九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

本当に六角定頼の家臣であったのか? 近衛家の家司であったのではないだろうか?

2021-03-12 | 九里【まとめ】

「『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。」

この下の文書が同じものと考えると、近衛尚通の娘である「継孝院」の家領のことで、六角家臣であった永原氏等に言伝を依頼されている。

 

 

さらに、下記の文書

永禄七年 1564年 桜本被官九里但馬     足利義晴の正室である慶寿院(義輝・義昭の母)

と、ここでもまた近衛尚通の娘で、義晴の正室となった女性と共に文書に登場している。

 

 

 

 

さらに、年代が不明ながら、義昭の時と思われる時代?にも九里がおり、調法で云々とある。

 

===*===

 

足利義澄の息(亀王丸=義晴)が生まれた際に播磨守の赤松義村にまで付き従って赤子を守っていた女性や武士、乳父母もいたのではないだろうか?

 

とすれば、九里の中から誰かがその役に付いたかもしれないし、
水茎岡山城が崩壊した後に縁があって近衛尚通の家司、または、幕府の公方様の近習などに抜擢された者もいたかもしれない。

 

それが、源兵衛だったのだろうか。

 

鳴動するという小袖を返還するために赴いた際に,というタイミングであったかもしれない。

足利義晴と九里源兵衛は、同じ世代である。

 

 

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さっぱり【まとめ】にならない まとめ  九里三郎 

2021-03-11 | 九里【まとめ】

【まとめ】は、いつも「まとめ」にならない。

今、私の力でできる事は、webや書籍のバラバラに載っている情報を繋げていくこと。

一応は「まとめているつもり」・・・なので、ご了承を! 

 

===*===

 

今日は、九里源兵衛と共に同世代を生きていたと思われる「九里三郎」

 

 

この人物が、源兵衛の兄弟であるならば嬉しい!

立場が源兵衛とは違うようで、こちらはバリバリの武士と思う。

源兵衛はどちらかというと、文官である。

 

天文九年(1540年)菅浦文書

永禄十年(1567年)池田景雄と戦う

永禄十年(1567年)古證文

元亀元年(1570年)永田景弘の兄であった九里三郎左衛門(永田七郎右衛門 称九里)

         信長から九里三郎左衛門の所領等 永田景弘に宛がうという文書あり

          九里三郎の息かもしれないし、源兵衛の息かもしれない「九里三郎左衛門」 

 

 

 

この辺になると九里家の伝承であった「廣田与三左衛門重元」の話にも繋がって来そうなので、挙げて置く。

「広田与三左衛門重元、累世江州小幡ニ家ス、織田信長公城ヲ安土ニ構フ、時ニ小幡ノ住民ヲシテ城下ニ移サ使ム、後城傾類ニ及ビ信長公ノ八男、武蔵守信吉道ト公、館ヲ同州高野邑ニ建ツ。復タ小幡ノ巨家ヲ移シ館下ニ置ク、乃チ重元其一人。此レ自リ高野ヲ以テ居住ト為ス、慶長四巳亥九月廿四日卒ス、本源院天景宗祐居士ト号ス。・・・九里与三左衛門、故有リテ性ヲ改ム、九里者母方ノ性也・・・」と。(滋賀県中世城郭分布調査4)

岡山城主(現、近江八幡市)九里氏の分脈で、中世末から現在に至るまで高野域の南側に居住の九里家に伝承される。ともある。(都道府県別日本の中世城郭館調査2000年)

広田氏は信長の家臣であったようなのだが・・・(仙石秀久の家臣にもその名が見える)

広田甚六宛ての宛行状がある(広田文書)

仙石秀久の家臣に一人広田氏が見える。

広田藤吾秀久に仕え、天正9年(1581年)11月、淡路州本城攻めに功があった。

 

お鍋の方 城郭探訪さんのページより

https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/b867bb69b48c7e58d4ce379459f3791e

 

お鍋の方の実家であった高畠氏は水茎岡山城のすぐ横である。

 

 

 

 

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蹴鞠の飛鳥井雅康(宋世)と 九里四郎次郎員秀・九里伊賀守高雄(浄椿・宗恩) 追加

2021-03-11 | 九里【まとめ】

飛鳥井雅康(宋世)からいただいた蹴鞠の秘伝 

 

日本の古典籍: その面白さその尊さ 著者: 反町茂雄 より

 

九里員秀なのだが、「貞秀」となっている本もある。「員」と「貞」は紛らわしく、似て見えるそうである。

 

【中世における和歌と蹴鞠】 山本啓介 著 論文

上記の論文にも九里の名が蹴鞠と共に出ていた!

