先日の「前半」では、数学を題材にした映画を幾つか紹介し、”数学のセクシーさ”をアピールしたつもりである。
それら以外にも、私が知ってる限りではだが、「スニーカーズ」(1992)、「コンタクト」(1997)、「エニグマ」(2002)、「イミテーションゲーム」(2014)、「ラスベガスをぶっつぶせ」(2008)、「アルキメデスの大戦」(2015)、「軌跡がくれた数式」(2016)、「ドリーム」(2016)、など挙げればキリがない。
この中でも印象に残ってるのが、MITの数学の天才学生たちが、ラスベガスのカジノで荒稼ぎした実話を描く「ラスベガスをぶっつぶせ」である。
ブラックジャックの”カードカウンティング”事件を題材とした大ヒット小説の映画化だが。事実、ブラックジャックはギャンブルの中でディーラーよりもプレーヤーの方が有利である数少ないゲームである事が、確率論によって証明されている。
この様に、数学は様々な場面である時は残酷にユニークに、そしてある時は爽快かつ痛快に描かれる。勿論、映画に登場する数学は観客に判り易く映し出されるが、大衆に受け入れてもらうには、スクリーン上での多少の歪曲や脚色も時には必要だろう。
ただ、数学者とヒロインの甘いラブストーリーを描いたノンフィクションも目立つが、数学そのもの持つ威力や凄みや美しさを露骨に描いた映画は、そこまでは多くはない。
そこで、前回の終りでも少し述べたが、アインシュタインの重力方程式(一般相対性理論)がなぜ美しいのか?
それは(多くの物理学者によればだが)数学は肉体(エロス)で、物理こそが魂(プラトニック)であるからだ。
つまり(私的に言えば)、美しくエレガントだけでは女ではない。セクシーでエロくなければ、女とは言えない。そうした数学の中核をなすセクシー(いや悩ましいエロ)さを、今日は掘り下げてみたいと思います。
数学はなぜ?セクシーなのか
物理学の進展と共に方程式も変わる。どんな物理学者もいや、アインシュタインでさえも、この進化の影響とは無縁ではない。
事実、ニュートンの重力理論がアインシュタインに道を譲った様に、アインシュタインの物理学も彼の方程式では説明しきれない量子力学と整合する新理論に道を譲らなくてはならない。そういう意味では、アインシュタインの理論も”何かが欠けてる”のであり、単に”近似として正しい”に過ぎない。キツく言えば、根本的な深い部分において”間違っている”のだ。
しかしだからとて、アインシュタイン理論に数学的な美しさが失われたりするだろうか。
アインシュタイン理論が(完璧に正しい訳ではないと解った)今でもなお美しいその理由は、それが”鍛え上げられた論理に基づいてるからだ”と、著者のナーイン氏は熱く語る。
確かに、彼は新しい物理学を創り上げた。しかし無理やり創り上げた訳ではないし、一方で、ある種の厳しい制約を満たしながら作られたものだからだ。
この本では、数学的に最も美しいものとして、複素数の解析において中心的な公式の1つであるオイラーの公式”eⁱᶿ=cosθ+isinθ”、(但し、i=√(-1))を取り上げる。
この美しい公式は、映画「博士の愛した数式」(2006)でも有名だから知ってる人も多いだろう。θ=πの時は、eⁱᶿ+1=0となるが、この表示には至高の美しさが凝縮されている。
その理由は、(見て解るように)莫大な制約を内包していながら、なおその式が”真実”だからだ。
それに、式の中に現れる5つの数は1つ1つが全く異なる起源を持ち、そのどれもが数学史において言い尽くせない程の重要な役割を担っている。その上、それらがこれほど簡潔な関係で結ばれてるとは、まさに”驚き”である。
これこそが数学の極限の美なのだ。
今ある物理学も化学も工業も、遠い未来の専門家から見たら、それらの殆どが廃れちまってるだろう。が、オイラーの公式は1万年後にどんなに数学が進化しても、その美しさは輝きを失う事はない。
ドイツの偉大なる数学者ヘルマン・ヘイル(1885-1955)は冗談半分で言い放った。
”私は研究では、常に真理と美を統一しようとしてきたが、いずれか一方のみを選択しなくてはならない局面では、多くの場合には美を選択してきた”
確かに、真理のみを追求しようとすれば必ず大きな壁にぶち当たる。しかし、美を追求すれば(壁にぶつかったとしても)その余韻に浸る事はできる。
