人生50年以上を生きると、色んな事を考える。あの時ああしてればよかったとか、あの時あんな風に振る舞ってれば上手くいったのにとか。
特に私の場合、何もしなかった方が良かったかな?という記憶が沢山ある。
特に日本人は、”何もしない”という事をネガティブに捉える事が多い。臆病者、卑怯者、悪巧み、何を考えてるか解らない、など悪いイメージがばかりだ。
そういう私も若い頃は、何もしない奴が大嫌いだった。何においても人よりも先に行動を起こす事が大切だし、行動を起こす勇気こそが真の魂(スピリッツ)と思った。
何もしない奴は卑怯者か?
高校の時、ある友人が”無為自然”の話をした。そいつは哲学が大好きで、何時もソクラテスのフリをして、”無知の知”を冗談半分に言いふらして回った。
そんな友人を前にオレは、”哲学者なんて自らは何もしないで、偉そうな理屈ばかり並べてる卑怯者だ”とせせら笑ったもんだ。
そいつは、体こそ小さかったが頭もよく運動もよく出来たし、肉体はヘラクレスの彫像みたいだった。
”オレは無為自然に憧れる。何もしたくないって時がよくあるんだ”が口癖だった。
確かにその友人は、勉強も運動も熱心じゃなかったが。それでいて成績もよく、ベンチプレスも120kgを平気で上げた。
オレはそいつと全く逆だった。何でも一生懸命ヤラないと気が済まない性格だった。それでいて、成果は少しも上がらない。
ある日、友人はポツリと呟いた。
”お前はやりすぎだ”と。そして、それはずっとずっと後に私の人生の大切な教訓になった。
しかしその時、私は即座に反論した。
”オレはお前みたいに才能がないから、人の倍も3倍もヤラないとダメなんだ”
そいつは真顔で言った。
”でも何もしないでいると、突然何かが閃くんだ。そして、その閃きに従うといい事が起きるんだ。無為自然なんてその典型さ”
そういう彼は、ジョン•スチュアート•ミル(1806−1873)がお気に入りだった。
やりすぎない人間の美学とは
ミルの「功利主義」は、リバラリアンに代表される自由の行使である。”人に危害を与えない限り、自由な行為は正当化されるべき”という考えだ。
つまり、”自由の行使”とは、やり過ぎない限り合法で道徳や規律を重視すべきだと説く。
哲学的な話になると、キリないからここまでにする。好きな人は勝手にサイトで調べて下さいな。
つまり、そいつが言いたかったのは、”やり過ぎは何もやらないよりもまだ悪い”という、徳川家康の考えだ。
つまり、やり過ぎは単なる害悪であり、自由の行使ではないと。”鳴くまで待とう”とは、よく言ったもんだ。
そいつは典型の”やり過ぎない”人間だった。何時も自然に身を任せ、感性でのみ生きる様な人間だった。
何時も猫になりたいと言ってた。”猫は何もしないから、可愛いんだ”と、飼い猫を自慢するのが癖だった。
彼は一流の国立大学へ入った。上級の国家試験にも軽々とクリアした。俺からしたら、”何もしない”で難関をクリアした様に見えた。事実その通りだった。
そんな彼も、20年ぶりの同窓会ではクラスの責任者になり、面倒な世話に苛ついたらしく、”何もしない事が一番なのに、同窓会なんて”と、途中で投げ出した。
そんな彼と、電話で何度か話した事がある。”あの時言っただろ?お前はやり過ぎたんだ。才能がなかったんじゃない”
”そういうアンタだって、密かに努力はしただろう?でなかったらそんなに偉くなれんさ”
”いいや何もしてないね。何もしない事こそが俺の努力なんだ”
何もしない事の美学
事実、そいつの言う通りになった。私が頑張ってやってきた事は、全てが無駄に終わった。無駄に終わったというより、マイナスという悲劇に終わった。
20代後半の時、理想の女に出会った。まさに、彼女は”運命の女”だった。そして、その筈だった。
私は即座に行動を起こした。ドイツがポーランドに侵攻した時の様に、格好のタイミングで行動を起こした。危険スレスレの行為だったが、ナチス同様にその時は上手くいった。
