初めてのモーパッサンが「ベラミ」だった。ゾラと同世代のフランスの作家だ。あまりにもピュアで華麗なる筆致には驚かされる。癖のない現代風の文筆と新鮮な美しいスタイルは、分裂症的なゾラや理屈っぽいバルザックにはない純粋な清々しさを感じる。
一方で、オチも捻りもない実直過ぎて、直線的な展開には少し物足りなさも感じるが。日本中がゾッコンし、病みつきになりそうなこの優雅な洗練された文筆は?一体モーパッサンとは何者?っていう予感がした。
モーパッサンは、思春期を第二帝政の中で送り、パリ大学に進むと直ぐに普仏戦争に出兵。お陰で戦争や軍人、ブルジョアや民衆を嫌い、専制君主や民主主義をも嫌った。
兵役後は、役人となり文筆活動に従事するも、梅毒による疾病障害や目の病気に悩まされ、この作品が書かれた頃は病状が悪化する。
哀しいかなその後、変人ぶりが目立つ様になり、自殺未遂を経て43歳の短い生涯を閉じる。著者の実直でスマート過ぎる文才は、こんな波乱万丈の不遇な生涯から生まれ出たものか。
余りにも全盛期が短すぎた為、長編は6作のみではあるが、訳者の中村氏がその中でも一番のお気に入りとしてる。事実、この作品の時の経過も実際の執筆期間も僅か2年足らず。中村氏が、"彼には時間がなさ過ぎた"と同情するも理解できる。
ベラミ〜麗しの君へ
”ベラミ”とは、”麗しの君”という意味だが。展開は”麗し”とは遠く離れた、女たらしでペテン野郎の奇想天外なパリ•ドリームとも言える。
このユニークな登場人物一人ひとりの癖を頭に入れ、読んでいく方がよりモーパッサンの筆才とこの作品の魅力を存分に引き出せるだろう。
それに主人公のデュロアのモデルは、もう一人のモーパッサンという気がしてならない。このデュロアの生き様とモーパッサンの実像を重ねて物語を辿っていくと、筆者の真実を垣間見るような気がしなくもない。
軍隊を除隊し、アフリカからパリに戻ったデュロアは、学歴も職も金もなく困窮してた。偶然再会した戦友フォレスチエの紹介で2流新聞社の三文記者となるが、肝心の記事が書けない(笑)。
ここら辺の出だしは、いきなりコメディーっぽいですが、モーパッサン劇場の始まりですかな。
彼は持ち前の野心と出世欲、そして生来の美貌を武器に上流階級の夫人たちに取り入る。フォレスチエの妻で怪しげな魅力と影を持つマドレーヌや、その友人で巨乳で快活なクロチルド夫人、そして勤務する新聞社のヴァルテール社長夫人らを次々と愛人にし、自らの出世の餌にする。
友人のフォレスチエの死後、美人のマドレーヌ未亡人を妻とするが。彼女の財産を奪い、さらに彼女の裏切りと不貞を理由に離婚する。
以降デュロアは、箍が切れた様に女を弄んでいく。まず自由奔放なボヘミアン女である若きシングルマザーのクロチルドを愛人にし、その傍らでは娼婦ラシェルを使って乱暴な性欲を満たし、挙げ句は自らの出世の為に社長夫人を弄び、ペテンに掛ける。
そして最後は、その社長夫人の美貌を受け継ぐ娘シュザンヌ嬢と再婚し、人生の絶頂を迎えるが。
以上のように主人公のデュロアは、計5人の魅力的で個性ある女を餌にし、虜にし、出世街道を突っ走る。あまりの無敵の潔さに、こちらまで惹き込まれる。
最初はデュロアの破廉恥でゲスな女漁りに多少辟易するが。終盤に入ると、もっともっとやっちまえ!気が済むまでやっちまえ!と、いつの間にかデュロアの存在とモーパッサンの文筆の虜になってる自分がいる。
もう一人のモーパッサン
第一部は、主人公の戦友であり、モーパッサンをモデルにしたと言われる、病弱で”寝盗られ男”のフォレスチエが息を引き取る所で終わる。流石に大物議員と情事に浸る妻に、看取られる様は何とも酷すぎる。モーパッサンの苦痛はそのままフォレスチエの苦悩なのだ。
そんな中、主人公のジュルジュ•デュロアはアクの強い、無骨な存在である。著者と同じくノルマンディ育ちで、元軍人である所も女を惑わす美貌も著者そっくりである。しかし、生涯独身で通したモーパッサンとは全く対象的な生き様だ。
上述した様に明らかに、もう一人のモーパッサンでもある。つまり、モーパッサンの悦楽はデュロアの享楽でもある。
マトモな読み書きも出来ないのに、主筆クラスの記者が勤まる所に多少の無理があるが。モーパッサンも彼が記者である必要はないと明言してる様に、この下衆が何処まで成り上がるかが、この作品の核なのだ。
