パターン→人類が発見した最も強力な近道である。
計算→ややこしい問題も計算と記号を使えば簡単になる。
言語→手に負えない問題は違う言葉で考えよう。
幾何学→遠い場所への距離を現地まで行かずに測る。
図解→”百聞は一見に如かず”
微分→変化する世界を理解する。
データ→全部を調べなくとも全てが解る。
確率→不確定な世の中で重要な決定を下す為の近道となる。
ネットワーク→複雑な現象はその裏の繋がりを探れ・・・
ここまで書いただけで、数学が見つける”9つの近道”がどれだけ強力なものかを理解できる。
つまり、数学はあらゆる近道を模索する思考の節約術なのである。
私たちは一見、数学とは無縁の生活を送っている。中学や高校で学ぶ数学なんて受験に必要なだけで”人生には何も役に立たなかったじゃないか”って、言う人もいる。いやそういう人が圧倒的に多いだろう。
事実、数学よりも悪知恵を理解できる人の方がずっと出世している。
アナタの知らない所で
一方で、数学の威力と魔力をヒタヒタと実感しつつも、その難題さが故に無視を貫こうとする。だが、無関心であればある程に数学の影は確実に我らの背後に忍び寄ってくる。
今、我々が(殆ど意識する事なく)数学と無縁の暮らしを続けていけるのは、誰か(もしくは何か)が代わりに数学をしてくれるからだ。
例えば、複素数や三角関数やフーリエ変換を知らなくても、買ってきた電化製品をコンセントに差し込めば誰でも簡単に使う事ができるのは、設計者や電気の理論を考えた人たちが数学を代行してるからだ。
パソコンやスマホだって、機械語を知らなくてもプログラミング言語をマスターできなくても、子供からお年寄りまで使えるのは、誰かが数学の言葉を打ってくれてるからだ。
そんな数学を代行するのは人だけではない。例えば、車や携帯電話に組み込まれたGPSは、三角測量の原理を使い、超高速で連立方程式を解き続け、我々の位置を正確に算出してくれる。
人類が宇宙や月へ旅行できるのも、高度な微分方程式を使って軌道や重力を逐次計算し、安全に着実に離着陸できる様に、正確なデータを弾き出してくれるからだ。少なくとも、宇宙飛行士や莫大な国家予算だけではスペースシャトルは飛ばせても、すぐに墜落してしまう。
つまり、数学が存在しない限り、人力やお金があってもどこへも行けない。もっと言えば、野望や精神力や体力だけでは何もできない時代なのである。
私達が毎日の様に運転してる車だって、今は電子制御の塊である。つまり、数学が存在しなければハイブリッドや電気自動車なんて、単なる鉄の塊に過ぎなかった筈だ。
以下、「数学とは”ズル”である」より一部抜粋です。
ヒトと数学との付き合いは、文字のそれよりも古い。例えば、およそ数万年前のものと推定される、アフリカのコンゴで発見された後期旧石器時代の骨角器”イシャンゴの骨”は、刻み目の数が素数や掛け算を示しているとも言われる。また、メソポタミア文明の遺跡から発見された、球・円盤・円柱・三角錐・円錐など様々な形をした粘土玉は、計算に使われてたトークン(計算玉)である事が分かっている。
これは、同文明が生んだ最古の文字(ウルク古拙文字)に先行するものとされる。
数学が苦しみ以外何も与えないのなら、どうして数万年もの間、人類は数学を手放さなかったのか?
答えは簡単だ。
”数学は役に立つ”からだ。憎たらしいくらい圧倒的に、それも社会の隅々に至るまで広範において、浅くも深くも役に立っているのだ。
その強力さの正体を、本書の著者マーカス・デュ・ソートイは”近道(ショートカット)”と呼ぶ。
つまり、数学という”近道”を使えば、例えば5分かかる計算が僅か1秒でできる。時間が短縮できるだけでなく、労力もコストも大幅に削減できる。端的に言えば、楽(ズル)ができる。
縦並びの社会や横並びの勤勉さに辟易し、社会正義よりもポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)よりも”ズルい”という感情を優先する現代人の世界では、(弱者救済や寛容という視点で見ても)数学の存在は不可欠なのだ。
数学の力で、何百年掛かるかもしれない道のりが10年で済むようになるなら、一生行き着けない筈の場所にも届くだろう。そうなれば人生が変わるし、社会が変わる。いや人間も変わる(新潮社レヴュー)。
最後に
この様に、数学は人類の理性が育んだ史上最高の産物である。まさにそれは、自然界や宇宙の神秘を透視するX線のようなものでもある。
数学は難解すぎるからイヤだという人の気持ちも理解できる。しかし、かつてオイラーは、”自然界の多くは初等的な数理モデルで大方説明がつく”と語ったらしい。
つまり、単純な数字の組み合わせが偉大なる発見や発明を生む事もある。勿論、こうした気難しい数学的思考よりも、暴力的で理不尽で簡単な理屈を好む人も多く存在する。
確かに、人類の知能や思考には限界があるかもしれないが、”笑わない数学”には限界がない。事実、人が証明した定理の正しさを人間だけの力で確かめる事が難しくなってきている。
数学は無限であり、人間は有限なのだから、人の脳が扱える数学だけが数学の全てではない。つまり、数学の新たな領野を切り開く為には、人間という限界を突破していく必要がある。
デュ・ソートイは自著の「レンブラントの身震い」で、”創造性こそが人間とAIを決定的に分かつ能力”だと語る。しかし、創造性という聖域で人間がAIに屈服する日が来るのだろうか?