 

こちらの方は、私もコピーを入手した。したのだが、読めない!!

 

新しく見つけた九里情報があると嬉しい。

 

前の記事の近衛と九里もそうだが、情報が増えているような気がする!!

 

近代歌舞伎年表:大阪篇

 

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今までの九里をククリ直し。 1500年代~(2)九里少蔵・九郎兵衛の関係。 九郎兵衛が兄? それとも弟? そして前野氏から来た【九里十助】は…

2021-03-07 | 九里【まとめ】

私には九郎兵衛が兄なのか、はたまた少蔵が九郎兵衛の兄であったのかがわからない!!

少蔵が九郎兵衛の兄であったのか。

 

http://kinseikagatoyama.seesaa.net/archives/20141103-1.html

 

九里九兵衛 慶長五年に利長が大聖寺の山口宗永へ降伏するよう使者として派遣されるが断られ戻る。大聖寺城で戦い、金ケ丸で戦没。

 

九里正貞 甚左衛門と称し、越前で織田信長に仕える。府中で利家に仕え、七尾で二百石を知行した。元和元年に致仕し宥知と号し、寛永十年六月卒。

子の覚右衛門永正は慶長五年に利長より二百石を受け大聖寺で戦い、大坂の陣で負傷し、元和六年千石に到る。寛永七年に卒。

 

伊庭氏の家臣に見える「久郷氏」も関係があるかもしれない。

久郷吉信 文禄四年に利家へ百二十石の御鷹役で仕える。寛永八年卒。子の重右衛門義昌が御鷹役を相続して利次に従い富山へ移る。

 

 

===*===

九郎兵衛は前田氏の家臣であったようである。

また、少蔵も前田氏から勘当を蒙っているようで、それを挽回しようと思ったのだろうか佐々氏の家臣杉江彦四郎と「わたり合い」とあるので、元は前田氏側であった、と見ることができるだろう。

 

前野氏の中でも、秀吉側と佐々側に分かれていたという事が「武功夜話」に載っていた。

長康の方は、秀吉側

忠勝・吉康は佐々側

 

という事は、この九里九兵衛(九郎兵衛)・少蔵は秀吉側(前田氏側)と成る。

 

年代は活動期が1585~1600年のことなので、源兵衛の息か、孫か、両方があり得る年代となる。

 

===*===

 

前野氏から入った【九里十助】は吉康の息の一人であったので、私としては忠勝以来佐々氏に付いている系なので、やはり佐々氏側にいたのではないかと思っているが、九里に入ってしまったばかりに、前田氏にいたかもしれない可能性もある。

 

【前野吉康の室】が【佐々政次の娘】なのだが、其の佐々政次は1522年生まれである。

 

以下の記録は武功夜話には1558年あたりのこととあった。吉康26歳・武兵衛20歳とある。

1532年に吉康が生まれたとすると、1538年に武兵衛が生まれたことになる。

九里源兵衛が1510年生まれとすると、息の年代に吉康と武兵衛がいる。

という事は、前野氏から養子に入った【九里十助】は源兵衛の孫の世代と成る。

「十」とついているという事は、朝倉亭で足利義昭の元服の式のために門番をしていた十左衛門・十郎左衛門と関係してくるのかもしれない。

===*===

九里十助の実の兄弟であった【佐々直勝】

http://poreporetraveler.blog96.fc2.com/blog-entry-1152.html?sp

佐々備前守直勝の墓
佐々成政の甥。肥後の国人一揆の責任を問われた成政が切腹・佐々家改易後は加藤清正に仕え鉄砲組頭を務めています。

 

 

 

 

 

 

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今までの九里をククリ直し。 1400年代~

2021-03-06 | 九里【まとめ】

佐々木哲学校の記事に以下のようにある。

永禄十年(一五六七)足利義昭の朝倉義景邸御成では、山内六郎左衛門尉・九里十郎左衛門尉が門警固役を勤め、六角氏綱の次男義政(仁木殿)が亭主義景ととも大門外で義昭を迎えて、相伴にあずかっている(『朝倉義景亭御成記』).