しかし、後が悲惨だった。やり方が強引すぎたのだ。”貴方は私を深く傷つけた。貴方とはもう会わない”と去っていった。私は何度も彼女を説得したが、後の祭りだった。
今から思うと、”何もしなければ”よかったのだ。私が彼女を好きになる前に、彼女は私を好いていた。つまり、何もしないで彼女が近づいてくるのを待ってるだけで、全ては上手く行ったのだ。
”何もしなければ”よかったという記憶は、これだけじゃない。頑張りすぎたお陰で、勤めてた工場が閉鎖になった苦い経験もある。頑張ったせいで、世話になった上司のクビを飛ばした事もある。
”小さな親切、大きな悲劇”とは、こういう事か(笑)。
でも若い時は、行動を起こし、色んな失敗を仕出かしても、それは経験となり、血や肉となり、自分の人生にプラスになる筈だった。人生とはそうであって欲しかった。
しかし私の場合、失敗は成功の元にはならなかった。失敗はそのまま悲劇に繋がった。
”何もしない事こそが本当の失敗”だと、あるコラムにあったが。そんな幼稚なデマカセは私には通用しない。私にとって”何もしない事こそが、成功の一番の近道”だったのだ。
50を過ぎてそれを確信した。そんな簡単な事に気付くまで、30年以上掛かったという訳だ。
何もしない事は成功の本質?
つまり、何もしない事は成功の本質でもあり、同時に失敗の本質だと思う。
ブログに書いた、”インパール作戦”(要Click)も最初の段階で即座に中止にして、何もしなければ何の犠牲もなかった。でも泥沼に入って、途中から全てを投げだしたから、多数の犠牲と大きなと悲劇を生んだ。
そういう私は、ある日から”無為自然”という老子の言葉が特に好きになった。
”欲を持たずに自然のあるがままに生きる”という意味なんだが。”何もしない”で自然に身を任せると、私は勝手に解釈してる。
実際、何かをやろうとする際、殆どの人は何らかの意図が無意識に発生する。こまめに作戦を練り、上手く行く様に計画し、注意深く行動する人も多いだろう。
しかし大体において、”何かやらなくちゃ”という人為的な欲が働き、上手く行かない事も多々あるのが現実だ。
運動やダイエットや健康法と同じで、”ヤラなくちゃ”と思う程に、結局は続かない。
何かをやろうという気持ではなく、何もしないで自然に身を任せてれば、何かをしたくなる。
そこには欲というものがない。”無為自然”という無欲の本能が行動を支配するから、上手く行く場合が多いのか。
何時の世も、本能は純粋で美しく、欲は複雑で汚いものだ。滝川クリステルの”おもてなし”も結婚会見も、作為的で聞いてて反吐が出た。
本当の失敗とは何もしない事?
「人生の教科書」というコラムに、”本当の失敗とは何もしない事”だと書かれてた。失敗しても失敗という財産が残るという安直な理屈だ。
”失敗を避けるには、とにかく何か行動しよう、結果は関係ない”と。
だったら、先述の”インパールの悲劇”はどう説明する?追い詰められた日本軍は、インパール作戦という無謀な行動を起こした。
勿論、結果は悲劇だけだった。失敗しても結果は関係ないと言うが、その結果が悲惨すぎた。
結局、最初から何もしなければよかったのだ。犠牲者が出始めてから、行動(撤退)を起こしても遅すぎる。
確かに小さな失敗であれば、取り返しの付くレヴェルの失態であれば、失敗は良薬かもしれない。しかし、致命的な大きな失墜となると、取り返しがつかない。
失敗は成功の元というのは、致命的失墜には通用しない。失敗にも次元と程度がある。
「人生の教科書」では”失敗から学ぶ”というが、インパールの失敗から日本人は何を学んだか?インパールと同じ事は、今の政界でも延々と繰り返されてるのにだ。つまり、失敗から何も学んじゃいなかったのだ。
故に、”何もしない”という事は本当に”失敗”なのか?
それでも何もしない事は失敗の本質なのか?