これといった落し所もないので、前半は何の混乱も誤解もなく読み進める事ができる。
魅惑的な女たち
上述した様に、デュロアが関係する女性たちは実に個性豊かで魅惑的である。恋人のクロチルドは快活でボヘミアン的な淫乱女として、妻のマドレーヌは美人だが怪し気な魅力と影を持つ危険な女として、前夫や大臣を喰い物にする様は清々しくも映る。信仰深く厳格な筈の社長夫人のヴィルジニーは情欲溢れる奇怪な中年女として、濃密にコケティッシュにグロテスクに描かれてる。
バルザックも作品の前半に、クドい程に人物紹介を詳細に記述する癖があるが。モーパッサンのそれは非常にスリリングにスマートに映る。
ただ、委託記者の老詩人がデュロワに、"若者よ、君を閉じ込めてる全ての物、肉体や関心や思考や人間性というものから自分を開放するのだ"と諭す言葉は、実に重く興味深い。
晩年、不眠症や神経症に病んだモーパッサンだからこそ映える言葉だ。そして、この助言は、後にデュロアの人生を支え、出世を可能にする。
”ポンコツ爺”の異名をとる、このノルベール老人の言葉は、現代の若者にもピッタリと当てはまるのではないか。ひょっとしたら晩年のバルザックをモデルにしてるのかもだ(笑)。
華麗なる泥棒野郎と仏文学の最高傑作
第二部からは、物語の濃度がぐっと凝縮される。まさにモーパッサンの本領発揮だ。前半はタップリと243頁を使い、詳細な人物描写とプロットの土台を築き上げておく。そして後半は、一気に直線的に最短距離で攻め込む。流石、写実小説家の鏡ではある。
上述した様に、ベラミとは"麗しの君"という意味だが、この作品では"華麗なる泥棒野郎"という負のイメージにも取れる。事実、著者は「批評に答える手紙」で、"私は単に一人の山師の人生を描きたかった"と語る。
フランス文学の傑作長編にしては、凄くスマートで読みやすい。解説にもある様に、"もたつく事なく最短距離で的を突く、あの驚愕のよせの速さ"を存分に味わえる。
ただ、この作品で忘れてはならないのが社長夫人ヴィルジニーの存在。
”不幸の象徴”として描かれるこの中年女こそが、モーパッサンの不幸な生涯をダブらせる。この作品にて、この醜女は見事に、この作品とデュロワを引き立てる。
目の前で娘に愛人を奪い取られ、屈辱と恥辱に塗れ、その"尖った憎しみの感情と胸を引き裂く嫉妬"は何と表現したらいいか。モーパッサン自身が投身自殺する寸前の気持ちだったのかもしれない。
デュロアと意気投合してた頃は、”私の唇は誰のもの?”と、天狗になってた哀れな中年女の、無言の煮えたぎる嫉妬は想像に難くない。
終盤では、我らがデュロワ様が悪徳政治屋のラロッシュ大臣を”無能な百姓ヤクザ”と糾弾するシーンも、モーパッサンの政府に対する怒りが露骨に表出されてて、清涼感を醸し出す。
全くこの長編傑作には、モーパッサンの願望と怒りと悲しみと屈辱と哀れみと性的欲求がそのまま映し出されてると言っていい。つまり、モーパッサンの全てが凝縮されてるのだ。こんな贅沢な作品が何処にあろうか。
ふと何の予備知識もなく手にした本だったが、ゾラの「居酒屋」、バルザックの「ゴリオ爺」に並ぶ、フランス文学を代表する最高傑作に出会えたものだ。本当に俺はツイてる。
転んだサンは、多分クロチルド夫人でしょうね。巨乳で奔放で後腐れない女だもの。
でも色んなタイプの女性が楽しめて、面白かったな。
ではバイバイ。
という私は巨乳のクロチルド夫人と行きたいんですが。やはり、ヴァルテール社長夫人ですかな。熟したグラマラスの肉体というのは、野郎にとっては永遠のエロースなんですぞ。
まだまだHoo嬢は甘いですな。もっと男に対して勉強が必要かもです。
ではバイバイサー。
もう若い時のような集中力がなくなりました。
転象さんのブログを読ませていただくだけで青息吐息です。
でも、今回の記事で、モーパッサンの勉強をさせていただけました。ありがとうございました。
所詮、匿名の世界だから何でもかける訳で、どんな人にでもなり得るネットの世界。顔も声も生の肉体も知らない人とコメントの交換をしてる事自体、虚構というフェイクなんですが。
そのフェイクのコミュニティが地球上を隈なく網羅してる事自体、信じられない事ですが。
ま、これも言葉のお遊びという事で悪くはないかな。
故に、日本で一番人気のあるフランスの文豪なんですかね。