​http://blog.sasakitoru.com/200504/article_17.html

 

===*===

この九里勝蔵は、九里一族のことを良く知っていたようである。

源兵衛前後に現れてくる人を わかる範囲でククリ直してみたいと思う。

===*===

アバウトなのだが、

1510年 源兵衛 生まれる

1530年~ 源兵衛 息の世代

1550年~ 源兵衛 孫の世代

 

上記の【九里十郎左衛門】は 源兵衛の息の世代にいた可能性がある。

【九里勝蔵】は、九里治兵衛とともに、1585年 天正13年 九里勝蔵は加賀藩前田の家臣として、佐々氏方と闘っている。其の後なのか? 九里勝蔵討死とある。金沢城城郭史料等にその名が出てくる。

この二人は、源兵衛の息の世代とも孫の世代ともいえる。

【九里采女正】は、1552年に息と共に歿しているので、源兵衛の同じ世代と考えられる。

===*===

勝蔵の記録にあった人々とその周辺をここに残しておこうと思う。

源兵衛の生まれる前の人が多いが…

九里三郎左衛門高雄は 浄椿のことと云われている。(刑部伊賀守)

九里美作守賢秀(高雄の父?)(近江名跡案内記・蒲生郡) または、員秀が高雄の父という説もある。

九里四郎次郎員秀 忠富王記 14991501年 舟木庄代官

         飛鳥井雅康【秘伝 蹴鞠五部抄】1450年に登場  

九里備前守・信賢・信隆 備前守→六角氏重臣永正三年 1507年 坂田郡志

九里次郎左衛門尉吉忠 永正十一年 1515年  福井県西福寺書状

九里宮内左衛門尉種信1499年)(乾氏とのつながり)

 

明応あたりの闘いでかなりの人数が戦争で歿している。

生き残っていたのが、

 賢秀 員秀 高雄 信隆 信賢 (隆員)

        種信(乾大夫関係か?)

貞信・種信(宮内左衛門尉)貞秀

 

信隆(備前守)・信賢(備前守)

 

===*===

 

源兵衛の息か、婿か養子か 員秀の孫(息小次郎の息)か?

九里隆員(六角氏重臣) 永禄元年 1558年 八日市市史

 

===*===

 

九里賢秀―九里備前守員秀―九里伊賀守高雄ー九里備前守信隆ー九里信賢  源兵衛信賢? 玉松?

                             九里隆員  源兵衛隆員? 玉松?

                             九里源兵衛 玉松?

                             九里三重郎 九里三郎左衛門

                                 九里采女正 次郎? 

(員定・員秀・伊賀守隆員 皆商業に関係していた。徳珍保)

 

九里治任は島郷 治兵衛と関係?

香庄源左衛門尉貞信 六角定頼の近臣 (香庄佐渡守頼輔・香庄源左衛門賢輔(佐々木六角氏の臣)の婿養子?)

 

===*===

まだよくわからない。

進展していないような気がして、哀しくなる…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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六角定頼 景徐周麟の弟子であった。つまりは九里浄椿と兄弟弟子でもある事になる。そして永原氏に高賢・重賢の二人が六角氏より養子として入っていた。

2021-03-04 | 九里【まとめ】

今日の記事には間に合わなかったが、下記の本、読んでみたいと思っている。
【六角定頼:武門の棟梁、天下を平定す (ミネルヴァ日本評伝選)  村井祐樹 著】

この六角定頼の父は高頼であり、高頼の弟が永原氏の娘聟高賢となったのだが、
そこで勘違いをした。

六角高頼の弟二人、が、二人共に「永原氏」に養子に入っていたのである!!



