象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

「アグルーカの行方」に見る、角幡唯介が体験した極地物語(前編)〜過酷と犠牲が折り重なる壮絶なる世界〜

2019年10月11日 10時20分11秒 | 読書

 「アグルーカの行方」(2013)に関する記事やコラムは、洋の東西を問わず数多く出回ってます。そこで自分なりに、判り易いものを選び、自らのレビューと併せ、編集したつもりです。 
 以下、”HONZ”の東えりかサンのコラムと”現代ビジネス”での角幡唯介氏へのインタビューを交え、紹介します。

 ”死を意識して過ごした日々は、単純に生きる事だけに専念できた瞬間だった。<生は死を内包する事でしか存在し得ない>感覚だ。
 <生きるという事は不快を耐えてやり過ごす時間の重なり>に過ぎない。
 私はラグビー部員でもない。事態に正面から対処し、困難を解決するタイプでもない。しかし、極地での自然の過酷さは半端じゃない。文明の利器がなければ、とてもやっていけない”(角幡唯介談)
 


103日間に渡る1600キロの凍てつく旅

 イラストの左上は、著者であり世界屈指の冒険家である、角幡唯介さんの凍傷になった顔写真です。元々イケメンの顔がこんな無残な事に。(痔には)ポラギノール持参で、事なきを得たとか(笑)。

 ”北極の北西航路を辿る旅”をじっくりと読ませて頂いた。
 まるで麝香牛の死肉に狂った様に、そして、極寒に貪りつくままに我を忘れた自分がいた。そしてそこには、ありのままの大自然がデンと構えていた様に感じた。
 ”極地探検史上最大の謎”とまで言われた、129人全員が行方を絶ったとされる英国のフランクリン探検隊。
 そんな中、”アグルーカ”と呼ばれた生き残りがいた?
 因みに後でも述べるが、アグルーカとはイヌイット語で、”大股で歩く男”という意味だそうです。

 1848年彼らは、北西航路の発見を果たせず、全滅したとされる。129人全員が死亡したフランクリン隊が見た北極とは、一体どんな世界だったのか?
 ヨーロッパが中国との貿易を結ぶ為に、北米大陸を北から回り込むこの北西航路は、15世紀末から熱望されていた。
 英国フランクリン隊の調査はこの当時、北極沿岸の未踏部分500キロ足らずを残すのみになっていた。

 ジョン•フランクリン(1786-1847)率いる北西航路探検隊は、129人の隊員と3年分の食料を2隻の軍艦に乗せ、ロンドン近郊の港を出港する。
 隊長のフランクリンは、この時すでに59歳で本国では英雄であった。1819年から22年にかけて行った3度の北極海の探検で、”極限の飢餓”から生還したからだ。
 ”靴を食った男”とも呼ばれ、探検家として確固たる地位を築き、ナイトの爵位まで受けていた。
 1845年の夏に行なわれた、この遠征が成功すれば、アジアとの貿易の大きな足掛かりになる。つまり、人々の期待を一身に背負った大部隊であったのだ。
 しかし、メルヴィル湾沿岸で捕鯨船に目撃されたのを最後に、行方不明となる。探検隊を派遣した英国海軍が探索隊を次々に派遣したが、結局手がかりは見つからなかった。 


角幡唯介が見たアグルーカの軌跡と幻想

 このフランクリン隊の悲劇の物語を知り、角幡はその跡を辿る事を思いつく。
”実際に同じルートを歩いてみよう” 
 極地探検の経験がない角幡は、極地しか探検した事のない探検家に声を掛ける。それが「北極男」の著者•荻田秦永だ。
 それには、この旅のきっかけが以下の様に書かれてる。
 ”自身でも探検を行うノンフィクション作家の角幡にとり、フランクリン隊のエピソードは魅力的に映ったようだ。
 彼らが辿ったであろう道のりを実際に自分の足で歩き、フランクリン隊一行が極限状態の中で如何に生き長らえようとしたのか?如何に死んでいったのか?その風景を自分の目で見て感じてみたいと話していた”

 地図なき世界と戦い、還らなかった人々(アグルーカ)を追う、壮絶な1600キロ徒歩行と、そして、160年前のフランクリン隊を再現する極寒の旅。角幡唯介がそこで見たものは、そして感じたものは?
 ”目の前に広がってるのは、地球が作り出した生のままの自然だった。人間が接触した過去とその接触する筈の未来が、時間的にも距離的にも遠く離れすぎた、その”隔絶”という空間の中で、我々の旅は続けられた。
 もしかしたら、本当の自由とはそういうものかもしれない”

