九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

土岐氏と山縣氏 

2020-08-30 | 土岐氏

今までの私の認識では山縣氏も土岐氏と同族であったが、今回調べてみて、ちょっと違うかもしれないと思い始めた。
確かに、同じ清和源氏であり、同じ美濃国が拠点である。

さらに源頼政は深栖光重が義理ではあるが兄弟であり、土岐氏に近いところに位置する。
頼政の父である仲政の兄弟に国直(国政の父)も、名を連ねている。
という事は、源頼綱の時代に、摂津源氏(多田源氏・源頼綱)と美濃源氏(源国房)に分かれたのかもしれない。
頼綱の兄弟に国房がいるのだ。

===*===
ココを読むと細かくて、うれしい。
日本通信百科
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E6%BA%90%E6%B0%8F

山県氏 : 山縣氏とも呼ばれる。上記と同じく摂津源氏頼光流多田氏の庶家。平安時代後期に上記の頼光の玄孫の山県国政が、美濃国山県郡(現在の岐阜県山県市)を本拠地としたことで、その末裔は山県氏と称した。同族に摂津福島氏[27]など、庶家に美濃小島氏[28]・彦坂氏[29]・美濃福島氏[30]などがある。さらに、上記の蜂屋氏はもともとは山県氏の庶家だったが、頼親の代に嗣子がないために同族の土岐光定(光貞)の次子の定親(貞親)を婿養子を迎えて、土岐氏一門となった(上記の美濃原氏も美濃不破氏も同様である)。

27.摂津源氏師光流で、摂津国西成郡福島荘(現在の大阪府大阪市福島区周辺)を拠点とした。
28.美濃国池田郡小島郷(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町小島大字)を拠点とした。
29.美濃国方県郡(稲葉郡)彦坂郷(現在の岐阜県岐阜市彦坂大字)を拠点とした。
30. 美濃国大野郡福島郷(現在の岐阜県本巣市福島大字)を拠点とした。

ーーー:---

土岐氏は、頼光の後裔である光衡が美濃国の土着の豪族の礪杵氏(ときし)の一族の末裔の女性を娶って、土岐光行(惣領家)・肥田光時(肥田氏の祖)らを儲けることによってはじまった。

礪杵氏(ときし)に関する情報はあまり見つからず、、

礪杵道作(ときのみちつくり)
http://blog.livedoor.jp/afuriyui/archives/7719751.html

https://www.city.shimoda.shizuoka.jp/category/050201densetsu/111249.html

箕作とも繋がってくるようである。
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土岐・大野・土居氏 コメントの続きです。

2020-08-23 | 土岐氏

コメントの続きです。

ココと関係があるのですね?
http://enya-kk.seesaa.net/article/458000370.html

土居城は観応2年(1351)土岐光定の孫・土居宮内少輔直氏が築城したようです
鎌倉時代より土岐家には伊予(愛媛県)に所領があり、土岐光定の子・土岐頼清が現地に赴いて管理等をしていたようです。その際三男の直氏は伊予・大野(土居)直利の養子となり大野(土居)直氏と名乗りました。


一度見ることができなくなっていた頁がいつの間にか復活していました。
ココと関係があったのですね~! 
http://minogenji.html.xdomain.jp/page181.html
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「藤若」の名を与えた二条良基 妻は土岐頼康の娘である。

2020-08-14 | 土岐氏

観阿弥の息 鬼夜叉(おにやしゃ)に「藤若」の名をつけたのは二条良基だそうで、前日の記事の中にその気に入りようが見てとれる部分を載せてある。(本名は元清)

其の良基の妻が実は、土岐頼康の娘であり、息が師嗣・経嗣であった。
wikipediaには「良基は北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。」…とある。


「秦元清」であった、世阿弥
其の風姿花伝の超訳 面白いデスね。
http://bunchin.com/choyaku/fuushi/index.html

特に観阿弥が登場する場面、それを確かに私は観たのです…という世阿弥。
観ていない私にも、なんだかシーンが目に浮かびました。

とうとう、土岐氏と世阿弥とのつながりもあったかもしれない状態になってきました。
佐々木道誉が登場したからには、土岐氏も出てくるような気が…

室町も面白そうですね。
今まで敬遠していたけれど、ココを始まりに室町の本も読んでみよう!




