前回に続いて神田川を遡って参りましょう。
●下流から数えて8番目の橋…昌平橋
萬世橋に負けず劣らず重厚な造りの親柱には、よく鳩が留まってます。
↑の写真は去年と今年、撮影した年が違う…鳩から見て止まり木にピッタリの形状なのかな?
江戸、寛永年間に架けられた歴史有る橋は、当初「芋洗橋」・「相生橋」の名で呼ばれていたのだそう。
その後、徳川5代将軍綱吉が湯島に聖堂を建設した折、孔子誕生地の昌平郷に因んで「昌平橋」と改名させた、と由来書き看板に有りました。
一時、萬世橋と場所や名前を入れ替えられたり、昌平橋もかなり波乱の多い橋生を歩んで来た様です。
車道を中に挟み、上流側と下流側は、人が通る人道橋になっています。
車道と人道橋とを隔てる溝から神田川の流れが見える…と或る外国人が興味深そうに覗いてました。
昌平橋上を斜めに走る鉄橋はJR総武線の物。
更に、神田川に寄り添って走る鉄橋は、中央本線(中央線)の物です。
次の聖橋方向へ歩いて行くとメトロ丸ノ内線鉄橋も見えて来る、昌平橋~聖橋間は地下鉄丸ノ内線が地上に顔を出すポイントな為、鉄道写真愛好家がカメラを構える姿をよく見ます。
↑昌平橋下流側の眺め、奥に架かるのは萬世橋。
ユリカモメの群れはここでも羽を休めていました。
ここより上流では姿を見掛けなくなったので、昌平橋までが彼らのテリトリーなのかもしれない。
↑昌平橋上流側の眺め、橋の上を斜めに突っ切る中央・総武線。
…ところで昌平橋が架かる付近には、東京で名所になってる建造物が多い。
神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂と、写真で観て知ってはいても、実際に行った事は無かったんで、ちょっと寄り道しました。
昌平橋を渡って神田明神下交差点を左折し、神田明神通りを歩いて数分、水色の鳥居が建つ坂を上れば、神田明神に着きます。
⭐昌平橋~聖橋間の立ち寄りスポット…天野屋(看板は旧漢字表記)
その水色鳥居の左隣に、如何にも老舗っぽい雰囲気の甘酒茶屋が1軒建ってます。
「甘酒」とは心惹かれるキーワード、歩き疲れてた上に小腹も空いてたんで、参拝前にティーブレイク。
尚、「天野屋」でお茶する場合は、神輿が飾られてる両開きの引き戸からではなく、「明神甘酒」の暖簾が下がる方へ入ります。
店舗右は甘酒納豆塩麹等を扱う売店コーナー、店舗左が喫茶コーナーになってます。
見た感じ売店コーナーから入店したくなりません?…自分は初訪問の際、売店の方から開けました。
店内は昭和の駄菓子屋の様にレトロな雰囲気、アンティークな小物が沢山飾ってあります。
料金は前払い制、甘酒はテイクアウトも可能。
↑頗る良い陽気だったので、冷やし甘酒を注文。
甘酒にはおしんこが付きます。
この店の甘酒は、創業当時から地下6mの天然の土室(むろ)で作る糀(米麹)を元に、手を加えて生成し熟成を待って造った物だとか。
↑白玉みつ豆も注文、白玉団子や甘じょっぱい豆に、シロップ煮の果物に、餡子、寒天、すあまの様な色餅が載ってる、昔懐かしいみつ豆、黒蜜がかかってます。
↑窓際席から眺める庭、トイレは庭を出た先に有ります。
ところで神田明神近くの老舗甘酒屋は、他にもう1軒在る。
水色鳥居を潜って、坂を上った先に建つ、「三河屋綾部商店」なる店がそうで、天野屋と同じく、自家製の味噌や納豆等も販売している。
1616年に三河から江戸へ移り、代々将軍家や宮内庁に手作りの甘酒や味噌や納豆を納めて来たそうで、1846年創業の天野屋より、実は歴史が有るんです。
でも三河屋は店がビルに入っており、天野屋の見た目の方が老舗っぽいもんだから、観光客はそちらに流れて行ってしまうんですよ。
自分も見た目で判断してしまいました、御免なさい…次回は三河屋さんの甘酒を試そう。
