・物を打つ道具
      うつ・打ちたたく
   せぼね=椎骨・脊椎(セキツイ)
   おろか・にぶい・椎鈍
   胸椎(キョウツイ)・頸椎(ケイツイ)
   脊椎(セキツイ)・鉄椎(テッツイ)
   腰椎(ヨウツイ)
   椎間板(ツイカンバン)
   椎輪(ツイリン)
   Uncus=鉤(かぎ)状のもの
       突起
       Unc=アンク=ank
       曲げる・弓を引く・屈服させる
       ねじ曲げる
       釣針(angle)
       錨(いかり)
       頼みの綱・力となるもの
   椎=日本海軍の駆逐艦
   ブナ科の常緑高木
   ツブラジイ・スダジイの総称
   暖地に自生
   大木・古木となる
   葉は革質で長円形
   雌雄同株
   果実はどんぐり状で食用
   材は建材・家具材
   椎茸の原木などとする
   樹皮は染色
   ↓↑
 椎(ツイ)=物をたたく工具・つち・鉄椎
       せぼね
   椎骨・椎間板・胸椎・頸椎 (ケイツイ)
   脊椎・仙椎・腰椎
   木椎 (さいづち)
ーーーーー
 卑衍(ヒエン)・・・飛燕
  衍=彳+氵+亍・・・「氵=水」が余り
    文章中に誤って入った余計な文字
  衍=語句中にまちがって入った不必要な文字
  衍字(エンジ)
  卑弥呼の余り?⇔壱(壹・臺)與or磐余
   ↓↑
 木(キ )の国=日本・倭・和
 金(キン)の国=高句麗・朝鮮・遼
   ↓↑
  女真(女眞・ジョシン・女直・ジョチョク)
 満洲の松花江一帯から
 外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の
 外満州にかけて居住していた満州民族
 聖地は長白山
 10世紀ごろから記録
 17世紀に「満洲(マンジュ)」・・・饅頭?
 「女真」の漢字は
 「ジュシェン・ジュルチン」の当て字?・・・
 「女真・女眞・女直」の意味も採った・・・
 「女直」は
 「遼興宗」の諱
 「耶律宗真」に含まれる「真」の字を避けた
 (避諱)・・・
  ↓↑
 金王朝を滅ぼした
 モンゴル帝国=元王朝時代
  ↓↑
 女真人の
 完顔阿骨打が
 1115年に満州に建国
 都は
 上京会寧府
 (1153年に燕京
  1214年に汴京に遷都)
 宋王朝は
 遼王朝を倒す好機とし
 金王朝と同盟し
 1125年
 遼を滅ぼした
  ↓↑
 その後
 金王朝は中国本土への侵出
 1127年
 (靖康の変)
 宋王朝の都
 開封を攻め
 徽宗
 欽宗
 の親子を捕らえて滅亡させ
 江南に逃れた宋は
 高宗が
 南宋王朝を建て
 華北の金王朝
 と
 江南の南宋王朝
 の対立が続いた
 金王朝は
 女真族の軍事組織である
 猛安
 謀克
 を
 女真族の統治に適用
 支配下の
 華北の漢民族には
 州県制を適用
  ↓↑
 遼河
 満州南部を流れる大河
 河北省、内蒙古自治区
 吉林省、遼寧省を流れ
 渤海に注ぐ河流
  ↓↑
 遼東半島
 朝鮮半島の北西に位置
 満洲南部から海を挟んだ対岸の
 山東半島へ向かって
 西南西へ飛び出した形
 半島の付け根は
 鴨緑江
 と
 遼河に挟まれ
 半島部は
 西を渤海
 南を黄海
 南東を西朝鮮湾
 に囲まれている
 主要都市
 最西端部の
 旅順や大連
 半島付け根の渤海側に
 営口
 北東から
 千山山脈
  ↓↑
 春秋時代
 燕の領土
 後漢末
 公孫氏が支配
 三国時代
 公孫淵が
 呉と通じ
 魏から独立
 司馬懿により滅ぼされた 
 司馬懿は
 遼東に住む15歳以上の男子、数千人殺害
 遼東
 公孫氏政権の滅亡・・・
 卑弥呼による魏への遣使・・・
ーーーーー
 1900年
 北清事変
 後
 ロシア軍が
 遼東半島全域を占領
 旅順に要塞を築いた
  ↓↑
 日露戦争
 旅順要塞で
 日露両軍の攻防
 1905年
 ポーツマス条約
 日本は
 遼東半島の先端部にあたる
 関東州の租借権を
 ロシアから獲得
 関東都督府(関東庁)の
 本部は旅順
 南満州鉄道の
 本社は大連に置かれた
 1919年
 関東都督府は廃止
 1932年
 関東軍が
 東三省全土を占拠し
 満洲国を建国
 租借権の設定は
 日本が満洲国から受けている形式に改定
 1937年
 満鉄附属地の
 行政権を満洲国に返還
 ↓↑  ↓↑
 1945年8月
 ソ連対日参戦で
 ソ連軍に軍事占領され
 後、
 中ソ友好同盟条約で
 中華民国から
 ソ連が
 旅順と大連の租借権を獲得
 1949年
 中国共産党の
 中華人民共和国成立以後
 国共内戦で
 中国共産党政府を支援したソ連が
 同国に「返還」し
 以降同国の政府が統治
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 遼
 遼王朝
 916年~1125年
 内モンゴルを中心に
 中国北辺を支配した
 契丹人(キタイ人)
 耶律氏(ヤリュート氏)
 の征服王朝
 最初の異民族王朝
 征服王朝(金、元、清)の最初
 中原の支配はない
 内モンゴル自治区の東南部
 遼河の上流域にいた
 契丹族の
 耶律阿保機(太祖)が
 907年
 契丹可汗の位につき
 916年
 「天皇帝」・・・天皇?
      則天武后の夫、唐の高宗も名乗った
 と称し
 年号を
 「神冊」とした
 太祖
 耶律阿保機
 西はモンゴル高原東部の
 モンゴル族を攻め
 926年
 東は渤海を滅ぼし
 東丹国を建て
 満州から
 モンゴル高原東部までの
 帝国を拡大
 2代
 耶律徳光
 五代の
 後晋から
 華北の
 北京・大同近辺(燕雲十六州)
 の割譲を受け
 渤海旧領とあわせ
 農耕定住民を抱えた
 遼は
 モンゴル高原の
 遊牧民統治機構(北面官)と
 南朝宋式の
 定住民統治機構(南面官)
 を持つ二元的な国制を発展
 ↓↑
 宋の
 太宗は
 燕雲十六州の奪還をもくろみ
 北伐軍を派遣
 が、
 遼に撃退された
 遼は
 皇帝の擁立で内部争い
 6代
 聖宗
 内部抗争を収め
 中央集権化
 1004年
 宋へ遠征軍を送り
 澶淵の盟を結び
 毎年大量の
 絹と銀を
 宋から遼に送ることを約束
 和平条約を結んだ
 遼と宋の間に
 100年以上平和が保たれた
 経済力をつけ国力を増大
 西の
 西夏を服属させ
 北アジアの最強国となった
 財政を背景に文化を発展
 中国から様々な文物を取り入れ
 繁栄
 遼の貴族層は贅沢
 建国時の強大な武力は弱まっていった
 服属の
 女真族などの収奪も激しく
 恨みを買った
 ↓↑
 女真は強大化し
 1115年
 自らの
 金王朝を建国
 遼に反旗を翻した
 遼は大軍を送って
 鎮圧しようとするが大敗
 遼の弱体で
 宋は金と盟約し
 遼を挟撃
 1125年
 金に滅ぼされた
 一部の契丹人は
 耶律大石
 に率いられて中央アジアに移住し
 西遼(カラ・キタイ)を立てた
 (耶律淳の北遼
  13世紀成立の
  耶律留哥の東遼などもある)
ーーーーー
 遼の政治体制
 遊牧民
 と
 農耕民
 をそれぞれ別の法で治める二元政治
 契丹族を代表とする
 遊牧民には北面官があたり
 燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら
 農耕民には南面官があたる
 北は契丹族や他の遊牧民族には
 固有の部族主義的な法で臨み
 南は唐制を模倣した法制で臨んだ
 北面官の機関
 北枢密院・宣微員・大于越府
 夷離畢院・大林牙院
 北枢密院が
 軍事・政治の両権を一手に握って最高機関
 当初は
 大于越府が最高機関で
 北枢密院が作られてからは有名無実化
 名誉職になった
 南面官の機関は
 南枢密院を頂点とし
 三省六部
 御史台と言った
 唐制に倣った役職が置かれて統治
 南枢密院は
 北枢密院と違って
 軍権は持っておらず
 民政の最高機関
 ↓↑
 二元政治は
 聖宗期を過ぎた頃から
 契丹族内での中国化
 ↓↑
 遼の兵制
 北では国民皆兵制で、国軍
 南では郷兵と呼ばれる徴兵制で
 地方守備軍
 指揮権は南面官にはなく
 各地方の長官が持っていた
 南軍も時に
 北軍に従って遠征軍に入った
 ↓↑ 
 遼
 北宋政和元年
 遼天慶元年(1111年)・・・壱壱壱壱
              壱千壱百壱拾壱
ーー↓↑ーー
 1111年???・・・伊知・・・壱=壹壹壹壹
               台=臺臺臺臺
 干支=辛卯年
    ↓↑
    金兎(兔・ト)・・・金兎運(云・雲)?
    觔斗雲(キントウン)
   「西遊記」の孫悟空が乗って空を飛ぶ仙術の雲
   「觔斗=宙返り」
    孫悟空が雲に乗る時に
    トンボを・・・トンボ=秋津・安芸津・蜻蛉
    切って
    雲に・・・句摸・苦母・くぼ=久保・窪
    ↓↑「落窪物語」?・・・継子物語・・・「氷点」?
       日本版「シンデレラ姫」
       落ち窪(くぼ)んだ部屋で
       住んだので、「落窪の姫君」・・・
    ↓↑「二つの石帯」は、衛門佐(三郎君)と
       あなたが、一つづつ
       美濃国の
       荘園の地券と、
       石帯ひとつは私の手元に
        (石帯=束帯のとき、袍 (ほう) の腰に締める帯
         牛革を黒漆で塗り、銙 (か) とよぶ
         方形または円形の玉や石の飾りを並べてつける
         三位以上は玉、
         四位・五位は瑪瑙 (めのう) 、
         六位は烏犀角 (うさいかく) を用いた
         有文 (うもん) と
         無文 (むもん) とがあり、身分の高下、
         儀式の軽重に応じて使い分けた
     ↓↑  ごくのおび・いしのおび)
     ↓↑いただきましょう。
     ↓↑遺言すべてを無下に断っては、
     ↓↑故大納言の遺志を
     ↓↑無視するようなものですから」
     乗ったので
     師の須菩提が、特に授けた術で
    「觔斗雲の術」は
     10万8000里/1跳び(=宙返り1回)の速さで
     空を自在に飛ぶ
 日本=天永二年
    皇紀1771年
 中国=北宋=政和元年
 遼 =天慶元年
 西夏=貞観十一年・・・貞(ただし)て観(み)る十一年
 ↓↑
 記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)
 平安時代の
 荘園調査機関
 令外官の1つ
 略して
 記録所という。
 ↓↑
 1069年(延久元年)
 後三条天皇の発布した
 延久の
 荘園整理令の実施に伴い設置
 反摂関家的な
 源経長
 大江匡房
 らが起用
 業務は
 不正荘園の調査・摘発
 書類不備の荘園の没収
 後三条の死後には消滅
 1111年(天永二年)・・・壱=壹壹壹壹・・・壹與
             台=臺臺臺臺・・・臺與
               壱千(阡)壱百(陌)壱拾(足)壱
 1156年(保元元年)
 にも設置
 後白河法皇によって
 院庁に吸収
 1187年(文治三年)・・・・文の治の三年(残念・竄撚)?
 訴訟や
 儀式の遂行に関する業務も含めた形で復興
 記録所は
 内覧
 九条兼実・・・憲法の九条を兼る実?
 の管轄下に置かれ
 公卿の陣定に匹敵する発言力が与えられた
 後鳥羽上皇の院政開始とともに
 院庁に吸収(機能消滅?)
 ↓↑
 後嵯峨天皇の時代
 再置され
 常設化
 1293年(正応六年・永仁元年)
 伏見天皇が
 徳政推進の機関として充実化
 その権限が拡大
 記録所の職員を
 6班に分け
 寺社・公務・所領争いなど
 訴訟の分野ごとに
 担当する日付や班が定められた
 (後の
  建武の・・・建=たける=武
  新政における
  雑訴決断所の分離・設置にも影響を与えた)
 ↓↑
 鎌倉時代
 1321年(元亨元年)
 後宇多法皇に代わり
 親政を開始した
 後醍醐天皇が
 記録所を再興
 1333年・・・・壱参参参
        壱千参百参拾参
 鎌倉幕府・・・なぜ、「鎌の倉」なんだか?
 ↓↑  ・・・「カマ」は洞穴、クラは「岩」の意?
     ・・・「竈口は鎌倉の異名
         竈谷(かまくら)の義
         竈口(かまくち)」 
        「アイヌ語の「カマクラン=山を越していく」
        「カマ・クラ=平板な石の山」という意
     ・・・「高座(たかくら)→高倉→高麗(こま)
         高麗座(こまくら)→かまくら」になった?
     ・・・「綾瀬市の宮久保遺跡出土の木簡に
         天平五年(733年)・鎌倉郡鎌倉里」
        「相模国封戸祖交易帳に
 ↓↑      天平七年(735年)・鎌倉郡鎌倉郷」
 ↓↑      鎌=かま=釜・窯・罐・缶
           かみ・かむ・かも
 ↓↑        かめ=咬め・噛め・亀・甕・瓶・鹿目
 が滅亡
 後醍醐は
 建武の新政を開始
 八省の外に
 記録所を設置
 建武政権における
 最高政務機関とし
 重要審議を処理させた
 ↓↑ 
 荘園整理令
 平安時代に発布された一連の法令
 ↓↑
 1069年(治暦五年=延久元年)
     ・・・治(おさめる)の暦(こよみ)の五年(御念・語撚)
 後三条天皇
 全国の荘園を
 一斉整理する目的で発令した
 延久の
 荘園整理令で
 150年前の醍醐天皇の時代から
 天皇の代替わりごとに
 度々発令
 古くは
 「荘園を禁止する法令」
 とする認識がされる場合もあったが
 実際には違法な手続によって
 立荘された荘園を
 整理・停止することを意図した法令
 正規な手続によって
 成立した荘園については
 公認する性格を有していた
 中央政府による
 荘園整理令とは別に
 諸国の国司が独自に
 荘園整理令を申請し
 太政官における陣定の
 「諸国条事定」において
 審議され承認された場合も存在・・・
ーーーーー
 ・・・政府の認可事業は特定利権者とする・・・「総理大臣の案件」って?・・・モリカケ・・・記録廃棄の有無・・・