永原重行の娘聟として入ってきたのが【重賢】であった。高賢の弟の【重賢】であった。

ということになる。


九里と関係があるのは、永原重賢の妻=永原越前守重行の重賢の妻となった娘本人ではなく、たぶん、其の娘の姉妹である

そして、匿うために連れ出したのが、深尾元範の息元秀か、孫の秀長である。
【深尾元範】は、永正四年(1507年)卒去している。
という事は、その後は元秀が城主と為っていたであろうと思われる。

1507年から1525年の間に(1520年という話もあり)、ともかくその間に九里の【玉松】は六角高頼か六角氏綱・定頼の誰かに人質として出すように強要されたのだ。(1520年はちょうど水茎岡山城を開城した時である。可能性は大きいヵ)




深尾秀長の祖母は永原越前守の娘であったことになる!! 

この深尾氏の祖母宅である永原氏が、九里の源兵衛を育ててくれたのではないかと思っている。


源兵衛が玉松とは限らないのだが、可能性はあると思っている。
若しくは、兄弟・親戚など、九里の血の入っている人物であると思う。


そのことが原因となったのか、この後には、深尾氏も、永原氏も、その直系はその後六角氏家臣ではなくなっていたようにも見える。(系図に書かれていなかったため、そのように想像)
同族内の別の系から仕えている人が出るようになっているのだ。
永原高賢の系が、その後の六角氏に仕えている。







深尾氏系図





永原氏系図




===*===

今回改めて-見た結果、九里備前守が騙されて殺された件は、定頼が16歳になったかならぬか、の頃である。

定頼は、酔ったふりをして備前守の膝上に横になり頭をもたげ、そこで寝入った真似をして備前守を油断させ、そのタイミングで六角家臣たちが入ってきて誅したのである。









定頼は、景徐周麟の弟子であり、幼き頃よりその教えを受けていたにもかかわらず…

しかし、きっと九里も似たようなことを多々やってきたに違いない。もっともっとひどいことも。
それが戦国の世であり、武士の世界であろうと思う。

さて、そんな中、九里の幼子に憐憫をかけてくれた【深尾秀長】
元秀1480年あたりに生まれ、1500年あたりに秀長が生まれたとすると、秀長は20歳の時に九里の幼子を連れ出して、その祖母である永原氏のところに連れて行き、その後逐電という事になったのだろうか。(秀行も、共に永原の許にいたような気もする)

自分の命もかかっているにもかかわらず、である。
これは、私が思うに、母か、妻か、許嫁が九里氏の出であったと思うのである。
若しくは、幼馴染同志であったか。

深尾氏・永原氏を巻き込んで「九里遺児を守る」ことに突き進んだのである。
有難い事に、そのご九里源兵衛が現れ(育ち)、その息たちもたくさんいたと思われる。

治兵衛?・三左衛門、采女正、…十左衛門までは源兵衛の息カ孫と思われる。

===*===

ともかく、源兵衛につながった事で、今現在も【九里氏】が存在している。

他にいた可能性としては、菖蒲佐々木氏の許にいたかもしれない九里氏、割と初期に別系に分かれた和歌山の九里氏、だろうか。
九里氏とは名乗っていないものの、近いと感じられるのが千葉原氏の【原氏】であるが、こちらは良峯姓(前野氏につづく)とも関係がある為にそう思ったのかもしれない。

ともかく、源兵衛は、周辺環境が私の系に限って見てもぴったり!

きっと文字通りの源であるために、他の系の方々の周辺環境とも合っているのではないだろうか?

九里氏再興の祖が【九里源兵衛=九里対馬守】だったのである。





鹿苑日録の中の源兵衛は1539年の頃、永原氏と共に働いている!!

