昨日は「つるっぱし亭」へ。
前月よりは多かったが、それでも30人程度の入り。
他に良さそうな落語会も確かに多かったが、勿体ないなあ。
「阿弥陀池」(鯛蔵):△
特にマクラを振らずにネタへ。
きちんと喋ろうとしているようだが、ウケにはつながっていない。
アホの一貫性がなく、アホな科白を言う時だけアホになっている感じ。
作っている感じが見えてしまう。
また、全体にツッコミがキツく、少し笑いが起こってもそれが増幅せず、
ツッコミでかき消してしまっている印象。
全体にのんびりした雰囲気に欠けるなあ。
少し余計な科白があったり、
微妙にトチるところがあって流れを損ねるところが散見された。
ちと高座が暑かったのかも知れない。
「猫の忠信」(雀三郎):○+
浄瑠璃のマクラと、踊りを習っている、というマクラ。
後者は初めて聞いたが面白く、
このネタの「お師匠さん目当てで通っている」気につながるあたりが良い。
ネタは次郎吉の抜けた感じ、でも色気目当てで通っている感じが
ベースとして明確であり、安心して楽しめる。
吉朝とは違う方向だが、これはこれで素晴らしいもの。
おとわはんに言い付けに行くあたりは、
失恋の意趣返しというよりは悪戯の雰囲気が強く、それはそれで悪くない。
常吉はかなり手強く作られているのだが、少し違和感がある。
個人的にはこの人も稽古屋遊びに通う人であり、
遊びベースなのでは、という感覚が個人的にはある。
そこに次郎吉が焚き付けに来たことへの怒りと、
さらに訳の分からない話であるから
浄瑠璃の真似事的に強く言うようになっている、ということでは、と思う。
ネタの全体像からすれば、常吉をかっちりとした幹にするのは当然であり、
遊びベースの部分はあまり気にしなくても良いのかも知れないが。
後半、少し息切れした感じ。
正体を見顕した後、すぐにサゲへ向かっていったが、
やはりこの部分は、一度山が来て切れてしまう感じがするなあ。
どうしようもないので、開き直って突っ走るしかないかも知れないが。
# これまたどうでも良いことだが、
常吉に化けた猫が「高貴な方に飼われた三毛を皮に張る」
「表の皮は父の皮、裏側は母の皮」と言っているのだが、
三毛猫のオス、しかも子ができるのって非常に珍しくないんだっけ?
とんでもなく珍しいから効果があるのかも知れないが、
一瞬違和感を持ってしまうから、敢えて「三毛猫」にする必要もないのでは、
とも感じた。
「京の茶漬」(文華):△+
人が成長するに従い、どのようなものが笑いにつながるか、といったマクラからネタへ。
そもそも、個人的には好きなネタではない。
ウケ易いようにクサ目に表情を付けたり、
皮肉な言い方をかなり説明的にしたりして、分かりやすくしていた。
それはそれでウケていたのだが、
分かりやすくすることでウケをとろうとする位だったら、
別に「京の茶漬」をせずにもっと笑いやすいネタをやれば良いのに、と思ってしまう。
最近梅棹忠夫の本を読んで改めて思ったのだが、
閉鎖社会であり、全ての会話が社交辞令・型がある京都の、
その一つの型である「お茶漬でも」を皮肉るのがこのネタの味だろう。
特にそれ以外の「ケチである」といった要素を特に強く謗る必要もないかな、と感じる。
「鯛が新しい」の繰り返しも、
「お茶漬を出さないと申し訳ない」と思わせるための手段、
という程度の位置付けで良かろう。
そもそも「休日に、電車賃使って京都に来る」時点で経済合理性は全くない訳で、
損得ではなく、大阪人が京都人を弄って遊んでいる、というベースは
踏み外さない方が良いと思う。
細かい部分では、良いなあ、と感じる工夫も結構あった。
例えば「茶漬でも」と言うタイミングを
「履物履いたところ」にして引き返さないタイミングにする、
と言うのは自然で分かりやすいし、
最後、空であることをアピールするのに、
清水焼の茶碗を弾いて聞かせるのは良いと思う。
