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ウィンストン・チャーチル”その4”〜失策続きの日々から”空白の10年”へ(第3話)

2019年02月09日 04時48分36秒 | 戦争・歴史ドキュメント

 前回「その3」では、第一次大戦でのチャーチルの失態続きの憐れな生き様を述べましたが。彼の事をよくよく調べてみると、単なる無能とか横暴とか支配欲だけでは描ききれない気もします。
 今回は第一次大戦後のチャーチルと”空白の10年”に至る経緯を述べます。少し長くなりますが、悪しからずです。


嫌われ者チャーチル?

 失策続きの”嫌われ者”は、第一次大戦後もしぶとく官僚のポストに居座り続けるんですが。以後も失態を繰り返し、次第に醜悪な化け物に変異していく。
 彼をこの様な悍ましい化け物にしたのは、彼を取り巻く政治や閣僚の腐敗、国内国外の世論やヨーロッパの動乱等も大きな要因になってますね。

 前回「その3」で述べた様に、カリポリの大失策(1914)の後、チャーチルは罷免されるも、しぶとく閣僚に残り、戦争会議では作戦指導を担当する。翌年の1915年8月、再びガリポリ上陸作戦を決行するも、更なる犠牲者を出しただけで、結局10月末にはガリポリ半島から撤退する。 
 この”ダーダネルス作戦”では25万人に及ぶ英仏軍の死傷者を出し、何も得る事なく終わった。ここにて、ダーダネルス作戦は完全に失効し、チャーチルも完全に失脚する。
 この無謀なしぶとさも無能と結びつけば、大きな犠牲を生み出す典型でした。 


軍人としてのチャーチル

 閣僚職を追われたチャーチルは、この年の11月には西部戦線に従軍する。何と英海外派遣軍総司令官のフレンチ将軍は、陸軍少佐の階級と連隊所属の第6大隊長の地位を失脚したチャーチルに与えたのだ。
 チャーチルも無能なら英国陸軍も無能ですな。罷免したたま牢屋に打ち込んでおけば、ヒトラーとも戦う事なく、第二次大戦に巻き込まれる事もなく、大英帝国は不滅だったかもしれないのだ。

 当然、軍部内では”政治家崩れの軍人”と批判が強く、議会内でも特に保守党はチャーチルの行動を妨害した。
 案の定、チャーチルの大隊は戦死者を多く出し、翌年の4月には指揮官から解任され、ロンドンに帰国するが。軍人としても無能無策だった。
 1916年12月、再戦派のロイド・ジョージ内閣が成立する。チャーチルは、保守党の反発を受けるも、ロイド首相の協力もあり、翌7月に軍需大臣として入閣(42歳)。
 その際ロイド首相は、”ダーダネルス作戦の失敗は、チャーチル一人ではなく、アスキス元首相にも重大な責任がある”とチャーチルを擁護する。

 1917年、アメリカが連合国側で参戦し、金融や物資の支援が増加。お陰でチャーチルは”戦車”の開発を急ぐ。11月のカンブレーの戦いでは400台近い戦車を投入し、その有用性を証明した。お陰でチャーチルは、しばし”戦車の父”と呼ばれるが。
 彼は後に、”政府が1915年の段階で戦車の有用性を理解してれば、戦争は1917年に終っていた”と、訴える。しかし、第二次世界大戦では”戦車不要論”が再燃し、”戦車の父”も忘れ去られる事になる。
 結局、アメリカの7月からの本格参戦が物を言い、僅か2ヶ月でドイツは休戦を唱え、1917年11月に第一次大戦が終結。
 戦争に勝利し、有頂天のチャーチルだったが。海外投資の縮小、国内産業の減退、アメリカと日本の台頭、それにロシア革命やアイルランド民族運動の脅威など、英国の受けた打撃や地位の低下は取り返しのつかないものになった。


