九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

江州中原【長江氏】と【長江氏】【明智氏】との関係 【光秀】と【乾氏】

2021-01-13 | 土岐氏

web情報からヒントを得て思うに、明智氏は江州中原氏に近い関係があったように見える。
多賀・京極・佐々木・進士・長江・長山・・・・

例えば、京極の祖である佐々木氏信の母は「藤井宮内少輔大江時守」の娘だそうである。この時代の大江氏は中原と密である。


また、多賀氏は京極高数の次男が入り、多賀高忠となっていた。
多賀の本拠地である多賀神社の奥に「佐目」があり、そこに光秀が住んでいた場所があることとも符合する。

近江国御家人井口中原系図の成行からの系(藤堂氏も入っている)に長江氏が居り、その系に「明智」と書かれている。
私は初め、この書き方は僧の名前か、名前であろう。


まさか苗字の「明智」とは思えない…と思っていたのだが、これは古い系図を写す際にそのようになったのかもしれない可能性もあると思い始めた。
その疑問に答えるかのように、佐々木哲学校の中に「長山・明智・長江」のつながりを示唆する文があった。

更に、長江信周が山岸も名乗り、進士も名乗っているようなので、そこにも「明智氏」が見え隠れしているのである。

これは、調べてみるべし!と思って開始すると、つながりが見えたのである。

===*===

明智氏と長山氏 2人目の頼兼
「通称は明智次郎。
明智の祖とされています。
土岐頼貞の6男である土岐頼清(頼宗)の子です。頼康の弟、頼雄・久々利康定(康貞)・頼直(よりただ)・直氏(ただうじ)・頼忠の兄です。
明智氏の祖で、妻は豊後大神氏の娘とされています。嗣子の光行が早世したために、従弟の頼重(頼助)(長山頼基の子)を養子に迎えて明智姓を名乗らせその後を継がせました。」に注目!素晴らしい! ごちゃごちゃした感じがすっきり!
https://akechi1582.com/2107/

源頼基 ↓
土岐頼貞の九男。土岐九郎、長山頼基、伯耆守。明智氏の祖・頼重の父兄の頼遠の猶子となり、堀口貞満の娘を娶る


佐々木哲学校にも長山氏が登場している。
http://blog.sasakitoru.com/201312/article_2.html
中原系図に見える長江盛定の次子「明智」は、土岐明智頼兼の舅長山遠江守頼基(実名頼煕)と推測できる。こうして長山・明智・長江がつながる。


明智氏と長江氏
長江氏の名が出ているので、ヒントとなった。
一乗谷の前の話であろうと思う。

https://minkara.carview.co.jp/userid/572723/blog/44257690/

上のブログに出てくる【長江信周】こそが、下記のブログの【進士信周】【山岸信周】であろう。
とすると、長江氏は「進士の役」を仰せつかっていた一族であったのかもしれない。
だからこそ、光秀は饗応の役を信長から仰せつかったとも思えるのだ。

進士信周の次男として生まれたのが、進士藤延(明智光秀)ともある。
https://akechi1582.com/3788/

===*===

更に先日の情報をプラスする。

中洞付近に乾氏がいて、そこに光秀が逃げ込んだ。(本能寺の変の後)

そして、若かりし頃の光秀も場所は違うのだが、やはり乾氏と関連の場所の近くに逃げ込んでいる。
何かある。



https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E4%B8%AD%E6%B4%9E

https://akechi1582.com/2581/+
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パンの殿様【 土岐章 】

2020-12-25 | 土岐氏

調べものをしていると、思わぬ面白い人物に遭遇する。

この方、養子養子でここまで来ているが、土岐定政の裔になるのではないだろうか?

http://www.city.numata.gunma.jp/kanko/bunka/1006877/1006878/1009550.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E7%AB%A0

https://fkaidofudo.exblog.jp/tags/%E6%97%A7%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%82%B8%E6%B4%8B%E9%A4%A8/

