Gooブログ編集部のテーマに”おすすめの手土産を教えて”とあったが、”未だに手土産文化が蔓延る日本にある種の憂いを感じる”と、私は思わず愚痴ってしまう。
勿論、Gooブログには高齢者が多いので自然と手土産のテーマで盛り上がるのは理解できる。だが、それじゃ余りにも”おバカ過ぎる”のではないか・・
一方で、私が知る高齢者には、こうした手土産文化にはウンザリだと漏らす人もいる。
因みに、”手土産”という字を読める若者はどれ位いるのだろうか?いや字は読めても、その意味を知る者はどれ位いるのだろう?
確かに、若い人にとっては手土産(てみやげ)の慣習は半ば強制的にも思え、馴染めないのかもしれない。
実際に”手土産の無駄”で検索すると、賛否両論の意見で溢れてるが、若い連中からすれば、”手土産なんて金と時間の無駄で、ストレスが溜まるだけ”となる。
一方で高齢者からすれば、”手土産は知人や親戚を訪問する際の最低限のマナーであり、礼儀作法でもある。即ち、手ぶらで他人お敷居を跨ぐなんてケシカラン”となる。
事実、手土産の古い慣習はビジネスの世界でも未だに存続し、結構なストレスや微妙なプレーシャーになる人も多いだろう。
実は私もその1人だが、私の職場では”お土産や贈り物は一切NG”という決め事があるから、その点に関しては非常に助かってはいる。勿論、それでも気が引けるという人は”好きにしろ”というスタンスだ。
故に、敢えて”手土産NG”としなくても自然淘汰されていく筈だが、余計なストレスを溜めない為にも、”手土産禁止”とかのルールは徹底した方がいいと私は思う。
貧しさが手土産文化を支える
お土産の起源は江戸時代にまで遡るが、この時代には神社や寺へ参拝する風習が生まれ、やがて旅行となった。当時は、今の様に交通機関が発展してる訳でもなく、1回の旅行に1人30万円ほどが必要だったという。
そこで、仲間内の代表者が旅行に行くのだが、そのお礼として”仲間にもご利益がある様に”と、(当時は物ではなく)お札などを買って帰ったのが、お土産の起源とされる。
全く、微笑ましい事だが、実は私が子供の頃もそうした古い慣習が残ってはいた。
特に修学旅行なんか、親戚から”餞別”(せんべつ)を貰うので、何らかの手土産を買う必要があったが、私には苦痛以外の何物でもなかったし、手土産を買った記憶も殆どない。
そんな状況だから、修学旅行の度に、お袋がわざわざ駅前のお土産売り場へ行き、旅先の特産品を買って配って回るという、今となっては笑えない話だが懐かしくもある。
子供心に、そんな手間暇を掛けるのなら、餞別を断ればいいじゃないかとも思うが、ド田舎ではそれが許されない。つまり、ムラ社会の掟や風習を乱す事は”死を意味する”に近い事だったのだろう。
勿論、それだけ田舎が(いや日本全体が)貧しかった事の証拠でもあろうが、日本古来の伝統行事や神事や仏事、それにお祭りなどは、貧しさから来るものが殆どだろう。言い換えれば、日本人の貧しさが手土産文化を支え続けているとも言える。
私は子供の頃がそうだったから、それ以降は手土産なんて全くの無縁であり、私には死語に近い。
しかし今では、江戸時代より旅行のハードルはずっと低くなり、貧乏人でも外国旅行に行く時代だ。故に、”旅行=お土産”という慣習はアホ臭な日本古来の”ガラパゴス文化”とも言える。
それでも多くの日本人が旅行に行った時、お土産を買うのは、礼儀やマナーより”お土産を買いたいから買う”という理由からだろう。ま、それでも私からすればアホ臭なのだが・・
一方で、”旅行話をしたいからお土産を買う”というのもこれまたバカらしく思える。
つまり、旅行は自分の為にするもので、人に自慢する為のものじゃない。それに、他人の旅行話を聞きたがる物好きな人種がいたとして、手土産を買う連中の旅行話にどれだけの価値があるのだろう?
