いよいよ、ルースの全盛期に入ります。この1920年代はアメリカも野球も大きな変革期を迎えます。禁酒法が制定され、それが追い風になります。
前年のルースの豪快なアーチは、とうとうパンドラの箱を開け、"インサイド•ベースボール"という従来の野球のスタイルを完全に覆すのです。因みに、”スモール•ベースボール”とは和製英語。直訳したら、小さいボールゲームとなりますね。
ボストンの終焉とヤンキース王国の誕生
ルースを追い出した、ボストンのオーナーのフレージーは、1923年までにボストンの主力16人をNYYに売り払う。
結果、ヤンキースはレッドソックスをも支配下に置いた。全くの被災地と化したボストンは、その後11シーズンで9度の最下位となり、過去の栄光は全く忘れ去られた。
しかし、自らの利益の為に、"ルースとレッドソックスを売った男"の憎きフレージーは、皮肉にもボストンを捨て去る事で生き返った。彼は5年後、NYのショービジネス(ブロードウェイ)で大成功を収めるのだ。
一方、新天地NYに渡ったルースは、旧契約の2年2万ドルの給与に加え、2年2万ドルのボーナスを得る事になる。
当時のボストンはオーナーのフレージーを非難したが、チームの財政不振をルースになすりつけ、彼の放出はチームの利益になると信じた。"ルースはもう限界だろう"と食って掛かったのだ。
しかし、ファンは現実を見ていた。"レッドソックスは崩壊する。野球は金が全て、メンチな事言っても駄目なんだ"と。
一方、NYタイムズは"ホームランの高価な代償"としてルースを痛烈に揶揄したが、NYっ子にとっては大きなクリスマスプレゼントになった。この瞬間、メジャーを長い間支配する事になる、ヤンキース王国が誕生するのだ。
ヤンキース創設の1903年から19年までの17年間で勝率5割以上はたったの5回、最下位が2回の弱小球団は、以降、MLBの歴史を大きく変える事になる。
”リンドバーグが大西洋を横断し、ルースが60本のアーチをかっ飛ばした”1927年が、「アメリカを変えた夏」であるならば、この1919年は「ルースがNYを変えた冬」であったのだ。
以後、ルースの伝説と偉業は更に勢いを増すのである。
衝撃のベースボール革命
前回のその4で書いた様に、1911年にコルクのボール(飛ぶボール)に変更されてはいたんですが。ルースの登場は、衝撃のベースボール革命を生んだ。
1920年に入ると、平均打率は2割5分から2割8分へ(3割打者も30人から57人に )、100打点以上が2、3人から15人へ。防御率に至っては、2.8台から4点台に。これに伴い盗塁や犠打も激変する。1920年から41年までは"ライブボールゲーム(飛ぶボール)"と揶揄されますが、明確な真偽は不明のままです。
ルースの登場とライブボール?により、本塁打が増えすぎて批判が起きた為、1931年にはコルクをゴムで包み、縫い目を高くする改善が行われたのですが。打高投低は未だ変りませんね。
こうした原因の一つに、世界大戦の終結とルースの登場と、そして景気の上昇がある。
観客動員は急増し、ルースの打撃は全米中の注目となった。ファンは投手戦より打撃戦を好んだ。飛ぶボールの影響というより、選手やファンの意識に大きな変革が起きた。
ルースの奔放なアッパースィングは”業界標準”となり、誰もがドライバーの様なヘッドの太い奴を使った。
因みに、ルースのバットは52オンス(1473g)で、73本のメジャー新記録を作った時(2001)のボンズのバットは916g程。71本のマクガイヤに至っては、900gすらなかったとか。
ヤンキース伝説の始まりと
この1920年は、7つの球団で観客動員の記録を更新した。NYYは129万人を集め、MLB記録を塗り替えた。それ迄は、NYジャイアンツの91万が最高で、殆どが50万を下回ってた。当時は、1試合平均でも4千人を超える事はなかった。
ルースが入る前年も、NYYは殺人打線の異名を取り、チームではMLBトップの45本を打ち、62万人の球団観客動員を更新していた。その上、彼が加入したこの年は、116本(ルース54本)と爆発した。
しかし、NYに君臨したルースはグラウンド外では全くの"別物"だった。ホテルにいる事は殆どなく、女と酒と夜遊びに明け暮れた。お陰で、開幕はスランプに陥った。
一方、ルースを失ったボストンは首位を走った。"ベーブがいてもNYは最下位だ、フレージーの判断は正しかった"と、メディアは大きく騒いだ。
