鶴岡から湯殿山方面へ。山の奥に田麦俣集落がある。山間で豪雪地帯のこの地には、多層住宅が残っていた。
細い山道を下ると旧遠藤家があった。
冬を迎える準備は万端のようだ。
狭い土地にわずかばかりの野菜が植えてあり、電柱には3mまで積雪が測れるものさしがあった。
この日の鶴岡の朝はすっきりと晴れ、金峯山もはっきりみえた。藤沢周平はあの山の麓「高坂」で生まれたそうだ。
地のモノを土地の酒で少し頂けばよい。土地の酒は時のモノに合うようにできている。酒蔵は大抵古くからのものがおおいから、土地の歴史が自然と話題になる。「西の灘、東の大山」大山?鶴岡だったのか。『大山をいただきます』となる。決して高くはないが何か特徴を探る楽しみがよい。しかして今宵は庄内浜の口細かれいであった。
<旧鐙屋>
酒田三十六人衆、廻船問屋にして元禄時代の豪商、鐙屋惣左衛門の屋敷は酒田市役所の目の前。表口から土間がおくまで続いている町家造りは京都でも見られるが、さすがに豪商だけあって幅と言い長さと言い圧巻。
井原西鶴「日本永代蔵」に登場するだけある。この火鉢一つみてもモノが違う。当時の豪商の凄さにしばし言葉なく、往時に思いをはせる。
更にここの屋根は石置杉皮葺屋根で鶴岡の風間家丙申堂と同じ。
<山居倉庫>
時代は下がるが、最上川舟運の拠点として明治時代から現在まで現役の倉庫。おしんでも取り上げられた場所として有名。日本海からの防風林としてのケヤキ並木だがたおやかな木漏れ日を浴びながら一人歩く。
倉庫から舟までは女丁持ちといわれた女性が活躍。60kgの米俵を5つも運ぶ人がいた。明治の女性は強し。
小鵜飼船 この運河を通って運搬された
<本間家>
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」
江戸初期から海運と金融で財をなし、農地改革まで3000町歩という日本一の大地主。酒田のインフラの半分以上は本間様のおかげともいわれていた。武家と商家づくりが一体化した珍しい造りとのこと。三井、住友にも匹敵しながら企業化せず歴史に名を残している。
<土門拳記念館>
時間がかなり押していたが、ここを見ずに行くのも惜しい気持ちに駆られ小1時間ほどたってしまった。私たちが生まれ育った昭和という時代の躍動、歪みそして潮流が写真を通して感じ取れる。感性に響くものにふれると元気もらえるもんだなあ。
仕事を終え晩秋の海坂をめざした。そもそも海坂という地名は日本にはない。一人の作家が創りあげたその地をどうしても歩きたくなり、小旅行を試みた。秋はぐっと深まりはしたが日本海から吹く風は冷たいどころか心地よささえ覚えた。
<酒田から鳥海山> 頂の雪の白さが眩しい
<鶴岡から夕暮れの月山> 雪はこちらの方が俄然多い
<ゆ~きの降る町を~~♪> 知らなかったなあここ鶴岡を歌った歌詞だったとは
<藤沢周平記念館>今回の目的はここ。藤沢氏が描いた郷土を断片でも見たかったし、空気を感じたかった。普通に生きるどんな人にも必ずドラマがある。私もその一人。ゆえに藤沢作品は多くの人々の心に低音で長く深く刻まれる気がする。普通であることの難しさとは有り難さのことである。
<又蔵の火:総穏寺> 蕎麦屋はなかった
<蝉しぐれ:三雪橋>五間川とはこの内川である。牧文四郎も同じ景色の中で成長をしていったはずだ。藤沢作品をまだ未読の方は傑作:蝉しぐれをぜひに。
<蝉しぐれ:NHK:風間邸>この部屋で文四郎とおふくが再会をした。そしてここ丙申堂の造りは見事。風間家は現在の荘内銀行につながる金融で財をなした豪商だ。