コメント
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「魚座(キリスト教⇔パウロ教?)の時代の終焉」?・・・ペテロ?

2018-04-10 23:00:19 | 古事記字源

 ・・・ジシン・ヂシン、ドウオンのカンジ、結構あるなぁ~・・・「9日午前1時32分ごろ、島根県西部を震源とする地震があり、震度5強」・・・「平成30年4月9日13時53分・気象庁発表 ・震源地、島根県西部(北緯35.2度、東経132.6度)・震源の深さは約10km、震度5強・地震の規模(マグニチュード)は3.2と推定」・・・
 戊戌(辛・丁・戊)
 丙辰(乙・癸・戊)
 辛未(丁・乙・己)
  ↓↑
 戊子(壬・ ・癸)0時
 己丑(癸・辛・己)1~3
 甲午(丙・ ・丁)11~13
 乙未(丁・乙・己)13~15
ーーーーー
 ・・・ハルだけれど・・・
  ↓↑
 群来(くき)・・・九鬼・久喜・茎・久木・句記・「岫=山+由」
                  九期・旧記⇔国記?
       岫=くき・いわあな・みね・シュウ・コウ・ユウ
         山の洞穴・山の峰・土窟・岩穴・巌穴
         「骨(かばね)、巌(いはほ)の岫に積みたり」
          (欽明紀)
         「玉釧(たまくしろ)まき寝し妹(いも)を
          月も経ず置きてや越えむこの山の岫」
          (万葉集・三一四八)
          岫雲==山の窪みから出る雲
 群来=「魚が産卵」のために沿岸に大群で来ること
    グンキ⇔軍記・軍旗・軍器
  ↓↑
 鰊(魚+柬)・・・柬=えらぶ・カン・ケン
 鯡(魚+非)・・・非=あらず・ヒ
 鰊=鯡=ニシン=二審・二進・二神・邇神・にしん
 春告魚=シュンコクギョ=隼国禦・・・隼国御示?
 が産卵のため海岸に大群で押し寄せ
 産卵・放精によって海の色が
 乳白色になる・・・乳=孚(爫孑)+乚(乙)
           はぐくむ・かえす・卵をかえす・孵(フ)
           養い育てる・孚育・まこと・まごころ
           信じる・あう・授ける・覆う・育む
           孵と通じて卵を孵す
           俘と通じて虜囚、囚える
           稃と通じて穀物の外皮
           莩と通じて新芽
           浮と通じて浮かぶ
          白=丿+日(曰)・いわく・しろ・新羅
          色=⺈(魚の頭)+巴(横倒しの日+乚)
            横倒しの日=日置=鹿児島県日置市
            日置市(ひおきし)=鹿児島県の
            中央部(薩摩半島) に位置
            薩摩焼の歴史的地域
            旧東-市来町美山地区の窯元、陶器の街
            日置(ひおき・ひき・へき・ニッチ・ジッチ)
 ↓↑
 群来(くき)
 ウシ=うし=牛・丑=アイヌ語、ペコ(peko)
 アイヌ語で
 「ウシ」は「ある・有る・在る・或る」
 アイヌ語で「にしん」を「ヌーシィ」
 アイヌ語で「にしん」を「ヘロキ」、「エロキ」
            「ヘルキ」、「ヘロギ」
 数の子=ニシンの別名(アイヌ語語源)で
     鰊(かど・レン)・・・鹿渡・過度・加斗or鍊・聯・連
     その玉子(卵)なので「かどの子」が訛った
     春告魚(はるつげうお)
     ヘリング Herring・Häring
     鯡(にしん・はららご・ヒ)・・・似審・似震・邇神or非
 「ウシ=・・・の群来(群在)するところ」
     魚(鮭)の群来(群在)するところ」
  ↓↑
ーーーーー
 群議 群居 群系 群游 群聚 群鴉 鶏群 晶群 群峰 群僚 群棲 群狼
  ↓↑
 群疑満腹(グンギマンプク)
 群蟻附羶(グンギフセン)
 群軽折軸(グンケイセツジク)
 群雄割拠(グンユウカッキョ)
 群竜無首(グンリョウムシュ)
 鶏群一鶴(ケイグンイッカク)
 鶏群孤鶴(ケイグンコカク)
 邑犬群吠(ユウケングンバイ)
 離群索居(リグンサッキョ)
  ↓↑
 一群 逸群 岩群 魚群 魚群 群泳 群起 群議 群居 群系
群行 群婚 群山 群衆 群集 群書 群小 群臣 群雀 群星
群棲 群生 群生 群青 群籍 群叢 群像 群体 群団 群鶴
群党 群島 群盗 群発 群飛 群舞 群峰 群雄 群羊 群来
群落 群吏 鶏群 語群 混群 出群 晶群 星群 大群 超群
馬群 抜群 離群 一群 群雨 群雲 群肝 群集 群竹 群遊
竹群 群聚 群游 群烏 群群 群鴉 群山 群雀 群鳥 群馬
ーー↓↑ーー
 ザスーラ(Zathura)
      Zat・・・オランダ語=Zat
           日本語=土=Tsuchi
      ZAT(Zariba of All Territory
             全地域防衛機構)
        zariba=アフリカで
            村や宿営地の防衛柵
            Protective wall
            バリケード
            barricade、阻塞
            バーリア
            barrier、柵・障壁
     バリア=障壁・関門・関所・防壁・柵
     境界・検問所・障害・(柵)障害物
     仕切り・国境の砦
     進行・接近を阻むもの
  ↓↑  ↓↑
     バーリヤ(Balija)=・コジキ
     セルビア・クロアチア・ボスニア語
     の侮蔑語で
     ボシュニャク人への蔑称
  ↓↑    ↓↑
        hura
     ・・・フラ(ハワイ語: hula)は
     ハワイの伝統的な歌舞音曲
     フラにはダンス、演奏、詠唱、歌唱
     の全てが含まれる
     カヒコ(古典的なスタイル=古典フラ)
     アウアナ(現代的なフラ)
     フラは総合芸術で
     同時に宗教的な行為
     フラ⇔振ら・降り・震る・富良・普羅
        フら・フり・フる・フれ・フろ
     を学ぶための教室を
     ハラウ・・・祓う
     フラの師範を
     クム・・・・組む・汲む・酌む
     クムフラ
  ↓↑  ↓↑
 ・・・thura⇔トゥラ⇔トーラ(Torah)
 モーセ五書(モーセごしょ)
 トーラ(Torah・ヘブライ語: תורה )
 ↓↑
 Thura=トゥーラ
 Thura
 トゥーラ・トゥラ
 Carpodacus thura
  《鳥》マミジロマシコ・・・眉白猿子?
 オランダ語で
 「チュラ=thuraのお花(お花屋さん)」
 「Thru」は「through」を省略した形
 ↓↑ ↓↑
ーーーーーー
 文武四年六月庚辰条
 寛国使瓢劫事件
 薩摩半島北部に居住の
 薩末比売
   久売
   披豆
 薩摩半島南端居住の
 衣評督 ・助督の
 衣君
 大隅半島西岸部居住の
 肝衝難波
 肥人が連合し
 南島へ派遣された
 寛国使を剰劫
 南島=大隅諸島~沖縄諸島 (南西諸島)の総称
  ↓↑
  ゴホウラ貝輪
  護法螺・水晶貝種・巻貝
  釧(くしろ)の材料
  北海道釧路?
  ↓↑
 くしろ(釧・釼・镯子)
     金+蜀(いもむし・ショク・ゾク)
     鐲・钃・躅・鐶
     蜀=
     ↓↑
     蜀は群れから離れて暮らす
     オスの野獣の意
     古くから四川省を指す地名・・・
     ↓↑
     钃=金+犀(サイ・かたい・するどい)
      さい「屬」の「蜀」の部位を「牛」
     屬=尸+=+l+=+罒+勹+中+ム
       異体字、属(簡体字・新字体)
       ショク・ゾク
       さかん・つく・やから
       ↓↑
       屬=仲間・同類
    「浮屠の屬にたぐへて
    (野ざらし紀行・松尾芭蕉の紀行文)」
     屬=仲間・同類
     明治の官制で
     各官庁の下級の補助文官・判任官   
       ↓↑
     律令制で
     坊・職・寮の主典(さかん)
     生物の分類上の一段階
     科の下、種の上  
  ↓↑
  釧=古代の腕輪
    貝・石・青銅・鉄などで作り
    青銅製のものには鈴をつけたものもある
    ひじまき・たまき
  釧=歴史民俗用語で
    古代
    飾りとして手首や臂(ひじ)にはめた輪
    石・貝・金属などで作る
    たまき・ひじまき・ひじたま
    くしろ
    中国語訳
    鐲(镯)子・手鐲(镯)
    日本語
    釧(クシロ)
    古代の装身具の一つ
    手首や肱(肘・ひじ)につける輪状のもの
  ↓↑
 「北海道の地名の
  釧路は、
  この古代の「釧」とは全く無関係・・・?
  古くは         有関係である
  「クスリ」と言い
  「久寿里・久摺・久須里」
  とも書いた・・・
  以下は「釧路」の地名の由来説
  (1)
  松浦武四郎著『蝦夷地の道国郡名字上書』
  「クシル(越路)と命名仕度候 <中略>
  舎利領、又根諸領の土人往来の処なれば、
  クシルと申候事に御座候。
  又一説、
  クスリにて温泉の薬水の義とも申候」
  ↓↑
 くしろ=釧
     ひじまき・たまき
     くしろつく=釧着く
     枕詞
     釧を着ける手から
     地名
    「手節(たふし)」にかかる
    「―手節の崎に今日もかも」
     (万・四一)
     万葉・九・一七六六
    「吾妹子は
     久志呂(クシロ)に
     あらなむ
     左手の
     吾が奥の手に
     纏きていなましを〈振田向〉」
  ↓↑
 語源説
 (1)朝鮮語 kusil(珠)と同源
   (万葉集=日本古典文学大系)
 (2)クシシロ(櫛代)の義か  〔和訓栞〕
 (3)クサル(鏁=金偏に巣の旧字)の