しかし5月になると、ルースは火を吹いた。ボストンは下位に低迷し、以降二度と浮上する事はなかった。彼は5月6月と12本ずつ放ち、月間記録を大きく塗り替える。
60本ペースも8月に調子を崩し、54本、3割7部6厘でシーズンを終えた。四球も142試合で148個と桁違いだ。因みに、2位のシスラーでさえ19本。ナリーグトップは15本、チームでも彼より打ったのはPHIの64本で、他は44本が最高だった。
長打率.847は、2001年のボンズまでメジャー記録であった。打撃10冠のルースは大リーグ史上最高の選手と評された。
チームは3位に留まるが。単純計算だが、2016年の数字とレベルに当てはめると、ルースの54本は、何と200本塁打以上になるとか。
因みに、シーズン前は”これ以上の本塁打記録は生まれない。去年が異常だっただけだ、20本打てれば上出来だろう”と、言われた中での記録だったのだ。
”NYの帝王”ベーブルースの伝説
"ニューヨークの王"に君臨したベーブは全てを手に入れ、ルースの"夜"は伝説となり、彼と寝る女はまさに最上だった。この時の彼は、"最高の人生"を送ったとされる。
ルースが25歳の時の一番、脂が乗ってた時だ。グラウンド内外でも絶調だったのだ。
まさに、この1920年は、禁酒法、ルースの大活躍、チャップマンの死(MLB史上初の死球による死亡)、ブラックソックス事件と、世界の変革に歴史が凝縮した様な年でもあった。
オフのルースも伝説になった。キューバでの親善試合では、僅か数週間で4万ドルを稼いだ。これは彼の2年分の年俸とボーナスに匹敵した。
ハバナの競馬では2万5千ドルをドブに捨てた。NYへ帰る頃は殆どのギャラを使い果たした。体重も240㍀を超えた。ハバナ中の全ての女とやったと揶揄され、「アリバイアイク」(リング•ラードナー)のモデルにもなった。
翌年の1921年はルースの絶頂期となる。キャンプから絶好調で、ハバナで羽目を外したのが吉と出た(笑)。
25本目は、通算138本で早くもメジャー記録だ。それまでの通算本塁打王だったロジャー•コナーの記録をたった8年のプロ生活で更新した。それ以降、ルースの名は本塁打の代名詞で使われる事になる。
この年のヤンキースは初めてリーグを制し、ルースも152試合で59本(4年連続本塁打王)、3割7部8厘、170打点と、殆ど全てで昨年を上回った。
まさに神の領域を超えた瞬間だった。総塁打数457、長打数119、出塁数379は、未だにMLB記録である。
規格外のアーチと104本伝説
ビル•ジェンキンソンが2006年に執筆した本「Ruth Hit 104HR」によれば、1931年までアリーグでは、ポールを巻く本塁打はファール扱いで、ポールに直撃した打球はツーベース扱いであった。故に現行のルールなら、104本の本塁打を記録してたと主張する。
勿論、両翼が狭いポログラウンド(NY)ではあるが。左翼85m、左右中間138m、中堅147m、右翼79mのサイズは、現在のメジャーの平均的なスタジアムに比べれば、ずっとずっと大きなサイズである。
それに忘れてはならないのは、ルース自身の最長不踏と言われる175m弾。中堅143mを遥かに超える場外アーチ(デトロイト)だったという。
そのルースも、打撃に関しては殆ど自慢はしなかった。それどころか、他人の打撃を快く評価した。しかし、投球論に関しては口煩かった。意外に理論家だったんですな。
ワールドシリーズ(WS)は、ジャイアンツとのNY対決となったが、第3戦でスライディングの際、ルースが肘を怪我した事もあり、3勝5敗で敗れ去る。
しかし、この肘の怪我が、翌年に大きく響くとは誰が予想したろうか。ルースのピークは延々と続くと、誰しもが思った。
一方でオフになると、WSに出場したスター選手達は、資金稼ぎに地方巡業するのが常であった。しかし、コミッショナーはWSやオープン戦の価値が落ちるのを恐れ、この年からオフの巡業を禁止した。
過去2年のオフで、サラリーの倍以上を稼いでたルースにとっては、怒り心頭の決定でもあった。
以降、ルースとオーナー、そしてコミッショナーとの醜い対立が露呈する。
まさに、”ルースかルールか”の時代に突入するのだ。
人格者の"世界の王さん"とはまったく対照的です。どっちがいいかはともかく。
多分、ルースの時代だったら、人種差別がないにしても、レギュラーすらどうだったろうか。
でも、グラウンド外での振舞いや人格となると、言わずもがなですが。品格こそが王選手の全て。品格と人格で868本を打った様な選手です。