象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

自分愛とエゴイズム、そして自己陶酔とナルシシズム

2024年07月03日 05時10分41秒 | ブログ考

 ”自分を愛さない人間が人を愛せるだろうか?自分を信じない人間が人を信じられるだろうか?”
 これは以下でも紹介する「自己愛とエゴイズム」(ハビエル・ガラルダ著)での言葉だが、出来すぎと思えなくもない。
 いや逆に、人は自分の事をそんなに簡単に愛せるのだろうか?思う程に自分を信用できるのだろうか?それとも、自己愛とは言われてる程に単純だろうか?

 私はそこまで完璧な人間じゃないから、自分を愛せない時もあるし、信じれない時もある。勿論、他人に対しても同様である。
 自分を愛しすぎてダメになったり、自分を信じ過ぎて頓挫したりという経験は誰にでもある筈だ。でなければ、他人の助言なんて必要ない。それに自分を愛するなんて(何事にも)限度がある。
 これは逆も真なりで、自分を他人に置き換えても見事に当てはまる。それでも自分を愛し、信じる勇気は必要なのだろう。
 昔付き合ってた女性から、”私を愛してくれるのは嬉しいけど、もっと自分を愛したら?”って感じな事を言われた事がある。
 私には別れの言葉に聞こえた。その時は、少なくともそう解釈した。


自己愛とエゴイズムとナルシスト

 色々と調べると、自己愛も他者愛も同じ愛だが、両者ともにバランスが重要で、自分の中でそれぞれの愛を受け取れる量が決まっているらしい。つまり、自分を愛し過ぎても他者を愛し過ぎても、トラブルになり得るという事。 

 確かに、自己愛も度が過ぎると最悪、ナルシストやエゴイストに転落し、周りに多大な迷惑をかける。同じ様に、他者愛も度が過ぎると相手に大きなダメージを与える。
 確かに、自分を褒め過ぎても、責め過ぎても、道は開けない。同じ様に、他人を称賛しすぎたり、批判し過ぎたりしても、真の将来は何も見えない。
 ”心の器”から愛が溢れても、溢れた分の恩恵は受けられない。自分や他者を目一杯愛しても、余計な愛情は意味をなさない。故に、自己愛と他者愛の両方を満たすバランス感覚が重要と言える。
 事実、典型な仕事人間は他者愛が多いとされるし、孤独な人は自己愛が過ぎるとされる。
 そういう私は、自己愛も他者愛も度が過ぎれば、前者はナルシスト(自己陶酔者)に、後者はエゴイスト(利己主義者)になり下がると考える。
 故に、ナルシストは表面的な自分(外見や評判)を愛し、エゴイストは内面的な自分(利益や誇りや名声)を愛するとされるが、両者共に(他者を不快にするという点では)サイコパス(精神病質者)とよく比較され、いい意味では使われない。

 人の成功を喜べないナルシストは下から大人しく自分を認めてくれる人とか、尊敬してくれる崇拝者とか、忠誠心を持ち頼ってくれる人とかに対しては、非常に優しい。
 ところが、実力で対等な立場をとろうとする人間、或いは自分より上に上つ人間に対しては、別人と思われるほど厳しい態度をとる。
 つまり、自分が影響を及ぼす範囲の外へ一歩でも踏み出す子分は、許せない裏切り者になるのだ。従って、その瞬間からナルシストはその裏切り者をじわじわと押しつぶす計画を企て、実行にかかるのである(「自己愛とエゴイズム」ハビエル・ガラルダ著より)。

 これはクロネッカーのカントールへの嫌がらせや圧力を見れば、一目瞭然でもある。

 つまり、自己愛はナルシシズムではない。ナルシストとは人を愛するつもりで人を利用するエゴイストとも言える。
 自己満足と自己利益、それに、目立とうとする根性。自己中心に全てを考えるのがナルシストの本質である。そのナルシストはやがて腐敗し、エゴイストに転落する。
 一方で自己愛とは、自己犠牲と自己主張を含む寛容の港である。良心の声に忠実であり、自分である事を信じる事のできる自立した人なのだ。
 しかし(矛盾にも聞こえるが)、自嘲や冷笑をもって使われるエゴイズムはとても人間的で面白い。