⭐昌平橋~聖橋間の立ち寄りスポット…江戸総鎮守「神田明神」
お腹が満たされたんで、今度こそ鳥居を潜り、神田明神に参拝。
神田明神の正式名称は「神田神社」、御祭神は大黒様(大己貴命:おおなむちのみこと)、戎様(少彦名命:すくなひこなのみこと)、そして平将門、更には銭形平次まで祀られています。
縁結びに商売繁盛に除災厄除と御利益いっぱい、何でも有りな懐の深さが江戸庶民に愛される魅力かと。
総檜入母屋造の隨神門を潜り、御神殿に参拝。
桜の名所でもある為、春は特に参拝客で賑わいます。
大勢の観光客を捌く為か、手を洗うお清めの水が全自動という。(笑)
獅子山に乗る石獅子像は、武州下野の名工、石切藤兵衛の作、「獅子は千尋の谷に子を突き落とし、這い上がって来たもののみ、我が子と認める」という、有名エピソードがモチーフ。
銭形平次の碑が、どうして神田明神に建てられたかと言うと、平次親分の住まいが神田明神下台所町の長屋って設定だから。
そこで昭和45年にファンだった作家さん達が発起人となり、ここに碑を建立したそうです。
隣には子分のがらっ八の碑も建っていて、ファンの熱意を感じずにいられない。(お静さんのは?)
庶民から信仰を集めた末廣稲荷神社もお仲間。
「細けえ事はいいんだよ!」との江戸っ子の声が聞こえて来そうです。
神田祭の神輿を保管する鳳輦神輿奉安殿…来る5月は江戸っ子の血が騒ぐ神田祭のシーズンです。
⭐昌平橋~聖橋間の立ち寄りスポット…史跡「湯島聖堂」
神田明神からは坂を下って前方に進めば着きます。
徳川五代将軍綱吉が儒学振興を図る目的で、1690年(元禄3年)、湯島の地に聖堂を創建し、上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と、林家の家塾をここに移した事が、湯島聖堂の始まりだそうです。
1797年(寛政9年)には、幕府直轄学校として「昌平坂学問所」が開設。
時代が明治に変わると文部省が置かれ、日本最初の博物館に図書館、東京師範学校(後の筑波大学)に、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)が設置される等、国内教育の象徴的建造物と言えます。
↑入徳門(にゅうとくもん)は聖堂内で唯一の木造建築物。
大成殿へは、この門を潜って参ります。
↑詣でる前には水屋で手を浄めてから…聖堂内は観光客の姿も疎ら、神田明神とは違い、閑けさに包まれていました。
学問の聖地に相応しい落ち着いた雰囲気なものの、もう少し人が来たら良いのになあと思ってしまった。
庶民には敷居が高いのでしょうか?
桜を植えたら良いのでしょうか?
杏壇門(きょうだんもん)、屋根部の飾りは「鬼犾頭:きぎんとう」と言う妖怪の類いだそうで、城の屋根の棟に置く鯱(しゃちほこ)同様、魔除け目的で飾る物らしい。
鯱と同様って事は、雨を呼び、火難から建物を護る為に願掛けしたんでしょう…関東大震災の折、聖堂の殆どが焼失しちゃったらしいけど。
↑杏壇門前にはブナ科の大木が立ってます。
「すだじい」との愛称が付けられてるよう。
↑杏壇門を潜った先に現れる大成殿(たいせいでん)、孔子廟の正殿です。
孔子は春秋時代の中国の哲学者で、儒教の創始者と伝えられてる人。
その孔子を祀る建物が「孔子廟」で、湯島聖堂は中国、曲阜の孔子廟大成殿を模して建てられた物だとか。
孔子廟を自宅に建てた林羅山は、相当な孔子マニアだった事は間違い無い。
…って気が付いたら神田川から外れて、今回1つの橋しか紹介してない(汗)
【続】
●下流から数えて8番目の橋…昌平橋
萬世橋に負けず劣らず重厚な造りの親柱には、よく鳩が留まってます。
↑の写真は去年と今年、撮影した年が違う…鳩から見て止まり木にピッタリの形状なのかな?