ただ、後者でその後「空やないとこんな音はしない」とまで言うなど、
やはり全体には押し過ぎと感じるところも多かった。
「茶屋迎い」(雀三郎):○-
「アルカリ落語」の思い出話からネタへ。
前半は「木乃伊取り」の趣向であり、
後半は「不孝者」になっている、というのが雀三郎の「茶屋迎い」。
個人的には、前半の趣向は「つかみ込み」では、と若干感じなくもないが、
「アルカリ」の頃で小佐田の手が入っている、と言うのであれば、
まあ、仕方ないかな、とも思う。
そこそこウケていたし。
権助の着物を借りて新町へ。
その道すがらの回想のあたり、
以前遊んでいた旦那が、枯れた中に微妙に芽が出てくる感じが良い。
座敷でのワチャワチャは、
権助の酒癖の説明が、昔に比べて長くなっていたように思う。
クドいかな、と思いつつ、
ここで座敷の浮かれた雰囲気が出せたので良かったのかも知れない。
下の布団部屋に通され、以前馴染んでいた芸者が入ってくる。
個人的には「8年ぶり」に違和感がある。
それは倅が産まれてから、ということであり、
まあ、遊んでいてもおかしくはないのだが、
やはり倅が生まれる前、自分が若旦那と呼ばれていたような頃、とする方が、
「一緒になろうと思っていた」こと、
或いは「焼け棒杭に火が付いた」感じが出て、良いと思う。
無論、あまり時間が経過すると顔が分からないだろう、
という問題もあって一長一短ではあるのだろうが。
思い出して語る旦那、それを「宜しいがな」と受ける芸者、
このあたりで年輪・人生経験を感じさせるのが素晴らしい。
それだけに、最後引き寄せての言い立てで噛んでしまったのは勿体ない。
前月よりは多かったが、それでも30人程度の入り。
他に良さそうな落語会も確かに多かったが、勿体ないなあ。
「阿弥陀池」(鯛蔵):△
特にマクラを振らずにネタへ。
きちんと喋ろうとしているようだが、ウケにはつながっていない。
アホの一貫性がなく、アホな科白を言う時だけアホになっている感じ。
作っている感じが見えてしまう。
また、全体にツッコミがキツく、少し笑いが起こってもそれが増幅せず、
ツッコミでかき消してしまっている印象。
全体にのんびりした雰囲気に欠けるなあ。
少し余計な科白があったり、
微妙にトチるところがあって流れを損ねるところが散見された。
ちと高座が暑かったのかも知れない。
「猫の忠信」(雀三郎):○+
浄瑠璃のマクラと、踊りを習っている、というマクラ。
後者は初めて聞いたが面白く、
このネタの「お師匠さん目当てで通っている」気につながるあたりが良い。
ネタは次郎吉の抜けた感じ、でも色気目当てで通っている感じが
ベースとして明確であり、安心して楽しめる。
吉朝とは違う方向だが、これはこれで素晴らしいもの。
おとわはんに言い付けに行くあたりは、
失恋の意趣返しというよりは悪戯の雰囲気が強く、それはそれで悪くない。
常吉はかなり手強く作られているのだが、少し違和感がある。
個人的にはこの人も稽古屋遊びに通う人であり、
遊びベースなのでは、という感覚が個人的にはある。
そこに次郎吉が焚き付けに来たことへの怒りと、
さらに訳の分からない話であるから
浄瑠璃の真似事的に強く言うようになっている、ということでは、と思う。
ネタの全体像からすれば、常吉をかっちりとした幹にするのは当然であり、
遊びベースの部分はあまり気にしなくても良いのかも知れないが。
後半、少し息切れした感じ。
正体を見顕した後、すぐにサゲへ向かっていったが、
やはりこの部分は、一度山が来て切れてしまう感じがするなあ。
どうしようもないので、開き直って突っ走るしかないかも知れないが。
# これまたどうでも良いことだが、
常吉に化けた猫が「高貴な方に飼われた三毛を皮に張る」
「表の皮は父の皮、裏側は母の皮」と言っているのだが、
三毛猫のオス、しかも子ができるのって非常に珍しくないんだっけ?
