佐々木哲学校の記事に以下のようにある。
永禄十年(一五六七)足利義昭の朝倉義景邸御成では、山内六郎左衛門尉・九里十郎左衛門尉が門警固役を勤め、六角氏綱の次男義政(仁木殿)が亭主義景ととも大門外で義昭を迎えて、相伴にあずかっている(『朝倉義景亭御成記』).
http://blog.sasakitoru.com/200504/article_17.html
===*===
この九里勝蔵は、九里一族のことを良く知っていたようである。
源兵衛前後に現れてくる人を わかる範囲でククリ直してみたいと思う。
===*===
アバウトなのだが、
1510年 源兵衛 生まれる
1530年~ 源兵衛 息の世代
1550年~ 源兵衛 孫の世代
上記の【九里十郎左衛門】は 源兵衛の息の世代にいた可能性がある。
【九里勝蔵】は、九里治兵衛とともに、1585年 天正13年 九里勝蔵は加賀藩前田の家臣として、佐々氏方と闘っている。其の後なのか? 九里勝蔵討死とある。金沢城城郭史料等にその名が出てくる。
この二人は、源兵衛の息の世代とも孫の世代ともいえる。
【九里采女正】は、1552年に息と共に歿しているので、源兵衛の同じ世代と考えられる。
===*===
勝蔵の記録にあった人々とその周辺をここに残しておこうと思う。
源兵衛の生まれる前の人が多いが…
九里三郎左衛門高雄は 浄椿のことと云われている。(刑部伊賀守)
九里美作守賢秀(高雄の父?)(近江名跡案内記・蒲生郡) または、員秀が高雄の父という説もある。
九里四郎次郎員秀 忠富王記 1499・1501年 舟木庄代官
飛鳥井雅康【秘伝 蹴鞠五部抄】1450年に登場
九里備前守・信賢・信隆 備前守→六角氏重臣永正三年 1507年 坂田郡志
九里次郎左衛門尉吉忠 永正十一年 1515年 福井県西福寺書状
九里宮内左衛門尉種信(1499年)(乾氏とのつながり)
明応あたりの闘いでかなりの人数が戦争で歿している。
生き残っていたのが、
賢秀 員秀 高雄 信隆 信賢 (隆員)
種信(乾大夫関係か?)
貞信・種信(宮内左衛門尉)貞秀
信隆(備前守)・信賢(備前守)
===*===
源兵衛の息か、婿か養子か 員秀の孫(息小次郎の息)か?
九里隆員(六角氏重臣) 永禄元年 1558年 八日市市史
===*===
九里賢秀―九里備前守員秀―九里伊賀守高雄ー九里備前守信隆ー九里信賢 源兵衛信賢? 玉松?
九里隆員 源兵衛隆員? 玉松?
九里源兵衛 玉松?
九里三重郎 九里三郎左衛門
九里采女正 次郎?
(員定・員秀・伊賀守隆員 皆商業に関係していた。徳珍保)
九里治任は島郷 治兵衛と関係?
香庄源左衛門尉貞信 六角定頼の近臣 (香庄佐渡守頼輔・香庄源左衛門賢輔(佐々木六角氏の臣)の婿養子?)
===*===
まだよくわからない。
進展していないような気がして、哀しくなる…