(失敗しない為に)何かをやろうとすると、失敗したくないという前提で人は動く。故に、人為的な欲望が働き、感性や本能を妨げ、うまく行かない事の方が多い。結局、失敗する。
前述したインパール作戦と同じで、敗戦がほぼ決まってた状態で、冷静にして本能に任せ、何もしないでアッサリと降参してればよかったのだ。
しかし、”何もしない”で負けるよりかは、何かをやって負けた方が、帝国軍人の鏡とでも思ったのだろうか。そのままズルズルと悲劇の中へ埋没した。
1945年7月26日のポツダム宣言では、アメリカの最後通告を無視し、何も策を立てなかった。
トルーマンは、この日本軍のポツダム宣言の拒否(無視)が原子爆弾による核攻撃を正当化するとし、8月6日に広島へ原子を投下した。
つまり、何もしない事が大きな悲劇を生んだ。
いや別の見方をすれば、”何も(抵抗)しない”で、ポツダム宣言をそのまま受け入れてたら、無条件敗北という屈辱は味わったろうが、広島と長崎の悲劇は避けられたろうか。結局、何もしない事が悲劇を避けた事になるのか。
最後に
ブログで紹介した、”不沈空母信濃の悲劇”(要Click)だが。プロジェクトを中止するという行為は必要だが、”何もしない”でそのまま降伏すれば、大和の武蔵の悲劇も避けられたか。
敗戦の記憶として、大和や信濃は破壊されるべきではなかった。現存したであろう実物の、信濃や大和を見てみたいというのは、私だけじゃないだろう。
勿論、人間魚雷も神風特攻隊の悲劇も避けられた。勿論、バンザイ攻撃の悲劇もだ。
つまり、何もしない事は成功の本質でもある。
”それは時と場合によるだろう”との声が聞こえてきそうだが、ホントにそうだろうか?
何もしないという行為には、真の勇気と力(忍耐)が必要だ。何もしないで自然に身を任せるという行為は、一見臆病に卑怯に思えるが、高度で複雑化した今の時代、非常に理に適った行動の一つだと思う。
哀しいが、そういう事が50年以上経った今になって、少しずつ理解できる様になった。
”金持ち喧嘩せず”とは、実は我ら貧乏人の為にある教訓なのかもしれない。
だけど、それは間違っているんですね。
何もしないほうが賢明だと思います。じっとしていると人は自然に意欲がわいてくるようですから。
その意味では、今日のこの記事には共感を覚えます。
勤勉で忙しいのが好きな日本人には、理解しづらいんでしょうが。珍しくポチがあったんで、悪くはない記事かな。
虎穴に入らずんば虎子を得ずと家宝は寝て待ての両極でしょうが。日本には後者の諺が多いような気もします。多分、島国の育ちのせいもあるんでしょうか。陸続きの中国は常に蛮族の侵入に悩まされてたからな。
現代の合理的精神からすれば、棚からぼた餅な的考えは実に有効ですね。
でも転んだサンが何もしない主義とは少し意外でした。
何もしない主義というより、全くないもしない主義のつもりですが。酒は呑むし、エロい事は考える。哀しい生き物です。
念の為にネットを見ましたら、「見ざる・聞かざる・言わざる」でした。
私にとっては、特に 2013~2018年に、「言わざる」の態度をしていたら良かったと悔やむ今日この頃です。
書く事はなんぼ書いても、炎上こそすれど災いになる事はないんですが。
そういう私も日頃の鬱憤を書く事によって発散してるフシがある。お陰で余計な事を言わなくなった様な気がします。代わりに余計な事を書く様になりましたが(悲)。
転んだ象さんは
もうこの時点で気付いてた訳だ
自粛する勇気
それは何もしない勇気の事なんだな
今から見てもいいブログだと思います。
何もしない勇気があれば、マスクやトイレットペーパー不足もなかったでしょうに。
それに東京オリンピックもね。
つまり何もしないという事は、お金を巧く有効利用するという事なんです。いつ何時大金が必要になるかわかりませんから。
ヤル必要がないならやらないって、実にシンプルな考え方で、私も賛成です。
コメントどうもありがとうです。