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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

長岡藩 九里氏も 九里源兵衛からヵ?

2021-02-25 | 九里【まとめ】

人質となった玉松が九里源兵衛であったのかどうか、
深尾氏が九里の幼子を連れて逐電したが、其の子が源兵衛だったのかどうか、

真実は、まだ分からない。

また、水茎岡山城と関係のない九里も存在していたはずである。
たとえば、和歌山の熊野本宮前坊の九里氏も居た。

京極氏側、朝廷の中、幕府の奉行人、
高野山 桜本坊の 九里但馬
先ほど見つけたばかりの 九里左近太夫
まだ名も知らない九里が他にも存在していたに違いない。

ただ、まだ知らないだけなのだ。

===*===

九里源兵衛がもしも永原氏の許で育てられたとすると、私はそこには乾甲斐守が関係すると思う。


乾甲斐守が九里の娘を妻にしていたとすると、前の記事にいた「乾駒之丞雅勝」の孫(か親戚)であったなどという事もあり得るような気もする。
それならば、当然…のように育て、また六角氏の許で働けるように差配もできたのではないか?と思う。

そこで、水茎岡山城の九里滅亡後であったために氏をつなげていくために本来は乾氏か永原氏であろうが「九里氏再興」のために「九里」を名乗っていた可能もある。

===*===

長岡藩にも九里五郎太夫他たくさんの九里がいた。
この人たちも、永原氏が関係しそうである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%97%A9%E3%81%AE%E5%AE%B6%E8%87%A3%E5%9B%A3


永原氏のその後を見ていくと、佐々木哲学校の記事にある様に、
『実は長岡藩主牧野忠成の舅が永原道真の娘である。そして永田氏など六角氏旧臣が牧野家に仕えている。』

牧野氏と永原氏との関係が、九里氏を長岡藩へ導いたのだと思う。

http://blog.sasakitoru.com/201302/article_6.html



===*===

また、先ほど出てきた一人【九里左近太夫】
【九里左近】とも書かれている。





下記は踊りの人のようで、江戸時代と思う。













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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(5)九里源兵衛 ー 九里武兵衛(前野武兵衛)ー 九里十助(武兵衛) ー

2021-02-24 | 九里【まとめ】

鹿苑日録の記事を読むと、源兵衛と共に『永原氏』が登場する場面がいくつか見つかった。
永原氏は祖は藤原秀郷流の系と近江の佐々木経方から始まり愛智源四郎大夫家行につながっていく系もある。

深尾秀長の祖母は永原越前守重行の娘であった。(系図の見方では秀長の母とも読み取れるのだが…)



九里源兵衛は、永原家に匿われていたのかもしれない。(養子として六角高頼の弟重が入っているので匿われたのではなく、預けられたとも考えられるのだが。)
系図をよく見ると、永原氏には他の越前守も何名かいたため重行とは限らないことに気が付いた。が、乾氏との接点で言えば、可能性が大きいのが永原越前守重行である。

この永原系図の下の方に山内・永原・乾氏のつながりを示す系図がある。これが非常に重要と思う。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-nagahara.html


永原(山内)刑部大輔一照 (  -1620)
諱は一照(かつあき)。字は刑部大輔。本姓は永原氏。山内刑部と称す。本山山内氏の初代なり。
天正12年(1584)山内一豊に召抱えられる。
土佐御国入の時、藩主山内侯より本山に領地を賜い、「山内」の称号を許されて、山内刑部と称す。土佐藩家老なり。
元和六年(1620)6月30日卒去。墓は土佐國長岡郡本山にあり。
嫡男一長、二男正行

この次男が乾氏と成るのである。
乾(永原)金右衛門正行(  -1649)
諱は正行(まさゆき)。金右衛門、平九郎と称す。本姓は永原氏。
永原(山内)刑部一照の二男に生まれ、乾(板垣)加兵衛正信の養子となる。山内但馬一長の実弟。
慶長年中、養父加兵衛正信の跡目高千石の内から、三百石三人扶持九歩を下し置かれ養子相続する。
同19年(1614)江戸城御普請の御用を仰せ付けられる。
慶安2年(1649)12月18日病死する。

明治元勲板垣退助伯爵の血縁の先祖なり。

===*===

この乾氏と同じ家紋のわが系 九里八郎右衛門家である。

しかし、我が系は 土佐国とは関係が無いようであるし、江戸時代以降の柏原藩の系図にも乾氏との婚姻関係もない。

この乾氏がキリシタンと仮定し、我が系も始まりはキリシタンであったとし、その当時流行っていた紋であった‥‥とか、何かあるのかもしれないが、珍しい家紋でもあり、同じ紋というのは非常に気になる処である。