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美濃の奥地 麻布谷

2020-10-15 | 土岐氏

「あそや」 というらしい。
土岐光定の孫 次郎高頼の麻生谷城主であった、ということをお聞きし探してみた。
この奥まった場所がそうかもしれない、と思う。

この周辺は源義平が狒狒を狩った場所だそうで、大きな石がゴロンゴロンとあり面白い場所である。(写真で見ただけだが。)




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土岐氏 光定ー隠岐孫太郎定親ー原彦十郎師親ー原弥二郎師実ー原民部少輔満秀

2020-10-15 | 土岐氏

memo的にここに留めておく。
土岐氏の中の原氏である。
土岐氏 光定ー隠岐孫太郎定親ー原彦十郎師親ー原弥二郎師実ー原民部少輔満秀

忘れぬように以下も、
山縣氏となった源国政

佐竹秀義の妻は国政の娘
国政の母は木村定道の娘

国政の養父は源頼政

国政の息
男子:飛騨瀬国成 - 飛騨瀬太郎。
男子:山県頼清 - 山県二郎。
男子:落合国時- 落合三郎。斎院次官。
男子:清水頼兼 - 清水五郎。蔵人。

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宇津氏 土岐頼遠の末子 十郎五郎から始まる。

2020-10-15 | 土岐氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uzu_kz.html
丹波国東部に位置する宇津庄

天正三年(1575)、信長は船井・桑田二郡の国衆を大坂石山本願寺攻めに動員したが、宇津頼重、内藤ジョアンらはこれに応じず、信長の丹波衆動員は挫折した。丹波攻略を決意した信長は、明智光秀を大将に命じて丹波平定に着手したのである。


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尾張国丹羽郡浅野庄 と 美濃国浅野庄 共に土岐氏が関わっているのではないだろうか? 

2020-10-15 | 土岐氏

又、土岐氏を再考する機会を得ているのだが、
今回は「浅野氏」に注目してみたい。
この「浅野」という地名と氏名が思わぬことに良峯姓とも関係が出てきそうなのである。

土岐光時のwikipediaには「岐阜県土岐市肥田町浅野に居住し…」とあるが、
美濃国土岐郡浅野(浅野館)
尾張国(愛知県)丹羽郡浅野庄

この二つの「浅野」は30Kmの距離にある。
大体だが、「陶史の森」から「春日部市」の距離となる。

==*==
またまた良峯姓のこのページの登場となる。


http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%B8%AD%E3%83%BB%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%83%A1%E3%80%80%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%AE%B6%E3%80%85%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%82%92%E9%80%9A%E3%81%97%E3%81%A6.html


元久以後、小弓荘代官と地頭 中務丞国盛の地頭代により、大縣社領の散在する小弓荘内の地は、管理されていく。
ところが、大縣社領の領家が、建保3年 1215年 上皇に近い藤原兼子になり、小弓荘内の神領に対し、今までの慣習を破り、直接 京より使者
を遣わして実地検分をしたようです。
それが、下記年不詳 某申状二通であったようです。丹羽郡司 高光の所領 稲木庄(郡司家の基礎をなす所領)も、土岐一族の手に渡っている。建保4(1216)年以降でありましょう。

承久2(1220)年11月17日に山賊追捕の功により、時の鎌倉幕府執権 北条義時は、方県郡内の貞清郷と重次郷石谷郷)の地頭職に土岐光行を補任したという。( 土岐文書 )
この地域は、もともと土岐一族の同属がいるところであり、あるいは二宮に関わった高範・高国なる人物は、土岐系に関わる人物とも推測できるのでは・・。
光行は、後鳥羽院西面の武士であり幕府御家人であり、新たな大縣社の領有者となった藤原兼子は、後鳥羽天皇の乳母という関係から後鳥羽院に重用された人物であり、土岐氏とも繋がりが強いと推察出来る点、高範・高国は、土岐系の人物ともとれそうです。あくまで仮説でしかありませんが・・・。