   名詞形クサリの転
   珠や鈴に鎖つけたのがもとか〔大言海〕
 (4)クシ(奇)に接尾語ロを付した語
            〔日本古語大辞典〕
 (5)コヱシラセ(声令知)の義で
   鈴の音をいう語〔名言通〕
 ↓↑
 『広辞苑』
 くしろ(釧)
 装身具の腕輪
 多く古墳時代の遺物
 石製品が多いが、銅・貝製品もあり
 小玉・小鈴をつけたものもある
 ひじまき・たまき
 ↓↑
 『大辞林』
 くしろ(釧)
 古代、飾りとして手首や臂(ひじ)にはめた輪
 石・貝・金属などで作る
 たまき・ひじまき・ひじたま
 ーー↓↑ーー 
 太平洋の熱帯・亜熱帯海域
 日本では
 奄美大島以南の
 水深10m程度の珊瑚礁に生息
 殻高約18cm、殻質は重厚
 殻口は非常に大きく
 上方が螺塔より高い
 外唇縁は肥厚し
 上縁は丸く張り出し
 下縁には深い切れ込み
 ↓↑
 弥生時代初期から九州北部などで
 ゴホウラの殻を縦切りにして
 製作した貝輪
 当時の権力者(主に男性)の
 ステータスシンボル
 ↓↑
 貝の供給地
 前期は
 奄美大島の
 笠利半島
 や
 沖縄本島東中国海側・・・
 中期は
 徳之島の東南沿岸部など・・・
 縄文時代後期中葉の
 市来式土器は
 奄美大島・徳之島・沖縄県にまで
 万之瀬川河口で
 奄美系土器が発見
 縄文時代後期に交通が開始
 ↓↑
 天武八(679)年
 の遣使の二年後
 使人によって
 多禰嶋の地図がもたらされ
 三年後
 大隅・阿多隼人の朝貢
 天武十三(684)年二月
 信濃の遣使
 地形が調査
 同年閏四月に
 信濃国の地図がもたらされ
 四年後
 持統六(688)年
 蝦夷の朝貢
 信濃国は
 蝦夷の国である越国と境を接していた
 ↓↑
 文武期
 「遣務
  広弐
  文忌寸博士等
  八人干
  南嶋寛国
  因給戎器」
 と、武器(戎器)を携えている
 遣使が行われた翌年に
 南島からの朝貢
 だが
 文忌寸らは
 薩摩半島
 大隅半島居住の
 隼人によって攻撃された
 隼人による
 寛国使
 剰劫
 696年五月
 契丹の
 李尽忠
 孫万栄
 がおこした乱により
 河北道から
 遼東半島にまたがって混乱・・・
 698年の時点でも継続
 遼東半島・山東半島を経由する
 北路を避けて
 南島路の開発・・・
  「寛国」=国設置のための調査
 隼人が有していた
 南島との交通公益利害
 ↓↑
 「薩末
  比売・久売・波豆、
  衣評督
  衣君願
  助督
  衣君
  皇自美、
  又肝衝難波、
  従肥人等
  持兵剰
  劫覚国使刑部真木等。
  於是勅二筑志総領へ 准犯決罰」
 「寛国便謝劫事件」に関わっている
 ↓↑
 隼人=薩末・衣君
    肝衝氏・肥人
 ↓↑
 持統元 (687)年五月乙酉粂
 賞賜
 隼人、大隅、阿多の魁帥等
 三百升七人。各有差。
 持統六(692)年閏五月己酉粂
 ↓↑
 詔筑紫大事河内王等日、
 宜道三沙門於大隅与阿多、
 可伝教
 『延書式』隼人司大衣条
 ↓↑
 凡大衣者、揮譜第内、
 置左右各人(大隅為左、阿多為右)
 ↓↑
 天武八(679)年
 倭馬飼部道連を大使とした
 多禰鴫-の遣使
 ↓↑
 朱鳥元(686)年九月
 大隅 ・阿多隼人とともに
 倭・河内馬飼部道が
 天武の残宮で許
 天武期
 ヤマト国家
 と
 阿多隼人との接触期で、移住期
 ↓↑
 百済王
 豊章の弟、
 禎嘉王(ジョウカ王)
 崔姫(サイヒ)
 を手厚く遇したのは
 日向隼人の長(おさ)
 直坂麻呂(なおさかのまろ)
      ・・・直=あたえ・じか・チョク・ジキ(ヂキ)
           古代の姓 (かばね) の一つ
           大化改新以前の国造に与えられた
           「費」、「費直」とも書く
 ↓↑
 宮崎県
 宮崎郡
 田野町
 田野天建(あまだて)神社
 神社所蔵の
 巻子(かんす)本
 「田野大宮大明神縁起」
 冒頭に、
 「百済王
  禎嘉
  流れさせ給ひ
  豊
  秋津州
  日向の国
  油津に御舟をよせ給ひ
  我がいまそがりける処は
  何(いづ)くぞと
  詠(なが)めさせけるに
  北にあたりて遥かなる山に
  五色の雲一むら
  まいさかりけるを
  まいさかりけるを
  これぞ我が住まいし処ぞと
  おぼしめし処ぞと
  おぼしめし」
 ↓↑
 日向で
 禎嘉王
 一家を
 遇したのは
 日向隼人の長(おさ)・・・日向の隼(隹十)の人
 直坂麻呂(なおさかのまろ)・・・直の坂麻呂
 ↓↑
 隼人首領
 木乃宮
 佐多彦
 とその妻
 結(ゆい)・・・禎嘉王の孫
 長子
 宇多彦
 彼ら、三名の首は
 晒された
 九州王朝
 と
 「百済」王族は滅びた・・・?・・・帰化人として生延びた
ーーーーー
 ・・・「魚座(キリスト教⇔パウロ教?)の時代の終焉」・・・
 地球
 自転・公転
 歳差運動=南極点を中心に独楽回転
 一回転=25920年
 12星座の配置上の
 春分点の位置が
 一星座30度を
 2160年で移動
 星座を1度移動するのに
 72年・・・七十二候?
 紀元前一年~2000年
 春分点は魚座で
 魚座時代
 魚座のシンボルは
 二尾の魚・・・・弐尾=耳鼻=字備・・・尾張・吉備=備前+備後
 が
 「黄金の紐」
 で結ばれている・・・神々の宴会に怪物・テュポンが襲いかかった
           女神、アフロディーテ
           とその子
           エロス(キューピッド・ヘルメス)は
           慌てて魚に化けてナイル川へ
           逸(はぐ)れない様に
           尻尾を結んで飛び込んだ
           結ばれた尻尾とは
          「尸(かばね)の九」と「尸(かばね)の毛」
          「尸=し、しかばね=屍・かばね=姓・かたしろ
          「𡰣=コ+丿・¬+厂」は本字(正字通)」
 ↓↑
 象徴的人物はイエス・キリスト
 イエス・キリストは
 ヨハネの子
 シモン
 に
 弟アンデレの紹介で会った
 シモン兄弟は
 ガリラヤの漁師であった
 ↓↑
 ペテロ(シモン=Simon
     シメオン=Simeon=原義は「聞く、耳を傾ける」)
 ケファ=ケパ=ペテロ=岩
 を弟子とした
 キリストは
 「最後の晩餐」
 の後
 「あなたは
  鶏が鳴く前に3度・・・鶏が鳴く・・・にわとり=鶏・雞
 ↓↑        「俀王
            姓 阿毎
            字 多利思北孤
            號 阿輩雞彌」
           「王妻
            號 雞彌
           「卷八十一 列傳第四十六
 ↓↑         東夷 俀國(隋書)」
 ↓↑        「鶏鳴狗盗(斉の孟嘗君)」
 ↓↑        「鶏口牛後(蘇秦の対秦、六国従合策)
  私を知らないというだろう」
 と・・・
 ↓↑
 瓊瓊杵=ににぎ=邇々芸
 と
 木花之佐久夜毘売=木花開耶姫
         =神阿多都比売=神吾田津姫
         =鹿葦津姫=葦津姫
 の
 三子の
 魚師=海幸彦(長兄・あに・え)・・海人・阿毎
    海幸彦(火照命)
    ↓↑・・・交替・交換・・竿と針
         互いの漁猟の道具を取り替え
          交替・交換・・弓と矢
               (弓箭=ゆみや)
 山師=山幸彦(末弟・おと・と)・・山人・詐欺
    山幸彦(彦火火出見尊・穂穂手見命
        火遠理命)
 ↓↑
 記紀の名称表記
 山幸彦=火遠理命(古事記)
     彦火火出見尊(日本書紀)
 海幸彦=火照命(古事記)
     火闌降命(日本書紀)
 ↓↑
 「日本書紀・本文」
 ホスセリが
 第一子、山幸
 ヒコホホデミ(ホオリ)が
 第二子、海幸
    ↓↑
 「我が故(もと)の
  鉤(ち)に・・・・鉤=金+句=釣り針
  非(あらず)ば、
  多(さわ)なりといえども
  取らず」
 ↓↑
 シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)
 塩竈明神とも言う
 塩椎神(しおつちのかみ)(古事記)
 塩土老翁・塩筒老翁(日本書紀)
 塩土老翁(先代旧事本紀)
 別名、
  事 勝 国 勝 長 狭 神・・・狭=せばめ・さ・キョウ・ギョウ
 (ことかつくにかつながさ)
  ジショウコクショウチョウキョウ
  事象  石 章  調  教(経)?
 ↓↑   石=ペテロ(Pétros・Petrus)
 パウロ(Paulo・パウェル・サウロ)
            ・・・小アジアのローマの属州
               キリキア州
               タルスス生まれの
               ローマ市民権をもったユダヤ人
 の紋章は
 魚(まな)がモチーフ
 水瓶座のマーク
 ↓↑
 「魚座時代」
 ↓↑
 BC1〜AD2015・・・
 ↓↑
 「水瓶座時代」
 ↓↑
 AD2015〜約2000年後・・・
ーーーーー
 春分点(vernal equinox)
 黄道と天の赤道との
 2つの交点のうち
 黄道が
 南から北へ交わる方の点(昇交点)
 この点が
 赤経0時
 かつ
 黄経0度で
 この点を
 太陽が通過する瞬間が
 春分
 (地球から見て、太陽が動いている)
 春分点は
 黄道座標
 赤道座標
 の原点で
 天球上における春分点の位置は
 地球の歳差によって
 西向きに移動し
 その周期は
 25800年
 ↓↑
 Ariesは
 黄道十二宮の
 白羊宮(黄経0°~30°)で
 紀元前2世紀に
 「おひつじ座」に春分点があったので
 白羊宮が
 十二宮の起点となった
 ↓↑
 キリスト教
 「うお座」を神聖な星座
  'Ιησους Χριστος ,
  Θεου
  'Υιος Σωτηρ
  (イエス・キリスト、神の御子、救世主)の
 頭文字 Ι-Χ-Θ-Υ-Σ- を繋ぐと
 ギリシア語で「魚」を意味する
  'ιχθυς (ichthys)
 となる