第一次大戦後のチャーチル

 国際連盟創設による平和維持を訴えるチャーチルは、第一次大戦後の1919年に、ロイドジョージ内閣の元で、戦争大臣&空軍大臣に就任(45歳)。
 ”戦争終結後に戦争大臣になってもな”とチャーチルが愚痴ると、”戦時中にお前を戦争大臣に任命する変り者はおらんよ”と切り替えされる始末。
 その後は、労働者の激化するストライキに、軍隊を派遣し徹底鎮圧を計るも、ロイド首相に封印される。お陰で、労働運動は共産運動にまで発展した。
 チャーチルはロシア革命を阻止すべく、反共産主義を主導するも、労働党の反発をモロに食らい、その上、露への干渉戦争を嫌うロイド政権にもそぐわず、植民地大臣に左遷される。 
 結局、このロシア内戦はソビエト共産軍の勝利に終り、息を吹き返したソ連はポーランドに攻め込み、チャーチルを怒らせた。
 対ソ参戦も辞さないチャーチルだったが、これまた労働党に邪魔された。しかしチャーチルの怨念が通じたせいか、ソ連はポーランド制圧に失敗する。
 ”ボルシェヴィキが強くならないうちに倒さなかった事を、列強は後悔するだろう”と、ソ連と通商協定を結び、世界に先駆けソ連の存在を容認したロイド首相を、チャーチルは皮肉った。
 それに、ドイツを”反共の防波堤”にと目論んでたチャーチルは、ロイド首相がドイツに苛酷すぎるヴェルサイユ条約を課した事を批判した。 


植民地大臣チャーチルのアラブの支配

 第一次世界大戦に勝利したイギリスは、敗戦国のドイツやトルコの植民地や領土を”委任統治”という形で獲得し、大英帝国は過去最大の領土を領有するに至る。
 植民地大臣に左遷されたチャーチルは、先ず中東の委任統治をめぐる問題に頭を悩ませる。トルコに対抗する為、アラブの独立を約束したイギリスだが、同じ中東に植民地を持つフランスと対立する。

 お陰で英国の”大アラブ帝国構想”は粉々になり、イラクやシリアで暴動が発生。この鎮圧を任されたのがチャーチルだが、イラクに駐留する英陸軍を撤退させ、空軍が代りに秩序維持にあたった。 
 パレスチナ、ヨルダン、イラクの実質的支配を維持しつつ、彼らの顔も立てるという、”危い綱渡り”だったんです。
 一方、ユダヤ人のパレスチナ移住(バルフォア宣言)も、裕福なユダヤ人が無制限に入国&移民できる一方、貧しいユダヤ人は移住に制限がかけられ、この不平等な”ユダヤ問題”は過激さと非情さを増すが。チャーチルは見て見ぬふりするしかなかった。

 以降イスラエル独立までに、50万人のユダヤ人が英国の監視の元、パレスチナへ移民し、総人口の30%を占める様になる。
 結局、いつの時代もどんな人種も貧しい者がバカを見るんですね。

 一方で、長く拗れたままのアイルランド問題では、アイルランド自由国の独立(英愛条約、1921)を認める事で、チャーチルは暴動の鎮圧を計る。
 ”半世紀にわたるイギリス政治の苦しみであり、対外的にも関係悪化の原因だったアイルランド問題がこれで消滅する”と、チャーチルは胸を撫で下ろす。しかし、この条約が後の保守党(ボールドウイン)との大きな対立を生む事となった。 


落選続きの日々と失墜のどん底

 しかし戦争に飽きた世論は、政府の好戦的な態度を批判した。新しく首相に君臨した、元保守党首のボナー・ローは”イギリスは世界の警察官ではない”と述べた。
 反戦ムードの中、勢いがなくなったチャーチルは落選(47歳)。”私は一瞬にして、全てを失った”と回顧した。