しかも、他の九里家では使っていない点も気になる。

===*===

永原氏と乾氏の関係に注目してみると

【乾甲斐守秀之】はこの永原系図に出てくる乾氏の関係者ではないだろうか?
本当は秀行で、「行」の字が通字となっているようにも思える。

とすれば、九里員秀の娘の聟であった人物なのではないだろうか? 乾甲斐守。






永原氏のことに関しての学びとしては佐々木哲学校の記事が詳しかった。
http://blog.sasakitoru.com/201302/article_6.html



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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(4)前野忠勝と山内盛豊の妹

2021-02-24 | 九里【まとめ】

昨日気になって、訂正を入れたが、
前回の記事には、間違いがあった。

武兵衛は吉康の舎弟(6歳年下)であり、十助は吉康の息である。同一人物ではない。


ただ、十助も武兵衛の息として九里に養子に入っていたならば、武兵衛を名乗っていたかもしれない。


私が注目しているのは、九里嗣子となってくれた【十助】とその養父のことである。
九里嗣子という事は、その養父と成る九里がいた事になる。それが吉康の舎弟の武兵衛ではないか?
舎弟は、血のつながりがないとは限らないとは思うが、ふつうは弟というだろうと思う。
舎弟というからには妹の夫であったり、母親が違っていたり、養子であったり、と何等か理由があるように思う。

つまり、吉康の息の十助が、吉康の弟で且つ九里を称していた武兵衛の嗣子となったのではないだろうか?
そこから、前野氏と繋がっていたのではないだろうか?ということである。

===*===

前野忠勝は又五郎を称し、吉康も又五郎を称す。
吉康の息宗能も又五郎である。

吉康の母は佐々平左衛門の娘であるので、後に佐々氏の一門となった。
吉康の本当の父であった前野小兵衛尉勝長は、もしかすると早くに歿し、それで忠勝が父親役となったのかもしれない。(要チェック)

(武兵衛は代々武兵衛であったかもしれない。1611年に自害した武兵衛は十助かその裔なのかもしれないし、十助の他にも息がいた可能性も充分にある。)

という事は、其の吉康の舎弟であった武兵衛も九里の嗣子になっていた可能性もある。この周辺の系図には残されていないので、不明である。
どこから来た九里だったのだろう。

===*===

前野忠勝の妻は山内盛豊の妹という。
もしかすると、そこが九里が前野氏と繋がっていく「接点」であったのではないだろうか?と思う。
(鎌倉時代には繋がっていた可能性もあると思うのだが、、、、)

それ以前にも前野時氏の妻となったのが、山内実豊の娘(山内実通の妹)であった。

「伊庭の乱の際に浅小井城の城主であった深尾秀長は、九里の幼子を連れ出し逐電している。其の後は行方知れずである。」

頼るとすれば美濃国山県郡の太郎丸村の深尾氏か、祖母の永原氏か、曽祖父の乾氏関係か、
山内氏と前野氏のつながりから前野氏か…

同じ近江国内よりも、他国にまぎれた方が見つかりにくいのか、はたまた他国の方が目立ってしまうのか…現代の私にはよくわからないが、何処かに潜伏したのだと思う。幼い時には女性の手が必要だったのだろうと思う。深尾秀長の妻がどこの出身の人物かまでは調べていないので、そのあたりかもしれない。

深尾秀長の祖父永原越前守重行の父(つまり秀長の曽祖父)は、乾駒之丞雅勝という人物であり「乾氏」なのだ。
この一代のみで、すぐに復姓し、永原氏になっているのだが。もしかすると永原重行の母親は乾氏だった可能性もある。

深尾・永原・乾の氏が繋がっている。


深尾氏・永原氏・山内氏・乾氏がすべて関係する系図である。


http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html


http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-nagahara.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-yamanouchi.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-yos-maeno1.html



この「永原越前守」の娘は深尾加賀守元範の妻となり元秀を産む。
(永原越前守重行の父が、乾駒之丞雅勝とある。)

其の深尾元秀の息の秀長が水茎岡山城の九里の幼子を助け出し、逐電した人物とみる。

其の秀長の弟元忠の系が、浅小井深尾氏の跡を継ぐ。
その後もともと鎌倉時代より富木常忍の私領であった中山法華寺若宮(奥の院 常忍自宅)が、江戸時代に入り、深尾元忠の系の元次に所領として宛がわれている。なぜならば、そこが九里氏の所領であったためと思う。

