20日ぶりのマクドナルドの更新です。今までこの「マクドナルド〜わが豊穣の人材」は図書館から借りてたんですが、古本で600円程だったので取り寄せました。ドケチの私にしては珍しい事です(笑)。
ビジネスや啓発モノとしては最高の部類に入る傑作本だと思います。まさに”今読むべき本”かな。
”Bihind the Arches”
1986年と今から30年以上も前の本ですが、日本人の長編嫌いにあわせ、全訳ではないというから、原書(Bihind the Arches)はもっと分厚い(496頁)んですね。全訳も読んでみたかったが、沢木耕太郎さんも言ってた様に、普通に翻訳すると3倍ほどに膨れ上がるというから。
原書がマクドナルドの発展と歴史と現状について、アメリカ人を対象に極めて微細な点にまで書き込まれてるので、日本の読者には負担が掛らない様に適宜省略してあるんです。
Bihind the Archesですが、”マクドナルド〜巨大なアーチの陰に支えられた真相と真実”という意味ですかね。”わが豊穣の人材”も悪くはないですが、そのまんま直訳でも良かったかな。
ジョン・F・ラブ
著者のジョン・F・ラブ氏は1年の予定で書き終える筈だったが、結局4年半掛ったと。マクドナルド社内外の300人以上とのインタビューを元に書き上げた本書は、脱稿における著者と計4人の訳者の、葛藤と模索がひしひしと感じられる内容です。
21世紀に入り、我々は前途をしきりに暗中模索しています。製造業はこのまま空洞化するのか?サービス業の好ましい未来像と実態とは?そんな中、マクドナルドは明らかに一歩先を見据えて走り続けたんです。
まさにクロックの天性と賭けが勝つか?ソナボーンの緻密な計算が勝つか?興味溢れっ放しの連続ですかな。
さてと、本題に入ります。前回はソナボーンとクロックの対立と葛藤を詳細に触れましたが。今回は、ソナボーンの失墜と誤算です。
二人の間で揺れるターナーの苦悩
ソナボーンが牛耳るシカゴもクロック派は健在だった。その筆頭が、後にマクドナルドの若き社長に君臨する”ゴールデンボーイ”フレッド・ターナーである。
しかし彼は、ソナボーンの現状維持路線に嫌気が刺し、転職を考える程落ち込んでた。ターナーは、師と仰ぐクロックに”事なかれ主義”のレッテルを貼られるのを恐れていた。
クロックが新商品に関する新アイデアを出す度に、ターナーは店の営業を混乱させると反対した。堪忍袋の緒が切れたクロックは、とうとう公衆の前でターナーを罵倒する。前回紹介した1966年のパーティーの時である。
苺ショートケーキのアイデアを、ターナーは執拗に反対した。当然、クロックの癇癪玉は破裂する。”このクソ野郎、俺のアイデアには片っ端から反対か!”
さんざん胸を小突かれ、コテンパンにやられたタキシード姿のターナーは、流石に深く落ち込み、お通夜の如くひっそりと引き上げた。
ターナーは、クロックの”メニューの拡大”よりチェーンの拡大を重要視してたのだ。
ターナーは振り返る。”全て見放されたと感じた。なぜクロックは我々を放っておくのか?”
シカゴに置き去りにされたクロックの信者達は、全米最大のチェーンの夢を目前にし、消極策に転じつつある会社にウンザリだった。その間にもバーガーシェフやバーガーキングの追い上げは、マクドナルドの王座を脅かす勢いだったのだから。
ソナボーンの失意と失速と
一方、ハンバーガーに対するソナボーンの情熱は急速に冷めていった。上場する以前は12勤務だったのに、今や僅か5時間に激変した。ソナボーン自慢の競争心や闘争心は根こそぎ失われつつあった。
デトロイトに3軒の店を貰う約束をクロックから取り付けたメルカープだが、ソナボーンが許可したのは僅かに1店のみ。
冷静沈着なソナボーンに、メルカープはブチ切れた。”アンタは大嘘つきだ”
流石にソナボーンは無言のまま。代りに担当者に指示し、2店の先買権を与えた。意外な棚ぼたを手にしたメルカープは、ここぞとターナーを誘う。
だが、ターナーは断った。”引き受けたいが、本社は経営の立て直しを迫られるだろう。俺はココに留まるよ”
ターナーは、クロックとソナボーンの関係が崩れるのを見抜いてた。ソナボーンは今がマクドナルドの”ピーク”だと考え、クロックはまだ”過程”に過ぎないと踏んでた。
ソナボーンの危惧した景気バブル
1965年の足踏み状態が終り、翌66年は50%増の126店を新たに加え、クロックは67年も同様の増加を期したが。この時もソナボーンはブレーキを掛けた。アメリカ経済の深刻な景気後退を危惧したのだ。
事実、66年末には不動産のスタッフまでが削減された。これだけでもクロックを怒らせるに十分だったが。ソナボーンはNY証券アナリストを前にし、アメリカの景気後退とマクドナルドの縮小政策との関連について語ったのだ。お陰でマクドナルドの株は7㌽下落した。