 キリストが生まれたとき
 春分点が
 「うお座」にあった・・・
ーーーーー
 ・・・ 「うお座」・・・「♓」・・・「二尾・弐尾」・・・
 ↓↑ 「♈♉♊♋♌♍♎♏♐♑♒♓」・・・
ーー↓↑ーー
 日置=へぎ・へき・ひき・ひおき
    幣岐・戸岐・比企
    職名に由来
    長門市は
    鍛冶屋、鑪、火渡、金焼などの
    鉄冶業関連地名も多
   「日置」の語源も
   「火起=ヒキ」に由来・・・
   「愛智郡日置神社」
    平安時代初期の
    宮中の年中行事や制度を記した
   「延喜式」に載る
    祭神は天太玉命、応神天皇など
    日置の地名、社名は、
   「日置部」のあったところから起こった
    日置部は
    暦を司った
    祭神
    天太玉命(あめのふとだまのみこと)
    配祀左
    品陀和気命(ほむだわけのみこと)
    配祀右
    天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
    由緒、創建は不詳
    延喜式の
   「尾張国愛智郡日置神社」
    社名は
    暦を司る日置部に由来
ーーーーー
 日置
 ↓↑
 岐阜県郡上市、愛知県一宮市、三重県津市
 愛知県愛西市日置(ヘキ)町発祥
 平安時代から記録、分布
 ↓↑
 京都府宮津市日置発祥
 奈良時代から記録
 ↓↑
 大阪府堺市東区の日置(ヒキ)荘から発祥
 平安時代から記録
 地名は「ヘキ」とも発音
 ↓↑
 鹿児島県日置市日吉町日置発祥
 鎌倉時代から記録
 ↓↑
 鳥取県鳥取市の
 青谷町を流れる
 日置川の付近(日置)から発祥
 平安時代から記録
 ↓↑
 三重県津市一志町日置発祥
 平安時代から記録
 地名は
 「比於木」、「幣木」、「幣岐」とも表記
 ヒヘキ、ヘキの発音も・・・
 同地に分布
 ↓↑
 宮崎県児湯郡新富町日置発祥
 鎌倉時代に
 「倍木」の表記で記録のある地名
 地名の現地音はヘキ
 宮崎県児湯郡
 日置山城から
 同地に
 上日置(ウワベキ)城があった
 ↓↑
 暦を司る日置部
 ↓↑
 高句麗系
 京都府京都市に平安時代に
 日置造の姓氏があった
 ↓↑
 日置
 ヒオキ(日沖)
 コビキ(小日置)
 ↓↑
 ヒオキ(火置)
 ヒオキ(氷置)
 ヒオキ(旭置)
 ヒ キ(比企)
 ヒ キ(比気)
 ヒ キ(樋木)
 ヒ キ(日岐)
 ヒ キ(日木)
 ヒ キ(比氣)
 ヒ キ(挽)
 ヒ キ(飛気)
 ヒ キ(飛木)
 ヒ キ(比木)
 ヒ キ(疋)
 ヒ キ(引)
 ヘ ギ(枌)
 堺市東区
 日置荘
 「日置部(ひきべ)」集団の居住地
 中世には興福寺の荘園であった
 「日置荘」がおかれたことに由来
 明治時代
 萩原天神に合祀
 日置荘西町に
 日の神をまつってきた
 「日高宮(日高神社)」があった
ーー↓↑ーー
 鹿児島の日置・・・鎌倉時代から記録
 北緯31度38分1.4秒
 東経130度24分8.8秒
 日置市
 日置市位置図
 ↓↑
 1889年4月1日
 町村制施行
 現在の市域に以下の村が発足
 日置郡
 中伊集院村・下伊集院村
 東市来村
 日置村・吉利村・永吉村
 阿多郡
 伊作村
 ↓↑
 姉妹都市・提携都市
 旧東市来町との提携
 弟子屈町(てしかがちょう)
 北海道
 釧路総合振興局管内
 川上郡にある町
 ・・・弟子(でし)が
    屈=尸+出(山山)⇔偏屈?屈強?
              屁理屈?
ーーーーー
 ・・・???・・・「日置」・・・
 「置=罒+十+目+乚(乙)」
    横目を交わらす
    縦目の乚(隠れる・イン
       乙=おつ・イツ)
 「乙」の字形
 「匿(かく)るなり
  𨒅曲(キキョク)・・・𨒅=辶+只=曲行するなり
               怖れる、恐らく
  して
  隱蔽する形に象る(説文解字・巻十二)」
  隠すための衝立のようなものの象形
 「讀みて隱の若くす」
 で、隠と音義ともに通じ
 「隠の異体字」・・・
 「ツバメ(燕・乙鳥・鳦)を表す
  𠃉と同一視される」こともある
 ・・・燕国=エンコク
      =三国時代の公孫氏の国
 ↓↑
 公孫=公(諸侯)の孫
    公の子である公子までは公族
    その子の公孫からは臣籍に下り
    公孫を氏とする・・・
 公孫僑(子産)=春秋時代の宰相
 公孫竜=戦国時代の思想家
 公孫鞅(商鞅)=戦国時代の政治家
 公孫衍=魏の官である犀首(公孫衍)
     更元七年(前318年)
     魏・趙・韓・燕・楚の
     五ヶ国の合従を組織し、秦を攻めた
 ↓↑
 遼隧の戦い(りょうすいのたたかい)
 三国時代の戦乱
 遼東で半独立政権を築いた
 公孫氏(燕王)と
 魏が
 遼隧(遼寧省海城市)で武力衝突
 遼東
 公孫氏
 は滅亡
 ↓↑
 晋書巻九七四夷傳
 「名を卑弥呼と曰う
  宣帝の平らぐ公孫氏なり」
 と記載
 卑弥呼は
 西晋の始祖
 宣帝(魏の司馬仲達)に滅ぼされた
 「公孫氏」であった・・・
 東漢の外臣で
 4代50年に渡って
 遼寧省一帯に君臨した
 公孫氏の太守、
 渕(えん)を
 西暦238年に討ち
 曹魏の遼東平定が成る
 ↓↑
 237年 
 呉の
 孫権は高句麗と通じ
 遼東へ親征を行おうとした
 魏は
 毌丘倹
 を派遣し
 鮮卑の軍を動かして遼東に駐屯
 孫権は親征を断念
 魏は公孫淵に対し上洛を命じたが
 公孫淵はこれを拒否
 挙兵して
 遼隧で
 毌丘倹
 を撃退
 同年
 公孫淵は
 燕王を称し
 年号を
 紹漢と定め、独立
 周辺部族を掌握して
 玉璽を与え
 魏との国境をめぐり
 抗戦を継続
 ↓↑
 遼隧の戦い
 238年
 曹叡は
 司馬懿
 に4万余の兵を与え
 公孫淵征伐を命じ
 公孫淵も
 卑衍・・・卑の衍=あまる意・文章中に誤って入った余計な文字
          衍=語句中にまちがって入った不必要な文字
            衍字(エンジ)
      卑弥呼の余り?・・・壱(壹・臺)與or磐余
 楊祚・・・楊の祚=天からくだされる幸福・福祚
      天子の位・皇祚・聖祚・践祚
      重祚 (ちょうそ) ・帝祚」
 らに
 数万の軍を与え
 遼隧に派遣・・・ 隧=スイ・ズイ
            墓の奥へと通じる道
            地中の通路・トンネル(tunnel)
            隧道(すいどう・ずいどう)・隧路
            隋道・随道⇔隋所・隋書?
 卑衍が
 司馬懿を攻撃したが
 司馬懿は
 胡遵らを派遣して
 卑衍を破った
 ↓↑
 公孫淵は
 遼隧に数十里(二十里、六、七十里)の塹壕を掘り
 司馬懿の軍を迎え撃った
 遼隧の
 公孫淵の防衛陣が堅固と見た司馬懿は
 東南に退却したとみせかけて
 国都の
 襄平を侵攻
 公孫淵は遼隧の軍を撤退させ
 都の守備に当たらせたが、
 敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲される
       ・・・司馬の懿(壹+次+心)
             懿徳天皇=第四代天皇
             大日本彦耜友天皇(日本書紀)
            (おほやまとひこすきとも)
             大倭日子鉏友命(古事記)
 ↓↑
 長雨の時期で兵糧が底を突き
 公孫淵は人質を出して和睦しようと画策
 司馬懿はこれを許さず
 公孫淵を捕え、処刑
 公孫淵の子
 公孫脩をはじめとする一族も討たれ
 遼東公孫氏は滅亡
 戦後
 司馬懿はこの地に魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよう
 当地の15歳以上の男子を皆殺しにした
 ↓↑
 公孫淵は
 孫権に援軍を求める使いを出し
 239年
 孫権は援軍として
 羊衜・・・羊の衜
 鄭冑・・・鄭(奠の阝)冑(由の冃)
 孫怡・・・孫(子の系)怡(心の台)
 を派遣
 曹叡が死去
 魏は遼東に対する配慮がなく
 羊衜
 らが
 遼東の牧羊城(旅順口)で
 魏の
 張持・・・張の持・・・・張(政)の持つ黄幡?
 高慮・・・高の慮・・・・高(句麗)の思慮?
 らを破って、
 その男女を捕虜として帰国
 ↓↑
 朝鮮半島中西部の
 帯方郡を境に
 南は韓と接し、
 東北は高句麗
 西北は烏丸・ 鮮卑
 西南は漢・魏の幽州と接する
 漢・魏は
 公孫氏政権があった為、
 遼東以東を
 絶域とみなし
 東夷諸国との通交を行わなかった
 二世紀後半
 黄巾の乱後の混乱に乗じ
 公孫度が遼東地方に半独立政権を樹立
 高句麗・後漢と争いながら
 楽浪郡・山東半島まで勢力を拡大
 204年
 公孫度の子・・・公孫の度(たび・ド)
 公孫康が・・・・公孫の康(やす・コウ)
 楽浪郡の南に
 帯方郡を設置
 ↓↑
 公孫度が
 黄巾の乱以来の混乱に乗じ
 遼東地方に
 半独立政権を樹立
 民族・風習とも
 漢民族であるが
 その領土は
 朝鮮半島中西部の
 帯方郡を境に
 南は韓と接し
 東北は高句麗
 西北は烏丸・鮮卑と接し
 公孫氏の勢力圏である
 遼東以北の地は
 中華圏の北東端
 漢・魏など
 時の中華王朝からは絶域とみなされ
 公孫氏の勢力圏は半独立的な地方政権
 漢人の
 公孫氏3代
 度(タク)
 康(コウ)
 淵(ふち・エン)=潭=渕
      ・・・水を深くたたえている所・海淵・深淵
         物事の出てくる根源・淵源
         底が深く水がよどんでいる所・瀬
         容易に抜け出られない苦しい境遇・苦境
 が
 50年にわたって
 遼東半島に樹立した
 地方政権(190~238)
ーーーーー
 ・・・公孫氏・・・天孫降臨・・・辿遜交隣・・・
  遜=辶+子+系
   へりくだる・ソン
   退いて他にゆずる・遜位
   へりくだる・謙遜・不遜
   ひけを取る
   帝位を譲る
   劣る
   遜る=相手を敬って自分を低くする
      謙遜する・へりくだる
      ひけを取る
      遜色
ーーーーー
 ・・・

