誰しも、世の中には殺したいほど憎い奴は1人や2人はいるだろうか?
もしそういうのがいない人は、よほど平和ボンボンか、真剣に”生”を生きてないか、といったら失礼だろうか?
そして、もし殺したい奴が目の前にいたら、握手をしてお互いを慰め合い、”過去の事だよ、お互い色々あったし、気にしてないさ”って赦し合えるだろうか?
それとも、懐から予め用意してた刃物を取り出し、喉元にぐさりと突き刺し、”ざま見ろ”と微笑むのだろうか?
答えはYESかもしれないし、NOかもしれない。
もし相手が優しく声を掛けてきたら赦し合えるかもしれないし、逆に相手が牙を剥いてきたら、今まで隠して通してきた暗く深い因縁に火が点き、狂気の炎と化し、憎き輩を燃え尽くすかもしれない。
結局は、相手次第だし、自分次第なのだ。
復讐の論理と心理は、人が思うほど単純じゃない。ある意味、数学の難題を解くよりもずっと難しい事かもしれない。
そういう私は、夢の中で人を殺した事もあるし、憎い奴をリンチに掛けた事もある。
そう、私は夢の中では相手を赦すなど出来なかったのだ。だから過去の嫌な夢を見ると、とても複雑で悲しい気分に落ち込む。
マリアンネの復讐
「マリアンネの犯行」(原題”Annas Mutter”)は、愛娘を殺害された母親の復讐劇を描いた、ドイツ中が熱狂した衝撃のドキュメントである。因みに、Annas Mutterとは”アンナのお母さん”という意味で、同タイトルでTVドラマ化されてますが、かなりエロい視点で描かれてるようです。
ドイツのナチス軍将校の娘として生まれた母親のマリアンネ・バッハマイヤー(1950-1996)だが、過去に2度(9歳と18歳)の性虐待の苦い経験を持つ。その上、彼女を襲ったレイプ魔は短期間で釈放されていた。
この頃から、マリアンネは司法に対する矛盾に大きな怒りを抱く様になっていく。
そして悲劇は案の定、繰り返された。
1980年、マリアンネの3女アンナ(当時7歳)が、近所の肉屋の親父に誘拐され、絞殺されたのだ。
実は、このクラウス・グラボウスキーは過去にも1970年に、幼女に対する性的虐待で逮捕されていたが、精神鑑定を理由に直ぐに釈放されている。
しかし5年後の1975年、2度目の幼女虐待の逮捕時に”小児性犯罪者”という診断を受けたグラボウスキーは、何と”睾丸削除”という条件付きで釈放されたのだ。ところが彼は、男性ホルモンを投与する事で、密かにインポを克服していた。
つまり、僅か1%の確率に、この変態オヤジは賭けたのだ。
故に、アンナ殺害には真っ先に彼が疑われた。結局1年もしない内に、グラボウスキーはアンナ殺害を自白する。
”遊ぼうとしただけなのに、あのガキは騒ぎやがった。しかも、俺から金をせびろうとした。俺はつい動揺して首を絞めてしまった”
この変態エロ親父のふてぶてしい態度や嘘の発言を、マリアンネは傍聴席で異常な憎しみを抱えつつ、黙って聞いていた。そして、2度目の審理で彼女は完全にキレた。
マリアンネは法廷に入るなり、グラボウスキーに近づくと、所持してた22口径のベレッタで男を撃った。背中から8発、その内6発が命中する。
”娘の復讐による殺人”を犯した母親の判決に世界が注目した。1983年、彼女は殺人罪で起訴されるも、過失致死と武器の不法所持のみの有罪判決で、僅か懲役6年という異例の軽さであった。
以上、”愛娘を殺害された母親の復讐劇”を一部参考にしました。
愛する娘が殺された時
「マリアンネの犯行」(1984年、ハイコ・ベーブハルト著)は、沢木耕太郎さんの「象が空を」の中で知った。
沢木さんは、”第1の殺人は1人の男が1人の幼女を殺し、第2の殺人は1人の女が1人の男を殺した。しかし、このありふれた2つの殺人には1本の血縁の糸が通ってた事で、事件はセンセーショナルなものになっていく”と、この衝撃の書を解説する。
勿論、殺されたグラボウスキーは醜い変態親父で、マリアンネは情熱的な若く美しい女という事もあり、それだけでもドイツ中が熱狂するのは当然かもしれない。
しかし日本人には、こんな超絶の”憎しみの連鎖”をどれだけ理解出来るのだろうか?