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小出大和守秀実 を 遡ると 明智定政 になる。

2020-05-09 | 土岐氏

蝦夷地とかかわりのある人物である。
天保5年(1834年) - 明治2年6月22日(1869年7月30日)

昌平坂学問所に学び、講武所の銃隊調練の教導資格を獲得、文久元年(1861年)10月1日に使番、12月7日に目付に登用され、翌文久2年(1862年)9月7日に箱館奉行に任命される。

箱館奉行時代、箱館奉行所の五稜郭内移転やアイヌ人骨盗骨事件でイギリスとの談判が幕府に評価され、慶応2年(1866年)8月26日に外国奉行も兼任、10月に樺太国境画定交渉の遺露使節団の代表正使としてロシアへ派遣された。副使は後に最後の北町奉行となる石川利政であり、箱館に残った相役の杉浦誠は最後の箱館奉行となる。

ロシア留学生を伴なった使節一行は10月12日にフランス客船で横浜を出発、マルセイユ経由で12月12日にペテルブルグ到着。ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見後、ロシア全権の外務省アジア局長ピョートル・ストレモウホフ(ロシア語版)と慶応3年(1867年)1月2日から2月7日まで8回の交渉を行うが不調に終わり、日露間樺太島仮規則に調印した。この条約は両国民の混住状態を認めるもので、かえってロシアの南下を招くものであった。

ただこの交渉の際、樺太・千島の交換が俎上に上がったことは特筆される。
なお途中、プロイセンの首相オットー・フォン・ビスマルクやフランス皇帝ナポレオン3世と謁見し、第2回パリ万国博覧会に参加している。この時使節団に随行した人物に榎本武揚山川浩などがいる。

慶応3年5月に日本へ帰国、7月27日には小栗忠順の配下として勘定奉行、金銀座取締役を経て10月23日に留守居となり、11月9日の大政奉還を迎える。12月27日に江戸北町奉行となるも翌慶応4年(1868年)2月16日に辞職、石川利政が後任の北町奉行となった。その後、新政府の山陰道鎮撫総督・西園寺公望から京都府久美浜方面の鎮撫を命じられて警備にあたる。

===*===

35歳で他界している。もっと活躍できた人物と思う。
特に私が注目したのは、イギリス人がアイヌ人の墓を掘り起こし十三体もの遺骨を掘り出し、母国に送った件を解き明かし追及し、相手に非を認めさせ、被害にあった遺骨の家族への謝罪と賠償金を出させるところまで、交渉をしたことである。

文書を見ると、一歩一歩なのだが、洞察力に優れ、相手のウソを見破って、追い詰めている。

===*===

江戸時代、である。
江戸時代はアイヌの人々を下に見下している商人や武士が多かった時代である。
よくぞやった!!と拍手を送りたい。

日本にいるアイヌ」と思ってのことであったのか、差別を持たずに同胞としてのことだったのかまではわからないが、少しでも多くの賠償金になる様にパークスにも直談判している熱い人物である。

今現在、なお遺骨問題で頭を下げず、謝罪せずに、ただ返還するだけの某大学の方々、恥ずかしいことではありませんか?
江戸時代でも出来たことが、今なおできない。
しがらみよりも、人間としてどうなのか…を自らの胸に問うて欲しいと思う。

===*===

話題がそれたので、戻すと、この小出秀実さん、土岐氏です。
実父は土岐頼旨!
遡ると土岐定政=明智定政 !!

幕末にも明智氏! しかも熱いながらも熱くなりすぎず、明晰で素敵な人物です。


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土岐家伝大系図 土岐高頼が載っていました!

2020-04-27 | 土岐氏



これは東京大学史料編纂所のデータベースからのものです。
道謙の所に「備後国浄土寺」が出ております。

土岐様、左のコメント欄一番上をご覧いただけますと嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

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安國寺蔵 土岐系図の中の 進士氏 と 明智氏 

2020-02-16 | 土岐氏

https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/af9bb930761d7ac9b087bb7873257052
この「土岐系圖」によると、明智光秀は土岐系山岸氏の山岸信周の四男だとされる。母が明智光隆の姉である


※宮城家伝『明智氏一族宮城家相伝系図書』

光秀 享禄元年戊子8月17日、生於石津郡多羅云云。多羅は進士家の居城也。或は生於明智城共云云。母は進士長江加賀右衛門尉信連trong>の女也。名を美佐保と云。伝曰、光秀、実は妹聟・進士山岸勘解由左右門尉信周の次男也。信周は長江信連の子也。光秀実母は光綱の妹也。進士家は於濃州、号長江家、依領郡上郡長江ノ庄也。称北山の豪家云云。明智光綱家督相承て、取結妻縁后、既経8年の春秋。然共、生得病身にして、不設一子、齢及40。因テ為其父・光継の賢慮、光秀誕生の時、其侭取迎之、為養子、相譲家督。因光秀、成光綱の子、然るに、以叔父・兵庫頭光安入道宗寂為後見、住其本城。弘治2年丙辰9月明智落城。後暫浪人、仕足利義昭公、後仕織田信長。天正10年壬午6月13日夜、於城伏見小栗栖生害。年55歳。



