善と悪、戦争と平和、生と死、明と暗・・・
二元論には様々あるが、例えば、”善と悪”で見れば、左端を善とし右端を悪とする2点間の直線を考えると理解し易い。
この二元論も、中間の濃度が存在するスペクトルで考えれば、そこまで危険とは言えない。が、善と悪の2点だけで(中間の濃度を無視して)考えると、恐ろしい結末は避けられなくなる。
つまり、悪の方が圧倒的に力が強く、善は脆くて弱い。故に、”善と悪”という二元論で物事を考えれば、全ては悪に染まってしまう様に思える。しかし善は結束するが、悪は結束する事はなく、悪同士で対峙し自滅へと向かう。
つまり、こうやって善と悪のバランスが何とか保たれるのであろうか。
同じ様に、”戦争と平和”も戦争の方が圧倒的に強く、平和は脆くて弱い。故に、大衆が何も考えずにノホホンと生きてれば、世界戦争に行きつき、やはり人類は簡単に滅亡する。
思考を失った凡庸な大衆こそが戦争を生み出すとは、そのせいでもあろう。しかし、戦争は平和を生み出し、その脆く弱い平和はやがて戦争を生み出す。
つまり、平和は団結し、戦争は分離する。そうやって危うい平和は何とか保たれている。
平和よりも調和
確かに、”戦争と平和”と言う安直な二元論で考えると戦争は避けられない。
”戦争はいけません。平和が一番です”というありふれた二元論こそが、最も危険な思想と言えなくもない。
勿論、”全てには終わりがある”から、”生と死”という二元論で見れば、死の方が圧倒的に強く、戦争がなくても悪が蔓延しなくとも、人はいつかは死ぬ。そして、人類もいつかは滅びる。
映画「仕掛人・藤枝梅安」のメイキング番組で、ある俳優さんが”悪にも色々ある事を伝えたい”と語ってたが、悪に多様性があるとしても、一番強い悪に全ての悪が支配されるか、或いは悪同士で潰し合うのは明らかで、悪の種類が幾つあろうが関係ないとなる。
むしろ、(力は弱いが)結束力の強い善の方に多様性をもたせ、多次元の善を作れば、一次元の悪を多次元の善という薄い膜で取り囲む事はできる。
つまり、二元論ではなく、多元論というN次元的に考える事で(死は免れないが)少なくとも不可解で理不尽な戦争や悪を封じる事は不可能ではない筈だ。
そういう意味でも、(多元論を説くも平和的共存をも説く)仏教や(アルマゲドンという善と悪の最終戦争を説く)神の思想よりも、(調和を重視する)数学的多次元思考の方がずっと効率的に戦争や悪を排除できる確率が高いと言える。
つまり、調和(ハーモニー)は明らかに平和(ピース)よりも安定度が高いし、それ以上に言葉のの響きもいい(多分)。
因みに、調和数列(harmonic sequence)とは、各項の逆数を取ると等差数列となる数列の事である。例えばピタゴラス音律では、ドの弦の長さを1とすると、ソは2/3に、1オクターブ高いドは1/2の長さになる。各項の逆数はそれぞれ1,3/2,2となり、公差=1/2の等差数列となり、調和数列となってる事がわかる。
この調和数列を定義式で表すと、hₙをaを初項とし定数dを用いれば、hₙ=1/(a+(n−1)d)で表せる数列{hₙ}となる。
更に、この調和数列の隣りあう2項間の漸化式は、1/hₙ₊₁=1/hₙ+d/h₁となる。
つまり、調和というものは(定義が明確ではない)曖昧で脆く崩れやすい平和とは異なり、こうした隣組の漸化式を守りさえすれば、(数学の世界ではだが)永遠に調和が保たれるのである。
多次元思考の重要性
二元論とは(簡単に言えば)”物事は相反する2つの原理や要素から成り立つ”というもので、この二元論こそが危険性を孕む。
大衆は追い詰められると、物事を表と裏という(表層上の)二面性のみでしか判断できなくなる危機に陥るからである。
確かに、二元論的な思考は物事を整理する時には役立つし、出世や面接や受験では大きな武器となる。