勿論、クロックは激怒する。拡大機運が全社内に高まりつつあるのに、ソナボーンだけが反対という極端な縮図になった。
しかし、現状はソナボーンの全く逆を走っていた。クロックが提案した、店舗経営者組合の出資による地方TVCFは、消費者のハンバーガー需要を大いに喚起し、新店舗の成功を盤石なものにしていた。60年代前半の売上は最高で20万㌦だったが、66年に入ると27万5千㌦に。創業当初の40%増だ。
つまりコマーシャルの支援を得て、マクドナルドは新しい市場への”大穴”(突破口)を開いた。TVCFというクロックの大きな賭けは、見事に的中したのだ。
66年ついにマクドナルドは、全国ネットのTVCFを打つ。この強烈なインパクトを齎すコマーシャルの効率を高めるには、全米に店舗を新設し、隙間だらけの市場を埋め尽くす戦略を長期に渡り、実践する必要があった。
こんな状況の中でのソナボーンの現状維持作であったのだ。
ターナーは振り返る。”あの現状維持は如何にも不自然だったし、明らかに間違いだった。しかし、彼は大恐慌の事ばかり語った。私はソナボーンの背中に、30年代の失業者の姿を連想したんです”
クロック陣営には、ソナボーンが常識すらも失った様に見えた。だがソナボーンは、経済的理由を元に事業の縮小を叫び続ける。彼一人が不景気を懸念してたのだ。ソナボーンは後にこう語ってる。
”不況の煽りをモロに食らった時、我が社はどんな危険な目に遭うんだ?マクドナルドは借金会社だぜ、拡大は全て借金で補った。もし都心部の店が倒産すれば、我が社はたちまち苦境に陥る。そんな危険があるのに、何故拡大し、危険を追い求めるんだ?”
不況到来?と縮小案と
故に、拡大計画はより慎重に行うべきだと、ソナボーンは考えた。そう考えるのは彼一人ではなかった。
事実、大戦後のアメリカは、かつてない程の高度経済成長を遂げた。70年代の基準から見ればまだ低いが、かつて経験した事のない高水準にまで、金利とインフレは上昇し続けた。専門家の多くが、この経済バブルは早晩破裂するだろうと予測していた。
マクドナルドの主要取引銀行の1つのアメリカン・ナショナルの会長アレン・スタルツもその一人。スタルツはソナボーンが最も信頼を置く財務顧問で、66年の勢いで拡大を続ける限り、過剰投資のツケを払わされると意見が一致した。
”当時のマクドナルドは自己資本がゼロであり、現状維持は妥当案だ。先でも拡大は出来る、今はより強力な企業体質を作る事が先決だ。確かにもっと発展できる機会を逃したかもだが、景気暗転のショックに耐えるにはこれしかなかった”と、スタルツは説明する。
結局、ソナボーンが恐れてた不況が襲ってきたのは、この3年あとだった。マクドナルドもその頃には、多少の不況には強力な体質を築いていたが。ソナボーンの計画的な現状維持策は適切な処置だったと、スタルツは今なお確信している。
”保険を掛けるとは、その間に死ななくてもそれなりの意義のある事なんだよ”
事実、ソナボーンの消極策を正当化する兆候は、本社のシステム内部にも現れ出す。平均売上は伸びてたが、拡大戦略の中で孤立したマーケットや発展途上のマーケットでは、赤字かトントンであった。原因はクロックが西海岸に移った後、フランチャイズの質が低下した事にあった。拡大した店舗を篩にかける能力が、本社のライセンス部門には欠けてたのだ。
彼らはクロックが苦心して完成させたライセンス基準を無視し、甘いチェックで対応していた。縁故関係や資金力さえあれば、難なくライセンスが手に入った。
”クロックは、30分も話せばその人物が適任かどうかを見抜いていたが。彼が西海岸へ移ってからは、いい加減な補充やふるい分けが平然と行われる様になっていた”と、後のライセンス部門の管理者であるケネス・プロップは語る。
これに対しソナボーンは64年に、ホワイトウィングという”削減”課を設けたが。既に慢性的に悪化していた。そこで彼は、プロップをこの課の主任に据え、赤字を出してる店の一掃を命じたが。処分できた店は僅かに2つ。
そこで彼は、フランチャイジー探しをやめ、有利なリース条件と格安の担保金をエサに、快く店を引き受ける経営者を見つける事ができた。これはソナボーンが、6年前に作った”店舗設備リース協定”の賜物であった。
”こうした苦い経験を元に、ソナボーンは現状維持を取るそれなりの理由を持っていたんだ。でも、本当の弱点が新店舗の拡大ではなく、真っ当なフランチャイズを育てられないライセンス部門の無能にある事に、彼は気付いてなかったのさ”と、プロップは振り返る。
結局、不況であろうが赤字の店があろうが、ソナボーンは営業拡大を巡って、クロックと衝突したに違いない。人種が全く違うんですな。
