ハンナ・アーレントの”考える事をやめると、凡庸は悪に変わる”は、誰もが知ってる有名な言葉だが。”考える事をやめると、信仰は殺人に変わる”と言えなくもない。勿論、麻原に信仰があればの話だが。
正直、こういったテーマは苦手である。どうも主観的に感情的になり過ぎて、自分が正しい事を言ってるかも判らなくなる。
しかし、こういったシリアスな感情的感傷的になりやすいテーマこそ、腹を割って話し合いを持つべきだ、とも思わなくもない。
勿論、人間には信仰の自由がある。法律でもそれは認められてる。今回の死刑囚にも人権はあるし信仰もある。大切な友人や家族もいるし、しっかりとした考えを持つ人もいる。約束された将来を輝かしい未来を、信じてた人もいるだろう。
しかし、その”信仰”が殺害の動機にならないとも限らない。信仰がある領域を超えると、殺人すら崇高に思えるようにならないとも限らない。
同じ様に、日本は法治国家である。だからといって、死刑制度が全てのケースで合法とは限らない。勿論、その逆も然りだ。
しかし、死刑制度が合法か違法かを語るより、”必要悪”と見なした方がいいのか。死刑も”正当なる殺人”と捉えるべきか。
結局、13人の死刑囚全員が処刑された。”死刑制度賛成派”の私でも、少しやり過ぎかなとも思うが。被害者や被害者の遺族の怒りと動揺と失意を考えると、何とも言えない。
”心が軽くなったとか、うれしいとかは全くない、当然だ”
”やっと終ったか、でも息子が生きた時間よりも長くかかりました”
”法務省はよくぞ決断してくれた”
”マインドコントロールによって、純粋無垢(むく)な若者が殺人を犯した。言葉がない”
同じ被害者の遺族でも、怒りのニュアンスは微妙に異なる。
一方で、”松本智津夫一人で十分だった”という、ある弁護士の意見もある。死刑反対という人権団体の声や、国際世論も無視できない。
死刑によって、凶悪な犯罪が減るのかどうかも、一概には言えない。減るかもしれないし、増えるかもしれない。
死刑制度を廃止した、イギリスやフランスやカナダでは、凶悪犯罪が増えたとの報告もあるが。ごく一部のケースではある。
事実、死刑によって何の解決を見たか?オウム犯罪の闇に謎に、光が差し込んだか。結局は全て埋もれたままだ。死刑囚は、極刑で脅しても口を割る事はなかった。
しかし、今回の死刑執行が、全くの無駄で、違法だとは思わない。法だって無慈悲な感情がある事を、国民も信者も思い知った筈だ。
麻原にも、無慈悲な無作為殺害に至る理由があった筈。人を説得できる、ちゃんとした理由があった筈だ。何の罪もない無抵抗な人を殺すには、たとえ正当化出来なくとも、何か”理由”があった筈。
でも、もしその理由が”信仰”だとしたら、これほど悲しく虚しく残酷なものもない。
世の中には何かに縋らなければ、頼らなければ、行きていけない人が数多くいるのも事実。信仰もその一つであろう。特に高齢になるほど、圧倒的にその比率は高くなる。
矛盾や不条理に満ちた現実世界で、長く生き耐えてきた人達には、その信仰こそが命であり、生活の支えであり、その人の全てなのだ。彼ら彼女らの信仰心には、本当に頭が下がる。
今回、オウムの幹部が処刑され、深く傷ついた信者も数多くいるだろうし、同じ様に宗教に身を捧げてる信者にとっては、全く他人事ではなかろう。
そういう私は無神論だし、信仰心は殆どない。宗教なんてクソ喰らえだし、自己否定なんて得意中の得意だ。”オウム真理教なんて、カルト系宗教なんて全て焼き払え”という気持ちは、今でも変わらないし、死刑執行のニュースが入る度に、その気持ちは強くなる。
しかし、信心深い人は、私の周りには沢山いる。全て良い人だ。勿論、尊敬できる人も沢山いる。