著者はそれでも、最後までAIに代替できない”人間らしさ”を模索する。
しかし、その人間らしさが人間が生み出した常識の中に留まってる間は、人類の知能はAIの前に跪くかもだが、創造が人間の限界を超えて大きく飛躍すれば、人類の知能は人間らしさを開放し、ガウスの様な甦る数学のアイデアが跋扈する時代が到来するかもしれない。
思考を節約化させる為の道具としての数学だが、常に近道を模索し、難題の本質を最短距離で見抜く(取り扱い注意の)危険で鋭利な刃物のようでもある。
数学は決して我らに微笑む事はないが、どんな時代においても定規で計った様に着実に仕事をこなす頼もしい存在である。
つまり、数学が見つける近道は、人類の知が本来向かうべき方向を示唆してくれる道標であり、伝道者でもある。
”いい人は家にいる。旅人とグルメにろくな奴はいない”と奥田英朗氏が語るように、頼りになる学問ほど常に近くにある。つまり、数学は縁の下の恐ろしい程の力を持つ学問なのである。
肱雲さんはあの岡潔を知ってるんですね。
そういう私は広中平祐氏の師匠のイメージしかなく、何とも恥ずかしい限りです。
因みに、岡潔氏が研究したのは他変数複素関数論ですが、これはコーシーやアーベルやヤコビ、更にワイエルシュトラスやリーマンらの超天才数学者の研究を受け継いだもので、これだけでも岡潔氏の偉業を思い知ることが出来ます。
”論理も計算もない数学”という岡氏の理念は、論理や計算は数学の表面に過ぎず、見えざる数学の本質に迫る事が重要だと考え、仏教的叡智や情緒の探求を重視しました。
言われる通り、数学を神学化した最初の日本人数学者とも言えますね。
以上纏めて返信でした。
恥ずかしながら、こちらこそ勉強になります。
文理融合の草分け的数学者でもあったんですネ~
日本文化論を演繹法的解釈で展開し、最後は大御心への帰依・帰趨を説くなんて
正しく数学の「神学」化を模索した人なんでしょうか
これから、岡潔と犬の写真を連想し、[言語の本質」のオノマトペで、[言葉の量化]と[数の言葉の量化]を数学の基になる自然数について、大和言葉の【 ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と 】からの送りモノとして眺めると、[コンコン物語]になるとか・・・
[言語]と[数の言語]の最適解を求めて・・・
”手に負えそうな問題は背理法で解くとずっと簡単に解ける”とも言えます。
”シンギュラリティ”
初めて知りました。
技術的特異点とは言い得て妙ですね。
数学はAIに依存し、AIは数学に依存する。
優れたAIは、難解な数学を扱い易くする。
ぜひそうなって欲しいです。
「レンブラントの身震い」も
タイトル同様に興味深い一冊になりそうですね。
言われてみれば、僕たちは日常で数学の恩恵を受けているんですね。
>言語→手に負えない問題は違う言葉で考えよう。
これなんかは新しい発見でした。
早速、この本を読んでみます。
AIと人間。
問題は「シンギュラリティ」~AIが人間の知能を超えた時ですよね。
人間が考えもしなかった、とんでもない数理・数式を作り出すかもしれません。
そもそも数学や物理学で優れた理論・数式を作り出したのはアインシュタインなどの知能の高い人間たち。
シンギュラリティを経たAIにも同じことが言える気がします。
シンギュラリティは想定していた2045年よりも早く起こるようですが、何が起きるかワクワクしています。
それまで生きていなくては!