たとえそれが幻想や妄想だとしても、偉大な数学者には難題を突き動かす大きな原動力になりうるのかもしれない。
事実、ひときわ美しい複素数の計算は、オイラーの公式に基づいてるのだから・・・
PopCo
数学を”セクシー”と取り上げた小説、は本書以外にも存在する。
英国の新進女流作家スカーレット・トーマスの「ポプコ”PopCo”」(2004)を小山氏は、その一例に挙げる。
大手玩具メーカー(ポプコ)に努める29歳のOLのアリス・バトラーは、極秘プロジェクトの為に山中の研究施設に送られる。彼女は幼少の頃に母を亡くし、父は海賊の宝を探し求めて失踪した為、祖父母に育てられた。
祖父は数学パズルの執筆者で、祖母はリーマン予想の解決に人生を捧げてきた数学者であった。祖父はかつて海賊が残した暗号の解読に成功し、それが父の失踪の原因となる。
祖父は解読の結果を秘密にしたが、解読した証として幼女のアリスに文字列”2.14488156x48No”と書き込まれたペンダントを託す。アリスはその意味を全く知らぬまま成長し、ポプコに就職した。
研修中、アリスに匿名のメモが届く。暗号で書かれたメモを彼女は解読し、送り手の見当をつける。社内の誰なのか?失踪中の父親か?ペンダントを狙う人物か?それとも恋人のベンなのか?・・・
数学を題材にした小説としては、(本文中で述べられてる意味において)極めて”セクシー”である。
数学者アレック・スカスマンの書評によれば、”ここで扱われてる題材は幅広い。深く掘り下げられてるものもあれば、チョットだけのものもある。列挙すると<カントールの集合論><素数><公開鍵暗号><リーマン予想><ゲーデルの不確実性定理><連続体仮説><論理学におけるパラドクス><フィボナッチ数列>などである。巻末には最初の千個の素数表に加え、チューリング、エルデシュ、ハーディといった数学者のエピソードまでもが添えられている。
著者のトーマス氏は、数学を題材とした小説に見られがちな2つの問題を見事に克服した。1つに、数学の詳細に拘るあまり、ストーリーの流れを損ねてしまう事。2つ目に、数学者に対する固定化されたイメージ(精神を病み、非社交的で変人etc)に頼りすぎる事である。
本書で描かれる世界では、洗練された数学が日常会話の中に登場し、全く不自由さを感じさせない”
実際にアリスは、家に残してきた飼い猫を気に掛けながら渋々と会社の極秘命令に従う、ごく普通のOLである。オシャレもするし、恋もする。異性とのSEXの場面も描かれてるし、そこに”数学オタク”のイメージはない。
つまり、数学やアカデミックの世界ではタブー視されたセクシーな側面が、本書では存分に描かれている。
日本における数学振興の為にも”邦訳が待たれる一冊である”と、小山氏は熱い期待を寄せる。
最後に〜本は読むべきだ
以上、「オイラー博士の素敵な数式」(訳 小山信也)の序文と注釈からから長々と抜粋しましたが、ここまで書けば、この本の意図する所は何となく把握はできるでしょうか。
確かに日本では、こういった類の小説は殆ど見当たりません。医者や科学者を扱ったドラマは結構存在するが、数学そのものを題材にしたドラマや映画は少ない。そういう意味では「博士が愛した数式」(2006)はとても出来が良かったし、印象に残っている。
数学はややこしく気難しい学問でもある。が故に、大衆にはなかなか理解されにくい分野でもある。
前回も紹介したが、ドラマ「NUMB3RS」の第6話(少女誘拐事件)にはリーマン予想が登場する。
RSA暗号は素数を使い、2つの鍵(公開鍵と秘密鍵)を作るが、”リーマン予想”を解く事で、”リーマンの素数公式”からRSA暗号を解く鍵(アルゴリズム)が判明する?らしい。
しかし、貧乏数学者のリッチーが自ら誤りに気付き、結局リーマン予想は解けない、が、犯人グループの目的(がRSA暗号を解く為の鍵の入手にある事)を見抜き、彼らの特定サイトだけに通用する偽の鍵(アルゴリズム)を渡し、そのサイトを監視する。その結果、犯人がアクセスしたIPを特定する。
この辺は、WINNYの摘発の為に京都府警がとった手法とは対照的である。事実、京都府警は特定のIP以外のアクセスを監視し、個人を特定した。