クロックは、今までマクドナルドが勝ち取ってきたものを、全て惜しみなく”賭け”に投じようとした。早いペースでの拡大策こそが、確実に”賭け”に勝つ最短距離だと、クロックは信じた。
一方、ソナボーンは違った。”会社経営を始める時は、1つの目的で借金する。借金を返済するという目的だ。だが金が一文もない時は、拡大に賭けても失うものは何もない。しかし、賭けに注ぎ込んでるのが我々のお金だとなると話は別だ。そんな状態での”賭け”は、ロシアンルーレットをやる様なもんだ”
ソナボーンの誤算
67年初め、ソナボーンは10年に渡る”規則的拡大”を軸にした長期計画を立てた。自身が予測した不況が去ったのに、新店舗建設は年に200と決めた。自らの資金力の範囲内で弾き出した計算だった。
ソナボーンの計画では、10年計画が終わる頃には、唸る程の大金が銀行に溢れ、借金はゼロになる筈だった。
しかし、ソナボーンはマクドナルドの潜在能力を過小評価していた。事実10年後の1977年は、予測の2000店未満ではなく、その数字を大きく超えた。
ソナボーンが取った10年間の長い消極的拡大策を、クロックは自身に向けられた侮辱と解釈した。自分の会社の将来性を信じきれないソナボーンに憤りを感じた。
クロックにとって、マクドナルドは壮大な夢溢れるビジネスだった。大切なのは経済分析や財務分析ではなく、インスピやイマジネーションであった。ソナボーンとの極端なビジネス観の違いが、後に大きな亀裂を作るだろう事は最初の日から危惧してたと、クロックは後に語ってる。
”私はマクドナルドをハンバーガー産業のトップに据える事しか頭になかった。だがソナボーンは、財務と経理の一点張りだった。ハンバーガーの事など全く理解してなかった。奴は営業について何も話せなかった。だから疎遠になったんだ”
それでも創業時の超ハングリーな時期は、お互いに性格の違いを我慢した。営業の逸材のクロックと片や、財務の辣腕家のソナボーン。そのニ人が一体となった10年間こそが奇跡だった。しかし、マクドナルドの株が公開されてから豹変した。
”私はソナボーンがマクドナルドを冷たい打算的なビジネスに変えてしまうのではとハラハラだったよ”
2人を引き離したのは、2人が懸命に働いて勝ち得た、まさにその”果実”だった。でもマクドが苦戦を強いられてる間は、お互いに拡大を願いつつ、懸命に力を合わせた。しかし、マクドがチェーンとして確立し、資金的成功に漕ぎ着けた途端、もっとスマートに金儲けがしたいというソナボーンと、胡散臭くも1つでも余計にハンバーガーを売りたいとするクロックと、完全に平行線を辿る事になる。
最後に
こうして見ると、映画「ファウンダー」やクロック自伝「成功はゴミ箱の中に」では殆ど語られなかったインサイドストーリーが、実に詳しく明快に描写されてる。まるで二人を仲介してる様な気分になる。
私は以前クロックの事を、脊椎動物的反射型起業家と揶揄した。強欲のみの叩き上げ型創業家とこき落とした。
勿論、そういう負の面は否定できないが、クロックの動物的洞察力は、ソナボーンの冷静沈着な考察と辣腕な知力を凌いでた様にも思う。
確かに、ソナボーンには3つの誤算があった。景気後退の時期、マクドナルドの過小評価、ライセンスの管理。勿論、クロックにもミスはあったが、運良く致命傷になる事はなかった。
結局は人が人を支え合い、企業はビジネスは成り立つ。ソナボーンにとって社員は、単なる”駒”に過ぎなかったし、マクドナルドは金儲けの手段に過ぎなかった。しかし、クロックにとってはかけがえのない”財産”だったし、夢でもあった。
ただ1つ言えるのは、クロックの野心がマクドナルドを誕生させ、ソナボーンの計算がその急成長の原動力と基盤になった事は、動かしようのない事実である。
時代の先を読むというのは、流石にソナボーンの卓越した計算をもってしても読めなかった。いや読めたんだけど、時期がズレた。一方クロックは非常にツイてた。博打が全て当たったって感じ。
結局、ヒトが企業を生み出し、ヒトが企業を支え合っていくんですね。そういう意味では、神はクロックに味方したんですよ、きっと。
ある意味、時代に見放されたソナボーンと、時代が味方したクロックですか。でも、マクドナルドの基盤を築いたのは、紛れもなくソナボーンです。それに、マクドナルドを急成長させたのは、フレッド•ターナーです。
クロックは2人の間に上手く入り込み、ソナボーンがミスを犯すのをじっと待ってたんです。西海岸に移ったのもその為ですかね。
クロックは馬鹿のフリして、"臥した"虎みたいに機会を伺ってたんですね。計算の上でもソナボーンの上を行ってたんです。
次回で詳しく説明しようと。今後もマクドナルドブログを宜しくです。