光綱とは明智光隆のことだそうである。

さて、生まれた土地は母の出身地であるかもしれないが、住んで後に応援者となる知遇を得たのが佐目なのかもしれない。

長江氏は実は江州中原氏からも出ている。
そして包枝進士氏は越前太良荘と関係があり、渋谷経重の差配のもとで働いていたことが東寺百合文書でうかがえる。


九里経重と同年代の人物である。
九里経久(蓮忍)の息となる経重。


この進士氏と後に戦国時代に出てくる「山岸進士氏(明智の母」と関係があるのだろうか??

wikipediaによると 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%A3%AB%E6%B0%8F

進士というのは、始まりは律令制の大学寮学生で式部省が課した試験(考試)に合格したものを云うのだそう。そののちに苗字となっていったようである。

鎌倉時代の吾妻鑑には何度かその名前が挙がっている御家人である。
明智氏とのことはよくわからないが、進士氏のことはもっともっと知りたい気分である。

海野通廣(覚明)という「木曽義仲」の右筆であった人物も「進士蔵人通廣」と同一人物であるようだ。中原(姓)海野氏である。
この人だけではなく、いろいろな方向から繋がってくる進士氏なので、これからは注視していきたいと思う。

姓氏家系大辞典より↓

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饗庭国長 は 土岐国長か多治見国長か 

2019-10-01 | 土岐氏

院近臣の研究の248頁に「三河 饗庭御厨 給主は散位源国長」とある。
1108-1115年のことであり、土岐国長のこととしても、早すぎる時期であると思う。

下記の国長とは別人である。皆、源氏・土岐氏流ではある。

この人物は、誰なのだろうか。時代的にな国房であってもおかしくない年である。国房は1119年没である。

土岐国長は、日本通信百科事典によると
「土岐国長 (右衛門尉) : 土岐光長の子、光経・光衡の兄、光広の父。 」とあり、以前記事にしたが、幕府司(土岐国長)と鎌倉の地名由来辞典 に書かれている。
この光広を調べてみると、越後国刈羽羣「明月記」正治元年 9 月 22 日条に「刈羽簿」と見え,藤原定家の所領であった。(新潟県柏崎市付近のようである。)
正和 2 年 11 月 14 曰の源光広和与状写によると,当郷半分は石河氏の所領となっている…という。
その部分に関係がありそうである。
この柏崎は、長岡藩士として「九里氏」が居住していた場所である。


多治見国長はwikipediaによると、
国長は土岐氏(美濃源氏)の流れを汲む饗庭氏一門で、美濃国土岐郡多治見郷(現・岐阜県多治見市)を本拠としていた。

惣領家の土岐頼貞の子の頼兼、一族の頼員(舟木頼春)、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らとともに後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝の招きにより1324年京都に入った。

しかし、頼員がその計画を六波羅探題の奉行の斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露見し、六波羅探題の配下である小串範行によって夜中に急襲を受ける。『太平記』巻一「頼員回忠事」によれば、無礼講による終夜の酒に酔っていたが、この急襲の声に驚いて慌て騒いだ。無防備であったが、共に寝ていた物馴れた遊女の機転により鎧兜を身につけ、寝入っている者を起こすことができたという。国長は頼兼とともに少数の手勢を率いて奮戦したが、最終的には館の裏手を突破されたことから観念し、一族郎党とともに自害して果てた(正中の変)。