江戸、寛永年間に架けられた歴史有る橋は、当初「芋洗橋」・「相生橋」の名で呼ばれていたのだそう。
その後、徳川5代将軍綱吉が湯島に聖堂を建設した折、孔子誕生地の昌平郷に因んで「昌平橋」と改名させた、と由来書き看板に有りました。
一時、萬世橋と場所や名前を入れ替えられたり、昌平橋もかなり波乱の多い橋生を歩んで来た様です。
車道を中に挟み、上流側と下流側は、人が通る人道橋になっています。
車道と人道橋とを隔てる溝から神田川の流れが見える…と或る外国人が興味深そうに覗いてました。
昌平橋上を斜めに走る鉄橋はJR総武線の物。
更に、神田川に寄り添って走る鉄橋は、中央本線(中央線)の物です。
次の聖橋方向へ歩いて行くとメトロ丸ノ内線鉄橋も見えて来る、昌平橋~聖橋間は地下鉄丸ノ内線が地上に顔を出すポイントな為、鉄道写真愛好家がカメラを構える姿をよく見ます。
↑昌平橋下流側の眺め、奥に架かるのは萬世橋。
ユリカモメの群れはここでも羽を休めていました。
ここより上流では姿を見掛けなくなったので、昌平橋までが彼らのテリトリーなのかもしれない。
↑昌平橋上流側の眺め、橋の上を斜めに突っ切る中央・総武線。
…ところで昌平橋が架かる付近には、東京で名所になってる建造物が多い。
神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂と、写真で観て知ってはいても、実際に行った事は無かったんで、ちょっと寄り道しました。
昌平橋を渡って神田明神下交差点を左折し、神田明神通りを歩いて数分、水色の鳥居が建つ坂を上れば、神田明神に着きます。
⭐昌平橋~聖橋間の立ち寄りスポット…天野屋(看板は旧漢字表記)
その水色鳥居の左隣に、如何にも老舗っぽい雰囲気の甘酒茶屋が1軒建ってます。
「甘酒」とは心惹かれるキーワード、歩き疲れてた上に小腹も空いてたんで、参拝前にティーブレイク。
尚、「天野屋」でお茶する場合は、神輿が飾られてる両開きの引き戸からではなく、「明神甘酒」の暖簾が下がる方へ入ります。
店舗右は甘酒納豆塩麹等を扱う売店コーナー、店舗左が喫茶コーナーになってます。
見た感じ売店コーナーから入店したくなりません?…自分は初訪問の際、売店の方から開けました。
店内は昭和の駄菓子屋の様にレトロな雰囲気、アンティークな小物が沢山飾ってあります。
料金は前払い制、甘酒はテイクアウトも可能。
↑頗る良い陽気だったので、冷やし甘酒を注文。
甘酒にはおしんこが付きます。
この店の甘酒は、創業当時から地下6mの天然の土室(むろ)で作る糀(米麹)を元に、手を加えて生成し熟成を待って造った物だとか。
↑白玉みつ豆も注文、白玉団子や甘じょっぱい豆に、シロップ煮の果物に、餡子、寒天、すあまの様な色餅が載ってる、昔懐かしいみつ豆、黒蜜がかかってます。
↑窓際席から眺める庭、トイレは庭を出た先に有ります。
ところで神田明神近くの老舗甘酒屋は、他にもう1軒在る。
水色鳥居を潜って、坂を上った先に建つ、「三河屋綾部商店」なる店がそうで、天野屋と同じく、自家製の味噌や納豆等も販売している。
1616年に三河から江戸へ移り、代々将軍家や宮内庁に手作りの甘酒や味噌や納豆を納めて来たそうで、1846年創業の天野屋より、実は歴史が有るんです。
でも三河屋は店がビルに入っており、天野屋の見た目の方が老舗っぽいもんだから、観光客はそちらに流れて行ってしまうんですよ。
自分も見た目で判断してしまいました、御免なさい…次回は三河屋さんの甘酒を試そう。
