思いついたことを忘れぬためにどんどん書き記していく。
【長田家は石見物部氏の直系】
物部竹子連
河合長田公
金子家忠
【人文研究見聞録】 とても充実しているHP
https://cultural-experience.blogspot.com/2015/10/blog-post_41.html
金子家忠から調べていくと、
金子 村山党 多賀谷 岩城
波多野氏系図(『中世益田』985-986号)=菖蒲実基が承久の乱の恩賞地として長野庄を給い長野三郎と称する
http://numada777.g2.xrea.com/numadakai/nmd_engi.html
菖蒲実経(沼田六郎)
http://yakiniku-yaoki.com/matsudake-kouhen.pdf
藤原実時、菖蒲実時、
藤原実高、菖蒲三男実高、
菖蒲実盛(真盛)、(?~1225)五郎実盛、五郎真盛、菖蒲四郎実盛、長野三郎、
父:菖蒲実経/遠義、石見美乃知・黒谷新補地頭
1221年、宇治橋の合戦で負傷した。 (吾妻鏡)
石見美乃知・黒谷新補地頭、黒谷横山城築城、(島根県益田市柏原)
1222 年、石見国美濃地・黒谷郷地頭―島根・大田=石見松田家(島根県西部)
承久の乱での勲功の賞として与えられたものである。
“菖蒲五郎実盛自関東所給預也
但於未知福地地頭職者、雖被載于御下文、
先度他人給之事、可令存其旨之状如件。
貞応元年(1222)九月十八日
武蔵守 平判(北条泰時)
相模守 平判(北条時房) (萩閥益田家文書)
菖蒲実経、(波多野実経)、菖蒲実盛と兄弟? 父:遠義、
菖蒲実基、父:実盛、長野三郎、石見国長野庄に住んだ、
1222 年、承久の乱後、石見国長野荘内美野地・黒谷を賜った。
菖蒲家信、父:実経、
波多野・松田氏の流れであり、藤原秀郷流である。
一歴史ファン様とやり取りをしていて、多賀・長野・蒲生が秀郷の息からの系であることを教えていただいた。
つまり、この秀郷流の一族に含まれている。
更に、
美濃地黒谷地頭
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1215.html
更に近江の守山 勝部神社 3ページ目
http://www1.city.matsue.shimane.jp/bunka/matsueshishi/kouza24.data/kouza24-10hara1.pdf
多祢郷(石見国)守護京極氏領
多祢氏
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)伊佐氏族、御神本氏族、名和氏族などにもみられる。近年、和歌山県に多数みられる。
近江国 田根庄 東浅井郡浅井町 丁野郷(「長」という字も「ちょう」と読める!)
物部守屋大連公について
浅井町 畑に鎮座される、式内社波久奴〈はくぬ〉神社の御祭神は物部守屋大連公で、田根の庄15ヶ村の総社で地元では、守屋公が此拠に祀られていることを確信し、1,400年来崇められている。
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/e3bbac5996168f13c9731ced094fa8fc
図書館レファレンス
『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「東浅井郡浅井町高畑(たかばたけ)字萩野に所在。祭神については、物部守屋説、中臣金連説、大物主神説などあるが、『興福寺官務牒疏』には、「浅井郡田根郷に在り、萩野明神と号す。大物主神を祭る、大吉寺鎮守」とある。また別に『近江輿地名略考』には「萩野大明神社、湯次(ゆすき)神社本宮ナリ云々」とあって注目すべき説をのべている。『東浅井郡志』によると、社名の「ハクヌ」も「ハ」は布帛をさし、「クヌ」は「キヌ」の通音で絹布をさし、ふるく湯次郷に殖民した秦氏族が機織の神をまつったもので。錦織(にしこおり)郷に殖民した漢民族が、大羽神社として機織の神をまつったのと同類としている。また「タカハタ」も高機で通用の高畑は借字であるとしている。(早崎観縁)」とあります。なお、東浅井郡浅井町高畑字萩野は現在長浜市高畑町になっています。
奈良県磯城郡田原本町にある「村屋坐彌冨都比賣神社」