事実、沢木氏が言うように、著者でありジャーナリストでもあるゲープハルトの、”問題提起の書”としての不完全さを鋭く指摘する。
つまり沢木氏が言いたいのは、類まれな個性を持つ人間の理解と稀有な事件の理解が平凡で常識すぎるという点だ。
マリアンネの”生の奔流”に傾斜し過ぎて、事件の全体像と詳細とツッコミが曖昧なままに、長文のレポートを終えている。
少なくとも”司法はグラボウスキーにふさわしい罰を与えはしない。娘の死への償いは私がこの手で下す他はない”というマリアンネの訴えほどには、このレポートは及ばない。
その上、沢木氏は日本語版の編集の仕方にも疑問を呈する。
つまり、この書のテーマが”レイプ”に寄り過ぎてるのだ。事実、解説を担当してる落合恵子氏の”反強姦”論は正当ではあるが、この本のテーマではない。
マリアンネの行為が投げかけたのは、”愛する者の命が奪われた時、人は愛の名の元にその相手を殺す事が出来るのか?”という難題である。世界が明日滅亡すると解ってても、憎むべき相手に復讐の銃弾を撃ち込むべきだする、人間存在の深くに根を張る情念、いや怨念という名の復讐の論理と心理。
つまり、この難題の答えはYESかもしれないし、NOかもしれない。
純粋に”復讐の心理”に焦点を当て、ジャーナル的な要素を排除し、過剰な編集を削除してたら、この衝撃の書は、ルポルタージュとしてもサスペンスドキュメントとしても、高質なものに昇華してたかもしれない。
数時間後に死すべき幼女が最後に知りたかったのは、自らの危うい運命ではなく”自分の背丈”だったのだ。
この些細な事実こそが、読者の想像力を大きく刺激する。
殺人や復讐や憎しみは、何時の時代も世界中何処にでも存在する。情念や怨念は誰もが持つ感情でもある。
しかし、子供が咄嗟に発する言葉には、衝撃や感動を超える何かがある。
復讐のパラドクス
マリアンネは刑務所に収容されて3年後、仮釈放され出所し、教師の男性と結婚する。夫と共にナイジェリア移住したが、5年後に離婚。その後、ドイツに戻り、膵臓癌で死去した(享年46歳)。
波瀾に満ちた生涯を終えたマリアンネは、娘アンナと同じ墓に埋葬されている。
”マリアンネの犯行”は、その衝撃さから全世界に知れ渡り、マリアンネを擁護する声が殆どで、批判する人は皆無であった。
結果論だが、もしグラボウスキーが釈放されずに、一生施設か刑務所にいたならば、アンナが強姦され殺される事はなかった。
そして、マリアンネの復讐もなかった筈だ。
勿論、「マリアンネの犯行」という不完全のルポルタージュもなかっただろう。
マリアンネは、過去2度のレイプの思い出を苦々しくも、時には懐かしくも振り返りながら、ごく普通の生活を送ってたかもしれない。
憎しみは時として、復讐に発展する。そして、その復讐は時として殺人にまで及ぶ。
そこには、復讐の論理と心理が複雑に絡み合う。そもそも復讐とは自分の為にあるのか?相手を裁く為にあるのか?
復讐のパラドクスは、人間の暗く深い情念の中に潜んでいる。そして、その闇の奥から抜け出す為には、やはり直接的な行動という名の”禁じ手”が必要なのだろうか?
ただ1つだけ言える事は、我々は現実の中で生きている。そして、その現実と格闘してる限り、たとえ現実が多くの矛盾を含もうが、その現実が何かを訴えない筈がない。
心にズシンと突き刺さるようで、すぐに答えが出ません。
娘のアンナが最後に言った言葉、”私の背丈はどれくらい?”には、グラボウスキーに果たして性虐待の気があったのだろうか?単なる遊び目的で誘拐し、異常な興奮状態のまま殺害に至ったんではないだろうか?