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トンボ=蜻蛉=安芸津・秋津・あきつ⇔ヤゴ(水蠆)=太鼓虫

2018-04-07 21:31:59 | 古事記字源

 ・・・「2003年5月9日に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」は、2004年5月に地球スウィングバイを行って加速し、2005年9月12日に目標の小惑星イトカワに到着・2005年11月20日と26日にのべ3回の接地と1回の着陸し・・・2010年6月13日22時51分に地球へと帰還・小惑星探査機は、糸川博士が戦前、開発に関係した戦闘機(隼・はやぶさ)と同名の探査機で、着陸した小惑星、「イトカワ(糸川・いとかわ・25143 Itokawa)」は「太陽系の小惑星・地球近傍小惑星(地球に近接する軌道を持つ天体)のアポロ群に属する」・・・「小惑星、イトカワの内之浦(Uchinoura Bay)は比較的平坦な地域・はやぶさ、その他の科学衛星を打ち上げてきた場所の鹿児島、大隅半島の東部のJAXA内之浦宇宙空間観測所にちなめた名、(内之浦町は現在、高山町と合併し肝付(きもつき)町となった)」・・・「肝属(きもつき)郡は、鹿児島県(大隅国)の郡・・・「きもつき」・・・?
 「鹿(しか・ロク)の児(こ・ジ)の島(しま・トウ)」って?
  鹿=王・覇者   児=子・児童 島=領域・縄張り・地域
    鹿を逐う・逐鹿(チクロク)
    中原逐鹿(チュウゲンチクロク)
    魏徴の「述懐」から
    中原は天下、鹿は帝王のたとえ
    帝王の位や政権を得ようとして争う
    地位や目的物を得ようとして競争する
    鹿=ロク=禄・・・鹿を帝位に例え帝位を争うこと
    ↓↑
    史記 淮陰侯伝「秦失其鹿、天下共逐之」
    秦之綱絶而維弛、山東大擾、異姓竝起、 英俊烏集。
    秦失其鹿、天下共逐之。於是高材疾足者先得焉。
    蹠之狗吠堯、堯非不仁。
    狗因吠非其主。
    ↓↑
 ホルス(Horus・ハヤブサ
     エジプト語ラテン文字転写
     Hr, Hru
     古代ギリシア語
     Ώρος, Hōros)
     エジプト神話の天空と太陽の隼の神

  ↓↑
 ハヤブサ(隼、鶻、鸇、Falco peregrinus)
 ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属の鳥類