”いい人”をやめる

 参考にしたサイトを忘れたが、以下で紹介する議論は数多く出回ってはいる。
 自己犠牲の精神ばかりで、(何も頂戴しないで)”犠牲者のコンプレックス”で溜息を吐きながら愛情を与えっぱなしの(つもりでいる)人は、自分が暗くなるだけでなく、周りに暗さをふりまきながら歩き回って生きるだけの生き物だ。
 色んな事を頼まれる度に、ハイハイと言ってノーと言えない人は、一見優しい様に見えて、本当は一番不親切なのである。
 なぜなら、もう(耐えられなくなり)今さら遅いという時に、溜まっていたノー!を噴火させるからだ。”何よ今更”って(頼んだ方は)言いたくもなる。
 この様な人は、後になってから(精神的に)高く付く請求書を送り付ける、結果的に迷惑な人でもある。
 優しすぎる人は、相手が求めていなかった親切に対し、逆に愛情と感謝を期待しすぎる傾向にある。お互いに多少のワガママを許し合えるゆとりは、本当の自己主張と自己犠牲と信頼感の証拠なのだとある。

 全く同感である。
 自己愛とナルシシズムの違いをよく表現してると思う。つまり、いい人を演じる人や優しくあろうと努める人は、結局は性悪なナルシストに転落する。
 ”これだけ頑張ってるのに、誰も認めてくれない”と、そういう負の側面しか目を向けない。
 ”私が可愛そ〜”とか”誰々がカワイそ〜”なんてのは、自己愛ではなく単にナルシストに過ぎない。
 善意の本質に理解がなく、一方的に善意を送りつけられても、相手は迷惑なだけである。
 しかし、”中途半端にいい人”ほど、こうした肝心な事に気付いていない。

 現代はいわゆる”多様性の時代”と同時に、メディアの時代”とされるだけあり、世界の至る所の様々な意見が自宅にいながらにして、目と耳に間断なく入ってくる。
 その沢山の意見の中から自分の味方になる説だけを選び、都合の悪い考え方を排除すれば、隠れた我儘を肯定するのは非常に簡単な作業になる。
 本人も奥深い所では”いけない”とわかってはいても、自分に都合よく集めた意見の雑音で、良心の声を抑圧する。
 自身の我儘と上手に選んだ諸説という”砂”の下に、良心のインスピレーションは葬られてしまう。その良心とは口に出すにとても勇気のいる事だが、常に潰される。
 つまり、良心とは思ってる以上に脆く潰れ易いものだが、潰されては何度も復活するのも良心の本質でもある。


最後に

 ”いい人をやめる”ではないが、最近は殆ど”いいね”を押さなくなったし、フォロワーの記事も殆ど読む事はなくなった。勿論、私のブログから”いいね”のボタンも排除した。
 つまり、いい人をやめる事は”いいね”をやめる事でもある。そう思うと、不思議と楽になる。いや、やめると言うより”いい人を自分から排除する”とした方がもっと楽なのかもしれない。
 他人の都合や議論や記事に媚を売ってしか得られない評価なら、思い切って排除する。自身を優先する事でうまく行けば、ずっと効率的で合理的でもある。
 素敵である必要も、真の意味でいい人である必要もない。自分らしくとかイキイキとか自然体とかではなく、疲れない生き方を最優先する。
 周囲の期待も場の空気も一切無視し、我慢や犠牲で成り立つ人間関係なら排除した方がマシである。

 そういう私も、長らく人間関係で苦しんできた。承認欲求が強すぎて、対立やトラブルを異常なまでに避けてたのかもしれない。
 いい人とは、周りの評価が全てである。他人の動向や様子を注意深く観察し、場を見極め、常にアンテナを張り巡らせる。その上でベストだと思う行動を選ぶ。勿論、自分が望む様な評価が得られない事も多々あるだろうし、報われない事の方が多いのも事実だろう。
 昨今は、トップブロガーやフォロワーの多い人ほどトラブルに巻き込まれるケースも目立つ。そういう意味では、私の様な過疎ブログに感謝ではあるが、”疲れないし、ストレスが溜まらない”という点ではこれが一番の理想郷の様にも思える。

