本を読むという事は、著者が作品の中に隠した解答を導き出す事も、醍醐味の一つだと思う。そしてその答えは、N次元の微分方程式と同じく、読者の数だけ存在する。
『制作』で、ゾラは主人公のクロード•ランチエを通じ、芸術家と自然との闘いこそが真実との闘いの連続であり、常に打ち負かされる天使との格闘の壮絶な悲劇を描いたと、訳者の清水正和さんの解説にある。
一方で私めは、クロードの本性を解き明かす為の、その本質と真理を覆う深い闇を絵画で表現し、それを照らし出す手段である"外光"にひたすら拘り、芸術家としての才能と悪の本性との葛藤と捉えた。
セザンヌとゾラの友情
本当は『制作』という平凡なタイトルではなく、『未完の傑作』としたかった所であろうか。
主人公クロードのモデルは親友のモネか、後に〈近代絵画の父〉と称される幼馴染のセザンヌとも言われる。
事実、初期のセザンヌの絵は暗く陰湿で、作中のクロードの描く絵とそっくりなのだ。しかし、晩年のセザンヌの画風は鮮やかな色調と明るく溌剌とした、生命感溢れる作品に昇華してる。
クロードが若い頃に、恋焦がれ、追い求め続けた、あの"外光"が晩年のセザンヌの絵に燦々と注ぎ込む。
つまり、『制作』でのこの"外光"のヒントがなかったら、作中のクロード同様に、日の目を見る事はなかったろう。友達は持つべきもんだ。
未完の傑作
一方で、"下腹部に神秘のバラを咲かせた異教の女神の様な裸婦像を凝視する"姿で、クロードが首を括る演出は、ギュスターブ•モローの「出現」の中の"サロメの女"にヒントがあるという。
60年代、マネらの印象派を強力に援護したゾラが、この神秘的幻想画家に霊感を受け、モローの想像力の奇抜さ、豊かさ、謎を秘めた象徴的な描き方に、深い関心を示したともいわれてる。
故に"未完の傑作"が、クロードの突然の死により完成し、それを夫をひたすら支え、愛し続けてきた妻のクリスチーナに見せつけるという、憎い幕切れ。
"このシーン全体が一枚の絵となり、完成に至る"と清水氏は解き明かす。
つまり、彼の苦悩の大作は失敗作でも未完でもなく、彼の死を以てして傑作に至るのだ。
故に、清水氏は"未完の傑作"をテーマにし、私めは"外光"をテーマにした。
文学においてゾラは、堅固な構成と生命力&力動感漲る文体を心掛けたが、絵画においても力強く劇的なドラクロワや堅固な質感を持つクールベなど、ミケランジェロ的なものを好んだ。
つまりゾラがセザンヌと過ごした少年時代に既にロマン主義の洗礼を受けた作家でもあったのだ。
よって、モローに惹かれたのもゾラのロマンチックな趣向の発現であろう。
ただ、この作品の発表を機に、セザンヌとの親交が断たれた事は有名な話でもある。
しかし、この『制作』の最後の"さあ、仕事に戻ろうか。時間がない"とのフレーズは、ゾラがセザンヌに呼びかけた励ましのメッセージだったのだ。
この推理は流石、清水氏ならではである。"クヨクヨしてる暇はない。君には才能があるんだから、サッサと仕上げに掛かろうぜ"と、親友のゾラの励ましが、ここまで聞こえてきそうだ。
1902年のゾラの急死に、衝撃を受けたセザンヌが晩年に描いた「大水浴」「セントヴィクトワール山」の2つの集大成的連作は、先立ったゾラへの友情ともとれる。
それにモネの晩年の作品群も、『制作』のショックが生みだしたとも言われてる。
つまり、この作品は19世紀フランスの近代絵画や革新期の動向を、生き生きと追体験できる自伝的芸術小説でもある。
ゾラの特徴でもある"群衆描写"に"擬人法"に"コントラスト法"。また"反復と変奏"による交響曲的効果を狙った構成と文才には、全く舌を巻くと、清水氏は締め括る。
それ以上に、清水氏の模範解答の解説には、頭が下がる思いだ。
ゾラにしても、セザンヌにモネや数学者とか人間関係も作品と同様に多彩だったのですが。かのモーパッサンも彼に才能を見いだされたらしいです。まさに、偉人は偉人を引きつけるの典型ですよね。
狂気じみた絵ならバルザックで、やたらデッカイカンバスの絵なら、ゾラでしょうか。