とんでもなく珍しいから効果があるのかも知れないが、
一瞬違和感を持ってしまうから、敢えて「三毛猫」にする必要もないのでは、
とも感じた。
「京の茶漬」(文華):△+
人が成長するに従い、どのようなものが笑いにつながるか、といったマクラからネタへ。
そもそも、個人的には好きなネタではない。
ウケ易いようにクサ目に表情を付けたり、
皮肉な言い方をかなり説明的にしたりして、分かりやすくしていた。
それはそれでウケていたのだが、
分かりやすくすることでウケをとろうとする位だったら、
別に「京の茶漬」をせずにもっと笑いやすいネタをやれば良いのに、と思ってしまう。
最近梅棹忠夫の本を読んで改めて思ったのだが、
閉鎖社会であり、全ての会話が社交辞令・型がある京都の、
その一つの型である「お茶漬でも」を皮肉るのがこのネタの味だろう。
特にそれ以外の「ケチである」といった要素を特に強く謗る必要もないかな、と感じる。
「鯛が新しい」の繰り返しも、
「お茶漬を出さないと申し訳ない」と思わせるための手段、
という程度の位置付けで良かろう。
そもそも「休日に、電車賃使って京都に来る」時点で経済合理性は全くない訳で、
損得ではなく、大阪人が京都人を弄って遊んでいる、というベースは
踏み外さない方が良いと思う。
細かい部分では、良いなあ、と感じる工夫も結構あった。
例えば「茶漬でも」と言うタイミングを
「履物履いたところ」にして引き返さないタイミングにする、
と言うのは自然で分かりやすいし、
最後、空であることをアピールするのに、
清水焼の茶碗を弾いて聞かせるのは良いと思う。
ただ、後者でその後「空やないとこんな音はしない」とまで言うなど、
やはり全体には押し過ぎと感じるところも多かった。
「茶屋迎い」(雀三郎):○-
「アルカリ落語」の思い出話からネタへ。
前半は「木乃伊取り」の趣向であり、
後半は「不孝者」になっている、というのが雀三郎の「茶屋迎い」。
個人的には、前半の趣向は「つかみ込み」では、と若干感じなくもないが、
「アルカリ」の頃で小佐田の手が入っている、と言うのであれば、
まあ、仕方ないかな、とも思う。
そこそこウケていたし。
権助の着物を借りて新町へ。
その道すがらの回想のあたり、
以前遊んでいた旦那が、枯れた中に微妙に芽が出てくる感じが良い。
座敷でのワチャワチャは、
権助の酒癖の説明が、昔に比べて長くなっていたように思う。
クドいかな、と思いつつ、
ここで座敷の浮かれた雰囲気が出せたので良かったのかも知れない。
下の布団部屋に通され、以前馴染んでいた芸者が入ってくる。
個人的には「8年ぶり」に違和感がある。
それは倅が産まれてから、ということであり、
まあ、遊んでいてもおかしくはないのだが、
やはり倅が生まれる前、自分が若旦那と呼ばれていたような頃、とする方が、
「一緒になろうと思っていた」こと、
或いは「焼け棒杭に火が付いた」感じが出て、良いと思う。
無論、あまり時間が経過すると顔が分からないだろう、
という問題もあって一長一短ではあるのだろうが。
思い出して語る旦那、それを「宜しいがな」と受ける芸者、
このあたりで年輪・人生経験を感じさせるのが素晴らしい。
それだけに、最後引き寄せての言い立てで噛んでしまったのは勿体ない。