正中の変は、元亨4年9月(1324年10月)に起った。









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土岐光行の息 蜂屋定親

2019-09-30 | 土岐氏

どうしても横になってしまう系図で、失礼します。谷口研語氏著の【美濃・土岐一族】の系図の部分です。
ココに「原師親」という名が! 土岐原氏につながっていくと思うのですが、師親という名前は中原っぽい名前です。







~~~*~~~

師親の父蜂屋定親は、美濃国発祥の清和源氏山県氏流の一族で、鎌倉時代後期の頼親(頼俊の子)の代に嗣子がなく、同族の土岐光定の子であった定親が養子となって名跡を継いだことから以降土岐氏の庶流となり、定親の次男・師親の系統からは後の江戸崎氏(常陸土岐氏)、万喜氏(上総土岐氏)へと繋がる原氏(土岐原氏)を輩出した。…とwikipediaにある。

という事は、時代的にも中原師親ではない(寿永1185年の外記補任に記載あり)ということになる。

蜂屋定親の兄弟と言われている「土岐頼貞」は1271年生まれとなっている。



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厚見郡鶉郷 うずら・ごう

2019-09-17 | 土岐氏

web情報によると、
「国房の子 光国は、父の私領である厚見郡鶉郷を継ぎ、天治元(1124)年に東隣にあった東大寺領茜部(あかなべ)荘の田畑26町歩(一説には18町歩ともいう。)を押領したと境論争となり、美濃国衙の検注(面積の検査)を受けるがお構いなしにそのままにして、私領である鶉郷を隣接する故二条家領平田荘に寄進してしまうのである。

紀氏のルーツさんより
①998「茜部庄」
     ・郡名:厚見郡 岐阜市
     ・領家:東大寺領(法華堂料所・百口学侶衣服料所)
     ・庄司:武士 美濃源氏:源国房(源光国の父)
         ・鶉郷の領主
     ・地頭:長井(大江氏)時広は地頭職を東大寺に寄進
     ・史料村郷名:鶉郷・本郷・上村・下村
     ・明治村字名:茜部

②1053「平田庄」
       ・郡名:厚見郡 岐阜市
       ・領家:故二位家領・長講堂領・皇室領       
          ・1192 源光国が故二位領平田庄の加納として長講堂に寄進
          ・美濃源氏源頼光の曾孫源光国の私領
       ・史料村郷名:市俣郷・草手郷(革手郷)・加納郷・六条郷
              鶉郷・東庄・西庄・東庄
       ・明治村字:上加納・下加納・鶉
         ※出典:東大寺文書・東南院文書



その辺りと思われる神社

鶉田神社
住所
〒500-8281 岐阜県岐阜市東鶉5丁目63番地1
由緒由来
宝亀二年創祀。天武天皇の第三皇子一品舎人親王の孫権中納言式部卿秀重、宝亀二年鶉の森を拓き、鶉の郷と名付け、郷内天王森に鎮守の祠を建て(素盞鳴尊を祀れり。弘安四年蒙古来寇の時、御祈願の為勅使参向あり。平定の後、皇室より大床安坐の狛犬を下賜せらるる。永禄年中織田信長、斉藤龍興征討の際戦勝祈願あり。斉藤滅亡の後紋所を寄進し、且つ社殿改築寄進あり。後光明天皇正保年中社殿炎上したれども、御神体及び大床安坐の狛犬のみ難を逃れたり。其の後加納藩主松平丹波守光重に於いて再建し、且つ社田旧高十石を寄進せらる。社殿の彫刻は左甚五郎の作なりと云ひ伝へ。精巧を極む。延享五年里正より寛延二年笠松郡代吉田忠倶より寄進の石灯籠今に存す。維新前旧高十八石を有せしが、町村政実施の際村有地となるたるも、字名神田と称し存在せしも、農地改革実施に伴ひ現在は全部民有に帰したり。従前は社家社僧ありしを、維新の後之を改め、更に古昔の郷名を採り社号を鶉田神社と称し明治六年一月笠松縣より郷社と定めらる。

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土岐国長 幕府司? そして 饗庭光俊

2019-09-16 | 土岐氏

土岐氏は大きな一族のため、なかなか目が行き届かないのだが、土岐光長の息 国長という人物を見つけた。

幕府司(土岐国長)宿所の・・・と記載があった。
侍所の長という事だろうか?



情報が少ない国長だが、幕府と密に関係しているあたりが気になる。

そうこうしているうちに今度は「多治見国長」「饗庭国澄(純)」「饗庭光俊」に行き着いた。

饗庭氏 wikipediaによると

