某フォロワーの紹介にあった小説だが、大まかな展開としては、遺産相続をしてそれまで勤めてた役人(公務員)の職を辞し、地下室に引きこもった40歳男性による”手記”がメインとなる。
まるで、太宰治の「人間失格」に登場する様なガチの内向性捻(ひね)くれ男だが、”オレは病的人間で意地の悪い醜い人間だし、虫ケラにすらなれない”と嘆く。つまり、敢えて自分を抉(こじ)らせる自意識の強すぎる自虐的思想の持ち主とも言える。また、”絶望こそが快感”というドMとも思える言葉には逆にユーモアすら感じる。
理性と知性は苦しみを生むだけで、皆が利益を追求する現代の合理的功利主義を軽蔑するが、自身は苦痛を快楽に昇華させようと地下室の中で独り思案に更け、自身の中の理想郷を模索する。
つまり、”何もしないのが一番。意識的な惰性が一番。だから地下室バンザイ”という訳である。一方で、”賢い奴は何も成す事が出来ず、バカやヤクザほど長生きする”という風に理性を否定し、人間の本性は本来は”グータラで野蛮で非合理的に出来てるもの”と訴える。
更に、”バカげた行動や気まぐれこそが最高に尊く有益な事だ”とまでのたまわる。
この地下男は”数学で正確に計算され尽くした人生なんて何もやる事がなく退屈だ”と説く辺りは、単なる引き籠もりや思考異常ではない事は確かで、理性を数学に見立て、全てが緻密な計算の上で愚痴ってる様に思える。
だが、序盤を読んだだけでは、(Mサンデルみたいな)自意識過剰の哲学的説教と愚痴を延々と聞かされてるみたいで、ウンザリする所も多々あった。
ただ、これがドストエフスキーの独特の語り口だとしたら、私は読むのを途中で止めてたであろう。つまり、この前半戦の自問自答的で退屈な展開は単なる序章に過ぎない。
ドストエフスキーという人
ヒョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の作品は初めて読んだが、こうした異常なまでに自棄的で過度に哲学的な切り口で始まる事は容易に想像がついた。
私は、この手の文学が嫌いである。「罪と罰」とか「カラマーゾフの兄弟」とか、タイトルを見ただけで敬遠してしまう。つまり、貧しい時代に”貧しさ”を説いて何の得になる・・と私は思うのだ。
確かに、ドストエフスキーはロシア文学の黄金時代の”最も偉大で最も影響力のあった文豪の一人である”事に異論はない。事実、アインシュタインは”数学者ガウスよりも大きく、精神性のミステリーに挑戦した偉大な宗教的作家だ”と手放しに称賛し、更にニーチェには”唯一無二の心理学者であり、私の人生で最も美しい幸運の一撃だった”と言わしめた。
一方で、ツルゲーネフは彼の小説は”過剰に心理学的で哲学的である”と否定的で、ナボコフは”優れたユーモアを持つが、文学的には平凡である”と評価し、神経症的要素と狂信者的要素が行き来し、”不自然なプロットの驚きと複雑さに満ちている”と語る。
こうしたドストエフスキーの様々な評価に対しては、刑期が終わり、サンクトペテルブルクで作家活動を再開した頃の彼が保守的な作家として活動を始めるが、その保守的な態度も”検閲や監視を恐れたからだ”と佐藤優は指摘する。
また、理想主義から転向し、キリスト教やロシア帝国や皇帝を賛美する様な彼の言動は”表向きの二枚舌である”と、亀山郁夫は指摘する。更に亀山氏は、ドストエフスキーが自らの思想をパフォーマンスとして語っていた可能性について”「作家の日記」における思想的な言説と「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」などの小説作品は分けて考える必要がある”とも述べている。
確かに、当時のドストエフスキーは検閲と戦いながら執筆活動をしていたし、小沼文彦は”(当時のロシアが警察国家であり)彼がそれまで2度に渡り皇帝に忠誠を誓わされてる事実を見逃すべきではない”した上で、”本音と建前を使い分ける彼の巧妙さを読みとる必要がある”とも結論づけている。
事実、作家のアンドレ・ジイドは「地下室の手記」こそが一連の作品を解く鍵であるとし、”この作品を通過せずして後年の大傑作群は生れなかった”と語る。
因みに、ドストエフスキーの父親は救済病院の院長であり、母は裕福な商人の出というから(私が彼に対し、イメージする)貧しさとは無縁であった。15歳の時に母が他界し、その2年後、父が恨みを持つ農民から惨殺されるという不幸が重なる。