初対面の人を我々は無防備なまでに見た目で判断するのも、典型の二元論の罠である。
人は内面や個性や人間性とか綺麗事言っても、最終的には表面上の見た目、つまり二元論でその人なりの全てを決定づける。
そういう私も特に女性は見た目で判断する悪い癖がある。沢山話をして相手の性格をよく知ってから判断する様にと自分い言い聞かせてはいるが、見た目でゾッコンとなると全てを許してしまう。
つまり、二元論とは危険な媚薬みたいなものである。そういう意味では、数学的思考の根源である物事の”本質を見抜く”という考察は自分にはとても役に立っている。
二元論が危険なのは誰しも気づいてる事であり、その危険性を説いた所で今更感もあるが、最近のネット上でのヒステリックなやり取りは、二元論の危機の典型のケースでもある。
人は”認められたい”生き物であり、自分の存在を”肯定されたい”生き物だ。
が、これらが否定されると、いきなりヒステリックな反応を示す。やがて、それは”仕返し”という凶暴な裏切りを促し、”奴は絶対に許せないし、自分を否定する奴はみんな敵だ”という狂人思想へと変質する。
こうして”敵か味方か”という危険な二元論がネット上を蔓延し、やがて大衆は思考停止に陥り、多数派に寄り添ってしまう。
こうなると、相手の主張や考え方がいくら正しくとも(敵とか少数派とみなし)理解しようとはしない。思考停止とは、つまりこういう事である。理論では対抗できないから、やがては相手の人格を含め、全てを片っ端から無差別に否定する。
因みに、カーチス・ルメイの東京を中心とした無差別爆撃もこの典型であった。
多くのネット上のケンカも、このパターンである。
そもそも、全ての事象をたった2つのカテゴリーで区別(議論)しようというのが無理難題であり、そうした類の議論は争いや悪を生むだけである。
そこで、2次元座標(x,y)を4つの領域(x>0,y>0、x>0,y<0、x<0,y>0、x<0,y<0)に分けてデカルト的に考えれば、これだけでも4つのパターンの思考が可能になる。更に3次元座標(x,y,z)にすれば、4×4=16パターンもの選択が可能になる。
私がいう多次元的思考とはこういう事である。
結論を急ぐ時も、こうした数学的多次元思考をAIを使って高速にシュミレートし、統計や確率的側面からから答えを導き出す。少なくとも丁半博打の二元論で答えを出すよりもマシだろう。
という事で、数学的多元論思考のススメでした。
ネット上でも蔓延してます。
思考が停止した瞬間、二元論が幅を利かす。
”オレは正しくアンタは間違ってる”
つまりは、この繰り返し。
まるでプーチンがやってる事と全く同じですね。
悪とみなしたら、徹底的に悪なんですよ。
ブログもそれと同じで、いくら説明しても聞き入れられない。
お互い、決して悪い人ではない。
いや、良い人だからこそ二元論にハマってしまうのでしょうか。
つまり、これこそが二元論がもたらす負の連鎖なんですかね。
いつもコメント有り難うです。
これはおそらくキリスト教由来なんでしょうね。
「神」と「悪魔」、「善」と「悪」、「光」と「闇」。
おっしゃるとおり、人類は「数学的視点」「物理学的視点」でパラダイムシフトすべき段階に来ているのかもしれません。
具体的には、
「宇宙は拡散して、やがて収縮する」
「あらゆるものは最後には宇宙の塵となる」
こんな視点を持てたら、人間の意識は変わってくるかもしれません。
以上は、小松左京の受け売りですが。
言われる通り
”善悪”二元論のキリスト教国家は戦争ばかりしてました。
あらゆる物事は多面的に散らばり、最後には一点に収束し、そして塵のように消える。
こういうのが理想なんですが
そういう私も知らず内に、二元論の罠にハマってしまう事が度々あります。
簡単に吹っ切れそうで吹っ切れない二元論ってとこでしょうか。
コメントいつも勉強になります。