 「ハヤブサの地球への帰還」
  2003年5月9日    2010年6月13日22時51分
  癸未(丁・乙・己)⇔庚寅(己・丙・甲)
  丁巳(戊・庚・丙)⇔壬午(丙・ ・丁)
  壬午(丙・ ・丁)⇔甲午(丙・ ・丁)
   申酉=空亡   ⇔乙亥(戊・甲・壬)
  ↓↑
  2005年9月12日
  乙酉(庚・ ・辛)
  乙酉(庚・ ・辛)
  己亥(戊・甲・壬)
  ↓↑
  2005年11月20日   26日
  乙酉(庚・ ・辛)⇔乙酉(庚・ ・辛)
  丁亥(戊・甲・壬)⇔丁亥(戊・甲・壬)
  戊申(己・壬・庚)⇔癸丑(癸・辛・己)
ーーーーー
 「隼=隹+十=はやぶさ=鶻・鸇=ハヤブサ=早房」をブログで検索したら、最近は大勢の研究者が追求、探求している・・・ハヤブサでなくて、「隼人(はやと)」も・・・添付している「↓↑~↓↑」の「文章」はボクの説ではなく、他の研究者、殆どは「ウイッキペデア」に展開されているモノで、文字の単語、熟語や、テーマの原文はキイボードをクリックすれば即、検索できるモノばかり・・・重複、ダブっているけれど・・・ボケのせいで、アしからず・・・
 「トンボ=蜻蛉=安芸津・秋津・あきつ⇔ヤゴ(水蠆)=トンボ目(蜻蛉目)、特にトンボ亜目(不均翅亜目)のものの幼虫を指す通称(俗称)・肉食性の水生昆虫・語源は成虫であるトンボを表すヤンマの子を略してヤゴと称す・別名タイコムシ(タイコウチとは別)、あるいはワラジムシともいう(甲殻綱ワラジムシ目とは無関係)」
 「ヤゴ(水蠆)=陽侯・陽胡=ヨウコウ」⇔「蜻蛉(とんぼ)」
      蠆=萬+虫・・・太鼓虫=タイコムシ
  ↓↑
 隼(はやぶさ)の人(ひと)
  ↓↑
 720年 養老四年
 「隼人の乱」
 大隅隼人
 直坂麻呂
 が
 大隅国守
 陽侯史麻呂(ヤコのフミマロ)
 を殺害
  ↓↑
 征-隼人-持節大将軍
 大伴旅人
 副将軍
 笠御室
 巨勢真人
 の派遣で収拾・・・
ーー↓↑ーー
 「肝付氏(きもつきし)=日本の氏族・大隅の戦国大名」
 「本姓は伴氏・平安時代、
  伴兼行
 (伴善男の玄孫、善男→中庸→仲兼→兼遠→兼行)
  が
  薩摩掾に任命され下向
  伴兼行の子は
  伴行貞
  その子は
  伴兼貞(妻は島津荘開墾者
      大宰大監
      平季基の娘?
      又は
      平季基の子
      平兼輔の娘?)
  は
  大隅国
  肝属郡の
  弁済使となり
  その子の
  兼俊の代に
  郡名を取って
  肝付を名乗った」
  ↓↑
  肝付 兼続(かねつぐ)
  大隅の戦国大名
  肝付氏
  十六代当主
  永正八年(1511年)
  十五代当主
  肝付 兼興の長男
  天文二年(1533年)
  父の兼興が死去後
  叔父の兼親(兼執)を滅ぼし
  家督を継ぐ
  隣国の
  島津忠良の長女・御南を妻とし
  妹を忠良の子
  島津貴久に嫁がせた
  天文七年(1538年)
  高岳城を落とし
  大隅を平定
  天文十一年(1542年)
  百引城や平房城
  天文十三年(1544年)
  安楽城
  天文十五年(1546年)
  逢原城などを落とし
  肝付氏の勢力拡大
  天文二十二年(1553年)
  良兼に家督を譲って隠居し出家
ーーーーー
  ↓↑
 「肝属(きもつき)郡は、・・・肝属=カンゾク=カン族?
  713年・・・ 大隅国守=陽侯史麻呂(ヤコのフミマロ)
  の
  大隅国・・・大隅=おおすみ
        大隈=おおくま=大熊・逢隈・大久間⇔大久保?
  設置当初から存在した4郡のひとつ」
  ↓↑
  720年 養老四年
 「隼人の乱」
  ↓↑
  塚崎古墳群(つかざき-こふんぐん)
  鹿児島県-肝属-郡-肝付-町 野崎塚崎にある古墳群
  古墳は前方後円墳4基、円墳39基の43基
  他に地下式横穴墓十数基が確認
  最大の古墳は前方後円墳の
  花牟礼-古墳(40号墳)
  ↓↑    ・・・花牟礼=はなむれ・はなむれい
  花牟禮      花牟礼=かむろ?
  ↓↑       かむろ=神室・禿童・香夢楼・学文路・加室 
  全長66.5メートル、後円部径33メートル
  前方部幅26、前方部長32メートル・・・
  ↓↑
  唐仁古墳群(とうじん-こふんぐん)・・・ナゼ「唐仁」なのか?
        唐仁=トウジン=唐人・島人・闘人・問う訊?
                   島大臣=蘇我蝦夷
        唐人=からびと=韓人・漢人
        ・・・中臣鎌子・中大兄皇子・・・からびと?
                古人大兄皇子・・からびと殺しつ
  ↓↑
  鹿児島県-肝属-郡-東串良町にある古墳群
 ・・・「隋残党帰化人」と「唐王朝縁戚帰化人」の対立?
ーー↓↑ーー
 陽侯 麻呂(やこ の まろ)
 奈良時代の官人
 姓は史
 官職は大隅国守
 陽侯史=陽侯忌寸
 隋の煬帝の子孫
 達率
 楊候
 阿子王の末裔を称する渡来系氏族
 楊候・楊胡・陽候・陽胡とも
 文武天皇四年(700年)
 僧侶の
 通徳が還俗し
 陽侯史の姓
 久爾曾の名
 を与えられ
 勤広肆に叙せられ
 陽侯麻呂が
 大隅の国司に任命された
  ↓↑
 720年 養老四年
 「隼人の乱」
 大隅隼人
 直坂麻呂
 が
 大隅国守
  陽侯史麻呂(ヤコのフミマロ)の殺害
 征隼人持節大将軍
 大伴旅人
 副将軍
 笠御室
 巨勢真人
 の派遣で鎮圧
 陽胡史真身(ヤコのフミマミ)
  ↓↑
 陽侯麻呂(やこ の まろ)
 姓は史
 官職は大隅国守
 陽侯氏(陽侯史、のち陽侯忌寸)
 大隅国守在任中の
 養老四年(720年)
 隼人によって殺害
 同年二月二十九日
 大宰府から朝廷に報告され
 「隼人の反乱」が勃発
  ↓↑
 鹿屋伝説
 陽侯麻呂が殺された場所
 鹿屋市永野田町付近・・・
  ↓↑
 大隅国の国府は国分市
 陽侯麻呂は
 地方巡検で現地逗留中に襲撃された
 鹿屋には
 国司山(国司城)という遺跡があり
 官衙があった・・・
  ↓↑
 陽侯麻呂は
 国司山を馬で脱出し
 大姶良町横山
 ~
 名貫川を跳び越え
 山上で自害を図ったが
 死に切れず
 水を求め
 泉のほとりまで下りて絶命
 その場所が
 国司塚・・・
 永田良吉の先祖が
 国司塚一帯を管理し
 旧暦一月十四日夜に
 「国司どんのお通夜」を執り行ってきた・・・
  ↓↑
 肝衝難波
 国司塚
 「永田家」
 が代々その祭祀を施行・・・
 定説で
 「大隅地方が日向から分立し
  大隅国となったあと
  中央から赴任してきた初代国司の
  陽侯史麻呂が
  鹿屋地方巡回時
  大隅隼人
  によって襲われ
  逃て、息絶えた場所」・・・
  ↓↑
 律令制度下
 大和王権に対する地元の首長
 『続日本紀』に
 「肝衝難波(きもつきなにわ)」
 と、一族の有力者が反抗し
 殺害された場所(続日本紀)」・・・
  ↓↑
 『続日本紀』
 700年の項に登場
 「肝衝難波(キモツキ・ナニワ)」
 「難波」は
 薩摩半島側の豪族
 薩摩
 ヒメ・クメ・ハヅ
 および
 衣君(えのきみ)
 アガタ・テジミ
 とともに
 天武朝から派遣された調査団に
 脅威を与えたとして処罰
 702年
 薩摩国が設置
 713年
 大隅国が設置
 どちらも
 地元首長層を中心とする叛乱が起きた
 713年7月5日
 「隼人を討った将兵1280余人に授勲」
 とあり、
 大隅半島部の隼人たちが
 中央王権に組み込まれ・・・
 最後まで反抗したのが
 肝衝難波一族・・・
  ↓↑
 陽侯史麻呂の出自
 隋からの帰化僧(続日本紀)
 国司塚では
 「礼節厳守」
 「女人禁制」
 が昔から言われて来た
  ↓↑
 大隅の国守(くにのかみ)
 隼人に殺害
 殺された
 720年(養老四)の二月の末
 元正女帝
 朝廷に衝撃
 大隅国守の
 陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)
 朝鮮半島系渡来人の一族
 一族には
 陽胡(やこ・陽侯)
 史 (ふみ)
 真身(まみ)
 は
 養老律令の撰定に加わった
 文筆・学術にすぐれ
 一族の姓(かばね)
 「史」は文筆をもって朝廷に仕えた
 大隅は
 「蛮夷・荒賊」の地と蔑称された
 隼人の居住地・・・
 朝廷では征討軍の総大将に
 大伴宿祢旅人(おおとものすくねたびと)
 が任命
 副将軍二名を補佐役とし
 総大将は
 征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍
 蝦夷(えみし)を討つ
 征夷大将軍に対応
 大将軍に
 副将軍二名の編成は
 兵士一万人以上の規定(軍防令)がある
 「大伴旅人」の家柄
 大和王権の軍事担当の一族
 太政官の政務高官
 中納言
 大納言
 中務卿長官兼務
 隼人の鎮圧は
 一年数ヵ月の長期戦
 同年九月
 東北の蝦夷(えみし)が蜂起
 南部九州の三国は
 日向・大隅・薩摩で
 地域は
 「熊曽国(古事記)」と一括・・・
 している。
 「熊襲(日本書紀)」⇔クマが襲(かさなる)
 熊曽=くまそ=隅曽・・・曽於(贈於)
 仲哀天皇はクマソとの戦いで戦死・・・
 霧島山=曽乃峯
  ↓↑
 前方後円墳が
 クマソの拠点地域に無い・・・
  ↓↑
 南部九州への天孫降臨・・・
 天孫-瓊瓊杵尊=邇邇芸 命
        「二二藝(芸)の見事
 高千穂峯に降臨
  ↓↑ 
 霧島・高千穂峯
 隼人たちの信奉する神が降臨する山
 日向北西部の高千穂一帯(宮崎県西臼杵郡)
  ↓↑ 
 高天原⇔出雲⇔日向⇔薩摩半島(阿多・笠沙)
  ↓↑
 「木花咲耶姫=木花之佐久夜毘売
        木花開耶姫
        神阿多都比売(カムアタツヒメ)
        鹿葦津姫
        葦津姫(カヤツヒメ)」
 と結婚し三子を産む
 長男が海幸彦で
 「阿多隼人」の祖
 三男が山幸彦で
 「天皇家の祖」 隼人政策は 天武朝の武力展開
 670~680年代
 ↓↑
 663年
 百済(くだら)再興救援
 倭の水軍・・・隋王朝残党水軍?
 が 半島南西部の錦江河口の
 「白村江(はくそんこう)」で
 唐・新羅連合軍に大敗
 ↓↑
 672年
 壬申(じんしん)の乱 天武朝
 飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)
 「八色(やさく)の姓」)を制定
 律令編纂
 飛鳥浄御原令制定
 隼人が朝廷に貢物上納 天武天皇
 682年七月
 「大隅隼人」・・・肝属川流域
 「阿多隼人」・・・万之瀬(まのせ)川流域
 667年
 多禰島人が飛鳥で饗応され
 多禰島に使者を派遣
 682年
 大隅・阿多が朝貢
 抜玖(やく)人=屋久島
 阿麻彌(あまみ)人=奄美大島
 が朝貢
  698年四月
 文忌寸博士(ふみのいみきひろせ)
 ら八人に戎器(ジュウキ・武器)を持たせ
 南島に覓国使(べつこくし)を派遣
 覓国使一行は
 九州南部で各地に寄航し
 数カ所で
 剽劫(ヒョウキョウ・脅迫)された
 「薩末比売(さつまのひめ)
  久売(くめ)・波豆(はず)」
 に剽劫された ヒメ・クメ・ハズ
 は三人の女性名・・・
 『薩末比売』は薩摩の姫
 同じような脅迫を
 薩摩半島南端の
 衣(え)(頴娃)(えい)
 大隅半島の
 肝衝(きもつき・肝属)
 などでも受けた
 この覓国使剽劫事件の報告で
 朝廷は
 筑紫惣領(大宰)に命じ
 処罰を加えた
 699年十二月
 朝廷は大宰府に命じ
 三野(みの)
 稲積(いなづみ)
 の城を修築 三野は日向国児湯(こゆ)郡三納郷
 稲積は大隅国桑原郡稲積郷・・・
 この二城は隼人対策の築城
 ↓↑
 701年(大宝元年)
 大宝律令
 飛鳥浄御原令を改訂
 「律(刑法)」も備えた
 大隅・阿多の両隼人の畿内移配
 両隼人の一部が宮都の周辺に
 強制移住させられていた・・・
 ・・・
 幕末に薩摩島津藩と会津藩は禁門後護衛・・・
 ↓↑ 
 隼人の居住地は十数カ所 古代痕跡がわかるの数カ所・・・

