”前々回”では、十死零生の無謀な作戦で駆り出された若きエリート達の真実を、そして”前回”では、「特攻」の真相と実態とその成果について述べました。
今日は、「特攻」の最終回として、特攻を辞められなかった驚きの理由についてです。
1944年10月に最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎海軍中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。しかも特攻を”統率の外道”と認識していた。それでもなぜ?大西は特攻を推進し、続けたのか。
特攻が始まる1944年10月に先立つ7月、サイパン近海で両海軍が激突したマリアナ沖海戦では、帝国海軍は空母9隻と約450機の搭乗機を揃え、米海軍に決戦を挑んだ。しかし、空母16隻と900機を擁する米海軍に惨敗した。
ほぼ全ての航空機と虎の子の正規空母2隻を含む空母3隻を撃沈されたが、一方で敵艦は一隻も沈まなかった。アメリカには”マリアナの七面鳥撃ち”と揶揄された、世界の海戦史に残る壊滅的大惨敗でもあった。
以下、”日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった驚きの理由”から一部抜粋です。
苦肉の策?
大西はこの惨敗の後、連合艦隊司令長官の豊田副武に語った。
”中には単独飛行がやっとという搭乗員が沢山いる。こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけで、とても成果は挙げられない。体当たりで行くより外に方法がないと思う”
特攻の実情を精密に分析した小沢郁郎によれば、何とか飛ぶ事ができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは”ヨチヨチ歩きの段階”である。毎日3時間飛んでも最低でも100日は掛かるのだ。
当時、”血の一滴”と言われた貴重な航空燃料も相当に費やした。
そうして膨大な時間と大切な燃料を費やして育てた搭乗員を、ただでさえ劣勢な戦場に送っても戦果は一向に上がらず、反比例する様に戦死者が増えるばかりだ。
”同じ戦死するならば、命中率が高いと思われた特攻に踏み切ろう”という判断だったと思われる。それに先に述べた”最初の特攻”で大戦果を挙げた為、特攻の火花と美学は更に拡大していった。
しかし、米軍側が対策を整えるにつれ、敵艦に突っ込むどころか敵艦隊に近づく事すら難しくなる。当然、戦果も期待した程にはならなかった。
それでも、大西を初めとする海軍首脳は特攻を続けた。敵にダメージを与えられる戦術がそれしかなかった、という事もあるが。
”民族的記憶遺産”を託す為に?
1944年10月、大西が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに向かう前の事だ。大西は多田力三中将(軍需省兵器総局第二局長)に特攻構想について話した。
多田が”あまり賛成しない”と述べた所、大西は”たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国の為にこれだけの事をやったという事を子孫に残すのは有意義だと思う”と話した。
更に大西は、”もはや内地の生産力をあてにして戦争をする事はできない。戦争は負けるかもしれない。しかし、後世において我々の子孫が先祖は<かく戦えり>という歴史を記憶する限りは、大和民族は断じて滅亡する事はないであろう。我々はここに<全軍捨て身、敗れて悔いなき戦い>を決行する”と話していたという。
2つの大西証言がその通りだったとしたら、大西にとって大切だったのは戦果だけではない。後世の人々に、自分たち先祖がどう戦ったかを記憶してもらう事、いわば”民族的記憶遺産”を託す事だった。
それと大西にはもう一つ、特攻を続ける理由があったのかもしれない。それは、その”作戦”を続けていれば、いずれ昭和天皇が停戦を指示するだろうという期待だ。
実際に天皇は、この特攻をどう受けとめていたのだろうか。
海軍に続き、陸軍が航空特攻を始めたのは1944年11月12日。フィリピン•マニラ南方の飛行場から”万朶隊”の4機が飛び立った。大本営は翌13日、”戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈”と発表した。
同日、梅津美治郎参謀総長が昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は”体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ゲ、ヨクヤッテクレタ”と述べた。
これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対し、”特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ、低空デ非常ニ戦果ヲアゲタノハ結構デアッタ”と話している。
”あんなに敵弾を受け”云々という内容から、天皇は特攻の写真もしくは動画を見たのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは、(少し信じ難いが)天皇が”特攻の戦果を喜んでる”事が分かる。
因みに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述があるが。特攻の場面から分かる通り、天皇の生々しい肉声が削られている憾みが残る。
ともあれ、先に見た大西の狙いは、仮にそれが事実だったとしたら、完全に外れた事になる。
その他の特攻
特攻と言えば、航空機によるそれがよく知られている。しかし、軍艦などによる水上特攻もあったし、改造した魚雷に人間が乗る水中特攻、更には上陸してくる敵戦車などに、爆雷を抱いて突っ込む陸上特攻もあった。
実際には、航空特攻の死者よりこれらの死者の方がはるかに多かった。
例えば1945年4月、沖縄に上陸した米軍を撃退すべく出撃した戦艦大和以下10隻の艦隊を、海軍首脳は”水上特攻”と認識していた。この大和艦隊の死者だけで3000人を超える。
敗戦が決まった翌日の同年8月16日、大西瀧治郎は割腹自殺した。遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、かつ彼らと遺族に謝罪している。
”特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉/彈として散華せり然れ/共其の信念は遂に達/成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊とその遺族に謝せんとす”
大西はさらに、一般青壮年に向け、”(前略)諸子は國の寶なり/平時に處し猶ほ克く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と世/界人類の和平の為/最善を盡せよ”と綴った。
結局大西は、後世の日本人が”特攻精神”を継承する事を、最後まで望んでいた事が分かる。
果たして大西の願いは叶ったのか?