TVドラマでは注意深く見てないと、なかなかこうした数学ネタは理解できない。「数学で犯罪を解決する」(キース・デブリン他著)はそうした数学のトリックを説明した良書である。
つまり、活字は本は読むべきだと思う。
TVドラマは所詮は、ある種の見世物に過ぎない。だからとても面白いのだが、活字はドラマ以上にドラマチックになりうる。
但し、全く読まなかった(いや読めなかった)としても、序文(映画で言えばプレミア)や解説に注釈(同、特典映像)を読むだけでも全然違う。それにレヴュー(ネタバレ)も参考にすれば、あたかも読んだ気分になる。これこそが私の”なんちゃって”読書術である。
エロい肉体をイメージする様に、(背後から)数学にそっと近づく。それだけでも、数学のセクシーさに触れる事は何とか出来る。
数学が難しいのは当り前である。数学が抽象的で曖昧なのは、”数学は美しい”から故の難産の結果であろうか。
つまり数学の、その美しさの裏には危険過ぎるトゲが沢山ある。
しかし、そのトゲを1つ1つ丁寧に取り去る勇気も根気も数学者には必要なのだ。
ナーイン氏が固執する”ある種の厳しい制約を満たしながら創られたもの”とは、そういう事なのかもしれない。
つまり、数学の力でカジノと投資を征服した人とも言えます。
お陰で、この本読んでみたくなりました。
NHKBSでも紹介してました。
カードカウンティングは、ロジャーボールドウィンが”数学の理論をブラックジャックに応用できる”(1956)との提案を、数学者エドワードソープが発展させたとあります。
ソープは1962年に『Beat the Dealer(ディーラーを倒せ)』という本を出し、カードカウンティングを有名にします。カードカウンティングには様々なシステムが存在しますが、どのシステムも基本的にはソープが発表した方法に基づいているとされます。
”ラスベガスをぶっ潰せ”とは、このソープの言葉を参考にしたんですかね。
意外に単純明快なんですかね。
熟練した人なら、一瞬の内に山の中のカードを読めそうな気がしますが。
麻雀と同じで、相手が出したハイで相手の上がりハイを見抜くってやつですかね。
そういう私はギャンブルとは無縁ですが、数学でギャンブルを丸裸にするというのも、ロマンチックではありますか。
色々とご教授くださってありがとうです。
2〜6=+1、7〜9=0、10〜A(エース)=-1
これらの値に従って、場に出てるカードすべてを計算。合計値が高ければプレイヤー側が有利、合計値が低ければカジノ側が有利と判断出来る。
これら合計値はランニングカウントと呼ばれ、多くのカジノがカードカウンティング対策のため、複数のデッキを使う。
故に、ランニングカウントは複数のデッキでは不十分ですが、単一デッキの場合は十分ですね。
しかし複数デッキに対応するには、ランニングカウントを残りのデッキ数で割り、トゥルーカウントを求める必要がある。
この様に、カードカウンティングはプレイヤー側の勝率を統計学的計算を使って大幅に上げる戦略なので、殆どのカジノでは禁止されている。
但し、実質には複雑な計算を頭の中で行なうだけなので,判断自体は違法ではない。しかし、カードカウンティングはあまりにも効果絶大なため殆どのカジノでは禁止されています。
数学は時として、カジノの禁じ手を生み出す怖ろしい道具となり得るのでしょうね。
数学の美しさなんでしょうが。
書いてる私もフムフムって感じでしょうか。
相手のカードではなく、山の中のカードを読む手法で、統計的確率論を駆使してはじき出す数学的必勝法とも言えましょうか。
でもここまで徹底されると、カジノ経営側からすれば、お手上げなんでしょうか。
少し残念な気もしますが・・・
色々と教えてくださって感謝です。
かなりの熟練者でないとやれないし、またやろうとしてもかなり難しく、疲れるだけだと聞く。
名の通り、自分に有利なカードをカウントするんだけど、それぞれにポイントが決められて、有利なポイントになったら大金を掛け勝負に出る。
でも、自分だけでなくディーラーや相手全部のカードを1つ1つチラ見しながらカウントするから大変な作業なんだよ。
映画にもなったほどだから、カジノ側も対策を練ってるだろうし、カードカウンティングを紳士的にだけど拒否する権利を持ってるから、今では映画のようには行かないんだろうね。