武家家伝 深尾氏
「元秀の嫡子秀長は、当時佐々木四天王の一人と称された、神崎郡伊庭城主の伊庭下総守資長が反乱を起したとき、これに味方し、結局、浅小井城を捨てて蓄電、行方知れずとなってしまった。秀長の弟元忠は兄の謀叛のあと、浅小井城を召し上げられ、禄を失い、侘びしく暮らしすことになった。その後、一族の取りなしを得て、わずかに禄を与えられて深尾家を再興することができた。
 その後、佐々木六角氏に仕えたが、昔日の面影はすでになかった。そして、六角氏が織田信長の前に敗れ去ると。主家を失った深尾氏は、郷士となって浅小井村に住したという。 」田中政三氏「近江源氏」から

https://books.google.co.jp/books?id=CLplAAAAIAAJ&q=%E4%BC%8A%E5%BA%AD%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%AE%88%E8%B3%87%E9%95%B7&dq=%E4%BC%8A%E5%BA%AD%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%AE%88%E8%B3%87%E9%95%B7&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi75-m2yIHvAhVAyIsBHatdB6kQ6AEwAHoECAAQAg


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hukao_om.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html


この浅小井深尾氏と九里氏(佐々木行実・行範の系)
そして九里氏と原氏・前野氏・佐々氏(良峯姓)

その前野氏と山内氏の縁
山内氏と永原氏、そして 永原氏と乾氏 永原氏と深尾氏

山内氏・永原氏・深尾氏・乾氏とのつながりと前野氏とが繋がり、九里とつながってくる。


この関係を見ると、前野武兵衛は、深尾氏に助け出された九里氏の嗣子となったのではないだろうか。それか、その助け出された本人か?

そしてさらにそこに九里氏の嗣子として前野十助が入ることで、より山内氏・乾氏・永原氏ともにつながりが強化されたように思う。

年代をアバウトに検証してみると、周辺の系図を比べつつ想像すると…
1470年あたりに深尾秀長が生まれたように思う。
1501年に浅小井城を築城とある。その後、伊庭氏の乱があり、一族という事もあり加担することとなったため、六角氏に狙われ逐電に至ったと思う。これがその逐電の時だろうか? 1538年に生まれているはずの吉康の舎弟『武兵衛』である。

1525年には伊庭の乱も、九里の足利義澄を匿って、その後続いていた乱も終結している。という事は、この時に逃げた幼子ではない。
もしも可能性があるとすればその息であろうと思われる。(養子かもしれない。)

===*===

1520年が九里信隆の息「玉松」が人質として六角氏に渡ったと言われている時なのである。

とすれば、玉松がもしも源兵衛と同一人物ならば、

1520年の時に十歳以上でなければ、以下のような申し次をできないのではないだろうか?
1528年に18歳くらい、とすればまぁ納得できる年代ではある。

この人物は、○○兵衛とそれまでの九里にはない言い方なので、それが武兵衛につながった可能性はある様に思う。
なんと言っても現実に生きていた九里なので、名前の通り、この人物が源となって、それ以降の九里氏が繋がってきたともいえる。

伊庭氏の乱は二度あり、一度目は1502年の年末から1504年 二度目が1514年から1525年と見ることができる。

九里源兵衛は『後法成寺関白記』享禄元(1528)年や、天文法華の乱1536年に登場する。
「『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。という事は、
九里源兵衛は「天文日記」天文6年(1537年)が残っているそうである。(平井氏と行動を共にしていることが多いカ)
九里三郎の記載も「菅浦文書」天文9年(1541年)に残っているそうである。
近江蒲生郡志: 巻2, 第 2 巻 908頁

この源兵衛「近江六角定頼の使者九里源兵衛」とさかんに書かれている。
この人物は近衛氏ともつながりがあり、院との関係もありそうなことから九里員秀の裔かもしれない。

鹿苑日録の記載では、天文十二年迄は「九里源兵衛」天文十三年(1544年)からは「九里対馬守」となっている。1510年生まれとすれば、34歳。
(この頃、前野武兵衛は6歳である。)

水茎岡山城の九里氏のために人質として六角氏に渡された『玉松』が殺されずに生き残って源兵衛となっていたのならば、嬉しい!!
深尾氏が助け出した幼子であるならば、それもまた嬉しい!!!

三郎は、三十郎の事かもしれない。(三重郎)この人物は、もしかすると信長に註されたかもしれない、三郎左衛門ではないだろうか?
1570年に所領も何もかもすべて取り上げられている。命がどうだったかは、書かれていなかった。調法の容疑であったようである。

====*===

深尾氏に助けられた幼子が、その後源兵衛として活躍し、其の弟ヵ?と思われる三郎・息ヵ?と思われる武兵衛がいたからこそ、現代にまで九里という苗字が続いているのだ、と思うと感慨深いものがある。

複雑なことを書いている為、非常にわかりにくかったと思うが、後のヒントになるようにここに書き留めた次第である。


浅小井城の説明板の写真は以下のアドレスよりお借りしました。ありがとうございます!!
http://shiroiku.html.xdomain.jp/shiga/shigaasakoi.htm































鹿苑日録より


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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(3) 少々 訂正

2021-02-23 | 九里【まとめ】

九里武兵衛は津軽に流され、事件に巻き込まれて自害したのだが、その兄弟や息たちはどのようになったのだろうか?