 「自己愛とエゴイズム」の中にあるRバーニー先生の小さな祈りでは”仕方のない事に対しては落ち着きを。何とかなる事に対しては勇気を。その二つを見分ける事に対しては知恵を”とある。が、私的に言えば、”仕方のない事に対しては諦めを、何とかなる事に対しては知恵を、その2つを見分ける事に対しては落ち着きを”となる。
 自身最後の授業となった際に<数学の王>カール・フリードリヒ・ガウスは、全員を起立させ、”無味乾燥な授業だったでしょうに・・・”と締め括った。そのガウスだが完全主義者であるが故に、エゴイストと見られる事も多い。
 しかしそれは純朴な自己愛からくるエゴイズムであり、彼が生きた時代の困難さにある。
 ”多くの実りのない探求”と数学を語るガウスだが、その実りのない筈の近代数学に大きな華を咲かせたのも、純粋な数学愛を持つ所以なのだろう。 



4 コメント

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仏教や宗教が目指すもの (平成エンタメ研究所)
2024-07-03 10:42:14
自己愛。
人には多かれ少なかれこれがあり、これと一生つき合い、七転八倒していくのでしょう。
一番困るのは、自己愛に浸っていることに無自覚な人。

仏教は「私をなくすことを目指す哲学」だと理解していますが、凡人にはこれがなかなか難しい。
キリスト教など、他の宗教も「自分をなくすこと」を目指していると思いますが、仏教はこれを哲学的に語っている分、僕にはしっくり来ます。

以前も書きましたが、数学者は名声や地位やノーベル賞が欲しいから数学の難問に挑んでいるわけではないんですよね。
やっていて楽しいからやっている。

楽しくて我を忘れる。
仏教ではこれを「三昧(ざんまい)」と言いますが、この境地には時々至ります。笑
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エンタメさん (象が転んだ)
2024-07-03 17:20:46
いつもコメント有難うございます。

偉そうに、自己愛について書きましたが、私なんてナルシストに陥らない事で精一杯です。
仏教が目指す自己愛とは、我らが思うよりずっと崇高で無垢なものでしょうね。

南ベトナム戦争時のジェム政権による仏教弾圧に抗議し、焼身自殺した高僧がいましたが、炎が襲っても正座のままで心が全くブレない。見てて、無の境地ってこんな次元にあるものかと驚愕しました。
この死の抗議の僅か5ヶ月後、アメリカ寄りのジェム政権は崩壊しますが、60年経った今でも語種になってる程です。
日本の腐敗した自民党政権もここまで腹を括らないと変わらないんでしょうか・・・

数学者に関しては、微妙な所ですかね。
超の付く難題に持って挑んでんだから、賞の1つ位は欲しいという気持ちも判るし、僅か2億で未解決問題を解く数学者がいるかも疑わしい。
東工大の黒川教授が漏らす様に、”数学者になって後悔してない人は多分1人もいない”って所が本音でしょうか。
事実、20世紀最高の数学者とされるヒルベルトもアインシュタインの一般相対論に因縁をつけ、世界レベルの論争を引き起こしました。
結局はヒルベルトが論文の日付を改ざんしたのがバレて決着が付いたんですが、ヒルベルトですら私欲を持った人間なんですね。
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死の抗議 (poulkuroneko)
2024-07-05 17:51:49
この記事も衝撃的でした。
1963年の事でしたが、つい先日の事のように思い出されます。
翌日の法要では、”自分の体をたいまつとして政権の闇と悪を打ち破った”と彼の自己犠牲の精神と行為は紹介されましたが、この言葉は世界中の人々の心の深くに刻み込まれたでしょうか。
ドック師の路上で抗議の焼身自殺の直前には”祖国の為に宗教の平等を実現するようお願いする”とのジェム大統領への手紙が残されていたとされます。

自己犠牲の精神もここまで昇華すると、世の中全体を変える力になるのでしょうか。
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paulさん (象が転んだ)
2024-07-06 01:48:38
テレビの録画で見てたんですが
体中に炎が燃え盛っても意識がある間は正座が崩れないんですよ。
やがて炎が全身を焼き尽くし、命が途絶えると、ドッグ氏の身体が崩れる様に傾いてく様は、自己犠牲と言うより、とても神聖なものに思えました。
今まで見た中でも、とても衝撃的な映像でした。
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