http://murayajinja.com/sessha/mononobejinja/
三処氏 http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/983.html
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下記にも「長野氏」が登場する。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hoashi1.htm
清原正高にはじまる系図のうち、史料にこの一族が現れるのは子孫の第三世代(曾孫)とされる帆足太郎是次(1122年あたり )であり、次にその子(一説に実弟という)の帆足六郎左衛門尉通良とその諸子であって、この時期には既に清原姓で現れる。すなわち、系図では、始祖清原正高の子に正通(清大夫)がおり、その子の代に長子の助通が長野・古後二郷を相続して長野太郎大夫と号したといい、次子の通成が山田郷を領して山田次郎といい、三子の通次が飯田・帆足二郷を領して飯田三郎といったとされるが、通次の長子に帆足太郎是次があげられる。長子の助通の系統は、その子の世代で一族内の争いで滅び(叔父の道継のために滅ぶと系図に記されるが、所領相続からみると、叔父の通次ではなく、従兄弟の通綱の子孫に所領の長野・古後が継承されるから誤記か)、通成及び通次の子孫が後世まで続くことになる。
『豊前宇佐郡の飯田名(安心院町)も「はんだ」で、建久三年(二九)に配流され・・・
帆足是次の弟通貞は玖珠郡飯田郷に拠って飯田二郎と称し、
その子貞時は松木太郎、貞元は飯田孫二郎、為通は美津二郎(三郎か)を称した。』
出雲に風土記に出てくる文字嬉しいです。
それと近江と勝部神社のも出てくるのも勝の文字も探究ワードなんですよ。スグリなのでアントシアニンを今やたら身体に入れてコロナ対策しています。
石清水との接点もなんだかなあと事象からの分析でしかない自分の統計と不思議に関係が出て来そうです。
多賀というとオシオミミのイメージですが、ウマシマジと被ってきそうに思うんですよね。遅刻の遅っていうのも凄く的を得ている感じもします。パートナー的で婿みたいなイメージでもあります。ただ居なくてはいけないし、熱海の事を考えてると居るべき所に居る方が良いように思います。毘沙門天っぽくも思いますよね、藤太もそうですけど。ただうまく利用されないか?も歴史では前後が明確なので検証出来てくると面白いですね。
時頼時宗の流れと義時とも家系図みても少し冷静にみないと思ってます。大河の脚本も気になる所です。
菖蒲もお湯に入れるんでしたっけ?神ではフツ香取行く前に佐原行ったんですけどそこはあやめだったかな?武将だと清正さんで清正さんのお母さんってどうなんだろう?治水と土木と食物知識で薬師的な要素を兼ね備えていた理由が見えてくるといいですね。またどちらもコロナ後にちゃんと出来る方が最適な所にいてくれないと右往左往して土地も人間も劣化していきそうで不安ではありますが、コツコツやっている方々に自然に頼らないといけない状況にもなるし、実際ここぞという時にいいシチュエーションが回ってきてそこで潜在能力を発揮しているようにも思うんで安心でもあります。視野が広く、それぞれの部門の関係を取り持った上での手直しをしてくれるとありがたいんですよ。生きている人間にもおそらくそれがありそうで楽しみですね。
この勝部神社に祀られている「物部經津主之神」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/mononobe2.htm
経津主神が物部氏の最も主要な奉斎の神であったことは明らかであり、太田亮博士は物部氏の氏神と表現します。物部氏が氏神とした石上神宮の祭神はフツヌシ神です。経津主神の最も重要な神社である香取神社の奉斎者も、香取連という物部氏族ないし物部同族でした(・・・大和岩雄氏もほぼ同旨)。『肥前国風土記』の三根郡にも「物部経津主神」という表現が見えます。
この三根が、久里双水古墳に近いか?と思って調べましたが、ちょっと距離がありました。残念!
この香取連 をキーワードに調べてみますと、大宮司香取氏となり、大中臣に通じてくることがわかりました。