 角幡も当然の如く死の縁を彷徨った。死を意識して過ごした日々は、単純に”生きる事だけに専念出来た時間だった”と、冷静に振り返る。 


角幡唯介の転機となったこの極地探検

 「アグルーカの行方」は、高い完成度で書けたと思う一方、書き手としての課題を残す作品となった。
 本書の旅の目的は、北極で全滅したフランクリン隊のルートを、事実に沿って忠実に辿る事だった。
 その為に彼は、出発前にできる限りの精一杯の準備をする。資料を取り寄せ、納得のできるストーリーを組立て、旅のルートを決定した。そして、フランクリン隊が書けなかった報告書(ルポルタージュ)を完成させるつもりでいた。

 しかし、そこには雪と氷しかない。
 本当に何もない北極の荒涼とした風景の中に、160年前にもがき苦しむ、流浪した”アグルーカ”の姿を現出させるのが、この作品におけるテーマでもあった。
 その試みはある程度は成功した。著者の旅と文章の向うに、骨と皮だけに瘦せこけたフランクリン隊の、憐れな行状となれの果てが透けて見えたからだ。
 そして、自身の過去の作品の中で最も面白い読み物になったと、角幡は自己評価する。
 だが書こうと思った事が書けてしまったという不甲斐なさも感じた。それは、ノンフィクションライターが作品の影響を受けずに、旅という行為を成り立たせる事は可能なのか?という疑問だった。

 何もない北極の氷原という無垢なキャンバスに、自分なりの絵を描いたのがこの作品だった。とすれば、この旅は多かれ少なかれ、仕組まれたものにならざるを得なくなる。
 旅が仕組まれたものから逃れる為には、全く未知を行く”前人未到”の探検をするしかない。この「アグルーカ」を書く事で、探検家のとしての原則に立ち返る事が出来た。
 その意味でもこの作品は、大きな転換点となったと、角幡は語る。

 彼は、「空白の5マイル」(2010)でも、先人の後を追い、前人未到の地を彷徨った。この本も後でブログで紹介する事にしたい。


生は死を内包し、生きるとは不快に耐える事

 前述した様に、”生は死を内包する事でしか存在し得ない。生きるという事は、不快に耐えてやり過ごす時間の重なりに過ぎない”
 地図のない世界を探検するという事は、今という時間が未来から分断された世界を旅する事に他ならない。
 つまり、土地が未踏であるという事は、彼らの隔絶感を更に高め、旅を不安にすると同様に、その未踏の地が一層魅力的に映ったに違いない。

 極地を探検する事は、自然の中に深く入り込む事に他ならない。
 ”自然に痛ぶられ、その冷酷さに慄き、人間の小ささと生きる事の自分なりの意味を知る事にある”と、著者は強がる。
 極地の自然の冷酷さは半端ない。文明の利器があっても、北極探検のプロである荻田秦永と同行しても、死の縁を彷徨ったのだ。

 しかし、フランクリン隊は、彼らが彷徨った所よりもずっと先へ行こうとした。時代はそこまで許してないのにだ。 角幡は、アグルーカ(生き残り)の背中を追い掛け、ひたすら後ろ姿を見つめ続けた。
 彼らが死に絶えた地点まで残り70キロというのに、読んでるだけの私も、何だか著者以上にゲンナリとした気分になった。
 つまり、”冒険は小説よりもずっと奇怪”なのだ。

 隔絶された極限の旅こそが、本当の自由なのかも知れない。そういう極限でのみ、本当の自分を探す事が出来ると。食う事が生きる事であるという、惨たらしい本性の壮絶さが、この作品ではむき出しになる。
 という事で、前半はここまでです。



2 コメント

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tokoさんへ (象が転んだ)
2019-10-12 16:45:28
植村直己さんも生涯、純真な子供みたいな感じだったですね。その生き方も含め。
意外にインテリというのは、ミーハーで神秘的なものに惹かれるんでしょうか。歴史上の偉大な科学者や天才数学者もそういう人が多いみたいですね。

発見や発明は冒険や探検ととても似てますから。そういう意味では角旗さんは稀有な天才小説家かも逸れません。
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元新聞記者だけの事はある (tokotokoto)
2019-10-12 09:43:48
角旗唯介さんといえば、『雪男は向からやってきた』を読んだことあります。中身はあまり覚えてませんが、結局雪男伝説は嘘だったんですよね。でも角旗さん粘っちゃって、あとは奇想天外な展開でしたっけ。

でもとてもロマンチックな本だと思いました。角旗さんてロマンあふれる少年みたいな心を持つ純真な人ですか。インテリ作家が冒険好きというのも、多分感情移入が強いからでしょう。

元新聞記者だけあり、キビキビとした筆致が印象的です。自己表現のために冒険ルポルタージュの道を選んだのは間違いじゃなかった。
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