「 美濃国大野郡饗庭、近江国高島郡饗場(相場)を本貫の地とする流れがあらわれ、相羽は饗庭、饗場、相場などに通じ用いられた。

近江の饗庭(相羽、相場)も光俊の子孫であるという。





『興地志略』に近江の相場氏は、源頼朝の近臣相場三郎、美少年六千騎を集めた花一揆を率いた足利尊氏の側近饗庭命鶴丸がこの地を領したことが比叡山延暦寺の旧記に記載されている。

以上のことなどから、鎌倉より室町に至る間、この地の領主の氏族であったことがうかがえる。

長享元年(1487年)常徳院(足利義尚)江州動座着到に遠州饗庭太郎とあり、遠江国にも饗庭氏が存在していたことを知る。相羽という人が近代まで静岡県森町にいて、「今川義元の家老であったが桶狭間の戦いで敗れ、森町に逃げてきた」と口伝いにつたわっている。

また、饗庭命鶴丸は三河の人であるといい、近世、徳川幕府御家人に相場氏がある。恐らく三河、或いは甲斐の饗庭氏より出て幕臣となったものと思われる。 」

また、饗場氏直のwikipedia

「饗庭氏は三河国饗庭御厨を根拠地とする武士で、大中臣氏を本姓とする。」

室町幕府奉公衆饗庭氏。大中臣。

ご興味のある方は、下記の論文に詳しいので是非!
http://www.okuraken.or.jp/files/4514/9135/7013/63_kobayasi_ronzetsu.pdf


三星紋を家紋とする大中臣氏で想起されるのは、常陸国鎌倉御家人の中郡氏である。同氏の系図「大中臣氏略系図」

によると、中郡氏の始祖中郡権守頼経は、源義家の命令で、海道小太郎業平(清原氏)を下野国氏家・風見楯にて討取り、夜は黒塗りの鞘に差し、昼は黄金作りの鞘に差していた、「ススキ丸」という業平の佩刀を取り上げて義家に進上した。
その功績により義家から「三ツ星」紋を授与された、と伝えている。


饗庭氏を常陸国御家人中郡氏の出自と推定する、直接的な系譜関係を示す史料は管見の限り確認できない。

しかし
傍証史料としては、以下の①から⑤が挙げられる。
①饗庭御厨の本所である神宮祭主大中臣氏と同姓である。

②先述の「大中臣氏略系図」によると、中郡頼経の孫朝経の注に「東海道領主也」とあり、三河を含めた当地域に所縁があることが分かる。そしてまた朝経の母は、熱田大宮司季範女で、源頼朝の母及び足利義兼の母と姉妹に当たり、中郡氏は三河及び頼朝・義兼とつながりがあることが知れる。

③中郡重経は、鎌倉時代初期に中郡庄預所と争論した結果、所領を没収されたあと、中郡庄惣地頭職は安達氏に転じ、重経の兄弟の経元は安達義景被官となった。

この中郡庄は安達義景の子泰盛の時代も惣地頭職の地位を継承したが、中郡氏はその郷地頭職として存続したらしい
また安達氏の始祖盛長は最初の三河国守護であり、このため三河国には盛長建立による七御堂建立伝説があり、その一つが饗庭御厨内の金蓮寺弥陀堂とされる
これらのことから中郡氏は、安達氏と被官関係にあり、安達氏を介しても三河国の関係が深いことが分かる。

④「黄梅院文書」によると、命鶴丸は常陸国に所領を有しており、常陸国に由縁がある。

⑤後述のとおり、「後愚昧記」貞治五年(一三六六)八月一八日条によると、命鶴丸は伊勢神宮外宮神領である、尾張国中島郡笑の生ぶ御厨(現在の愛知県一宮市周辺)の地頭職を勤めていたことが確認でき、外宮領地頭職の実績がある。

以上の①から⑤を総じてみると、饗庭氏を常陸国御家人中郡氏の一族とする説も成立するのではないか。


仮にそうであれば、この中郡氏の一族が安達氏の被官化した後、安達氏の所縁で三河国に西遷し、神宮祭主と同姓のよしみをもって、国内の饗庭御厨の管理を任され、饗庭を名字の地とし、その後鎌倉末から南北朝初期には三河国に勢力を張る足利氏に仕えることとなったと考えることができるのではないだろうか。

~~~*~~~
と、気になる部分だけを抽出してみた。

非常に興味深く、とうとう大中臣略系図とかかわりのある氏族をみつけた!!と言う感じである。

~~~*~~~

近江国との関係は、以下のようである。

この饗庭氏は、伊勢氏被官で、近江国海津庄の御料所代官であった可能性の高いことが、西島太郎氏により指摘されている
(前掲注1『戦国期室町幕府と在地領主』九〇頁)。
なお西島氏はこの饗庭氏の家格が低かったことも指摘しており、このことも、
近江饗庭氏が命鶴丸の子孫である可能性の低いことを示唆している。

~~~*~~~

大中臣氏の略系図の中には、東国での妬みがあり「藤原姓」を名乗らず「中原姓」にしているとの記載もあった。






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