1000枚の写真よりも、脳裏に焼き付いた1枚は色あせしますがその分印象深く刻まれるものです。デジカメが普及し記録もしやすくなりましたが、残念ながら写真は物語りません。物語るのは私たち自身でそれは音声か文字で記録しておくとよい、が持論です。ただ、そうマメにできない。
先日バックアップで取っておいたポータブルHDDが反応しなくなりました。正直かなり落胆しましたが、ダメならあきらめようと腹も括りました。電子機器はいずれはこうなる可能性が大きく、復旧したら紙媒体で記録しておこうとも決めました。業者に依頼すると、お高いですね~。運良く復旧。この夏の楽しみができました。
こうしてブログに残すのも幾人かの皆さんに読んでいただくことと、自分自身のその時々の足跡だと思っています。だから写真が無くてもよいのです。特に書籍は足跡の意味合いが強くお勧めというわけではありません。ビビッとくる書評もとい感想文にもなりません。あのときこんな本読んでいたんだなあ~、とただこれだけのため。
誰も皆怒りたくて怒ってはないのですよね。怒って満足したなんてないもんなあ。まだここまでは無理!の境地はありますが、自己を見つめ直すのはよい本でした。
公立高校、大舞台での見事な逆転劇、生徒は大きな舞台に立たせると想像以上の力を出すときがあります。ただそれは偶然ではなく指導が礎にあってのこと。教え、育ち、放つとき真価が問われているのかも知れません。また楽しみの熱い夏がやってきます。
表題がいいなあ、とおもい購入。石田禮助という一人の人物の生き様を垣間見るとき自分もこうありたいと何度か思える部分がありました。粗といいますが、いやいや「細」です。「粗野」な人はそう見えるだけの「細」の部分を大事にしています。
城山三郎晩年の生き様。日記って意味ありますね。ようやくどんな日記が役立つかを知りつつあるとき、出逢った本でした。表題がいい!手ぶらで堂々と行ける場所は確かにあちらだけかも。
「死ぬところに向かって生きている」ことだけがわかっている。するとどういう風に生きたらいいかを考える。自分の年になって人生という山を下り始めているとき、ぼんやりとこういう事を思った方がいい、と示唆され頷きました。生きる意味を知ろうとする、悔いないように生きるのは時々「死」を思うのも悪くないというところに共感。