何故、我が系が良峯姓と関りがあり、原氏・橘氏・前野氏・佐々氏、と近い関係があるのかを考えるに、この武兵衛は前野武兵衛なのではないか?という疑問が湧いてくる。
(前野氏一族の屋敷は広大で、天満社の南に野田清助、前西が武兵衛、東が喜平次、裏が久三郎(森勘解由雄成)、東隣りが孫九郎、裏が将右衛門などの屋敷が建ち並んでいました。)
江南市の観光協会HPより
http://www.konan-kankou.jp/kankouannnai/s13/

===*===
前野武兵衛を調べてみると、どうも九里十助のような気がするのである。(十助本人ではなく、武兵衛はその父かもしれない。また、代々武兵衛を名乗っていたかもしれない。)

この辺りは後の記事で整理する。

武兵衛は吉康の舎弟という。 6歳年下となる。

その周辺の情報を自分の記事内で調べると(武功夜話からその都度拾ったものだったと思うが、名前が交錯、メモを取った私も混乱している)

嘉兵衛の兄又五郎尉〔前野吉康〕
前野又五郎忠勝の室は山内氏
忠勝・為定は「又五郎」を称し、さらに勝長の息吉康も「又五郎」を称したことがわかっている。
九里十助は「又五郎」の息である。(忠勝の息・母は山内氏かもしれない)
吉康:勝長長子又五郎という、左馬助と成り加賀守となる、吉康没年不詳。
前野小兵衛尉の嫡子又五郎吉康という。加賀守となる、佐々蔵介成政に奉仕。







上の系図は肥後国前野佐々系図なので、肥後国と関係の薄かった十助(後の武兵衛)の系がすべて載っているわけではなかったのだ。六左衛門・七右衛門とあるので、又八・又九がその兄弟にいたかもしれない。


この人物(九里に来てくれた十助=武兵衛の息カ?)自身は1538年生まれで、1611年に73歳。
本人とは限らず、同じく武兵衛を名乗った同じ系の人物(つまり息か孫)が津軽に流された人物なのではないかと思う。

そして弟や息たちがいたとする。
父か兄が不名誉な事件に巻き込まれて自害したために、そこで、いったん岡田を名乗らせたと考えられるのではないだろうか?
長康の娘も岡田氏に匿われ、系図の中にも「岡田勘助」に嫁いだ女性もいて、岡田氏とはご縁がある様なのだ。

京極高次分限帳の中の九里次郎兵衛も兄であったかもしれない。八郎右衛門ではないというだけなのだ。

今まで調べてきて、良峯姓に近く、かつ、岡田清左衛門が登場するのは、ココしかない。
ココが接点。


大和宇陀松山藩の初代九里政直は津軽に佐々義勝氏(一義)と共に配流された九里武兵衛(前野武兵衛)

更に考えられるのは京極氏・津軽氏もキリシタンと関係があったはずであろうという事。そこも、今回気になった。
佐々義勝はキリシタンかどうかはわからなかったが、母親は京極竜子である。彼女の母親は熱心なキリシタン「京極マリア」である。


===*===

なんとなく、それらしい気がしてきた。
山内氏と近いという事は、乾氏とも近い。 しかも一番下に出ている「乾正方」の家紋は榧之内十文字 





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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(2) 織田信雄の娘 と 佐々(津川・武田)加賀守一義 のこと

2021-02-22 | 九里【まとめ】

京極高次の家臣で、陰謀に陥れられ?津軽に配流となった「佐々氏」が誰だったのか。
佐々九郎兵衛…と思っていたのだが??

2016年の佐々木哲氏のメルマガでは『丸亀藩家老に佐々氏がいる。この佐々氏は織田信雄(信長次男)の女婿佐々義勝(九郎兵衛・加賀守)の子孫である。織田系図などでは実名を「一義」とするが、資料では「義勝」である。』

とある。其の後裔は、丸亀藩に行った佐々氏となる。

佐々加賀守一義  佐々加賀守義勝

其の【佐々一義】は、いくつかの記事を見ると【津川内記一義】とある。その名が大飯郡史にも記載がある。(慶長)
更に佐々加賀守義勝の名も同著にもある。(慶長)