 山城国-大住(おおすみ)郷・・・大隅?
 (京都府京田辺市大住)で
 大隅隼人の移住地
 大和国-阿陀(あだ)郷・・・阿多?
 (奈良県五條市阿田)で
 阿多隼人の移住地・・・
 河内国萱振保(かやふりほ)
 (大阪府八尾市)で南九州系の土器が出土
 ↓↑
 「忌寸」姓
 684年
 八姓の制
 ↓↑
 国司四等官(中央人から任官)
 掾(ジョウ)=判官
 目(さかん)=主典
 史生(シショウ)=書記官
 郡司の
 大領(ダイリョウ)
 少領(ショウリョウ)
 主政(シュセイ)
 主帳(シュチョウ)
 ↓↑
 702年二月
 歌斐(カヒ)=甲斐国から
 五百張の梓(あずさ)弓
 翌三月
 信濃(しなの)国から
 一千廿張の梓弓が大宰府に運び込まれた
 ↓↑
 薩摩国と
 多徴嶋(「嶋」は国に準じたもので、
     他には壱岐・対馬がある)
 の成立
 薩摩国は
 成立当初しばらくは
 「唱更(ショウコウ)国」
 と呼ばれていた・・・
 「唱更」=漢代の兵役の称
      辺境を守る意
 ↓↑    
 702年四月
 「筑紫七国=九州の地域は七国」
 「日向+大隅+薩摩=日向国」
 八世紀
 薩摩・大隅二国が日向国から分立
 西海道=九国(九州)になった・・・
 ↓↑ 
 薩摩、多徴への征討に従軍した軍士に
 九月
 勲位が授けられ
 同年(七〇二年)
 作成された
 筑前、豊前の戸籍に
 勲位を帯する者が記録
 徴兵命令は大宰府から発せられていた
 七世紀までの
 「阿多隼人」に代わって
 「薩摩隼人」
 唱更国から薩摩国への名称変更
 709年六月
 「薩摩・多禰」の語句(続目本紀)
 713年四月
 大隅国が日向国から分立 
 ↓↑
 陽侯(ヤコ)史氏
 隋の煬帝の末裔
 学問で朝廷に仕え
 一族は西海道に勢力を有していた
 「写経所に仕える経師が多く
 左京に住む下級官人
 ↓↑
 「養老律の撰定に功績のあった
  陽胡史真身
 (やこのふひとまみ)
  の子である
  令珍(従七位上)
  令珪(正八位上)
  令謬(従八位下)
  の兄弟が、
  それぞれ銭千貫を寄進し
  それぞれ外従五位に昇任
  陽胡兄弟の銭四千貫は
  大仏の知識銭として献じられた・・・
  令珍は
  天平宝字三年(759年)
  伊賀守
  令謬も
  越後守
  人麻呂が
  宝亀十一年
  豊前介」
 天平宝字四年(760年)二月
 「日本から
  陽侯史玲きゅう
  らの使節が渤海に向った」
 ↓↑
 陽侯氏の職掌
 文書を管理、記録を司る
 「続日本紀」に
 地震
 旱魃や洪水が頻繁に起こった
 藤原不比等が死去
 ↓↑
 女帝・元正天皇
 武力制圧
 (大伴旅人将軍の派遣)
 ↓↑
 740年
 藤原広嗣の乱
 曽君多理志佐の寝返りで終
 ↓↑ 
 藤原不比等
 太安麻呂を
 民部長官に抜擢・・・
ーー↓↑ーー
 はやぶさ
 
 「糸川 英夫(1912年7月20日~1999年2月21日)
  日本の宇宙開発、ロケット開発の父」・・・
  1949年 東京大学 工学博士
  論文の題は
 「音響イムピーダンスに依る
  微小変異測定法に関する研究 」・・・
 「冨田勲」氏が
  糸川博士を偲んで作曲した
 「イトカワとはやぶさ」を
 『惑星 ULTIMET EDITION』
  組曲(編曲)に追加した・・・
ーーーーー
 1912年7月20日    1999年2月21日
 壬子(壬・ ・癸)⇔己卯(甲・ ・乙)
 丁未(丁・乙・己)⇔丙寅(己・丙・甲)
 丁酉(庚・ ・辛)⇔甲辰(乙・癸・戊)
  辰巳=空亡
ーーーーー
 ・・・「糸川英夫の細密占星術」は博士の著書だった・・・

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飛んだ、ホームラン・・・法務覧・・・

2018-04-05 23:45:38 | 古事記字源

 ・・・大谷(ビッグ バレイ=Big Valley)・・・サンラン・・・サンアンだ・・ニチハム、勝った・・・もう、既に今日は4月5日、又もやホームラン、ツウラン・・・なんか、気分がイイ、空も雲があるけれど、お天気・・・庭の雪も雪解け(デタント・弛める・仏蘭西語のdétendre)・・・国際関係における緊張緩和・・・戦争の危機にある二国間の対立関係が緊張緩和・・・次の段階として「和解(ラプローシュマン=La probe Chemin・Rapurōshuman)」・・・「ラプローシュマン(rapprochement)」・・・La(ラ) probe(フロベ) Chemin(チェミン)・・・
 「湯沐邑(ゆのむら・トウモクユウ)
  古代中国、飛鳥時代から平安時代まで
  一部の皇族に与えられた領地
  国と時代により実態が異なる」

 「風呂部(フロベ)」=「♨(´o`)♨」・・・湯浴み(ゆあみ)