原与三郎高国である。

その名はコトバンクにも出てくる。

【原氏】より

…中世武家で,諸流がある。(1)尾張国丹羽郡司良峰氏の一族。高成が二宮(丹羽郡大県(おおあがた)社)大宮司となり原大夫と称したのにはじまる。その子高春は平忠度の伯父であったが,母が上総介広常の妹であったため源頼朝軍に参じた。その後広常に縁座して本領をいったん没収されたが,1184年(元暦1)返付されている。その子高直のとき,地頭職を没収された。高直の甥高信は,堀尾朝綱と畠地相論をしている。高国は二宮社官として二宮田所職をあてがわれていたが,1295年(永仁3)二宮雑掌と地頭職・田所職をめぐって相論している。…

高春ー高直ー
     - 高信…堀尾朝綱と相論
     - 高範…土岐氏とつながりのある人物
     - 高国(原弥三郎高国)…土岐氏とつながりのある人物 (二宮雑掌信氏と相論)

という事は、高直の所領が没収されたのか、婚姻関係か何か理由があって土岐氏に譲ったのか…何かしらあった事になる。
つまり良峯姓原氏と土岐氏はどこかでつながっているのだ、と思う。

それが「富木氏」であったなら、富木→原→土岐となりおもしろい!のだが、どのように調べていくと証拠となるのだろうか…


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もしも明智光秀の父が土岐元頼(基頼)ならば、と、調べてみました。

2020-09-01 | 土岐氏

もしも明智光秀の父が土岐元頼(基頼)ならば、祖父は土岐成頼となる。

土岐成頼はどのような人物だったのだろう。
コトバンクより
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
[生]?
[没]明応6(1497).4.3.
室町時代の武将。美濃国守護。『土岐累代記』には「饗庭備中守元明ノ長子」とみえ,『美濃明細記』には「饗庭備中守義教ノ子」とある。土岐持益の子持兼の早世により,相続問題から国内が乱れ,土岐家執事斎藤妙椿の援助で土岐家を襲った。幕政運営に関与し,応仁の乱には山名方に一味し,文明9 (1477) 年足利義視を奉じて美濃に帰った。


1442-1497 室町時代の武将。
嘉吉(かきつ)2年生まれ。一色義遠(いっしき-よしとお)の子一説に饗庭(あえば)元明の子とも土岐持益(もちます)の養子となり,美濃(みの)(岐阜県)守護をつぐ。応仁(おうにん)の乱では西軍の山名持豊(もちとよ)方にくわわり,乱後は足利義視(よしみ),義材(よしき)(のち義稙(よしたね))父子をともない美濃へもどる。明応4年船田合戦で跡継ぎに長男政房を推す守護代斎藤利国に敗れ,隠居。明応6年4月3日死去。56歳。名は「なりより」ともよむ。

…と諸説ありそうである。

今度は元頼の周辺を見ると(wikipedia)
「兄弟 政房(頼継)、大畑定頼、佐良木尚頼[4]、元頼、萱津頼房、某(六角高頼猶子)」

東京大学史料編纂所で調べてみると、
1496年に 土岐元頼は自害したことになっているようであるが、この時に自害はせずに逃げてきたのであろうか。











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山縣氏を探していたら、明智光秀に関することが出てきました!

2020-09-01 | 土岐氏


コマ65
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950886/65



土岐元頼(基頼)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E5%85%83%E9%A0%BC#cite_note-5

明智光秀は元頼と武儀郡の豪族の中洞源左衛門の娘との子であり、大永6年(1526年)8月15日に生まれたという伝承が、山県郡美山の白山神社に伝わっている。

此の武儀郡と山縣は重なっている部分も多く。。。
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美濃福島氏(山縣氏の庶家)

