”四十九日法要の朝、親族はめいめい鍬を持ち、埋葬された墓の土を掘り返していくんです。掘り進むうちに思わぬ白骨が出てくる。目当てのお棺の主より以前に埋葬されたホトケの遺骨が2体、3体、・・・。頭蓋骨はそっと取り出し、地面に並べ置いたものです”
土葬で最も凄絶なのが、この地にあった<お棺割り>という墓をあばく風習だ。
葬式から四十九日後、埋葬された棺桶を掘り返して割り、故人の顔を拝んだら、再び土を入れ元に戻したという。
老住職の証言を続けると、2メートルも掘ると白い棺が穴の中に姿を現す。棺は故人を納めた後、棺蓋をくぎ打ちする。当然、蓋は開かない。そこで親族たちは、鉈(なた)で蓋を叩き割る。その時のカンカンカンという乾いた音は、住職の耳に今も残っている。蓋が割れると棺の中から、まだ完全に白骨化してないホトケの顔が覗く。
顔を拝んだら、遺族たちは棺の中に土を入れ始める。棺の中の隙間が完全に土で埋まると、更に土葬の穴全体に土を入れ、地上まで埋まると土を踏みしめる。
土葬にこだわる村民達
三重県伊賀上野市島ケ原村では、なぜこの様な奇妙な風習が存在したのか?
島ヶ原、とりわけ寺のある地域は土質が柔らかい。埋葬後に石塔の墓を建てても数年もすると目に見えて墓が傾いた。埋葬した棺が朽ち、棺の中の遺体も朽ち、棺の中の空洞が押し潰され、結果、墓地がへこむのだ。四十九日に墓をあばくのは、そうなるのを未然に防ぐ為である。
墓地がへこむのは、土葬にはつきものの事だ。古い日本の墓地は、遺体を埋葬する”埋め墓”と墓参りする”お参り墓”の敷地を分けている。これを両墓制というが、島ヶ原は土地が狭く両墓制でなかったため、埋葬地の陥没は先祖代々の石塔墓の倒壊に繋がる、重大な問題だったのである。
島ヶ原から土葬がなくなったのは(土葬の村が集中するエリアにありながら)、この村で比較的早めに土葬がなくなったのは、このお棺割りの風習の凄絶さゆえといっても過言ではない。
カンヌ映画祭グランプリを受賞した映画「殯(もがり)の森」の舞台となったのが、奈良盆地の東側山間部にある田原地区というエリアである。ここは15の大字(おおあざ)からなる村の大部分には土葬が残っており、誰かが亡くなれば墓地まで松明を先頭に、野辺送りの長い葬列が組まれる。
野辺送りに必要な葬具は、十輪寺という真言宗の寺に大切に保管され、出番を待っている。野辺送りの総勢20~30人の近親者は、手作りされたそれらの葬具を持つ役を与えられる。松明や灯籠、飾り用品など葬具のいくつかは、村人自身が竹細工や紙細工で、通夜と葬儀までの間に作り上げる。町の葬儀会館で葬式を出すのに比べ、遥かに手間が掛かる。
なぜ、そうまでして土葬や野辺送りに拘るのか?