こちらも同一人物ではなかろうか?
そう思って探すと、改姓し…とみられる記述もあった。
確かにwikipediaには津川義勝として、記事がある。


【津軽に流されたのは、佐々一義なのではないか?】

佐々流長(1600年生まれ)
父は佐々一義である。加賀守一義は織田信雄の娘を妻とし、嫡男が伊左衛門流長で、元和元年十五歳で利常に五百石で仕える。
大坂の陣で活躍し金子二枚を拝領した。利次に付いて富山に移り、万治二年三月に卒。 




https://tangonotimei.com/wakasa/takahama/miyazaki.html


佐々加賀守義勝=一義の父は武田元明で、母は京極龍子であり、
祖父は武田義統 祖母は足利義晴娘 である。
曽祖父には六角氏が登場する。




妻は織田信雄の娘である。


この佐々氏は若狭の武田氏であり、良峯姓の佐々氏ではない。
しかし、そこにも京極氏との関係・足利義晴との関係から九里が家臣の中にいたようである。

佐々義勝の津軽への配流の際、九里も共に津軽へ行っていると思う。(九里武兵衛、事件に巻き込まれ自害している。1612年)
以前は配流されたのは、松江藩の佐々九兵衛と九里次郎兵衛のことと思っていたが、松江藩に行く前の小浜藩でのことであったようだ。

京極高次の分限帳には岡田清左衛門・九里次郎兵衛の記載がある。これが寛永十四年であることがわかった。(1637年)
京極高次が歿し、1609年に家督を継いだ忠高が、小浜藩から松江藩に移ったのが1634年である。

1615年に信雄が大和宇陀松山藩に来た際に、岡田政直(九里政直)が藩内を案内しているからには、もうすでにその土地を知っていたことになる。
小浜藩や松江藩の九里武兵衛・九里次郎兵衛とは関係がないのだろうか?

岡田から九里政直となった人物は、松江から来た人物ではない!という事になる。

複雑なのは、同じようなパターンがある事である。
○○清左衛門と成るのは、家督を譲った後、隠居した際という事、という同じパターンが松江藩の岡田氏にも大和宇陀松山藩の岡田氏にも九里氏にもある。

さらに、上記の自害した武兵衛という名前、前野武兵衛‥‥と前野氏にも見える名である。

一体どのようにつながっているのか、疑問の上にまた疑問が重なってくる。難しい…

九里次郎兵衛と岡田清左衛門が京極高次の分限帳に共に出てくるので、ココは動かしがたい事実である。

京極高次が歿した辺りで岡田から九里になる八郎右衛門の系は、織田信雄に就いたのだろうか。
福島高晴がそこに何故絡んでくるのかが、見えてこない。

一つ、ヒントとなりそうなのが【村井貞勝の娘たち】である。
慈光院=佐々成政室
前田玄以室、
福島高晴室

この村井氏は近江国出身である。
信長が足利義昭と共に上洛した際も同行し、明院良政・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たっている。
明院良政は、信長の右筆として、また奉行人として連署奉書を発給しているような人物。

佐久間信盛も、また前田種利の娘を妻とし、娘たちは 福島正頼室、佐々氏妻 となっている。

岡田善同の息善政の正室は佐久間勝之の娘であり、勝之の父が信盛である。


もともと佐久間氏は安房(あわ)佐久間(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町上・中・下の佐久間)の出身であり、その後、尾張(おわり)(愛知県)に移る。
のちその家は山崎城(名古屋市南区)と五器所(ごきそ)城(同昭和区)との2家に分かれた。信盛は山崎城主。

http://chibasi.net/hara1.htm#tanetika1

上記のアドレスに「佐久間九郎左衛門は原越前入道の代官としてこの地にあったと推測される。」とある様に、何等かつながりがあったのだと思う。
もともとは安房(あわ)佐久間(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町上・中・下の佐久間)の出身であった佐久間氏なのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E8%B2%9E%E5%8B%9D

===*===

大和宇陀松山藩の岡田=九里政直 八郎右衛門は元は又八と呼ばれ、又九という弟もいたはずである。
弟は、大和郡山藩である。

ご先祖様に、もっとヒントを!!と願うこの頃である。
夢にヒント、出てきて欲しい~!

若桜神社がヒントかな??

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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(1)

2021-02-19 | 九里【まとめ】

その昔にはキリシタンであったとの想定の許、考えていく。

近江八幡にいた九里員秀の娘は大内裏の長橋局房にいて(忠富王記)、やはり院には乾大夫がいたのだ。
これは同じ文書内で見ることができている。

九里員秀の娘がその後、乾太郎左衛門に嫁いだと仮定。
(長命寺縁起に九里のいた水茎岡山城の城主乾甲斐守との記載があるそうである。…九里が歿した後である。)

其の乾太郎左衛門の裔が後に茨木の乾大夫にも繋がっていると考える。

http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/itou.pdf

この茨木の周辺に継体天皇陵もある。(太田茶臼山古墳)(関係はないかもしれないが)

