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写真は、ルー•ゲーリック(左)とのツーショットです。二人は、最初は師弟関係で仲良かったんですが。事もあろうに、ルースがゲーリックのカミさんとヤッてしまい。それから、犬猿の仲になったらしいです。でも、ルースもゲーリックがいたから、頑張れたし、あそこまで偉大な選手になれたんです。
59本の前人未到の大記録を打ち建てた1921年は、ルースの実質の絶頂期とも言われる。もはや、ルースを抑え込む人間は、アメリカ全土にはいないと思われた。
この1920年代、ラジオは"時代の脅威"と言われ、全米の家具販売の1/3を占め、1922年には、28局から570局に増えた。今で言うスマホみたいなもんですかね。
まさに、この第一期黄金時代のアメリカは、ルースと共に大きくなり、そして我が儘になっていくのです。
悪の帝王ランディス
しかし、この年のオフに大きな障壁が。グラウンドの裸の大様ルースに対し、球界の首領が立ちはだかる。
初代コミッショナーのランディスは、僅か1年目から独裁的な地位を固めに掛かった。まず、ルースの出鼻を挫く為に、彼が楽しみにし、大きな稼ぎにもなってた、オフの巡業を禁止した。
このランディスって、ほんとに悪い奴なんです。”ブラックソックス事件”の生みの親で、元判事のコイツがです。タマニー派よりもずっとあくどい(”野球とNY、その8”参照です)。
もし、ルースがランディスに徹底抗戦しなかったら、大リーグは不正と汚職のまま、衰退したと断言する。それに、このゲス野郎は、有能な黒人選手を拒絶しました。彼の死後、ジャッキー•ロビンソンが黒人初のメジャーデヴューしたのも皮肉ですね。
タイカップも八百長に手を染めたんですが、処分されたのは、当時最高の選手と言われ、ルースが憧れたジョー•ジャクソンだった。そのルースも以降、ランディスにはかなり絞られる事になる。
両リーグのコミッショナーもヤンキースも、仕方なく新コミッショナーに従った。メディアも"善悪の判断よりルールの尊重を優先する"と、ランディスを支持した。
しかし、ルースに対しては、ゆっくりと料理した。
"どんな英雄も時期が過ぎれば大人しくなる。ルースが野球を創ったんじゃなく、野球がルースを作ったんだ。ルースはルールに従うべきだ"と、ランディスはじわりとルースを追い詰めるのだ。
ルースか?ルールか?
この"ルースか?ルールか?"の大論争は、以降延々と繰り広げられた。
当然、ルースも反論した。
"野球界で誰がNo.1かを競ってんじゃない。地方のファンに一流選手のプレーを魅せたいだけなのさ"
以降、ルースがいなくなった今では、"アメリカかルールか"ですが(笑)。
ヤンキースのオーナーのルパートは、ルースを必死で説得した。"出場停止になったらどうなる、球団の事も考えろ"
結局ルースは折れたが、ランディスは彼を許さない。
GMになったばかりのエド•バロー(ルースのBOS時代の監督)が2人の間に入り、ルースを含めた3人の選手に、3300ドル(WSの報奨金に相当する額)の罰金とシーズンの6日間の出場停止を言い渡す事で決着を見た。
以降憤慨したルースは、監督から上の人間を全て敵に回す事になるが。
ルースはこのオフ、年5万2千ドルの5年契約で渋々?契約する。が、彼は馬鹿じゃなかった。球団の純益を100万ドルと計算し、その10%の10万ドルは貰う権利があると考えてた。それでも前年の2万ドル(ボーナス込)に比べたら大幅増だ。
しかし、当時この額が、どれ程凄いものであったか?球団2位のベイカーですら、1万2千ドル、レギュラークラスで平均4千ドルの頃である。今なら60億円?以上に相当するだろうか。因みに、ルースが引退して10年経った時ですら、大リーグの最高はゲーリックの3万ドルだったのだ。
因みに、ルースのスイングは34m/s(約133km/h)で、飛距離は150mに達するとの調査結果がでた。また、根気を調べる臨床試験では被験者中最高位を示した。
暗室での反応も常人より20mm秒早く反応するなど、超人的な計測を記録した。多分、今の軽いバットなら、200km/hのスピードが余裕で出てたろうか。
この結果にチームメイトは呆れ返った。
”ルースは生まれたんじゃない。奴は木から落っこちて来たのさ”
落ち目のヒーロー?
