井上泰幸さんは1922年に福岡県古賀市で生まれた。1944年、井上さんは戦争で左足を失い、戦後は家具作りなどの勉強をし、その後日本大学藝術学部美術科に入学、バウハウスで学んだ山脇巌主任教授に美術造形の基礎をすべて学んだと言う(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)。
この展覧会会場の最初のコーナー「特撮美術への道ーー芸術家であり、技術屋 1922−1953」には、井上さんの家族、妻令子さんとの写真や日大藝術学部時代の几帳面さを物語る「哲学」「芸術学」などのノート、写実的でマリアの優美さを感じさせる「聖母子」像と思われるデッサン、デザインした家具の図面などが展示されている。
井上さんは1952年から新東宝の撮影所で働き始めたのち、大学を卒業する直前の1954年に東宝へ出向する。その年に公開された、日本特撮の金字塔と言われる『ゴジラ』に美術助手として参加(「第2章 円谷英二との仕事ーー特撮の地位を上げるための献身」のコーナーに関連資料展示)。以降は東宝に留まり、特撮美術監督である渡辺明さんの助手として次々と代表的な特撮作品に関わった。
1966年『ゼロ・ファイター 大空戦』から特撮美術監督に就任し、『日本沈没』(1973)などの特撮超大作映画はもとより『ウルトラQ』(1965)などのテレビ作品にも参加した。この展覧会では、作品ごとに井上さんが台本を読んで各シーンを構想した絵コンテやイメージボードを図面とともに展示している。それらが完成された映像作品の場面そのものとなっているということに驚く。「私の場合、まず台本を読んで2、3日特撮シーンの絵コンテを描きます。どのステージが撮影に使えるのかは既にわかってますので、それに応じてどのセットをどのように作るか、またそのための予算などもその間に同時に出していきます」と仕事の流れを本で語っている(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第2章 衝突を経て築かれた円谷英二との信頼関係」p 124)。
『特撮映画美術監督 井上泰幸』キネマ旬報社 2012年1月11日発行
井上さんは常に「LIFE」からの切り抜きなどを集めて、円谷英二監督の「鉄橋を作ってくれんか」というような要望にいつでも答えられるように努力されていたという(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)。事前にあらゆる資料をリサーチし、特撮美術の構築のみでなく、スケジュール管理や人件費・材料費などの予算まで立てていた。その緻密な計算の軌跡は、展示資料の所々に書かれている。
「特撮美術監督・井上泰幸ーーミニチュアではなく、本物を作る 1966−1971」のコーナー。1966年『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』では、何十枚もの絵コンテとイメージボードが並び、井上さんと美術スタッフが作り上げたミニチュアセットに基づいて円谷英二監督が撮影に挑んだことが想像できる。羽田空港のスペクタルなシーンでは、どの角度で撮影されてもいいように、指示されてない部分までミニチュアを作り込んでいったという。
このサンダとガイラという怪獣の造形はグロテスクでインパクトがある。ウルトラマンや数々の人気怪獣を生み出した成田亨さんによるこの2体のデザイン画が残されており、その原画も展示されている。ただ原画の方はシャープでグロテスクさは感じられない。
その近くに井上さんの日記が展示され、1966年2月19日の日記に成田さんのことをいい意味でライバル視されていたことも明らかになっている。「円谷プロの成田君が非常に良いセットを組んだので、参考にする様にとのこと監督から話あり、技術面のよきライバルを得て張り合いがある」と書かれている(幾つかの日記の文章をタブレット映像で展示)。
井上さんがデザインした怪獣の代表作は『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)に出てくるヘドラというサイケデリックな姿体の怪獣である。真っ暗な背景から浮き出ている赤と黄色のヘドロが入り混じった井上さんのデザインボードのヘドラは、シュルレアリスムの不気味な産物のようでなぜか心に引っ掛かる。当時社会問題だった公害をテーマとした話題作で、工場廃液のヘドロから生まれた小さなオタマジャクシのような生物が徐々に巨大化し形態も変わっていく。2016年に公開された『シン・ゴジラ』の形態変化を彷彿させる。
ヘドラが工場の煙突の煙を吸うシーンやゴジラと戦うシーンなどがイメージボードにおいてヴィヴィッドに表現され、映画のシーンそのもの。台本を元に次から次へと自分でイメージしたシーンを描写し、構築していく井上さんのとてつもない想像力が名作を生む原動力になった一例と言えよう。
左足がないハンディキャップを抱え、晩年まで癒えない傷の痛みに苦しみながらも不屈の精神で膨大な量の仕事を井上さんがこなしていったのは、優秀な医者として勤勉だったお父さんの影響が大きいのかもしれない。井上さんは本のインタビューで、幼い頃に亡くなったお父さんの日記を後年読んで「何と19歳で医師免許の試験に合格しており、またそのために驚くほどの努力をしていたことを、その日記で知らされたのです。これをきっかけに、私の仕事に対する態度もまた一段と変わりましたね。それまでよりも一生懸命にやらねばと、心を新たにしました」と答えている。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第3章 美術監督への就任と円谷英二との別れ」p 128)
49歳の時、井上さんは東宝から独立し「アルファ企画」を設立。この会社は特撮テレビ番組の造形物製作などを担当した。『快傑ライオン丸』(1972年)などのピー・プロダクション作品や平成ウルトラマンシリーズなど携わった特撮作品は数多い。特撮超大作『日本沈没』の特撮美術では、序盤のシーンに登場する潜航艇「わだつみ」のミニチュアをデザインした。「三菱の重役がこの映画の現場見学に来られたとき、わだつみの造形を見て三菱の最新艇しんかい2000にそっくりだと驚嘆の声をあげていました」と井上さんは本のインタビューで答えている。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第4章 東宝から独立してアルファ企画を設立 p 152)
