象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

”ゲートキーパー”は誰が為に〜映画「森の中のレストラン」

2024年09月19日 06時12分13秒 | 映画&ドラマ

 予告編で、その美しい景色にグイグイと惹きつけられ、思わず見入ってしまう。
 結論から言えば、急失速的な作品に終わったと言えなくもない。
 前半はともかく、途中からはとても良かったし、森の中の映像も美しく、セッティングも含め、全体のシーンとしても悪くはなかった。

 ただ、オープニングで京一(船ヶ山哲)が自殺に失敗するシーンは致命的だった。失敗した事自体ではなく、失敗の仕方が短絡すぎて拙かったのだ。
 ”ゲートキーパー”(自殺を防ぐ人=命の番人)を主題にした作品なら、自殺の本質とリアルを濃密に描いてほしかった。が、このシーンで全てが泡と化してしまった印象が残る。

 森の中で猟師をする欣二(小宮孝泰)だが、ある日、自殺に失敗した京一を見つけ、シェフとして彼を採用し、住まわせて一緒にレストランを経営する。
 その後、中年女性3人がそのレストランで食事をするシーンでは、”この店ねぇ〜訳アリって知ってる?”と噂する場面も余計に思えた。
 自殺未遂の中年男性がシェフとして働いてるのだから、その微妙な雰囲気から分かる筈だが、序盤の映像からは何も伝わっては来ない。


最後の晩餐?

 そんな中、ある夜に一人の客の予約が入る。若い男(青年)は”最後の晩餐”に目玉焼きを乗せた焼きそばを注文し、”最後の食事がコンビニでなくてよかった”と呟く。その後、店を静かに出て行く際に男は”止めないのですか?”と京一に尋ねるが、”私は人の生死には関わらない”とだけ答える。
 但し、最後の晩餐が焼きそばというのも、少し貧相すぎるのだが・・そう思ったのは私だけだろうか。

 そうこう思ってると、過去の映像がフラッシュ気味に挿入され、京一の娘も飛び降り自殺の巻き添えで亡くなっていた事が回想される。更に、妻との離婚もあり、悲しみと喪失感に苛まれ、京一は自殺を図ったのだ。
 結局、彼は若い男の自殺を止める事は出来なかった。この時点で”ゲートキーパー”のテーマが崩れ掛かるが、挿入のタイミングもズレてる様に感じた。

 しかし、この崩れかけた作品を盛り返しのが、同じく”最後の晩餐”にと、この森を訪れた紗耶(畑芽育)の登場と存在である。
 彼女もまた不遇で孤独な女子中学生で、父親(谷田歩)は典型のDV男だった。が故に、娘と母は共に父親の暴力と精神的虐待に毎日の様に晒されていたのだ。
 このシーンは、少し極端で雑な描き方だが、谷田歩が徹底した憎まれ役を演じてくれたお陰で、彼女の自殺願望がリアルに等身大に迫ってくる。
 娘が注文した最後の晩餐はバジルのパスタだったが、京一は(若い男同様に)何も尋ねないし、止める事もしない。娘は食事を終えると、何も言わず森の中に姿を消すが、オーナーも京一も彼女の事が気になって仕方がない。
 結局、オーナーが飼ってる犬に娘は救われ、京一同様に、娘はレストランで働く事になる。

 テーマが自殺だけに重苦しい空気が漂うものだが、一方で映画とは言え、所詮はフィクションである。単純明快で分かり易いに越した事はない。
 そういう意味では、畑芽育の初々しい存在はこの作品のカンフル剤の役目を果たしていた。一方で、今回が初の役者デビューとなる船ヶ山哲だが、余りに素人過ぎる。
 前職のパーソナリティの如く、棒読みに近いセリフはともかく、無機質に映る硬直した演技は、見る側に不快と不足を与えるだけである。
 一部には”脚本が拙い”との声もあるが、主役を彼に抜擢したのが、一番の失態の様にも思えた。

 一方で、この作品が長編デビューの泉原航一監督だが、全体を通して見る限り、かなり気合が入ったであろう事は容易に想像できる。
 ただその気合と力みが、同じく俳優デビューの船ヶ山哲にそのままプレッシャーとして覆い被さった。一方でシリアスなテーマながら、終始自然体を貫いた畑芽育は、流石プロの女優さんである。


自殺の抑止

 一方で、こうした重たい作品は、ごく普通に演じてくれた方がリアルに表現できる。
 勿論、谷田歩や奥菜恵らの鬼気迫る演技は、作品に深刻な要素を加味してくれてはいたが・・
 その後、家出した娘の姿がネット上に溢れると、様々な悪い噂が流れ、警察にも簡単に知れ渡り、両親の元に連れ戻される。
 再び、母親と共に虐待の被害者に舞い戻るが、娘は京一に助けを求めた。
 ここで、その後の展開に大きな注目が集まるのだが、監督はここにて限界を感じたのだろうか、何と殺人事件として結末を急いだ。

 唯ならぬ異変を感じた京一は(無謀にも)単独で娘を救いに行くが、父親に呆気なくフルボコにされる。だが、このシーンで何かひと捻りあるかと思いきや、何の工夫もオチもない。結果は、娘の母親が父親をこん棒で滅多打ちにし、殺してしまう。
 この時点で”命の番人”からは大きく脱線したが、この作品の限界でもあった。自殺を防ぐどころか、自殺の原因を作りかけたDV親父を殺してしまった。つまり、自殺を防ぐ事が目的なのに、殺人が目的となってしまう。

 例えばだが、京一を含む3人が父親に監禁され、異変に気付いたオーナーや村の若者らが3人を救い出すという展開にしても良かったし、”ゲートキーパー”としても辻褄が合う。
 更に言えば、DV親父の処分と行方は曖昧にしたまま、幕を閉じても良かった。つまり、自殺を防ぐ事がこの作品の本題なのだから・・・

 実際には、森のレストランは笑顔で働く娘に包まれ、”これからは命を救う料理を作る”と、京一が心に誓う所で幕を閉じる。
 結局は、男は誰も救えなかった。逆に男を救ったのは娘である。その娘を救ったのは、父親を殴り殺した母親であった。
 一方で、男が”命を救う”料理と誓うのなら、娘の家に飛び込んだ時に、母娘を何とか無事に救い出すべきだった。いや、そういう流れにしないと”ゲートキーパー”は意味を成さない。
 つまり、料理で命は救えないし、覚悟と勇気でしか自殺は抑止できないのだろう。

 結果的にだが、暴力が自殺の原因を作り、その暴力が自殺の抑止力となる訳だが、監督が描きたかった”ゲートキーパー”とはこんなもんだったのだろうか?
 エンドクレジットを見ながら、拍子抜けする自分がいた事だけは確かだった。

 


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