”長い間、村で生きてきた人を一瞬で送るのは私にはどうしても馴染めません。無駄をいっぱいして故人を送る事が供養になると思うのです”と老住職は語る。
以上は、「土葬の村」(高橋繁行 著)から一部抜粋されたもの(gendai ismedia)だが、これを読んだだけでも、村民たちの故人の死に対する、尊厳の執着の深さと潔さには恐れ入る。
そういう私は、葬儀でも無駄を一切省き、”愚直なまでにシンプルに”というのが理想だと思う。喪主にもストレスがなく、親近者や隣組にも負担をかけない。その上、坊さんの経読みすら余計と思える程である。
しかし、「土葬の村」に登場する村民たちは、土葬に関わる一連の儀式の”無駄”を十全に理解している。確かに、ヘボなお経や無駄な香典に比べれば、”お棺割り”や”野辺送り”はずっとずっと尊いしきたりにも思える。
確かに、法要の挨拶や香典返しをする暇があったら、四十九日の”お棺割り”をぜひとも体験してみたいものだ。
人は死んだら土に還る
レビューにも、この本を読んで”土葬を体験してみたい”とあるが、まさにその通りである。
実はこの本を知ったのは、読書好きなフォロワーの記事だった。そこで面白いと思ったのが、”日本の野焼き火葬では、野で薪を積み遺体を焼くのだが(他の国と違い)、濡れむしろを被せる。こうして死体を低い温度で蒸し焼きにする事で、骨がバラバラにならずにきれいに白骨化する”とあった事だ。
沢木耕太郎さんの「深夜特急」(インド編)では、遺体をそのまま(又は生焼き状態で)ガンジス川にドッポンと流すので、しばらくすると頭部が白骨化し、川の表面に浮いてくると記されている。
沢木さんは最初はメロンだと勘違いし、よく見たら頭蓋骨だったので仰天したという。
お陰で、ガンジス川での沐浴が様々な病気を撒き散らす事を理解した。
各国には、時代やそれぞれの事情に応じた故人の埋葬の形態が存在する。複雑であろうがシンプルであろうが、それぞれに意味があり、歴史がある。
先程のインドでは遺体をそのまま川に流すが、(決して悪気はなく)故人の生まれ変わりを信じているので、遺体に興味がないのだそうだ。
同じ様に(キリスト教では)”死後の復活”が信じられてるアメリカは、土葬が主流である。 ”遺体を焼く=復活できない”という合理的な考え方はアメリカ的でもある。
そんなアメリカもここ十数年、火葬の割合が急激に増えている。一番の理由は土葬にかかる費用が高すぎる事だが、自分らしさを大切に、自然環境や残された人々の気持ちにも配慮したい、という意識も影響してる様だ。事実、2000年には全体の25%だった火葬が、2015年には49%に達した。
火葬のコストは、通常1000~2000ドル(約12~24万円)ほどだが、土葬の場合は棺と墓土地代に穴を掘る費用だけでも5000ドル(約60万円)。これに通夜・祈祷・花代などの追加コストを含めると、簡素な最低限の葬式でも1万ドル(約120万円)にも達する。
コスト以外に注目されるのが、火葬が持つ利便性と柔軟性だ。葬儀を数ヶ月遅らせたり、別の州で執り行うのも容易であり、散骨したり、自宅に置く事も可能である。
一方で、環境に配慮し、遺体を天然の防腐剤で処理し、微生物の作用で自然に分解される材料に包んで土中に埋葬する”グリーン埋葬”にも人気が集中しつつある(Bloomberg)。
最後に
人は死ねば、みな土に還る。
だったら、”自分の望む形で自然に還りたい”というのが本望だろう。
確かに、魂が抜けきった遺体には意味はない。土葬であろうが火葬であろうが、先述のフォロワーのコメントにもある様に、”死んでしまえば、煮るなり焼くなり好きにしてもらって”という気分にもなる。
結局は、「土葬の村」に登場する”お棺割り”も”野辺送り”も(奇怪で堅苦しい事を抜きにすれば)土に還るという意味では、至極当たり前のことだ。
高価な埋葬もナチュラルな土葬も、或いは川にドッポンと放りこむのも、最終的には(バクテリアに分解され)土に還るのと同じ事である。
但し衛生面で見れば、日本の火葬が理想的だとは思うが。単純に土に還すのも、結構な手間が掛かる事を教えられた気がする。
手間と無駄が余計にかかるんですね。
でも、ガンジス川のドッポンには笑ってしまいました(失礼)。
私も火葬のほうがシンプルで余計な経費も無駄も掛からなくていいです。
火葬は理想的ですよね。
低温で蒸し焼きにするというのもアリとは思うんですが、何だか料理みたいで・・・
今は火葬式が多くなってきてますが、火葬が自治体で行われる様に、火葬式も自治体でやってほしいです。
そうすればもっと葬儀費も安くなり、遺族の負担も減りますからね。
でも少なくとも生焼きのまま河にドッポンだけはご勘弁です(笑)。
そうしないと死後硬直で膝が折れないで、棺桶に入れない。
49日後に遺体を掘り起こすというのも凄い風習だよ。
故人の尊厳という点ではとても忠実で純粋だけど、少し考えてしまう。
やはり火葬に軍配が上がるのかな。
読んでて私も考えさせられました。
ただ世界的に見ても、シンプルでコストの掛からない火葬が主流になっていくとは思いますが・・・
ある意味、純粋ですよね。
都心部なら多少は合理的に物事を考え、当時でも火葬にシフトしてた地域も多かったと思います。
田舎ならではとも思いますが、これはこれで潔いですよね。