岡山藩から鳥取藩に移った池田藩主(光仲)はキリシタンであった。その家臣であった乾氏もキリシタンであった。

茨木の乾氏と同族の乾氏
ならば、これが傍証と成るかもしれない。



===*===

わが九里の系図は政直から始まっている。

岡田政直は九里政直となった。

岡田某氏は京にいた「岡田氏」とも関係のある人物であった、と仮定する。
京・伏見には原胤信がおり、宣教師の求めもあり伝道所を創建に協力していた。

「慶長5(1600)、胤信は大坂に於いて、イエズス会神父ペドロ・モレホンより洗礼を受け、ヨハネの洗礼名を授かった。どういった経緯で神父と出会ったかは定かではない。
慶長6(1601)年の伏見城再建時…」と千葉氏の中の「原胤信」によるとそう書かれている。

https://chibasi.net/hara15.htm

この原胤信と弟とその裔は「岡田氏」を称することと成る。

【原吉王丸 岡田元泰と称す】 と文書に出てくる。そう、確か胤信は吉丸と書かれていた。吉王丸も胤信かもしれない。
家康の前では、すでに岡田を名乗っていたのかもしれないし、逐電したのちの事なのかもしれない。

ともかく、原氏から岡田氏と称するようになっている。







===*===

前野長康の娘が藤堂高虎の配慮で京の岡田氏に預けられた。

===*===

京都に住していた「岡田氏」が鍵を握っている。
前野氏・藤堂氏が良く知っていた人物、且つ、もしかすると「原胤信」ともかかわりがありそうな人物。

岡田重能(重善)は尾張国星崎城にいた。尾張と云えば前野氏本拠であり、当然知っていたと思われる。
佐々氏も当然知っていたと思う。

前野氏・佐々氏とのつながりがあるという事は、長い目で見ると「良峯姓」として繋がっているのが「原氏」である。

1595年に前野長康の娘を預けたのなら、岡田重能(重善)は1583年に歿しているため無理である。
重善の弟が僧であった。「良沢」という。
京都の寺にいたならば、この人物がそうかもしれない。

そして、さらなる可能性としては息の岡田重孝と善同、娘であった山口重勝の妻である。

しかし、その息の岡田重孝も、織田信雄に誅される。(1584年)
その弟善同は1558年生まれであるから、37歳あたりの時に前野長康が誅されている。

その善同の息善政の正室は佐久間勝之の娘である。
佐久間勝之(父は佐久間盛次。尾張国生まれ。はじめ佐々成政さっさ・なりまさの養子となり、佐々を称した。)
そこで、九里十助と出会っているはずである。十助は成政に仕えていた。




遡るが、其の勝之の正室が佐々成政の娘である。

ここで、原氏とつながってくるのではないだろうか。

原氏と佐久間氏は時折セットで出てくる。
「佐久間氏」を調べると何かがわかるかもしれない。

原胤信が大叔父であるという原胤昭の家系にも佐久間氏の名が見えている。

佐久間氏と岡田氏が、今後調べていく課題となりそうである。

米沢の九里三郎右衛門、と岡田氏の接点である。
http://www.yutenji.or.jp/history/nenpyo/page-33145/page-33721/

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三善氏と親戚であり、頼家と実朝の乳母もこなし、が、常忍の母であった。

2020-05-02 | 九里【まとめ】

頼家と実朝の乳母を務めた富木常忍の母。(下総局とするとだが。)

三善氏と共に八幡庄を賜わっている点。
つまり、同じ大中臣氏なのではないだろうか?

三善氏は、康信の母には大中臣の娘が入り、その姉妹が頼朝の乳母となっていた。
そのため康信が頼朝のために今日の近況報告を行っていたという。

常忍の母も、乳母であり、同じ土地を賜わっているというのであるなら、どこかで同じ氏であった可能性があるのではないだろうか?

そして、寒河尼も中原氏であり、宇都宮氏である。
大中臣氏でもある可能性が高いと思う。

乳母として勤めることのできる女性の氏はたくさんはないのではないか?
乳母父が経済力をバックに養育に大きく関わっていたそうであるし、乳母の系譜というものがあったそうである。家司を務める家が多いそうである。
但し、時代によって、崩れていく。
鎌倉時代も崩れかけていたかもしれないのだが。

源頼朝の乳母は
比企尼・寒河尼・山内尼(摩々尼)・亀井六郎重清母・・・

北条の阿波局は特例かもしれないが、
頼家・実朝の乳母にも、
中原・清原・大中臣がいたのではないだろうか?
特に鎌倉に住んでいたとなると、限られてくるのではないだろうか?


http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33799.html

乳母の力 田端泰子 著

すごく読みたい!! でも、高値になっています。(悲)



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今日からは、大和宇陀松山藩・丹波柏原藩の九里に入ろう!