1922年のシーズンは、停止処分のルースを含め、主力3人を欠いたが。ボストンから主力の3人をを引き抜き、4月と5月を首位でキープ。
"ルースがいなくてもやれるじゃないか"
休み明けのルースは全くの体たらくだった。英雄の出現を喜ぶ以上に、大衆は落ち目のヒーローをこき下ろした。
不振のルースは塁審の判定に激怒し、退場処分を食らう。激怒したファンにルースも応えた。ファンは一斉に罵声と怒声を彼に浴びせた。
この時、ルースは初めて、自分の存在の大きさとその影響力に気付いたと言われる。
ルースの不振は、チームの団結も危うくした。監督とのトラブルも絶えない。流石に、4度目の出場停止には、彼も反省した。
でも、チーム内には放蕩グセが蔓延していた。周りは常に、ノミ屋や酒の密造屋や娼婦が取り巻いた。賭けの額も半端じゃなかった。昨年のブラックソックス事件も真っ青の状態が、グラウンド内外でも続いた。
しかし、夏になると、チームは好調に転じる。共同オーナー兼GMのエド•バローは、またまたBOSから主力を引き抜いた。
因みに、翌年のWS時の24人の登録の内、何と11人がボストンの選手だった。
それでもチームには内紛が続く。ルースも5度目の出場停止を受けるも、何とかリーグ制覇を果たす。
意外に知られてないが、ルースはカーブが苦手だった。この年のWSでは、NYジャイアンツ投手陣のカーブ攻めに合い、完璧に封じ込まれた。2年連続でNY対決に敗れ去る。
結局シーズンも、110試合で35本(3位).315、99打点と、5度の出場停止と6週間の処分が、最後まで足を引っ張った。
漫画家との運命の出会い
メジャー9年目になっても、ルースの放蕩グセは半端なく、春のキャンプ時は財布の中は殆ど底をついた。
そんな時、スポーツ漫画家上りのウォルシュと運命的な出会いを迎える。
実は1921年の開幕前、彼はルースにHRを打つ度のコメントを、5ドルから500ドルに引き上げると約束した。前年の54本なら、僅か270ドルから何と2万7千ドルになる。
この年棒の半分を占める儲け話に、ルースは大喜びし、直ぐに飛びついた。
彼に払った契約金はわずかに千ドルに過ぎなかった。特に、WSの記事は受けが良く、何と7万ドルに達する時もあった。
放蕩グセのあるルースは、この財政のスペシャリストを手に入れ、完全復活する。
ウォルシュは更にルースを説得し、巨額な収入の一部を年金制度に投資するよう説得した。お陰で持ち前の浪費癖にも拘らず、1929年の大暴落にも殆ど影響を受けず、死ぬまで経済に困る事はなかった。
まさに、持つものは友である。
このウォルシュとの出会いがなかったら、ルースはこのまま新しいヤンキースタジアムで日を見る事なく、落ちぶれてただろう。
ルースが建てた庭
1923年、球団はブロンクスに250万ドルもの巨額を投じ、ヤンキースタジアムを開場した。
因みにヤンキースは、NYジャイアンツの本拠地であるポログラウンズを、1913年から22年まで間借りしてた。当時ブロンクスは田舎だったから、NYにしては治安もよく、立地条件としては最高でもあった。
ヤンキースタジアムの名前は本来なら"ルース•フィールド"だったが、オーナーのルパートが反対した。僅か1年の突貫工事で建てられた、この"ルースの家"のこけら落としには、何と7万を超える観衆が集まった。
この"ルースが建てた庭"で記念すべき第一号を放ったルースは、この記念すべき年に完全復活し、3割9部3厘、41本塁打で、打撃6冠に輝く。
出塁率は5割半ばにまで達した。ただ、三振も僅かに93個だがリーグトップだった。今では200を優に超えるから、如何に振り回すルースですら、三振が少ない選手であった事か。
ルースは、ここ2年間の鬱憤を晴らすかの様に打ちまくり、WSでは3年連続のNY対決を制し、球団初の世界一に導く。
因みに名門ヤンキースは、ルースが全盛期の1921年から1928年まで第1期黄金時代を迎え、リーグ6回優勝し、ワールドシリーズも3回優勝した。
翌年の1924年も、チームはリーグ4連覇を逃すが、ルースは好調を維持し、初の首位打者に輝き(.378)、46本塁打と打撃2冠を果たす。
しかし、再び大酒を食らう様になる。小柄なハギンス監督を”ノミ”呼ばわりし、以降二人は最悪の仲となった。このハギンズ監督も、ルースの晩年は父親代りになるのですが。
勿論、ルースには敵も多かったが、それは嫉妬ゆえであり、真意で敵視してる人は少なかった。本気でルースを嫌う人はいなかったのだ。
それに、このランディスは、有能な黒人選手を拒絶した。彼の死後、ジャッキーロビンソンが黒人初のメジャーデヴューしたのも皮肉ですね。
コミッショナーのランディスは全くの癌ですよね。元判事の権限を生かして、威張り腐るのですから。同じ八百長疑惑のタイカップは許されたというから、本当に不公平過ぎる。
せめて、1年間の出場停止とか、謹慎処分とかその程度でしょうか。
ブラックソックス事件はアンラッキーナンバー8ともいわれますもの。