ところで、大西が前述の多田中将に特攻構想を明かした際、多田が強く反対してたらどうなっていただろうか。それでも、まず間違いなく”特攻”は遂行されただろう。なぜなら、特攻は一人大西だけでなく、海軍上層部の意思だったからだ。
如何に海軍航空部隊育ての親の一人と言えど、大西は一中将である。大西一人では、”成功=死”という無謀な作戦を始める事は単発的にはできたとしても、特攻を組織的に継続する事は不可能であったろう。
例えば、1944年10月25日に”敷島隊”が突っ込む前の同月13日、軍令部作戦課参謀だった源田実が起案した電報には、神風特別攻撃隊の隊名として、既に”敷島隊”や”朝日隊”などが記されている。
また、軍令部作戦部長だった中澤佑少将によれば、大西はマニラ着任前に及川古志郎軍令部総長に会い、特攻の”諒解”を求めた。
同席した中澤によれば、及川は諒解し、”決して命令はして呉れるなよ”と応じたという。
この席で本当に大西から航空特攻を申し出たかどうか?は疑問も残る。何れにしても、海軍の実質的最高責任者である軍令部総長が特攻の遂行に同意していた事は確かだ。
更に言えば、実は航空特攻以外の特攻は、”敷島隊”のずっと前から決まっていた。”人間魚雷”である「回天」の試作が始まったのは1944年2月である。
”自分も後から続く”と約束しながら、長い戦後を生き延びた将軍に比べれば、いや比べる意味がない程に大西は潔かった。
その大西の願いである”民族の記憶”は実現したと言える。敗戦から71年が過ぎた今日まで、特攻は時に祖国愛や同胞愛を語り、振り返る文脈の中で語られ、少なくとも現代人の感動を呼んではいる。
それは、”家族や国を守る為、自ら命を投げ出した若者たち”に対する共感や同情であり、”戦争で亡くなった人たちの尊い犠牲の上に、今日の繁栄と平和がある”という美談にも近い歴史観にも通じるからだ。
本当に死者たちを悼むならば
こうした”尊い犠牲=今日の繁栄と平和”的史観は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばし口にするフレーズだ。
筆者の栗原氏は、この歴史観に同意する。いや同意はするが、そのフレーズには危険性が孕んでる事も感じてはいる。
それは沢山の犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。
本当に死者たちを悼むならば、以下の事を考えるべきだと、筆者は思う。
例えば、”沢山の人が死んだ戦争を始めたのは誰なのか。或いはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても何故、降伏しなかったのか?
そして、特攻を始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか?とらなかったのか?”と。
それでも、”特攻は志願だった”と?
戦後、特攻隊を送り出した無責任な上官らによって「特攻」はそう物語られてきた。
しかし、意思を全く聞かれないまま特攻隊員にされていた人も沢山いた。筆者は、水上特攻として動員された戦艦大和の生還者20人にインタビューしたが、”作戦”参加の意思を聞かれた人は唯の一人もいなかったのである。
そして注目されがちな航空特攻と違い、忘れ去られた特攻隊員も沢山いる。例えば、満州の荒野で押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ兵士たちだ(「ノモンハン」参照)。
他の民族がそうである様に、私たち日本民族も自分達の歴史を誇らしいものとして記憶しがちだ。それ故、特攻も”美しい物語”として記憶されてゆくだろう。
そういう側面があった事は確かだが、そうではなく強制されて死んでいった若者たちが沢山いた事、更にはそうした死の多くが忘れ去られてしまってる事もこれまた”悲しい現実”である。
最後に
「特攻」の著者である栗原俊雄氏の無念が、熱く強く等身大に伝わってきそうなコラムに圧倒されましたが。これこそが”特攻”の現実であり、実態であり、真相である。
私達は、映画などで潔く美しく描かれた特攻のシーンをしばし目にする。
特攻に出向く前の若き航空隊員たちが、同じ死に行く同胞たちと日本酒を酌み交わし、”天皇陛下バンザイ”と叫び、敵艦隊へ突っ込む所で、映画の幕は閉じる。
勿論その瞬間に、私達の”特攻の記憶”はそのままの姿で途切れる事になるが、特攻の記憶は亡くなっても、特攻の真相はなくならない。
実際には、日本酒ではなくマリファナや大麻を吸っても、膝の震えは止まらなかったという。”お母さん”と泣き叫びながら、死に急いだ若者たちが殆どだろう。
我々の記憶は曖昧である。美化された曖昧な記憶もいつかは消え去る。故に、真実を掘り起こし、真相を見極めようとする勇気が今こそ必要なのかも知れない。
栗原俊雄の「特攻〜戦争と日本人」を読んで、そんな思いを強くした。
シンガポールまで届きそうよ💧
でも長〜い記事読んで頂いてこちらこそ感謝です💧
何らビジョンやプランもなくアテずっぽで戦場に飛び込んだ日本軍と、新型ウイルスに関して何ら具体的方針もなくダラダラと対応を遅らせる。
専門家は暗中模索の中で出任せを言い、メディアはそれに輪をかけてデマを撒き散らす。
終戦間際に下手なプロパガンダを流し続けたメディアや政府と全く同じです。責任の所在を曖昧にする悪しき伝統が蔓延ったままです。つまり特攻の精神は未だに息衝いてます。
反戦の誓いも平和主義も結構ですが、思考回路を変えないとこの島の住人は死滅します。
感じるナ~
共に逃げ場のない恐怖と対峙し
敗者に対する忠義に散る
だが、前者は錦の御旗に抗する
側に回ってシマッタ
山本太郎率いる「れいわ」新選組は
もうエイワ
ところで、山本太郎率いる”れいわ”新選組は今何ヤッてんでしょうね。話題にすら上りませんが、所詮選挙の時だけ騒ぎ立てる”どーでもエエワ”新選組なんでしょうね。
やりきれんね
目を覆いたくなる様な真実ですが、これが日本人の真相なんです。
見る度にその都度考えさせられます。
コメントどうもです。