 落選後チャーチルは、南仏のカンヌへ移住し、第一次世界大戦に関する著作「世界の危機」を出版する。この著作は、”世界史を装ったチャーチルの自伝” ”ダーダネルス作戦自己弁明”との批判もあったが、かなりの印税をもたらし、広大な土地を購入。失意のチャーチルはこの地に隠匿する。
 1923年、ボナローに代り、保守党のボールドウイン内閣が成立すると、自由党出馬のチャーチルは、”ダーダネルス作戦”を批判する労働党の反発を食い、再び落選(49歳)。「世界の危機」の大ヒットが裏目に出た結果となる。

 総選挙の結果、保守党に次ぎ、労働党が第二位に躍進し、隠居状態のチャーチルを怒らせる。”社会主義政権などが誕生したら、重大な国家危機が生じる”と、反共政権の樹立を誓い、自由党を離党する。 
 1924年1月、ボールドウィンが辞職し、史上初の労働党政権が誕生。自由党を離脱し、無所属のチャーチルは、ここでも保守党に阻まれ、三度続けて落選。
 しかし10月、反共を掲げる保守党が今度は労働党を下し、保守党に鞍替えしたチャーチルは圧勝する。
 ”社会主義者がブリタニアに着せようとしているドイツ製、ロシア製のふざけたボロ切れを脱ぎ捨てろ。彼女の盾は汚らしい赤旗ではなく、ユニオンジャックの旗でなければならない”と力説し、誇り高き英国民を鼓舞した。

 
念願の大蔵大臣に、そして政界復帰と

 同年11月の第二次ボールドウイン内閣では、チャーチルは念願の大蔵大臣に任命される(50歳)。この官僚職は父ランドルフが務めていた地位であり、次期首相最有力候補の職であったが為、感動のあまりチャーチルの目からは涙が溢れた。鬼の目にも涙とはこの事ですかな。
 ”大蔵大臣チャーチル”の事績として最も知られているのが、第一次大戦で中断されてた金本位制への復帰と、それによるゼネストの鎮圧である。
 大戦後、英国の輸出産業は新興国アメリカや日本に押され、弱体化し、世界金融の中心はイギリスからアメリカのウォール街に移る。
 ドルはポンドに先んじ、大戦終結直後に”金本位制”に復帰し、世界通貨の地位を確立した。焦る英国は金融の再興を狙い、戦前レート(4.86㌦/ポンド)での金本位制復帰を主張する。

 1918年の膨大な政府支出が故に、第一次大戦後の英国は急速なインフレが起きてたが、1920年以降はデフレになり、ポンドの需要は低下、物価は下がり失業率は高まる。
 お陰でポンド高が進み、1922年末には$4.63/£、24年総選挙後には$4.79/£と、戦前レートでの金本位制復活も大きな混乱なく実施できそうな機会に見えた。
 しかしチャーチルは、国際投資より国内信用の拡大を目指し、インフレ政策を主張したが。大蔵官僚や銀行総裁の説得を受け、戦前の輝かしい大英帝国に戻したいとの安直な願望から、何の準備もなく金本位制復活を宣言する(51歳)。

 動乱の時期の金本位制は理解出来なくもないが、結局はアメリカだけが美味しい思いをした金本位制。
 結局、アメリカは戦争で弱体化したした国から金を安く買い占め、独占し、後にヨーロッパは再び戦火に見舞われるんですが。事実、アメリカの”金の独占”が第二次大戦を引き起こしたとの声もある。 


大蔵大臣としてのチャーチル

 しかし、英国の金本位制復帰はポンドの過大評価であった。英国の輸出競争力は低下し、輸出産業、特に石炭産業が打撃を受けた。イギリス鉱山協会は、賃金切り下げを宣言。これに対抗し、炭鉱組合や労働組合会議はゼネストに突入する。
 実はチャーチルこそが、このゼネストを起こさせた張本人だとの噂も上がった。
 すかさずボールドウイン首相は、非常事態法を宣言し、労働運動弾圧を開始。しかし、その弾圧を最も強力に支持したのが、労働運動の背後に共産主義者の陰謀を見たチャーチルだった。
 すぐさまチャーチルは政府機関紙を創刊し、ゼネストが違法である事を訴えた。こうしたチャーチルの”口撃”が奏功し、ゼネストは失脚。
 結果、チャーチルの自作自演のマジックで、労働運動は遮られ、共産主義を鎮圧したんですね。珍しくアッパレですな。