2020-08-31 | 土岐氏


https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%B0%8F_(%E7%BE%8E%E6%BF%83%E5%9B%BD)


http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/obu1.htm

(1) 甲斐の山県(山縣)氏については、清和源氏多田氏の支流とされており、頼光流の源三位頼政の叔父(多田蔵人頼綱の子、仲政の弟)の国直は、美濃国山県郡に住み、山県三郎と名乗った。その子の国賢の後、七代目に武田の支流の加賀美氏から家信が養嗣に来て応永中に家督を継いだが、この経緯で甲斐に移住して、山縣氏の本拠は甲斐に移る。

家信の子孫で十四代目(初祖からにしないと、世代が多すぎる?)に山県河内守虎清がいて、武田信虎に討たれて一時、断絶したが、その家を信玄の時代になってから、飯富虎昌の弟・飯富源四郎昌景が継いで、山縣三郎兵衛昌景となる。このような系譜を『武田家旧温録』『山縣大貳・家系と出生』※などが伝えている。

 ※『諸系譜』第六冊には、「大貳自写之本」という「山県」系図も所収されており、この系図には歴代が記されていて、国賢も家信も見えるが、昌景とその父・虎清の二代はよいとしても、それ以外の部分の系図には疑問が多そうである。山県大貳が自ら創り上げた系図かもしれない。


===*===

こうなってくると、美濃源氏土岐乾氏はこちらに近かった可能性もあるのでは??

だから甲斐国にも板垣氏から乾氏となった者が出て、また、乾甲斐守を名乗るものも出た。とは、考えられないだろうか??

 
memo
佐竹義重の妻
国政の娘
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新羅三郎源義光の娘は佐々木経方の妻となる。 源国政の娘は佐竹義重の母となる。  

2020-08-31 | 土岐氏

源頼光の弟に「頼信」がいる。
父は源満仲・母は藤原南家の藤原元方か致忠の娘という。

頼信の息に頼義がいる。
その息には源義家をはじめ義綱、義光、親清?、快誉、平正済室、徳姫(平則道=岩城則道(岩城氏の祖)の正室 or 清原成衡(平成衡)=岩城成衡?の正室と諸説ある)がいる。

この義家からは源頼朝などに続いていく系である。
義光からは佐竹氏、小笠原氏などに続いていく系である。

今は、この義光の系に注目する。
佐々木荘下司となった経方の妻に源義光の娘が嫁ぎ、為俊(季定)が生まれ、秀義とつながっていく。
秀義の母は、義家の息である源義親の娘、秀義の外祖母は源義光の娘となる。

つまり、佐々木氏にとっては義家も義光も関係があったという事になる。
その義光から佐竹氏が出る。
義光の長男の義業の息が佐竹昌義である。

昌義ー隆義ー秀義ー義重
義重の母は佐竹義宗と書かれているが、他の説がある。それが、以下で、源国政(山縣先生)の娘という説である。


さらに、前の情報 国政の母は「宇多源氏木村定道の娘」を加えてみる。

佐竹と佐々木氏、佐竹氏と山縣氏、山縣氏と佐々木氏、が繋がるではないか。
緩く、時代も様々ではあるが…関係はあった。

時代順には
①佐々木為俊の母が義光の娘
②国政の母が(佐々木)木村定道の娘
③佐竹義重の母が国政の娘

となる。

とすると、1186年に重義が生まれているのだが、頼政(1104年生まれ)と同時代を生きた国政の娘が母親で年代は合うのだろうか?
ちょっと無理があるのではないだろうか?とも思う。

しかし、関係性としては面白く、東国とのつながりを見ていく際にも佐竹氏がキーマンになるかもしれないと思う。

九里氏に関して言えば、片岡経春が佐竹氏の婿であることから頼朝に嫌がられ、ついには義経派となっていくことから、もしかすると関係があるかもしれないと思う。
この片岡かどうかはわからないのだが「片岡桂嫩」と書き立て法名でよばれているのである。片岡という地名かも知れないが何等かある。

富木常忍(日常)も土岐播磨守とよばれていた文書があったが、そのこともいまだに気になっている。



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