米朝師死去。
お年もお年であり、いつかこの日が来るのは分かっていたので、
枝雀や吉朝、喜丸が亡くなった時のような衝撃はないが、
それでもいざその日が来ると様々な思いが浮かぶ。
「百年目」や「地獄八景」から、
それこそ「紀州飛脚」や「重箱丁稚」に至るまで、
師のネタは殆ど(テープなどが多い)聞いていると思うのだが(「浮世床」とか聞いていないか)
では「米朝の落語が好きか?」と聞かれるとけっこう難しい。
私自身、米朝から聞き始めているのだが、
そのうち6代目を聞くようになって
米朝は「整い過ぎている」「破綻がない」「噺家らしくない」「面白くない」と思って
一時的に離れた。
しかし改めて聞くと、やはり理屈では割り切れない面白さがあったりする。
「メートル原器」「教科書」というのは正しい表現なのかも知れない。
現在の上方落語を考えていく上で、「離れたら、とりあえずここに戻ってこれる」
基準になっているのかな、と思う。
「桂米朝なかりせば」という表現がある。
「上方落語ノート」「落語と私」を始めとする米朝の残した多くの書籍は非常に有意義。
また、例えば、上方落語が全国的に広がることはなかっただろうし、
様々なネタの「復活」もなかっただろうし、
上方の噺家がテレビやラジオのタレントとして活躍することもなかったのでは、と思う。
そういう意味で、上方落語・噺家の現状を作ったのは米朝だろう、と感じている。
ただ、それが正しいのかどうかは分からない。
6代目に言わせれば、姫路の出身である米朝の言葉は
必ずしも本当のいわゆる「船場ことば」「大阪ことば」ではないと云う。
しかしそれが「上品な大阪弁」「船場言葉」と思われて広まっている。
そんなことに思いを向けても意味はないのかも知れないが、
大阪土着の「上方落語」が全国に広がり、マスコミで受け入れられる際に
希薄化されてしまっているのではないか。
そんなことを考えて憎まれ口を叩いてみても、
今自分が落語を好きなのはやっぱり米朝のお陰なのだと思う。
感謝を込めつつ、合掌。