先日久しぶりに、”真夜中の訪問者”と出会って、霊感が蘇ったかのような、懐かしさを覚えた(その1参照です)。その”真夜中の訪問者”である”霊”の存在ですが。霊とは神とは異なり、実在するとまでは言い切れないのですが。神様のように、人が勝手に作り上げた抽象的な存在ではない筈。
霊とは一体何者?
”霊とは、肉体に宿って肉体を支配する働きを持つもの、肉体を離れた人間の精神的本体又は魂”と、ウィキにはある。全く抽象的な説明ではありますね。
でも、世界中には神様を信じる人は異常なまでに沢山いますし、寧ろ信じない人が極端に少ない程です。神様の種類も千差万別、まるでその人固有の神が無数に存在するかの様です。でも、霊となると、信じる人と信じない人とに、ハッキリと極端に別れる。
そういう私は無神論者だが、霊は信じるという典型のひねくれ者である。
私的に言えば、霊とは、かつて生きてた人が死んだ時、魂の部分が肉体から抜け出し、宙を彷徨いながら天に召し、最後には異次元の世界に拡張する存在だと思う。いや違うか。
霊は見える筈がない?
勿論、生きてる人間にも魂は存在するし、霊のように勝手に独り歩きもする。ただ、霊とは、生きた人間の魂よりずっとエネルギー的には弱い筈です。
霊感の強い私も、苛ついてる時や気分が高潮してる時は、霊を感じる事は先ずありません。霊を感じるには、ほんの些細な霊特有の特異のエネルギーを感じ取る、特殊な感受機能が必要だと思うんです。
その為には、そういった特異で繊細な心を持った人でないと、嗅ぎ分けれないのでしょうか。また、霊の方も、そういった人に親密さを感じ、しつこく近付くのか。霊と波長が合うという事。
また、霊は脚がないから、そういった人に乗り移って移動する。単に、人を移動手段に使ってるに過ぎないのかもですが、霊も合理的に出来てんですね。
そういう私も、ブロンド娘の霊に付き纏われた事があります。これも次回の”その3”で紹介しようと思います。
と言っても、霊をハッキリと視認する事は不可能に近いですし、写真に撮るなんて事も勿論です。その人にしか見えないんですから。
脳内の海馬という記憶の領野にチップを埋め込み、高度なアルゴリズムを使って視認情報を取り出し、スパコンで解析し、映像として出力出来れば、可能かもですが。
霊と複素空間の密な関係?
ここで仮に、霊の存在を複素数の様に、肉体を実数部X、魂を虚数部Yとみなしてみます。互いの極つまり死においては、肉体という実数部は消滅し、ゼロ(霊)に収束しますが。魂という虚数部は無限大に昇華(発散)し、霊として存在し続けると定義できそうですね。
XY=一定という双曲線関数をイメージすればわかり易いか。
つまり、霊とは、重さやエネルギー(量)的にはよりゼロに近づき、質的にはより無限に発散し、天に召すという存在なのかもしれません。
故に、死んだばかりで報われない霊は、煩悩を背負い、重たいまま昇華する事なく、現実の世界を彷徨ってんです。時間が経てば煩悩も軽くなり、最後には極という天に召すと。
その無限に昇華する筈の”霊”も、アーベル総和法じゃないが。やはり、ある一定の有限値に収束するのだろうか?いや、ごく一部の霊は、ゼータの特殊値ζ(2)=π²/6 の様に、無限級数という霊が”無理数”という神に置き換わるのか?
故にヒトは、この無理数という実態のない神?の存在に憧れ、跪くのか。
霊は数である?