2019-01-27 | 九里【まとめ】

九里氏祖に関しては、ほとんど情報のないところから、近江国御家人井口中原系図に出会い、その中に出てくる人物のことが何か出ていないかを調べ続けていた。その中で、中原景経と九里蓮忍が出てきた。(東京史料編纂所DB)

さらに九里の祖九里太郎左衛門経久=蓮忍入道。
そしてその弟か息である「富木常忍」のことも、東大史料編纂所のデータベースに導かれ、更に研究者の方々の研究発表により、常忍が日蓮の布教初期の支援者であること、千葉氏の被官(執事)であることもわかった。
さらに同族ではないだろうかと思われている人物「中原能兼」もいることがわかった。(石井進氏・丹生谷氏の論文)

広橋氏・日野氏との関係もあること、浅小井氏・深尾氏(⇒コメントを書き込んでくださった方からの情報で)・永田氏・佐々氏・とも婚姻・養子縁組関係があることがわかった。

また、九里某氏より情報提供をいただいた「和歌山の系図」の存在で、近江国と熊野の九里が繋がっていることが証明された。

その系図に拠り、近江国石寺・六角氏の配下にいる九里氏が確認された。

一方、まだ解明には至っていない諸々もある。👇

気になる存在としては、鎌倉幕府の中のメンバーでは美作(本郷氏)朝親が大江氏であったように思え少々検証してみた。これは、以降も続けるつもりである。

同時代の藤原秀能(実和田宗実の息秀能の父、秀宗は和田義盛の弟・宗実(宗妙)の子・藤原北家秀郷流の養子となった藤原秀宗の子として誕生)、比企能員・比企尼も、近い存在として気にかかっているが、九里氏や富木氏との関係の実態はつかめていない。


大中臣・清原・斎藤氏の横ラインのつながりも掘っていくことで、員弁関係(浅小井・深尾氏)とつながっていくように思えるのだが、
…特に平田氏との関係にも興味があるが…力不足・理解不足に加え、なかなか情報が見つからず、しばらく横に置いておこうと思う。

~*~

今までご協力いただいた方々には、深く感謝いたします!!