〜その3へ続く〜
この展覧会会場の最初のコーナー「特撮美術への道ーー芸術家であり、技術屋 1922−1953」には、井上さんの家族、妻令子さんとの写真や日大藝術学部時代の几帳面さを物語る「哲学」「芸術学」などのノート、写実的でマリアの優美さを感じさせる「聖母子」像と思われるデッサン、デザインした家具の図面などが展示されている。
井上さんは1952年から新東宝の撮影所で働き始めたのち、大学を卒業する直前の1954年に東宝へ出向する。その年に公開された、日本特撮の金字塔と言われる『ゴジラ』に美術助手として参加(「第2章 円谷英二との仕事ーー特撮の地位を上げるための献身」のコーナーに関連資料展示)。以降は東宝に留まり、特撮美術監督である渡辺明さんの助手として次々と代表的な特撮作品に関わった。
1966年『ゼロ・ファイター 大空戦』から特撮美術監督に就任し、『日本沈没』(1973)などの特撮超大作映画はもとより『ウルトラQ』(1965)などのテレビ作品にも参加した。この展覧会では、作品ごとに井上さんが台本を読んで各シーンを構想した絵コンテやイメージボードを図面とともに展示している。それらが完成された映像作品の場面そのものとなっているということに驚く。「私の場合、まず台本を読んで2、3日特撮シーンの絵コンテを描きます。どのステージが撮影に使えるのかは既にわかってますので、それに応じてどのセットをどのように作るか、またそのための予算などもその間に同時に出していきます」と仕事の流れを本で語っている(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第2章 衝突を経て築かれた円谷英二との信頼関係」p 124)。
『特撮映画美術監督 井上泰幸』キネマ旬報社 2012年1月11日発行
井上さんは常に「LIFE」からの切り抜きなどを集めて、円谷英二監督の「鉄橋を作ってくれんか」というような要望にいつでも答えられるように努力されていたという(ノーマン・イングランド提供による「井上泰幸インタビュー映像」より)。事前にあらゆる資料をリサーチし、特撮美術の構築のみでなく、スケジュール管理や人件費・材料費などの予算まで立てていた。その緻密な計算の軌跡は、展示資料の所々に書かれている。
「特撮美術監督・井上泰幸ーーミニチュアではなく、本物を作る 1966−1971」のコーナー。1966年『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』では、何十枚もの絵コンテとイメージボードが並び、井上さんと美術スタッフが作り上げたミニチュアセットに基づいて円谷英二監督が撮影に挑んだことが想像できる。羽田空港のスペクタルなシーンでは、どの角度で撮影されてもいいように、指示されてない部分までミニチュアを作り込んでいったという。
このサンダとガイラという怪獣の造形はグロテスクでインパクトがある。ウルトラマンや数々の人気怪獣を生み出した成田亨さんによるこの2体のデザイン画が残されており、その原画も展示されている。ただ原画の方はシャープでグロテスクさは感じられない。
その近くに井上さんの日記が展示され、1966年2月19日の日記に成田さんのことをいい意味でライバル視されていたことも明らかになっている。「円谷プロの成田君が非常に良いセットを組んだので、参考にする様にとのこと監督から話あり、技術面のよきライバルを得て張り合いがある」と書かれている(幾つかの日記の文章をタブレット映像で展示)。
井上さんがデザインした怪獣の代表作は『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)に出てくるヘドラというサイケデリックな姿体の怪獣である。真っ暗な背景から浮き出ている赤と黄色のヘドロが入り混じった井上さんのデザインボードのヘドラは、シュルレアリスムの不気味な産物のようでなぜか心に引っ掛かる。当時社会問題だった公害をテーマとした話題作で、工場廃液のヘドロから生まれた小さなオタマジャクシのような生物が徐々に巨大化し形態も変わっていく。2016年に公開された『シン・ゴジラ』の形態変化を彷彿させる。
ヘドラが工場の煙突の煙を吸うシーンやゴジラと戦うシーンなどがイメージボードにおいてヴィヴィッドに表現され、映画のシーンそのもの。台本を元に次から次へと自分でイメージしたシーンを描写し、構築していく井上さんのとてつもない想像力が名作を生む原動力になった一例と言えよう。
左足がないハンディキャップを抱え、晩年まで癒えない傷の痛みに苦しみながらも不屈の精神で膨大な量の仕事を井上さんがこなしていったのは、優秀な医者として勤勉だったお父さんの影響が大きいのかもしれない。井上さんは本のインタビューで、幼い頃に亡くなったお父さんの日記を後年読んで「何と19歳で医師免許の試験に合格しており、またそのために驚くほどの努力をしていたことを、その日記で知らされたのです。これをきっかけに、私の仕事に対する態度もまた一段と変わりましたね。それまでよりも一生懸命にやらねばと、心を新たにしました」と答えている。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第3章 美術監督への就任と円谷英二との別れ」p 128)
49歳の時、井上さんは東宝から独立し「アルファ企画」を設立。この会社は特撮テレビ番組の造形物製作などを担当した。『快傑ライオン丸』(1972年)などのピー・プロダクション作品や平成ウルトラマンシリーズなど携わった特撮作品は数多い。特撮超大作『日本沈没』の特撮美術では、序盤のシーンに登場する潜航艇「わだつみ」のミニチュアをデザインした。「三菱の重役がこの映画の現場見学に来られたとき、わだつみの造形を見て三菱の最新艇しんかい2000にそっくりだと驚嘆の声をあげていました」と井上さんは本のインタビューで答えている。(『特撮映画美術監督 井上泰幸』「第4章 東宝から独立してアルファ企画を設立 p 152)
〜その3へ続く〜
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