ピタゴラスじゃないけど、”数は万物であり、神様”なのかも知れない。実際に、彼は数の世界を魂の領域にまで踏み込んで考えてたという。輪廻転生とはその典型で、”群”の構造そのままですもんね。
ここにて数学と霊の世界がピタリと結び付くんですかな。”数は神である”とは言い得て妙ですね。
そう考えると、”霊”とは”数”そのものであり、素数と同様に、謎めいた特異なパターンを隠し持つのかも。素数の謎を問い詰めた結果、難関不洛のリーマン予想が出現した様に、霊を問い詰めれば、何らかの凄い予想が生まれないとも限らない。
霊を複素数に置き換える事で、霊というのが解明され、解析される日が来るかもしれませんね。丁度、2500年前のギリシャでピタゴラスが予言した素数の謎が、現代数学にて解明された様に。
ピタゴラスは、数学というものを数と量、静と動の4つに分けました。前述した様に、霊の重さは数で、霊の持つエネルギーを量とすれば、現実世界を浮遊する霊はまさに”動”であり、天に召された霊は、それこそ”静”と定義できます。少し強引すぎますがね。
こうして見ると、霊とはある一定の規則を持つ”群”(=輪廻転生)みたいな存在かもです。つまり、どんな操作を繰り返してもこの世に戻ってくるとかね。
神秘(スピリチュアル)とかカルトといった曖昧な世界で考えるよりも、こうした代数や幾何の領域で捉えた方が、近道の様なですが。
それでも霊の世界を信じますか?
それに比べれば、派手な沙羅装束を纏ったお坊さんが、供を読んで霊を鎮めるなんて、気休めか?それともペテンか?霊と話しをするなんて事も、全くのイカサマに過ぎんのか。
派手で大げさな葬式に出席する度に、欺瞞と疑問を感じるのは、私だけか。
”何もしないで土に返す”というのが、故人にとっては理想的だと思うが。お財布にも環境にも優しいし。
そういう私も、”霊の世界”を信じるか?と問われれば、やはり微妙ですがね。要は、霊というものをどう定義するかに掛かってると。逆に、複素空間的な世界の中に霊を閉じ込め、幾何や代数の力を借りて、霊を解析した方がずっと近道か。
ひょっとして、人類史上最大の難題とされる”リーマン予想”が証明された暁には、ある一定空間における、霊の数と重量とエネルギーが導き出されるかも知れません。
でも、こうやって数学的思考で霊を見つめると非常に、ユニークで解り易いですかね。
色即是空 空即是色
事実、”店長の道楽三昧”さんのブログでは同じ様な事が書かれてます。以下抜粋です。
色は実数であり、我々の認知できる世界で、空は虚数であり、我々のモノサシでは測れない世界だと。つまり、”色即是空 空即是色”とは、この世界は実軸と虚軸であらわされる複素数平面であるという事。
普段、我々は実数だけを意識して暮らしてますが、実は虚数も含めた複素数が同じ世界を構成してるのでは?
我々と書きましたが、人間だけじゃなく、動物や植物さらには鉱物や分子•原子までもが、人間と同様に実軸に位置してる。という事は”森羅万象全ての物体にそれぞれ固有の虚数部分がある”という事。
虚数部分は、例えば”神”や”魂”や祈り、意識、スピリッツ、オーラ、超能力、運など。目に見えないし、あるかないかもわからない、物事の動きに直接的に関係無さげな部分です。
”色即是空 空即是色”とは、宇宙の真理というものを端的に言い表している。数学と宗教いや、数学と現世とは繋がっていたのだ。
以上、私と全く同じ視点で、霊というものを捉えてる人がいる事に只々驚きです。
転んださん程には霊感は強くはないんですが、興味はありますね。エクソシストを見た時は、膝が震えましたもの。日本の幽霊は農耕的気質もあってか、大人し目ですが。向こうのやつは、結構派手です。でも、ポルターガイストなんか、ちょっとやり過ぎかと。
霊を数理的に捉える、という転んださんの感覚は、言い得て妙の様な気もします。結局、霊的エネルギーがあらゆる角度から解析され、数字で表されれば、解明される日もきっと来るでしょうに。
複素空間に例えられてますが。実部という現実空間と、虚部という”あの世”の世界を行ったり来たりしてるのが、霊と言う事でしょうか。転んださん的に言えば、スペクトルとなるのでしょうが。
霊の正体が判れば、お坊さんは失業し、葬儀屋もパッタリでしょうか。でも、マリリンモンローとかの霊と会話がしてみたいです。
実部という現実空間と、虚部という”あの世”の世界を行ったり来たりと。これこそ言い得て妙ですね。霊の世界も、複素空間にまで上手く拡張すれば、解明も早いかもです。
霊というものを、現実の空間の中で捉えようとするから無理や誤解がある訳で。人には見えない色や聞こえない音がある様に、そういった世界こそが複素空間でもあり、数学は大きく飛躍したのです。
そういう意味では、まだまだ霊の世界も、歴史が浅いのかも知れません。