この源兵衛が1510年に生まれたとすると、山内一豊の父と同世代と成る。
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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(6)さらに検討 九里源兵衛 ー 九里武兵衛(前野武兵衛)ー 九里十助(武兵衛) ー

2021-03-01 | 九里【まとめ】

詳細に検討してみようと思う。
前野氏との養子縁組等出入りが、十助だけとは限らないことに気が付き、もう一度考え直そう。

1510年 あたりに玉松生まれる
1528年 源兵衛が活躍始める
1538年 前野武兵衛生まれる(年代的には源兵衛の息あたり)

1611年 九里武兵衛津軽藩にて自害

九里源兵衛が生まれてから約100年後の1611年。
1611年に武兵衛がいくつであったのかはわからない。

九里に入った十助は、前野勝長の息吉康の息と考えると、1555年あたりに生まれたか?と思われる。
1555年に生まれたとして、息六左衛門が1580年に生まれたとする。

六左衛門が島原の乱(1637年)で息六蔵・孫の七右衛門と逃げ腰で苦戦しているところを見ると、彼もまたキリシタンであったかもしれない。

その年代を見ると、九里に入った十助(1555年あたり以降に生まれた可能性)と1538年生まれの前野武兵衛は、同一人物ではないと仮定する。

源兵衛二十七歳の時に武兵衛を養子にいれ、1611年に歿することになるのだが、武兵衛本人ならば73歳で、その息の武兵衛であったならば50歳くらいである。

1611年、武兵衛Jr.が50歳代で自害し、息六左衛門は30歳代前半、それから26年後【島原の乱】。
1637年の島原の乱では、六左衛門56歳付近、息六蔵36歳・孫七右衛門16歳あたりとなる。

つまり、九里源兵衛ー太郎からたくさんいたかもしれないが、前野武兵衛を迎えた。と考えることができる。
若しくは、前々の記事にしたように、九里源兵衛に武兵衛一代目を迎え、その後、其の武兵衛が前野十助を迎えた(武兵衛の二代目)となっていた可能性もある。

あまり詳しく書かれていないのは、津軽での事件に巻き込まれ、自害した為かもしれない。

===*===

とすれば、松江藩の岡田清左衛門と共に京極高次の分限帳にあった『九里次郎兵衛』が1609年と1637年の分限帳に記載があったが、こちらも一代目・二代目と代替わりしているかもしれない。一代目の次郎兵衛の弟として前野氏から武兵衛を向かい入れたかもしれない。

次郎兵衛の息が九里八郎右衛門とも考えられるかもしれないし、武兵衛の息に八郎右衛門がいたとも考えられる。

いろいろと考えられる。

しかし、この源兵衛の永原・深尾・乾・前野氏とのつながりがなければ、武兵衛にはつながらないし、十助にも繋がらない。

また、次郎兵衛は岡田清左衛門と同藩であり、武兵衛亡き後に岡田清左衛やその家族が八郎右衛門を支援していたとも考えられる

さらに、なぜ大和国へ来たのかを考えるに、福島高晴・織田信雄に仲介する者がいたはずである。
前野雄善は茶筅殿と呼ばれている時から、織田信雄の近習であった。
佐々氏と信雄が戦わなくてはならなくなり、前野氏も敵味方と分断されたが、途中いろいろとあり、福島正則の力添え等もあり、後には福島氏に付くようになっていく。

その辺りが大和宇陀松山藩の九里政直の動きに近く、政直は、福島高晴(1573年生まれ・正則の弟)の大和宇陀藩にいて(1615年迄)、その後織田信雄が藩主となりその大和宇陀の領地を案内する役となっているのである。

これは、前野氏の系が入っていた証なのではないだろうか?
何故、織田信雄を案内する役となったのか、は、前野氏がずっと近習であったことの安心感からだったのではないだろうか?


八郎右衛門が京極高次の松江藩にいたのは、小さな時だったのではないだろうか?
その武兵衛の自害の後に、藩内にいることができず、八郎右衛門は大和宇陀藩に渡ったのではないだろうか?