 意気揚々のチャーチルは、イタリアを訪問した際、ファシスト党党首で首相のムッソリーニと会見。ファシズムこそがロシア革命の毒に対する最も有効な解毒剤である”と高く評価した。1925年9月、再び労働党が主権を握る。お陰でチャーチルは大蔵大臣を僅か1年足らずで罷免(悲)。仮に保守党が勝ってたとしても、所詮チャーチルは”嫌われ者”に過ぎず、失脚は免れなかったと。

 表向きは、チャーチルが自由貿易支持の為、保守党内の保護貿易主義者から不満を買ったとあるが。大蔵省の管轄外の事にまで口を出し、”閣議の和を乱す”という事が直接の原因だった。以降チャーチルは10年に渡り、閣僚から締め出される(空白の10年)。


最後に・・・

 以上長々と述べましたが、貴族の出でありながら庶民の味方であり、庶民の味方でありながら労働者の敵でもあるというチャーチルのユニークな別の一面を見てる様で興味深いです。
 チャーチルがもし植民地大臣のまま、或いは大蔵大臣のまま舵を取り続けてたら、どんなイギリスになってたか。
 結局、最後は戦争屋に成り下がり、大英帝国を消滅させ、ヨーロッパ全土を戦場にしてしまうんですが。もう一人のチャーチル、いやアナザーストーリーを見てみたいですね。



2 コメント

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チャーチルに裏切られた大英帝国 (paulkuroneko)
2020-03-14 14:14:21
ハーバートフーバー著に『裏切られた自由』があります。その中でフーバーはチャーチルを辛辣に批評してます。
フーバーはチャーチルが書いた『第二次世界大戦』を、表現力と語り口は魅力だが、偏見に満ち、都合の悪い事実を伏せ、自身に不都合な事実を隠蔽してると批判してます。

フーバーは実際にチェンバレンに会った時の印象をこう述べてます。
”知性では確実にボールドウィンとチェンバレンに劣ってた。反面チャーチルの弁舌、言葉を駆使する能力は二人を圧倒してた。”

つまりチャーチルは単に嘘が上手だっただけです
。一方ボールドウィンとチェンバレンは他者を気遣い、実直な態度を見せて接しました。彼らの言葉は真摯だった。故に、人を騙すスキルではチャーチルの敵ではなかった。

チャーチルは自身を気どってみせようと、記録を捻じ曲げ、事実誤った引用も多い。読者はその引用元の真偽を見抜く事は出来ない。だから、全く信頼するに足りない。

”私はチャーチルの語る事実や主張や結論をそのままでは信用しない。そして、彼の著作の殆どを無視する。しかし燃える様なドラマチックな語りには脱帽する”と、フーバーはチャーチルを結論づけます。

チャーチルの著作は、彼の狂った論説や腐った陰謀と同様に説得力あるインチキに過ぎなかったんですね。
本多勝一のインチキ著作と比較されますが、お互いに記者上がり特有の卑劣なやり口です。
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張本人はルーズベルトらしい (象が転んだ)
2020-03-14 17:16:47
フーバーはルーズベルトこそが第二次大戦の張本人だと口酸っぱく言ってます。
莫大な一次資料を元に論破するその執念は凄い信憑性があり、多くの日本人を驚かせてます。
悲しいかな、日本人にこれだけの事を言える人がいない事の方がずっと悲しいですね。

これに関してもブログ立てる予定です。
詳細なコメント有難うです。
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