”シン”の付く映画を見るのは3作目である。
「シン・ゴジラ」は期待させ過ぎたが故に、作り込みは良かったものの、結果的にだが凡作に映った。一方で「シン・ウルトラマン」はCGがとても美しく印象的で、懐かしく思えた。
今回の「シン・仮面ライダー」に関しては、正直殆ど期待してはいなかった。というのも、それまでの2作で、凡庸な映画になるのは(見なくても)明らかに思えたからだ。
勿論、アマプラで配信してなかったら、見る事はなかったろう。
結果から言えば、いい意味でも悪い意味でも予想通りだった。つまり、ドラマの仮面ライダーを超える事は出来なかった。
こうした単純な勧善懲悪モノを映画化するには、監督というより創造主としての資質や独創性が大きく物を言う。が、キャスト陣は悪くはなかったので、何が不足だったのか?何が物足りなかったのか?”シン”が余計だったのか?
見終わった後、そんな事を検証する気にもなれない自分がいた。というのも、仮面ライダーをどんなに弄っても漫画の領域を超える事はないからだ。
学生映画と仮面ライダー
監督の庵野秀明氏は、結局は学生映画の領域を抜けきれてはいない様だ。
いや、抜け出そうとは端から思っていない。もっと言えば、学生映画の作り込みを密にし、そのまま劇場で公開したかの様な出来でもあった。
TVドラマで印象的だったエピソードをまとめ上げ、2時間に凝縮したところで、そんなのを映画と呼べるのだろうか?
庵野氏によるディレクターズカット的なドラマのリメイクとして見れば理解できるが、TVドラマとは次元の違う仮面ライダーであってほしかった。
庵野氏にはどうも辛口になる私だが、学生映画は嫌いではない。故に、学生映画から抜けきれない庵野監督の気持ちも理解出来なくはない。だが、”シン”さえ付けとけば、庵野監督を贔屓にする多くの日本人は彼の作品を異常なまでに持ち上げ、劇場に足を運ぶだろうという楽観的な考えが見え隠れしないでもない。
テレビで見た仮面ライダーと映画で見る仮面ライダーは、全てが別モンであるべきだ。また、その覚悟も勇気も必要だった筈だ。
つまり、そうした本質を履き違えると、今回のような無味無臭っぽい作品に成り下がってしまう。そういう意味では、ゴジラもウルトラマンにも、なぜ”シン”を付けたのかは曖昧なままだった。
そういう私も未だに”シン”の意味が理解出来ないし、”シン”を付ける理由も理解出来ない。
映画は娯楽である。
少なくとも理屈ではない。しかし、評価するには(評価できるだけの)理屈が必要である。一方で、映画は芸術である。芸術を評価するには(理屈に加え)感性と哲学が必要であるが、昨今の映画には興行の部分が大きく、評価も曖昧になる。
つまり、傑作であろうが駄作であろうが、世間の注目を浴びさえすれば、今の時代では成功とされる。そういう意味では、庵野氏のシンのつく映画は(話題を振りまいたと見れば)成功とも言える。
故に、次元の低い幼稚な作品でも興行的に成功すれば、理屈抜きで傑作となりうる。
「ターミネーター」で成功を収めたキャメロン監督だが、「タイタニック」で映画の本質を履き違えてしまった。更に、「アバター」でも同じ失態を繰り返した。
但し、そんなキャメロンに比べれば、日本の映画監督はずっと優秀である。更に、ハリウッドには、日本の学生映画にも劣るメジャータイトルがゴマンとある。
これも庵野秀明という人の特性を表出する作品であったのだろう。彼が好きな人には”らしい”作品でもある。
いや、そう思う事にしよう。
そして、久しぶりに目にした仮面ライダーに乾杯である。
補足〜ハエ男とバッタ男
NHKで「ザ・フライ」が放送されていた。
当時はそんなに興味を覚えなかったが、今に思うと、とても気合のこもった作品に思えた。
この映画では、ハエと人間の遺伝子レベルでの融合を試みるも、結果的には出来損ないのハエ男の不幸な物語である。一方、仮面ライダーは出来のいい正義の”バッタ男”である。
私的には、4本足で歩くバッタ男というのもアリだったと思う。ドラマ「仮面ライダー」をもっとグロテスクにして、差別化を図れば、斬新な”シン”仮面ライダーを見る事が出来たであろうか。少なくとも、ドラマの総集編みたいな出来になる事はなかったろう。
しかし、所詮は”クモ男”(スパイダーマン)を超える事もないので、”シン”を付けても被りモノのヒーローの領域を超える事はない。
記事にする程の映画でもなかったが、仮面ライダーの何に私は期待したのだろうか?
小学生の時に”変身”ブームを巻き起こした”正義男”のドラマだったが、今から思うと何が面白くて見てたのだろうか?
映画って理屈や哲学を超えた、実に不可思議な娯楽でもある。
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