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高山右近の高槻城 と 乾大夫のいた茨木の里 との関係

2021-02-27 | 九里【まとめ】

近江の永原が住んでいたのは江辺庄である。(論文 戦国六角氏の支配構造 新谷和之 著)より 図を切り取っております。





===*===

私が調べていた「乾大夫」のいた茨木の里
その摂津島下郡(含む茨木)は高槻城主の高山右近の領地であった。
貧しい人々への支援が人々の心を揺さぶり、領地内の80%の人々がキリシタンとなっていた時期もあったそうである。

さて、其の右近の息であった「忠右衛門」が永原重信三女を妻としていたことが判明し、ますます乾氏と近くなってきた…と思っていた時に、茨木の乾大夫を思い出した。

高槻城と近いなぁと思っていた程度であったが、調べてみると高山右近の領地であった。

図は以下の論文より切り取っております。
キリシタン教会会報 大阪清茨本市千提寺キリシタン、現在に残る集薔構成と出自ー茨木市教育委員 著 井藤暁子









つまり、私の予測ではこの乾大夫は、永原氏と関係のある乾氏で、しかもそのつながりから、もと板垣氏であった乾正信・正行もキリシタンとなり、榧之内十文字の家紋を掲げることとなったのではないか‥‥という事なのである。

元々の板垣氏の家紋は何だったのだろうか?

やはり板垣(乾)正信の時代から、家紋が変わっているようで、正信の祖父板垣信方は地黒花菱(じぐろはなびし)なのである。





https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E4%BF%A1%E6%96%B9




まだ前野氏とつながっている。

系図の一番下の「乾正士」も後に妻の影響もあってキリシタンとなり、其の娘聟が川瀬徳太郎という人物で、其の川瀬徳太郎の長女の夫が片岡孝であり、但馬の片岡氏で系図をたどると足立氏となり、あの義経の隠れた系(伝説)のことをお書きになっていらした方とつながってくるのである。。。

偶然なのか、もともとつながりのある乾氏と片岡氏であったのか…
ひょっとすると義経の裔の乾氏と義経の家臣だった片岡氏のつながりだろうか?
もしもそうであったなら、壮大な話であろうと思う。

それにしても、なんというつながりなのだろう~~九里氏もこのように判ってくることを願う!!!

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-adachi-tamba.html


http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-tou-kataoka2.html




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近江 野州郡 永原にあった【キリシタン教会】

2021-02-26 | 九里【まとめ】

http://www.kyoto.catholic.jp/christan/iseki/isekibb.html

永原教会跡
滋賀県野洲郡野洲町永原 永原御殿近辺

1577年設立の近江国 最初の教会。其の跡が残っているそうである。
1564年受洗したキリシタン武将三ケサンチョが、一時この地に流された。
彼は、ここで熱心に使徒職精神を発揮した結果、武士階級を中心として40名あまりの信徒集団が結成された

永原ニコラオは、この教会の出身で、安土のセミナリヨに入学、長く宣教活動に携わった後、
1633年穴吊りの刑による最初の殉教者となった。
教会は永原御殿近辺にあったものと推定される。




https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20100629_nikorao.php
ニコラオ永原ケイアン

修道士ニコラオ福永ケイアン

https://seseragi-sc.jp/story/%E3%81%BF%E8%A8%80%E8%91%89%E3%82%92%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B%E8%AA%AC%E6%95%99%E8%80%85/

ニコラオ福永ケイアンは、近江(滋賀県)永原に生まれる
安土のセミナリオで学んだ後1588年イエズス会に入会し、二年後に誓願を宣立する。
その後天草のコレジオに移って宣教活動を始めた。
ニコラオの務めは「説教する」と紹介されている。
イエズス会の人物評価に「日本の学問をよく修めている。」「日本語で巧みに説教する。」
また、最後の報告書には「殉教の時にも説教した」と記されている。