陸軍工兵大学卒業後は、約1年で中尉に昇進するも退職し、作家を目指すが、28歳の時に空想的社会主義に傾倒して逮捕される。
その後、死刑判決を受けるも特赦が与えられ、シベリア流刑の後、33歳まで服役。だが、この体験は以後の作風に多大な影響を与え、刑期終了後は兵士として軍隊で勤務した後、1858年(37歳)にペテルブルクに帰還。
この頃から社会主義を否定し、キリスト教的人道主義者へと思想が変化する。その後「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を発表し、”現代の預言書”と称賛されうる文学を創造した。
ドストエフスキーは、賭博好きな気質と流刑時代に悪化した持病の”てんかん”を持ち合わせ、こうした恍惚感を伴う精神異常などが創作に強い影響を与えた。但し、賭博好きな性質は必然としてその生涯を貧乏にしたのは言うまでもない。
賭博と来れば女だが、彼は多くの女性と複雑な恋愛関係を持ったが、直接的にも間接的にも作家活動に影響を及ぼしたとされる。
地下男の嘆きと後悔
「地下室の手記」は、前半の「地下」と後半の「雨の降る夜」に展開が大きく分かれ、特に後半では”地下男”が20代の頃の屈辱に満ちた記憶を夢想気味に回想。勿論、女々しくウンザリな部分もあるが、これはこれで不思議と面白い。
つまり、ロシアにもこんなに繊細で負け犬的陰湿男が存在するのか?と思うと、思わず吹き出したくもなる。
そこで、その後半の一部を紹介する。
男は旧友が企画したパーティーへ呼ばれてないのに押しかけ、ヤケ酒を飲んだ挙げ句、集った知人らに喧嘩を吹っかける。勿論、男は皆から除け者にされ、その後、男以外はみなで娼婦宿へ向かう。無視され屈辱に塗れた男は負けじと娼宿へ向かおうとするも、肝心のお金がない。
そこで、友人にカネを借りようとするが、幹事はカンカンに怒りつつも”取りたまえ、それ程の恥知らずとは・・”と、投げつける様にして金を渡す。
だが、この恥知らずの男はその金で旧友たちを追いかけ、屈辱を晴らすどころか、売れ残った無口で無愛想な娼婦に説教を垂れ始める。流石に、恥もここまで徹底すると滑稽であり、愉快でもある。
つまり、”地下室の手記”として読むよりも”娼婦との手記”として読めば、地下男の印象もガラリと変わってくる。
因みに、前半は地下男が40歳であった1860年代のサンクトペテルブルクを舞台とするから、ほぼ同年代のドストエフスキーであり、地下男は、社会への敵対心と自由と欲望が人々を腐らすという独自の思想を訴える。
一方、後半では地下男が1840年代の24歳の頃を描くが、役員勤めの男はロマンチシズムに耽る自虐的で”読書だけが友”という惨めな淫蕩癖のある陰気な存在である。
但し、この時代はドストエフスキーが陸軍を退職して作家を目指し、空想的社会主義に傾倒してた時代と合致する。
故に、前半の歪んだ思想の実例を示しながらも、後半に見る皮肉的な自虐的思考に成熟し、その思想は男を次第に追い詰めていく。
若い頃の地下男は、憎き将校や軽薄な旧友ら様々な人々と関わるが、やがては疎外感に苛まれ、更に娼婦との複雑で微妙な恋心をも描く。
ドストエフスキー自身、女好きや賭博好きが講じて思想が歪んだ面もあるが、彼のユーモラスの次元が夏目漱石や太宰治とは違う所なのだろう。だが、(ドストエフスキーが徹底して嫌う)理性や理屈を外して”人間て案外こういう惨めで自堕落的生き者なのか”と割り切って読めば、地下男を理解する近道になるのかもしれない。
リザという娼婦との出会い
後半の「雨の降る夜」での(地下)男は、リザという20歳の売春婦を現在の境遇から救い出そうと、”愛と命と人生の大切さ”について長々とありとあらゆる説教を試みる。が結果的には、女を一方的に侮辱し続けてしまう。やがて、痺れを切らした女は、目の前のヒステリックな男が憐れみと軽蔑の存在でしかない事を理解し、男を情熱で持って抱き締める。
一方で男は女に対し、復讐に近い欲情と羨望に近い憎悪を抱くが、それを瞬時に悟った女は”この男は女を愛せないんだわ”と判断し、最後には傷つき、男を置き去りにする。だが男は女を追いかけながらも、女を侮辱し続けた事に安堵を抱き、”憎悪こそが女を浄化させる”と妄想に浸る。
流石に、ここまで来ると精神異常に近いが、女は理性ではなく肉体と愛欲で生きてきたのだから、愛や幸福を理屈で小難しく論じた所で、女が傷つくのは明らかである。それに、男は目の前の女に自分の惨めさを映し出しただけで、その恥辱は娼婦以上のものだった。