そう思うと益々アホらしく思えてくる。
例えば、イーロン・マスクが海外に出張する度に、社員全員に一々手土産を配るだろうか。大谷が日本に帰る度、親戚中に一人一人手土産を配るのだろうか。
相当な変わり者かバカでも、そんな事はしないだろうし、まず物理的に不可能だろう。
全国の小学校にグローブを沢山配ってたじゃないかって言われるかもだが、スポンサーがやった事で、大谷が一人一人手渡しで配った筈もない。
手土産を馬鹿にするな
勿論、これには反論も大いにあろう。
事実、”手土産を馬鹿にする人は成長できない”とか”育ちがいい人の手土産は何かが違う”とかの専門家のコラムもちらほら見かける。
前者は経営コンサルタントの言葉で、”どこでも誰とでも活躍できる人の多くは、一寸した手土産や気遣いのスキルを身につけ、スマートに活用出来る”と分析する。が、悲しいかなこの人は”思いやりを受けて<嫌だな>と思う人はまずいない”という前提で話を進めている。
もうこの時点でアウトなのだが、多分こうした”全てをポジティブに”という平和ボンボンな人種はオロナミンCでも飲んで、いつも明るく元気に手土産を配り捲くればいい。陳腐な自己満足くらいは満たされるであろうか。
でも多分だが、すぐに愛想尽かされる光景が容易に想像できそうだ。
一方で、後者はマナー講師の言葉だが、”手土産には育ちが出る”と説教する。”大切なアナタの為に一生懸命用意したという気持ちが伝わる”というのだ。
はっきり言わせてもらうが、こうした平和ボンボン系人種が手土産文化という悪害を蔓延させてると思えなくもない。更には、”そのお店でしか手に入らない物、行列に並ばなければ買えない手困難な物などは、その気持ちが余計に伝わります”と吠えるではないか。
ハッキリ言って、こんな事されたら迷惑どころかハラスメント、いや立派な犯罪である。
この様に、手土産文化を未だに支持する日本人が存在する事の方が驚きであり、怖い事なのだが、つくづくこうした古臭い腐った慣習が蔓延る日本というムラ社会の現実に幻滅してしまう。
他方で、手土産を一切禁止した事で、逆に”<仲間力>が増え、”年商145億円の会社を作り上げた”という都市伝説?もある。
眉唾臭くもあるが、話半分に聞いても凄い事でもある。だが言わんとする事は、まず成功と失敗という2軸を設定し、”こうしたら失敗するだろう”事を数値化する。
元芸人の経営者が最初に行ったのが”贈り物の一切禁止”だ。万が一、お得意様から手土産を貰ったら、その時は皆でシェアする。
そうする事で無駄がなくなり、ストレスやプレッシャーも一気に軽減する。故に、”失敗するだろう”数値は減り、仲間力は増える。勿論それだけで年商145億とは行く筈もないか、1つのヒントにはなるだろう。
つまり、会社は仕事をする為にあるし、ストレスやプレッシャーを感じる為にあるのではない。勿論、楽しいだけで仕事になる筈もないが、無駄な負担がないという事は、ただそれだけでプラスになり、会社は成長する。
私が”手土産文化は無駄だ”というのは、そういう事なのだ。決して愚痴や不満ではない。
最後に〜手土産は無駄以外の何物でもない
Xチャンネルなどは殆ど見ないが、手土産の無駄に関しては、若者の方が私の理屈よりも大いに説得力があるみたいだ。
”職場の人間に手土産はいらない。昔配った事あるけど、マジでいらなかった。手土産を買っても買わなくても大して変わらない。
金が無駄になるだけとの結論に達した。配った所で何のメリットもないし、その分、貯金した方がよっぽど合理的”(人生楽太郎さんより一部抜粋)
私と違い、実際に何度か職場に手土産を買った経験があるから、余計に納得してしまう。
実際、手土産を買わなくても何ら問題はないという職場が殆どであろう。それに、手土産の慣習は金と時間も無駄になるが、それ以上に余計なストレスと目に見えない微妙なプレッシャーが心を悩まし、神経を逆撫でする。
更に、思考がそうした古臭い慣習に囚われ、仕事に集中できなくなる。
つまり、有休を何に使おうが?人の勝手であり、そこまで束縛される筋合いはない。海外に旅行したとしても黙ってれば判らないし、手土産も必要ない。
”沈黙は金なり”とはよく言ったもんだ。
「お土産の菓子はなぜ不味い」でも書いたが、軽い気持ちで手土産を買おうとすれば、数千円の出費は覚悟すべきだし、ケチって数百円のクッキーを買うくらいなら、やめた方が無難である。
余談だが、近所のスーパーにはお歳暮やお中元の季節になると、400円弱で50個入りのサブレ詰合せ缶が決まって先頭に立ち並ぶが、食ってみると意外にも美味しい。少なくとも”白い恋人”よりもずっと安くてずっと美味しい。
ま、ここまで書いても、やはり手土産は必要だと思う昔気質の頭が堅い人は勝手にすればいい。但し、手土産を嫌がる相手の気持ちを汲むのも、手土産を贈る以上に大切なマナーではある事も理解する必要がある。
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