そして、コメントを下さった方々にも、ヒントをたくさんいただいて、面白くも、心の支えにもなり、ありがとうございました。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

~~~*~~~

気分を変えて、
今日からとうとう自分の祖である「大和宇陀松山藩」の九里政直を探すことにしようと思う。

政直は、岡田清左衛門が改めて九里となっているあたりが、とても気にかかる部分である。

(「清左衛門」の部分はその後も、代々隠居した時の名前として使っていた。)

岡田氏と同じ家屋に住んでいたことが確認できている。(奈良縣宇陀郡史 旧)
この岡田氏と九里氏はどのような関係であったのであろうか?

今までは、九里氏とはどのような一族であったのかを知るために、九里氏を調べていたような気がする。

歴史オンチの私、それが結構思っていた以上に長引いてしまった。

さぁ、歴史の中に埋もれているご先祖様のルーツ探し、上手くいきますように! パンパン(二拍)


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推定年代が変わった事での可能性。

2018-12-23 | 九里【まとめ】

兄経久と弟常忍と考えると、より自然な気がする。…ということで、推定年代。

九里氏パターン2.
賢清 1155年 
経任 1180年 景経1185年 (この場合は経任の妻が常忍の母)
経久 1205年 経季1211年 常忍1216年
経重 1230年

上記に合わせてみると、あの 基仲帥(蓮浄)~藤原実明~蓮乗~蓮忍 が似合ってくる。

基仲帥は近江入道であり、業資王や業仲王の母の父親でもある、卜部基仲の事である。

卜部・・・この氏も祭祀を執り行う氏であり、中原・大中臣・清原…などと同じである。
そしてこの卜部基仲の娘が嫁いだ先が白川伯王家(花山源氏嫡流)だったのである。
仲資王(1157年 - 1222年)の妻となり、二人の男児を産んだ。

業資王(1184年 - 1224年)
資光王(? - 1266年)である。

この近江入道基仲がもしも蓮乗の祖父であるならば、賢清の妻か母が近江とかかわりのあった基仲の娘であったのかもしれない。

そして卜部の始まりは、神功皇后なのだ。
更に代々の対馬の卜部を統括していたのは橘氏だという。

何かこの辺りと経任が橘氏と改めたことと、関係がありそうに思う。
ちょうど業資王が生まれたあたりと同じころ経任も生まれていること。

源業忠
源康仲 資基王の三男 母大友親秀の娘 生没年:正嘉2(1258)年 - 嘉元4(1306)年6月16日
資緒王 資基王の子 母:大友親秀の娘 生没年:建長2(1250)年 - 嘉元3(1305)年10月4日
能直の息親秀の事。生誕 建久6年(1195年)
死没 宝治2年10月24日(1248年11月10日)

大友親秀(コトバンク)
鎌倉幕府に御家人として仕え、源氏将軍が絶えた後は摂家将軍藤原頼経に仕える。嘉禎4年(1238年)には頼経の上洛に随行した。大友氏の基盤を固めるため、弟の詫摩能秀と共に協力して国政を行い、嘉禎2年(1236年)には家督を子の頼泰に譲って隠居し、次代を磐石にするなどして大友氏の基礎を固めた。宝治2年(1248年)10月24日、54歳で死去。(中原姓の摂津親秀とは別人)

大友親秀の父能直
大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。

秀郷流波多野系図 
波多野経家と三浦義継の娘との間に生まれた女子が近藤能成を産む。
能直の母は中原親能の妻の妹である。


大友親秀の妻は佐原家連の娘

佐原家連
?-? 鎌倉時代の武将。
三浦義連の子。承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方の紀伊(きい)南部(みなべ)荘(和歌山県)の熊野法印快実が打ち首にされたあと,同荘の地頭職(しき)をあたえられる。貞応(じょうおう)2年(1223)紀伊守護。通称は三郎左衛門尉。


平凡地名=小田原市東大友、西大友一帯=平安末「足上郡大友郷」=母波多野経家女を通じ能直に伝えられたものか、能直後家尼深妙より配分した延応2に地頭郷


中原氏・大友氏・波多野氏・三浦氏(和田氏含む)・佐原氏・ここには登場しないが大江氏・宇都宮氏等、
と幅広い関係が、すっぽりと九里氏とも関係するという事は、

中原親能の周辺。

「経」「景」のついた中原氏を見つけることが、その系を見つける手掛かりとなるかもしれないと思い、軽く調べてみた。


隣にいる中原(宮道)忠弘も気になっている人物であるが、ともかく「経明」という人物に出会った。
また、友景・景賢も見つけた。いずれも同世代である。1185年周辺に活躍期。

九里の場合、経貞から突然に賢清となっているので、養子に入ってきたか、または養子となってどこかへ入ったかだと思う。とすれば、「賢」か「清」のついた親か養父となった人物がいたのではないか?という事で、景賢はとても怪しい。元暦二年は1185年


友景・景賢ー賢清などとつながってくるのか?(・は兄弟、ーは親子)

経貞ー賢清ー経任・景経ー経久・経季…



田渕句美子氏によると、
中原友景(知景)は、後嵯峨院北面であり、西園寺家に仕えていて、公経に信任されていたこと ...
三月一干日の公経家影供和歌会に秀能と共に出認し、
また同年聞三月一一十九日の実民家連歌会にも参加している。

藤原秀能は和田氏でもある。


中原(宮道)忠弘は藤原定家の執事をしており、
また、この中原友景は西園寺家の家司であったようである。

経明は少外記の他は未だわからない。
景賢も権少外記の他いまだわからない。

忠弘は藤原親行男。法名賢寂。
定家母の兄親弘の孫で、定家の家の執事を勤めている。

はやりこのあたりの中原氏を徹底調査が必要らしい。



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その杉本氏から出た和田氏(3)奥山荘

2018-11-26 | 九里【まとめ】

その奥山荘の場所は以下のあたりのようであり、

 
比企家の家系という方のwebへの書き込みによると「新潟県北蒲原郡…」の豪農のご出身とあり、どうもそのあたりに比企一族がいらしたよう。
その住所を頼りに地図を出すと同じ場所。



和田宗実・義茂の所領地であった奥山荘は、もともとは比企氏の所領だったのだろうか?

奥山荘に関する文化遺産オンラインの解説。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/161048

新潟県
胎内市、新発田市
指定年月日:19841003
管理団体名:
史跡名勝天然記念物
 奥山荘城館遺跡は、新潟県北部に位置し、中世東国を代表する荘園の奥山荘の荘域に形成された、城館遺跡・信仰関係遺跡・生産遺跡等の13か所が史跡指定されている。江上館跡は、中条町の南部、旧潟湖に隣接する扇状地の扇端部の標高約18メートルの微高地に占地し、三浦和田氏の惣領家である中条氏の居館跡と伝えられている。

 平成3年から8年まで中条町教育委員会が継続的に行った発掘調査によって、約1町四方の主郭とそれに附属する南郭・北郭からなる館跡の全体像がほぼ判明した。13世紀から16世紀前半の中国陶磁器・珠洲焼等が大量に出土し、4か所の橋跡、南門・北門跡、数次にわたる堀・土塁の改修補強の様相が確認された。今回の追加指定地は、北郭の堀跡の一部にかかる一筆で、当初から指定を予定していたが未同意であった。周辺部は急速に住宅化が進んでいるが、史跡整備の進行に伴い、ようやく所有者の同意を得ることができた。よって史跡に追加して指定し、保存を図ろうとするものである。

~~~*~~~
比企氏と和田氏のどこかで繋がりがあるのでは、と思ったので調べると(以前書いたかもしれない)
以下のようなことがあった。


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