 「押(し)湯=押し湯(部)・・・オウトウ=桜桃・王統・応答?
        鋳物を作るとき、鋳型に余分に注入する溶融した金属
        鋳物が冷却・凝固するときに
        全体が収縮したり
        内部に隙間ができたりするのを防ぐために行う
 「押領使(オウリョウシ)」って?・・・「平安時代の官名・地方の暴徒の鎮圧、盗賊の逮捕などが役目・初め,令外(りようげ)の官として国司、郡司、土豪などから臨時に任命したが、天暦(947~957)の頃から常置の官となった」・・・
 「横領(オウリョウ)」って?・・・「他人または公共の物を不法に自分の物とすること」・・・
 「隠蔽とは?難読語辞典。 ( 名 ) スル ある物を他の物で覆い隠すこと。見られては都合の悪い物事を隠すこと。 「陣地を-する」 「事実を-する」 〔類義の語に「隠匿」があるが,「 隠匿」は隠してはいけないものをひそかに隠す意」
 人の所在、事の真相などを故意に覆い隠すこと。「証拠を隠蔽する」「隠蔽工作」・・・
 「隠匿(イントク)」は「モノや人物」
 「隠蔽(インペイ)」は「悪事や秘密」・・・「事実・事象・出来事」
 ・・・???・・・今回の「政府+高級官僚」・・・
 そもそも「国家組織」とは
 「隠蔽・隠匿」を兼ねる「法人組織」・・・?
ーー↓↑ーー
 「口裏合わせ求めた疑い
  財務省が森友学園側に
 「トラックを何千台も使ってごみを撤去したと言って欲しい」
 ・・・「4月バカ」?・・・April fool
 「森友」文書 改竄ニュース
 「陸自 日報問題 去年3月に存在確認も大臣らに報告せず」
 ・・・「4月バカ」?・・・April fool
 「4月1日の正午までに限る」・・・「」
 「イラク・スーダン日報」隠蔽ニュース
 有ったコトにする・・・
 無かったコトにする・・・
 ・・・無からユウは生じない・・・ユうからユう・・・
 漢語・・・「万愚節」
 中国語・・「愚人節」
 インド・・「揶揄節」
 仏語・・・「プワソン・ダヴリル(Poisson d'avril・四月の魚)
       ポアソン=魚
       フィッシュ(fish)=魚・・・不(譜)「一種・壱首」
         サバ(鯖・英語、Mackerel)の日
 ・・・「ghoti(フィッシュ)は、
     英語の綴りの不規則性を示すために作り出された語
     英単語 fish の音を異なる綴りで表したもので、
     当然ながら fish と同じく [ˈfɪʃ] と発音する」・・・
 「カトリック、ユダヤ教徒は
  金曜日には獣肉を食べず(fast day)
  魚を食べる日 (fish day)」・・・
 「1564年
  フランスの
  シャルル9世が
  1月1日を新年とする暦を採用したが
  反発した人々が
  4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめたのが起源・・・」
 「魚=マナ=真名(漢字)
   =マナ(Manna・ヘブライ語 mān)は
    「旧約聖書・出エジプト記・第16章
     モーゼの民がシンの荒野で飢えた時
     天から降ってきた食べ物
     意味=これは何だ・・・「森永製菓のマンナ」
     森永ビスケット=マンナ・・・?
     コエンドロの実のようで白く
     その味は蜜を入れた
     煎餅(せんべい)のようであった
     夕べに
     鶉(卯津羅・うずら)が飛んでき
     宿営をおおった
     朝になると、宿営の周囲に露が降りた
     その降りた露がかわくと
     荒野の面に
     薄い鱗(うろこ)のようなものがあり・・・
     M社長を務めたM氏のD・・・1962年6月10日・・・
     壬寅(己・丙・甲)
     丙午(丙・ ・丁)印綬
     己卯(甲・ ・乙)
     申酉=空亡
ーー↓↑ーー
 本日、2018年4月4日(水)22:25〜
 歴史秘話ヒストリア(NHK・TV)は
 「よみがえる大化改新
  発見蘇我入鹿の棺」・・・
 「武内宿禰の孫(?)、
  蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)
  宗我石川とも表記・・・宿禰は尊称・・・武内宿禰の子(?)
 「蘇我石川宿禰・・・石船・石撰・石戦・・・石川五右衛門
      ↓↑   石(岩・磐)井の乱    釜茹での刑
      ↓↑       磐余彦=神武天皇
      満智(マンチ)・・・萬智・・・萬葉集
      ↓↑        艹+禺+知+日
      韓子(馬背)→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿」
    カンシ バハイ コウライ↓↑ バシ カイ ニュウロク
    からこ ませ  こま  ↓↑うまこ えみし いるか
        めせ  好 例 ↓↑ めご えびイ いしか
                トウモク=頭目・唐目
        いなめ・いにめ・いぬめ・いねめ・いのめ
        いなま・いにま・いぬま・いねま・いのま
                ↓↑
       「犬・狗・戌・射ぬ・鋳ぬ・入ぬ」
               +「め=目・女・眼・雌・芽」
               +「ま=瞼・間・真・磨・摩・麻・馬」
               稲の目・・・苗(なえ・ビョウ)
                ↓↑
   早稲(わせ)・稲幹(いながら)・稲置(いなぎ)・稲妻(いなずま)
   稲穂(いなほ)・稲叢(いなむら)・稲荷(いなり)
   稲(いね)・稲扱き(いねこき)・稲舂虫(いねつきむし)
   稲熱病(いもちビョウ)・稲魂(うかのみたま)
   稲麻竹葦(トウマチクイ)・稲架(はさ)
   早稲田(都の東北?)
   ↓↑
   禺=甲+禸
     大型のサル
    「禹」同様、頭の大きな虫(蛇、蜥蜴=とかげ)
     人に似ることから
    「~に似たもの・本物と対の」等の意味を持つもの
     偶=イ+禺=人に似たもの(土偶)
          木偶=案山子=久延毘古(くえびこ)
          対になった(偶数)
          寓=宀+禺=本宅と対になった別宅
          遇=辶+禺=二人が会う
          隅=阝+禺=本拠と別の周辺地・・・大隈(重信)
          堣=隅     
ーー↓↑ーー
 以湯止沸(イトウシフツ)
   ・・・伊藤 私物・至仏
 対処の方法を間違えたために
 事態が更に悪化
 沸騰している湯の勢いを弱めるために
 沸騰している湯を注ぐ
 出典 『呂氏春秋』「尽数」
 ↓↑
 以湯沃雪(イトウヨウセツ)
   ・・・伊藤 要説・夭折・熔接・八節
 極めて簡単に物事ができる
 湯をカケて雪を溶(と)かす意
 「湯を以て雪に沃ぐ」
 沃=水を注ぐ・ヨク・ヨウ・エウ
   沃灌
   地味が肥えている
   沃土・沃野・肥沃・豊沃
   元素の名「ヨード=沃度」
   沃度丁幾(ヨードチンキ)
   沃化・沃素
   沃饒(ヨクジョウ)
 出典 『淮南子』「兵略」
 ↓↑
 禹湯文武(ウトウブンブ)
   ・・・善知鳥・宇頭
 夏、殷、周の三代の王朝の始祖名・聖天子
 「禹」は夏王朝の禹王
 「湯」は殷王朝の湯王
 「文」と「武」は
  周王朝の文王と武王・・・文武天皇⇔持統天皇
  周⇔後周⇔則天武后        字統転納
 ↓↑
 金城湯池(キンジョウトウチ)
   ・・・禁城統治・今上等地・謹上読知
      懇情倒置・近状当知
 守りに優れ、防御に強い城
 防備が固く、簡単に入り込めない勢力範囲
 「金城」は金属で作られた城壁
 「湯池」は熱湯が張られている堀
 出典 『漢書』
 ↓↑
 盟神探湯(くかたち)
   ・・・玖珂質・久我達(絶・建・太刀)
 盟神探湯(メイシンタントウ)
   ・・・迷信反当・迷心短答・明神担当
 古代日本で行われ
 神に誓いを立て、真偽、正邪を
 判断する裁判の方法
 神に誓いを立てて
 熱湯に手をいれ
 正しい者はやけどを負わず
 罪のある者は手がただれる・・・冤罪の根源方法
 出典 『日本書紀』「允恭紀・注」
 ↓↑
 湯池鉄城(トウチテツジョウ)
   ・・・読 知徹 定
 城の守りが非常に固いことのたとえ。
 「湯池」は熱湯で満たした堀。
 「鉄城」は鉄の塀に囲まれた城。
 出典 『世説新語」「文学」
 ↓↑
 赴湯蹈火(フトウトウカ)
   ・・・不当 等 価
 苦しむことを恐れずに
 危険なことをすることのたとえ
 「赴湯」は熱湯に向かうこと
 「蹈火」は熱湯を踏みつけること
 熱さを問題とせず
 熱湯に向かって、燃えている火を踏む
 「湯に赴き火を蹈む」・・・
 出典 『荘子』「達生」
 ↓↑
 周代の湯沐邑
 湯沐邑は周の制度
 初見は
 『春秋公羊伝』隠公三年三月条
 邴(ヘイ)は鄭(テイ)の湯沐邑
 湯沐邑の解説
 天子が泰山を祭るとき
 諸侯も
 みな泰山の下に従う
 そのとき諸侯はみな
 湯沐のために邑を持つ
 『礼記』王制篇
 方伯が天子に朝するときに
 みな天子の県内に
 湯沐の邑を持つ
 どちらも
 斎戒沐浴を名目とするが
 遠くから来る諸侯と従者
 使者の滞在に必要なものを
 現地で満たすために
 与えられたのであろう・・・?
           ・・・湯=熔鉄?
 ↓↑
 戦国時代と漢代の
 湯沐邑
 湯沐邑は君主が与える領地
 魏無忌(信陵君)が
 趙の王から
 鄗(コウ)を
 湯沐邑として与えられた
 『史記』信陵君伝
 ↓↑
 前漢
 高祖
 劉邦は皇帝になってから
 「朕は沛公からはじめて
  暴虐を誅し
  ついに天下を得た」
 とし
 挙兵の地である
 沛を自分の
 湯沐邑にし
 沛の税や労役負担を軽減
 皇帝の湯沐邑はこの一例のみ
 その後は
 皇族が湯沐邑を与えられた
 ↓↑
 前・後の漢代
 湯沐邑を与えられたのは
 皇太子、皇后、皇太后
 廃王、廃王女
 公主、王女
 皇后の生母
 太子の湯沐は
 『後漢書』班彪伝に
 旧制で十県
 後に増やされ
 『漢旧儀』に
 皇后・太子は
 各四十県を食み
 沐邑という・・・
 漢代の皇族男子は
 通常諸侯・王や列侯になって
 与えられた領地を統治したが
 それ以外の皇族には
 湯沐邑が与えられた
 湯沐邑の主は
 統治権を持たず
 税収を手に入れるだけ
 湯沐邑を与えられるのが
 皇族女子と廃王に偏るのはこのため・・・
ーー↓↑ーー
 日本
 湯沐邑(ゆのむら・トウモクユウ)
          頭 目 有
          当 木(漏・睦・默)有
 湯沐邑の
 丹治部
 湯沐邑の用例
 平安時代の
 『新撰姓氏録』
 「諸国に
  多治部を定めて
  皇子の湯沐邑にした」
 この皇子は後の
 反正天皇
 多治部を宰領した者が
 丹比連を名乗ったのが
 丹比氏のはじまり・・・
 5世紀の
 名代・子代を
 平安時代に
 湯沐邑の制度に呼び替えた・・・
 ↓↑
 壬申の乱
 湯沐邑
 『日本書紀』巻二十八
 天武天皇元年(672年)
 一年間の記録
 「壬申の乱」の記録
 「湯沐令」の言及が二箇所
 「湯沐」の言及が一箇所
 その時代の唐王朝に
 「湯沐邑」はなかった
 日本の
 「湯沐邑」は漢代の制度・・・
 ↓↑
 大海人皇子
 六月二十二日
 使者を出し
 安八磨郡(安八郡)の
 湯沐令(ゆのうながし)の
 多品治に兵を挙げ
 不破道を塞ぐよう命じ
 これを受けて
 二十五日までに
 美濃の兵
 三千が
 不破道を塞ぐ
 この兵は
 安八磨郡の
 湯沐邑が軍事行動を起こした
 二十四日
 皇子は
 伊勢に向かう途中
 莬田郡家のそばで
 湯沐の米を運ぶ
 伊勢国の駄
 五十匹に会った
 二十五日
 伊勢の鈴鹿郡家で
 国司守の
 三宅石床
 介の
 三輪子首
 湯沐令の
 田中足麻呂
 高田新家
 が出迎える・・・
 ↓↑
 律令制の湯沐邑
 東宮(皇太子)
 中宮(皇后)
 のために
 湯沐邑が置かれた
 大宝令
 養老令
 中宮のみ
 二千戸の
 中宮
 湯沐が置かれ
 東宮には
 湯沐邑の代替として
 毎年
 東宮雑用料
 (絁300疋・(真)綿500屯・糸500絇
  調布1000端・鍬1000口・鉄500廷)
 が支給(禄令封戸条)
 光仁天皇の時代
 山部親王(桓武天皇)
 のために特に
 東宮湯沐
 千戸が与えられ
 延喜式の段階で
 東宮湯沐として
 中宮と同様の
 二千戸が支給(『延喜式』春宮坊
 なお
 東宮雑用料も併給
 令制では別に
 封戸があり
 他の皇族と臣下に与えられた
 封戸と湯沐は
 呼び方の違いで
 実質は同じ・・・
ーーーーー
 ・・・「湯浴み」・・・イイ湯だなッ、アハ、ハン・・・
ーーーーー
 宝亀四年二月二十四日(773年3月21日)
 民部省宛太政官符
 (『大日本古文書』(編年)二十一巻)
   ↓↑
 雑用料の量額
 綿は500屯から700屯
 鉄500廷が銭500疋(誤記説あり)?・・・鉄=てつ=綴
 へ変更され
 御履革として
 皺文革・白革が各二張(計四張)が追加
ーーーーー
 ・・・???・・・

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