ただ、信じさえすれば何でも叶えられるという、病的な思い上がりだけは、どうも好きになれない。信じる事より学ぶ事の方が、ずっと大切だと思う時がある。
勿論、信仰は絶対的な強さを持ち得るし、その領域も恐ろしく広く深く、影響力も半端ない。その反面、絶対的な脆さも持ち合わせる。一方、学ぶ事は非常に弱い力ではあるが。逆境に陥った時は、精度の高い判断と的確な決断を与えてくれる。つまりオウム犯罪は、信仰が思考を曇らせ、的確な判断を鈍らせた典型かも知れない。
しかし、信仰に厚い人からすれば、オウム事件の容疑者を処刑する事は、信仰そのものを処刑する事と同義である。言い換えれば、自分自身を否定する事と同義である。
麻原が如何に凶悪で残忍なサイコ系狂人だとしても、信者からすれば、彼は神様であり、もう一人の自分なのだ。
彼は数多くの信者の”心の救い”だったのだ。そういう立場からすれば、今回の死刑執行は、断固として許せないという事になる。せめて、麻原の手足となった幹部らは、可愛そうだ、彼らこそ犠牲者だという事になる。
信仰と被害者の怒りが火花を散らす中、犠牲となった坂本弁護士の奥さんが、最後に、”子どもだけは”と哀願した事を思うと、その時の気持ち、ご遺族の気持ちは言葉で言い尽くせない。”万死に値する”と。
この”万死に値する”という言葉が、全てを物語ってる様に思う。
それは自分の生まれ育った環境その他から生まれる感想もあれば、自分が学んできた事柄から鑑みた感想もあると思います。
私はすべて運命だったと思いました。
許されない犯罪を起こしてしまった麻原彰晃こと松本智津夫も、違う環境に生まれていたら、ああいう犯罪を犯さなかったでしょう。
私自身、聴覚障害というハンデを負っているので、彼の鬱屈した気持ちがわからないではありません。
だからといって決して許される行為ではありませんでしたが、しかし必ず死刑が正しかったとも思いません。
他の信者の死刑執行については、もう絶対に理不尽だったという感想を持っています。
運命ではなく、選択ですね。
ビコさんは、麻原に自分の領域を境遇を重ねてるつもりですが。私から見れば、全くの別人です。人間と蛇ほどの違いがあります。勿論、ビコさんの方が人間ですよ(笑)。
信仰が思考を鈍らせるとは、そういう事なんです。皆、信者はそうやって、麻原に騙されたんです。
麻原は、そういった信者の弱点を見抜いて、目一杯利用し、殺害計画に巻き込んだんです。彼は、ビコさんが思う程馬鹿じゃない。ビコさんが思う程、信心深くも崇高でもない。
ビコさんは、麻原を軽く見過ぎてますね。私からすれば全く甘い、考え方が甘過ぎる。
同じ様な境遇にあるからとて、同じ人種である筈もなく、もっと距離をおいて考えるべきです。麻原は違う環境に生まれても、同じ犯罪を犯すでしょうね。人間の本性なんて、追い詰められた時に露呈しますから。
それに、彼は非常に頭が良いです。”その2”でも述べようと思いますが。やり方が実に巧みです。でも、ビートたけしが睨み付けた時は、笑って誤魔化してましたが(笑)。
他の信者の死刑執行が、絶対に理不尽だと思うのも、ビコさんではなく、ビコさんの信仰がそう思わせてる。信仰が恐ろしいのは、そういう事です。勿論、死刑執行も恐ろしいんですが。
ビコさんのブログにコメントを書こうか、正直迷いました。しかし、客観性を期す為に、敢えてブログにしました。
でも、正解でした。ビコさんの本音を引き出せて、少しホッとしました。
しかし、転象さんの言われる通り、もともとは邪悪な人間だったので、その面が露わになって、ああいう結果になったのではないかと。
私自身は信仰はしませんが、神は信じています。
それは誰かに押し受けられたものではなく、私自身が神を感じるからです。
どんな人にも神性はあります。
悪人のように見える人達の神性は眠っているだけです。