色々と考えさせる最後の言葉です。
マリアンネが受けたのは明らかにレイプに近かった筈ですが、娘アンナは性のお遊びに近かったように思われます。今でいう児童ポルノですね。
多分、沢木さんはそこら辺を指摘したかったと思います。
ありきたりなレイプの延長上に殺人があり、その復讐としての必然的な殺人が重なる。
勿論、母親の復讐は想定ないとも言えますが、特異的な事件の背景には様々な要素が含まれてます。法の問題、精神鑑定上の問題、小児性愛者による新たな性犯罪。そして、復讐=殺害は認められるのかという難題。
これら従来の道徳や倫理観では裁くことが難しい問題ですね。
悲劇の発端はそこにあるのでしょうね。今日の記事の趣旨とは違いますが、女性♀の立場から、そんなことも思いました。
先程は、書きかけたら指が「送信」の触れてしまって勝手に送信されてしまい失礼いたしました。スマホの投稿はこれが困ります。
アンナを殺したのもストッキングを使ってますから、誘拐殺人というよりも児童ポルノの線が強いですね。
しかし、殺しは殺しです。グラボウスキーにとって初めての殺人でも、愛娘を殺された母からすれば、”法は当てにならない、私が裁く”となったんでしょうね。
復讐の論理としては正しいかもですが、復讐の心理としてはエスカレートしすぎてるのかもしれません。
ほんと難しい問題ですね。
相手が大人であれば、攻撃は最大の殺傷力を発揮しますが、幼女でそれも性的イタズラが目的であれば、攻撃は必要ない。イタズラの延長で死ぬケースもありますから。
しかし、マリアンネが復讐に使ったのは銃という最終兵器で、攻撃といえばこっちの方が強力です。
彼女は1回目の審議では殺す気はなかったかもですが、2度目の審議では最初から明らかに殺意があったんですよ。
ここら辺の復讐の心理の揺れ動きはとても興味深いです。マリアンネも殺人は犯罪で、最終手段とは理解はしてたんですかね。
最後の一線を越えさせたものは一体何か?考えるだけでも・・・
憎しみを復讐に昇華させるのは正義なのか。
復讐による殺人は正義なのか。
正義だからとて殺人が許されるのか。
最初は過剰反応に近いですが、後の2つは正義と言えなくもない。
復讐の心理は前2つで、復讐の論理は3つ目のようにも思える。
つまり、2つ目の復讐による殺人こそが大きな問題であり、殺人以外に復讐を果たす方法はなかったのか。
沢木耕太郎氏はここの所を突っ込んでほしかったんだろう。
憎しみが復讐へ、そして殺人へ至る過程を3つに場合分けして考察する。
こうした稀有な事件は数学的思考で観察した方が主観的な視点で眺めるよりも、ずっと明確なスケッチが出来上がります。
お陰で、復讐の論理と復讐の心理との共通項が”復讐による殺人”という主要項になる訳ですね。
何だかリーマンの明示公式みたいになってきましたが、こうしてみると復讐と殺人の間には密接な繋がりがありそうですが、法と倫理を間に挟む事で、殺人を迂回できないかとも考えます。
沢木さんいうように、こういった感情的になりがちな事件は、きめ細かく分析すべきですね。
UNICORNさんの深い分析には、頭下がります。
超難しい難題ですね。
私は卑怯な面があって、
殺す、復讐など面倒なことはせず
逃げて、世間からも逃げて
精神病院か山での修業かになるのでしょうね。
ハリウッド映画は
悩みもせず、自分の娘が誘拐されたら
救いに行った親は悪人とされる人々を
殺しまぐって
最終的にはハッピーになるものが多いです。
だから、誘拐とか復讐とかの映画は
全く観ません。
それらを制作している映画会社は
本当に悪の伝道師団だと思ってますけどね。
ドイツの映画やドキュメンタリは
ケーブル配信で良く観ていますが、
根源にある人の倫理観を揺さぶるものがあります。
アメリカのクレーイジーとは全く異なるものがあります。
私はゾウさんの難題に答える学識、根拠さえ持っていないのですが、
そうですね、いい疑問ですね、しかいいようがないかな。
確かに、難しい問題ですよね。
未だにアメリカは”目には目を”的な価値観がありますから、復讐による殺しは当たり前だという風潮も強いのかな。
言われるように、北欧系のドラマは復讐というものを別の視点で捉えてるようにも思います。
でも何でも悪い方向に考えるとキリがないので、記事にしたらすぐに忘れるのも有効な手段かもです。