⭐昌平橋~聖橋間の立ち寄りスポット…江戸総鎮守「神田明神」
お腹が満たされたんで、今度こそ鳥居を潜り、神田明神に参拝。
神田明神の正式名称は「神田神社」、御祭神は大黒様(大己貴命:おおなむちのみこと)、戎様(少彦名命:すくなひこなのみこと)、そして平将門、更には銭形平次まで祀られています。
縁結びに商売繁盛に除災厄除と御利益いっぱい、何でも有りな懐の深さが江戸庶民に愛される魅力かと。
総檜入母屋造の隨神門を潜り、御神殿に参拝。
桜の名所でもある為、春は特に参拝客で賑わいます。
大勢の観光客を捌く為か、手を洗うお清めの水が全自動という。(笑)
獅子山に乗る石獅子像は、武州下野の名工、石切藤兵衛の作、「獅子は千尋の谷に子を突き落とし、這い上がって来たもののみ、我が子と認める」という、有名エピソードがモチーフ。
銭形平次の碑が、どうして神田明神に建てられたかと言うと、平次親分の住まいが神田明神下台所町の長屋って設定だから。
そこで昭和45年にファンだった作家さん達が発起人となり、ここに碑を建立したそうです。
隣には子分のがらっ八の碑も建っていて、ファンの熱意を感じずにいられない。(お静さんのは?)
庶民から信仰を集めた末廣稲荷神社もお仲間。
「細けえ事はいいんだよ!」との江戸っ子の声が聞こえて来そうです。
神田祭の神輿を保管する鳳輦神輿奉安殿…来る5月は江戸っ子の血が騒ぐ神田祭のシーズンです。
⭐昌平橋~聖橋間の立ち寄りスポット…史跡「湯島聖堂」
神田明神からは坂を下って前方に進めば着きます。
徳川五代将軍綱吉が儒学振興を図る目的で、1690年(元禄3年)、湯島の地に聖堂を創建し、上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と、林家の家塾をここに移した事が、湯島聖堂の始まりだそうです。
1797年(寛政9年)には、幕府直轄学校として「昌平坂学問所」が開設。
時代が明治に変わると文部省が置かれ、日本最初の博物館に図書館、東京師範学校(後の筑波大学)に、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)が設置される等、国内教育の象徴的建造物と言えます。
↑入徳門(にゅうとくもん)は聖堂内で唯一の木造建築物。
大成殿へは、この門を潜って参ります。
↑詣でる前には水屋で手を浄めてから…聖堂内は観光客の姿も疎ら、神田明神とは違い、閑けさに包まれていました。
学問の聖地に相応しい落ち着いた雰囲気なものの、もう少し人が来たら良いのになあと思ってしまった。
庶民には敷居が高いのでしょうか?
桜を植えたら良いのでしょうか?
杏壇門(きょうだんもん)、屋根部の飾りは「鬼犾頭:きぎんとう」と言う妖怪の類いだそうで、城の屋根の棟に置く鯱(しゃちほこ)同様、魔除け目的で飾る物らしい。
鯱と同様って事は、雨を呼び、火難から建物を護る為に願掛けしたんでしょう…関東大震災の折、聖堂の殆どが焼失しちゃったらしいけど。
↑杏壇門前にはブナ科の大木が立ってます。
「すだじい」との愛称が付けられてるよう。
↑杏壇門を潜った先に現れる大成殿(たいせいでん)、孔子廟の正殿です。
孔子は春秋時代の中国の哲学者で、儒教の創始者と伝えられてる人。
その孔子を祀る建物が「孔子廟」で、湯島聖堂は中国、曲阜の孔子廟大成殿を模して建てられた物だとか。
孔子廟を自宅に建てた林羅山は、相当な孔子マニアだった事は間違い無い。
…って気が付いたら神田川から外れて、今回1つの橋しか紹介してない(汗)
【続】