つまり、そんな単純な事すら男には判らなかったのだ。事実、”あなたは本に書いてる事をそのまま喋ってるみたい”と、女に小バカにされる所は大いに笑える。
ドストエフスキー自身も作家の致命傷である、精神的腐食と貧困と社会との絶縁を知り尽くしての事だろう。
ここら辺の濃密過ぎる皮肉的で自虐的な展開は流石と思わせるが、特異性(ユーモア)としてみれば悲惨でも悪趣味でもない。即ち、ドストエフスキーが言う”過ぎた理性こそが身を滅ぼす”とはこの事だろう。
前述した様に、この小説は地下男が書いた2つの”手記”から成るが、前半の男の孤独と後半の社会的疎外の状態と、その対比を2つに分けて巧みに描いてはいる。更に言えば、ドストエフスキーの持つ2面性を上手く表出してると言えなくもない。
つまり、”孤独”とは自らが選択した自立であり、”社会的疎外”とは他者により選択させられた孤立とも言える。勿論、自立が孤立と同義であれば、それこそが地下男が夢見た矛盾のない理想郷なのだが、孤立は自律にはなり得ない。
因みに、自律とは内面的要素での、自立とは外的要素での独り立ちを意味する。だが、小説に登場する地下男は、(孤立ではなく)自律と自立の間を彷徨う複雑な状況下に自らを置いてるとも言える。
言い換えれば、「地下室の手記」は自立と自律の間を彷徨う男の手記でもあり、自身の価値観や理念に関し、支配や制約を受けたくない男の思想や主張なのだろう。
確かに、自律とは自身で規範を立て、それに沿って行動する事だが、男は地下室という限られた環境の中で、自身が作り上げた規範を実践してるつもりなのだろう。
そういう視点で見れば、前半の「地下」も男の愚痴や屁理屈や自虐話ではなく、1つの計算された論理として見えてくるから面白い。
理性があるが故に苦痛を感じ、その理性の上を跳ぶ快楽を追い求めようとする地下男の物語も、じっくりと腰を据えて読めばだが、満更退屈ではない。
最後に
正直に言うと、この歳になってまでドストエフスキーを読もうとは思わない。
こうした世界のトップ10に入る様な文豪の作品は子供の頃に読むべきだと思う。そうする事で、多くの子供達の感受性は無限に広がり、小さい頃から濃密で深遠なる思考を育む為にも、こうした古典文学に小さい頃から触れておく事は必要だろう。
今回、私が手にした本はドストエフスキーの小説というよりは、ドキュメントに近い”手記”である。所詮は小説だからフィクションに過ぎないのだが、よりドストエフスキーの内幕に近いフィクションとも言える。
人間歳をとると、こうした掘り出し物的な作品が読みたくなる。そういう意味では「地下室の手記」は私にはうってつけの書だった様に思う。
因みに、ドストエフスキーは60になる前に他界したが、ほぼ私の年齢と同じである。なのに、私よりも深く濃い苦悩を経験し、彼の名声は世界中に知れ渡っている。
失礼な言い方だが、この本を読んで不思議と親近感が増した。つまり、地下男の理性は現実の苦痛から逃れる為にある理性であり、彼が追い求める快楽は現実から逃れる為の理性を更に昇華させる為にあったのではないか。
事実、地下男は”人間の意志は22が4の様な数学的で合理的なものではないし、そんな存在なら機械と何ら変わらない。それが意志と呼べるのか”と自問自答する。
確かに、”2×2=4”という世界は計算ではあるが、数学とは別物である。人間が合理的には生きれない様に、数学も深淵で無限に錯綜する非合理的な世界に棲みつく難解な学問と言える。少なくとも機械(計算機)ではない。
それに、空想好きで怠け者であり、そして女好きで捻くれ者という点でも、地下男と私は共通する。更に、”美しく高遠なるものを愛する”という点でも似てる様な気がする。
その上、作家でありながら数学の限界を指摘する所は驚嘆に値する。特に、”正則を作法に適う”とか”人生を計量する”とか表現する辺りは、数学者の素養をも備えている。
だが唯一違うのは、同じ貧乏性でも私は賭け事は一切?ヤラないのだ。
ただ、同じ様な理屈を延々と繰り返してしまう所は、ドストエフスキーを評価する上で賛否両論の的になるだろう。世界の文豪と呼ばれる人種にありがちな悪い癖かもだが、それらをユーモアで括る辺りはアッパレでもある。
という事で、意外にも笑えたドストエフスキーの鬱憤と愚痴がこもった手記でした。
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