1614年、徳川家康の禁教令の時、ニコラオは長崎へ移り、さらにマカオへ向かって出発した
1619年の暮れ頃、54歳で日本に戻り、大村の教会を基点に活動し、迫害下にある信徒たちを励ました。
1625年に終生誓願を宣立したが、当時日本の教会には司教がいなくなっていたため、司祭叙階に至ることはなかった。
1633年7月、ニコラオは肥前に於いて捕らえられ、長崎の桜町牢に入れられ、そこで天草のコレジオで一緒に学んだ中浦ジュリアン神父やセミナリオで共に学んだ仲間たちと30年ぶりに再会する。
7月に始まった殉教で、その年だけで34名の司祭、修道者が殉教。
その中でイエズス会24名(そのうち日本人14名)皆セミナリオで育てられた人たちだった。
 
ニコラオの殉教は、1633年7月28日に始まる
西坂まで歩いて連行され、体全体を頑丈に縛られたうえ狭い穴の中に逆さに吊るされる。
7月末太陽の日差しで西坂の土は釜戸のように燃えている。
二コラオが水を頼むと「信仰を捨てれば水でも何でも与える」と言われ「その条件なら水は要らない」と答えた。
ニコラオは役人たちに説教し、キリストの教えを信じるように薦めた。
役人が「悔しいことがあるか」 と訪ねると「はい、一つあります。将軍さまをはじめ、すべての日本人をキリストに導くことができなかったことです」と素直に答えた。
拷問から3日目の31日、話をしているニコラオの声を耳にした役人が「誰と話しているのか」と訊ねられると「ここにいらっしゃる聖母マリア様と話しています」と答えている。
聖母マリアの連祷を唱えていたのである。
だんだんその声がか細くなり消えていったのは、奇しくも聖イグナチオの祝日、日曜日の朝だった。
享年63歳。遺体は火葬にされ長崎湾に撒かれたという。
ニコラオ福永ケイアンは、最期までみ言葉を伝え、また説教者の使命を自分自身の生命をもって全うした。

この人物は1565年生まれ。

http://augusutinusu-t-ukon.cocolog-nifty.com/httpjusutotuko/files/kazokunokeizu.pdf

高山右近の息忠右衛門の妻に「永原重信 三女」とある。

永原・乾はキリシタン関係よりも以前からのつながりと思うが、共に影響された可能性はあると思う。




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長岡藩 九里氏も 九里源兵衛からヵ?

2021-02-25 | 九里【まとめ】

人質となった玉松が九里源兵衛であったのかどうか、
深尾氏が九里の幼子を連れて逐電したが、其の子が源兵衛だったのかどうか、

真実は、まだ分からない。

また、水茎岡山城と関係のない九里も存在していたはずである。
たとえば、和歌山の熊野本宮前坊の九里氏も居た。

京極氏側、朝廷の中、幕府の奉行人、
高野山 桜本坊の 九里但馬
先ほど見つけたばかりの 九里左近太夫
まだ名も知らない九里が他にも存在していたに違いない。

ただ、まだ知らないだけなのだ。

===*===

九里源兵衛がもしも永原氏の許で育てられたとすると、私はそこには乾甲斐守が関係すると思う。


乾甲斐守が九里の娘を妻にしていたとすると、前の記事にいた「乾駒之丞雅勝」の孫(か親戚)であったなどという事もあり得るような気もする。
それならば、当然…のように育て、また六角氏の許で働けるように差配もできたのではないか?と思う。

そこで、水茎岡山城の九里滅亡後であったために氏をつなげていくために本来は乾氏か永原氏であろうが「九里氏再興」のために「九里」を名乗っていた可能もある。

===*===

長岡藩にも九里五郎太夫他たくさんの九里がいた。
この人たちも、永原氏が関係しそうである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%97%A9%E3%81%AE%E5%AE%B6%E8%87%A3%E5%9B%A3


永原氏のその後を見ていくと、佐々木哲学校の記事にある様に、
『実は長岡藩主牧野忠成の舅が永原道真の娘である。そして永田氏など六角氏旧臣が牧野家に仕えている。』

牧野氏と永原氏との関係が、九里氏を長岡藩へ導いたのだと思う。

http://blog.sasakitoru.com/201302/article_6.html



===*===

また、先ほど出てきた一人【九里左近太夫】
【九里左近】とも書かれている。





下記は踊りの人のようで、江戸時代と思う。













コメント
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