悪の権化のようだった麻原彰晃こと松本智津夫にも神性があったから、悟った部分もあったと推定します。しかし、獣性が強かったため、結果はああいうことになったと思っています。
毎日が暑くて、とうとう夏風邪を引いたみたいです。やはり、深夜の冷房は身体に悪いですね。汗を流しながら、寝てた方がいいみたいです。
ビコさんの気持ち、深く察します。私も少し言い過ぎたかもです。でも、こういうテーマは、ホント難しいですね。受け取り方次第では、微妙ですもの。
ビコさんの被害者の遺族の方を気遣ってのコメント、痛い程理解できます。ビコさんの気持ちもよく伝わりましたよ。結局は受け取る側がちゃんと誤解なく受け取ってくれれば、問題はないのですが。人それぞれですもんね。
でも、お陰でとても勉強になりました。その2、その3と、続けようと思ってましたが。その1だけで終わりにしたいと思います。色々、迷惑かけてスミマセンでした。
あるコラムを読んでたら、何と麻原とダライラマは繋がってたとありました。サリン事件の時、ダライラマは”麻原は私の友人である”と言ったらしいです。
でもメディアはこれを伏せてました。麻原はダライラマと会ってからオウム真理教を正式に立ち上げたんですね。その時にダライラマと師弟関係を築いたそうです。二人はその後も5回に渡り顔を合わせ、計1億円ほどをダライラマに献金したらしいです。
お陰でダライラマから推薦状をもらい、支援を受け、ただの治療師であり詐欺師である麻原が、わずか数年でオウム帝国を築く事が出来たんですが。ダライラマの方もチベット独立を支援する日本信者を増やしたかったから、麻原を上手く利用したんでしょう。
しかし、ダライラマのこの身勝手な計算は邪教の崩壊という形で裏目に出るんですね。メディアが伏せたがるのも理解できますが。
神も仏もこうやって振り返ると、全ては偽物ですかね。ダライラマも所詮は人の子なんです。
ダライラマと麻原は繋がってたんですね。結局、何やかんや言っても生身の人間なんですかね。ダライラマも男ですもんね、性欲も強欲もあるだろうし、ブロンドの巨乳を目の前にしたら勃起もするでしょうし、でも麻原の1億の大金には、流石のラマも目が眩んだんでしょうか。
12回ほど来日してるらしいですが。オウムの接待とかでソープランドや高級クラブにも脚運んだんでしょうね。日本の仏教は廃れてるとか言ってたらしいけど、全くお互い様ですな。
誰にだって愚かな失態はあるし、汚れた過去はある。それは神様は仏様だって同じですね。でも、こういうのを知る度に無神論者で良かったなと思う次第です。
たまたま通りかかった者ですが、コメント失礼します。
麻原にしろその信者にしろ、彼らの凶行を信仰心の暴走と取るか、単に生まれついての悪人が起こした必然と取るかは三者三様かと思います。
ただ結局は犯罪者で社会に都合の悪い存在であることは確かなので、そんな彼らが処刑されたことを真っ向から否定出来る人間なんて、親族か過激な人権団体くらいなものでしょう。
人間誰しも心に悪と呼べる部分はあるでしょうし、結果論で言えばそれを抑えられなかったことが罪、ということにもなるのかもしれませんが…
私自身、宗教(というか信仰)に大した関心も理解もないので、一つの側面だけを切り取って何が正しかったなんてとても口に出来るもんじゃありません。
何か気の利いた台詞でも言いたい気持ちはあるんですが、ただただ世の中にはどうにもならないことがあって、この件も正にそういうことなんだろうなと、なんともモヤモヤした思いばかりが募ります。
この問題は、ブログ友のビコさんと何度も議論を交わしましたが。結局結論は出ませんでした。思い出すだけで虚しくなります。
言われる通り、もやもやしっぱなしのストレスが溜まるだけのできれば触れたくない議題ですね。
わざわざコメント有難うです。